オーバーロード 天使の澱 ~100年後の魔導国~ 作:空想病
/OVERLORD & Fallen Angel …vol.08
×
円卓の間での協議はひとまず落着した。が、天使の澱の拠点内で、カワウソはNPCを三名……ミカ、ガブ、ラファ……だけ残して、少しばかり協議を続ける。他のNPCには拠点防衛と周辺警戒を命じて、朝方に放送されたひとつのニュース映像に注視した。
《昨日まで冒険都市で行われておりました『冒険者祭』で、珍事が。
トーナメント大会、準決勝で“漆黒の剣”との対戦が組まれていた期待の新人・ファラが、突如棄権。行方をくらませた彼は大会運営の呼びかけにも応じず、彼とチームを組んでいたチーム“アザリア”は「ここまでこれただけでも彼には感謝している」とコメント…………》
「──まさか、ラファが『冒険者祭』に参加していたとはな」
潜入調査ということで、銀髪の
冒険都市に突如として現れた、期待の新人“ファラ”。
実にわかりやすい偽名であるが、ラファはそのような通り名を用いて、都市で勧誘してきた新人冒険者チームに協力。
「申し訳ありません、
誠実に謝罪を述べる天使に対し、隣に立つ褐色の聖女──ガブが正面から不満を零す。
「まったく情けない奴。マアトやクピドたちの報告が遅れたのを、とやかく言えないわよ、アンタも?」
「……何だと?」
「何よ? やるの?」
何やら険しい視線でやりとりをする二人の天使。
ラファは脚元の白翼を大きく変化させ、ガブは純白の二対四翼を広げていく。
互いに対し、“こういう風”に振る舞うもの──『裏では仲睦まじい恋人同士』──と設定したのはカワウソに他ならないが、今は考える時間が惜しい。
「いいや。気にするな、二人共」
それだけを告げて、二人の視線の間に散る火花を一気に霧散させる。
ラファの詳細な報告内容を耳にし、文書化された冒険都市の現状を目に通す。
これだけの情報をほぼ一人で調べ上げるのは難しいこと。同様に、生産都市と南方を調べてくれたイズラとナタの資料も、カワウソのボックスに収納されており、あらためて自分のNPCたちの成果に対して微笑を浮かべるしかない。
大陸各所に設けられた人工の地下ダンジョン──冒険者として大成することを夢見る者たちを迎え入れる魔導国の一大組織・冒険者組合──高度な魔法によって管理された土地に跋扈する魔獣やアンデッドを掃滅することで、ある程度のレベルアップを誘発する“修練場”……それが、ラファが確認した冒険都市の実情だという。
「モンスターの人工繁殖に成功しているのだったか──だとすると、ブリーダーなんかもいるのか?」
「そのようでございます。魔導国臣民の中でも、
ラファが記録した撮影画像(マアトの魔法によるもの)だと、ユグドラシルにも存在していただろう各種モンスター……騎獣魔獣の類が、檻や柵、水晶のショーケースの中にある様子が確認できる。子犬のように愛くるしい有翼の魔獣を抱きかかえる子供や、
「それで、その冒険者祭・トーナメント大会中に、“黒白”のもう一人と邂逅していた、と?」
聞き違えることがないように再疑問する女の声は、NPCたちの長という役割をカワウソが与えた熾天使、ミカのものだ。
ミカの氷のごとき声音に対し、ラファは平然と、そよ風のごとく言いのける。
「ええ、ミカ。我が主と、あなたが飛竜騎兵の領地で親交を得たという一等冒険者チームの同輩だと、聞き及んでおりますが」
魔導国内で唯一、「第一等」のナナイロコウの位置におかれている冒険者チーム“黒白”は、そのチーム名の通り、“黒”の戦士と、“白”の騎士を中心としたチームだと聞いている。
あの、漆黒の英雄、モモン・ザ・ダークウォリヤー。
彼と並び称される竜騎士の情報は、意外なことに、そこまで多くはない。
モモンが“黒白”の中心として名をはせているにも関わらず、片割れの「白い竜騎士」については、名前どころか、その素性や素顔すら公開されておらず、その実在を怪しむ声が都市伝説として語り継がれているほどだ。
そんな謎めいた存在と、潜入調査に赴いたラファが、邂逅。
結果、白の竜騎士の正体というのが、魔導王の同盟者として特別待遇を受けている信託統治者……“
「それで、この招待状か」
カワウソが指先につまむ書状は、つい先ほど会議中にラファから手渡された、竜王の印璽で封蠟されていたもの。
開けて中を拝読した紙片には、『アーグランド信託統治領への通行許可証』と、白金の竜王が住まう宮殿へと至る地図表記まで添えられていた。
文面はこうある。
『詳しい話を聞きたい。そのために、直に会うことができればいいと思っている』とのこと。
「どう考えても、怪しいですけどね?」
銀髪の天使の捧げた成果に対し、同じ髪色の聖女・ガブは疑いの視線を注ぎ続ける。
ラファが参加していた祭りに臨席──どころか出場すらしていたという、白金の竜王。
一国家の中心人物であるはずの竜が、あろうことかラファと接触し、その主人共々『招待したい』などと──
「魔法で造られた招待状だとしても、あまりにも話がうますぎやしませんか? ご丁寧に地図まで寄越すなんて?」
「しかし、実際として私は、白金の竜王を名乗る一等冒険者から招待を受けた。この異世界、この大陸を統べる国家の枢軸を担うという
どちらの意見も正論である。
ガブの言う通り、あまりにも話がうますぎる上、寄越された招待状というのが、現在のカワウソ達にとって、何もかも好都合に過ぎた。
ラファの言う通り、白金の竜王なる存在に話を聞くことができたなら、何かしらの利益や情報の獲得につながるかもしれない。
どちらに転んでも懸念は残る。
なので、カワウソは隣にいるミカに意見を求める。
「どう思う、ミカ?」
「──正直に申し上げるなら、あまりにも危険です」
ですが、とミカは続ける。
「現状の我々では、あまりにも情報が不足しすぎております。魔導国の軍備。アインズ・ウール・ゴウンの戦力。連中が抱え込む兵站や兵数の他に、この大陸・この異世界において我等に協力する勢力、他のユグドラシルの存在の有無も、わからない──」
言いながら、ミカは躊躇するように言葉を断ち切る。
「──なので、ツアインドルクス=ヴァイシオンなる竜王から、可能であれば情報を引き出すべきでしょう。ラファの話を聞く限り、ツアインドルクスは“ユグドラシル”“プレイヤー”“NPC”などの単語に理解があるとのこと。魔導国内でも高位に位置するらしい信託統治者とやらの握る情報は、我々がナザリック地下大墳墓に届く手がかりになりうるはず。あるいは、竜王から何らかの協力を得ることが出来れば──」
なるほど。
ミカの言う正論に納得を得たカワウソは、少し考えてから、命令を下した。
「……ラファ。ツアインドルクス=ヴァイシオンに、すぐ連絡を」
内容は、『ラファの主人であるプレイヤー・カワウソが招待に応じる』という主旨で。
「よろしいのですか?」
疑問するミカに、堕天使は皮肉気に顔を歪ませる。
「おまえが言ったんじゃないか。情報を集められるかもしれない、と」
「ですが。それはあくまで可能性の話。
かもしれない。
何しろ、相手はアインズ・ウール・ゴウンの同盟者という、信託統治領を預かりし“真なる竜王”だと、情報を得ている。
だが、
「罠だろうと何だろうと、今は打てる手は打っておきたいからな」
それこそ。
ツアインドルクス=ヴァイシオンは魔導王と盟を結んでこそいるが、裏では互いの地位を引きずり下ろすための政争に明け暮れているとしたら? 魔導王の支配下に下ってこそいるが、機を十分に狙って、面従しているだけの狡猾なモンスターだとしたら?
そんな“わかりやすい”相手であれば、なるほど、ユグドラシルの存在であるアインズ・ウール・ゴウンに対抗すべく、この異世界へと渡り来たプレイヤーやNPC……カワウソやラファたちを歓待することもありえるだろう。ラファの主人を自分の領地に招待し、戦力として取り込むことも、十分ありえるはず。
しかし、どれも確証があるものではない。
だとしても、ただ手をこまねいているわけにもいかないのだ。
「やれることは、やる。使えるものは、使う。
そうして選択し、選抜し、戦いの準備を積み重ねないと──とても戦えるはずがないからな」
ラファとガブの表情が朗らかに色めきたつ。主人の意思の堅さ、戦いへと敢えて舵を取る精神の有り様に心服したかのごとく頷き、微笑みの明るさをより深めた。
そんなNPCの従順な様子を前にして、カワウソは自己嫌悪で吐きそうになる。
なんていう裏切りだろう。
自分自身の企みの為に、カワウソはNPCたちを騙している。
「戦える」とは、言った。
「勝てる」とは、これっぽっちも思えやしない。
相手は、あの──アインズ・ウール・ゴウン。
100年前に大陸を制覇し、世界を征服した魔導国。
対するは、堕天使のプレイヤー・カワウソと、ギルド:
カワウソは紛れもなく、目の前にいる彼ら彼女ら──拠点にいるNPCたちを道連れにしようとしている。
負ける戦いに──死ぬための戦いに、ここにいる皆を、巻き込んでいる。
傲慢にもほどがある。だが、彼等NPCは、確実に必要な戦力となる。手放すことはありえない。
そこまで理解していて、堕天使の狂った戦意……復讐へと向かう欲望は、まったく衰えることを知らないようだ。粉飾されたなけなしの勇気を──あるいは狂気を──頼りに、カワウソは竜王との接触で得られる情報を最優先に思考する。
「協力を取り付けられないにしても、少なくとも、魔導王の素性や略歴程度は知れるだろう。そこから、何か攻略の糸口になるものが見つかれば、よし」
そのためにも、この魔導国でアインズ・ウール・ゴウンの同盟者と呼ばれる竜王に、直接相対するのは、悪い判断ではないだろう。向こうの戦力や戦略は不明だが、その時はその時で、対処すればいい。幸い、ここにいるミカ……
(それでも対処できなければ……)
そのときは、そのとき。
人がいずれ死ぬように、カワウソの戦い──復讐──も「早く終わるか」「遅く終わるか」だけだ。
主人の真意を全く読めていないだろう快活な笑みと共に、承知の声を唱和させる二人の天使。
二人がそれぞれに与えられた任務に励むべく、答礼と共に円卓の間を辞していく。
寄り添うように下の階層へ降りていく二人の背中を、堕天使は引き止めない。
「ミカ、俺は部屋に戻る」
「……かしこまりました」
舌打ちでもしかねないほどのしかめっ面で、ミカは頷いてみせる。
あるいは、ミカだけは気づいているのか。理解しているのか。
カワウソがどうしようもない主人だと。
NPCたちの忠誠心を利用する卑怯者であると。
だが。
(それならそれでいいか)
「……つかれた」
鎧と足甲を脱ぎ捨てるのも面倒なので、そのままソファの上に寝転がる。
金属の装備類は間違いなく鋭利で硬質な形状なのだが、拠点内の家具アイテムは傷つかない。柔らかいはずのクッションにしても、穴があいて中身がこぼれることもないのだ。
「……どうなるかな?」
深呼吸と共に不安がこぼれる。
ラファに、白金の竜王と連絡を取り、招待に応じると告げた。
だが、実際として、ツアインドルクス=ヴァイシオンなる竜の王──アインズ・ウール・ゴウンの同盟者が、カワウソのことをどうするのか不明すぎる。最悪なのは、竜王が魔導王に対し、カワウソたちを売り払う可能性だが。
「その時は、諸共に始末する──」
ことが出来るかどうか。
ミカを連れて行けば、ある程度の抵抗は容易なはず。飛竜騎兵の領地で、黒竜を破砕した
「ラファが語る通りなら、そこまで陰険な人物じゃないって話だが──」
ラファの忠誠心の篤さも、他のNPCたち同様に極めて高い。カワウソに嘘をついている可能性はなく、彼は本気で、白金の竜王とカワウソが会談することに、危機意識は懐いていない感じだった。冒険都市とやらで行き会った──トーナメント準決勝を前に、ラファの正体を看破した竜騎士が、己の素性……白金の竜王・信託統治者・魔導王の同盟者である事実を明かしてきたという顛末から判断しても、ツアインドルクスは悪い人格とは言えないだろう。
それこそ。ラファの正体を看破し、裏で魔導王やその手の者たちを引き入れて、ラファを封印・拘束するような挙動を見せることもありえたはず。また、ラファがカワウソからの帰還命令を受けて引き上げていくのを止めることもなかったという。その別れ際に手渡されたのが、今カワウソの手中にある招待状というわけだ。
「不安がってもしようがない」
この大陸でも最上位に位置づけられる信託統治者。
白金の竜王とかいうドラゴンと直接会うことは、何らかの成果を生むはず。
努めて悪い方向に考えが落ち込む堕天使の脳を、カワウソは首を思いきり振って揺さぶってみる。
今の状況じゃ、まともに戦うことは難しい。
少なくとも、城塞都市エモットを通過し、ナザリック地下大墳墓の存在する中心地とやらに到達できねば、第八階層“荒野”の再攻略など果たしようがない。
それに、アインズ・ウール・ゴウンの、魔導王の正体というのも気がかりだ。
何故、ナザリック地下大墳墓の支配者が、プレイヤー・モモンガではなく、“アインズ・ウール・ゴウン”なのか?
モモンガに似たNPC?
あるいは、ただのゲームデータの移植?
最悪なのは……これら現実と思えるすべてが、カワウソの描いた悪辣な“夢”である可能性だ。しかし、その可能性は低い筈。どこまでも現実な感覚。自由に動き回るNPC。さらに、カワウソの脳髄が見せる夢だとしても、“アインズ・ウール・ゴウン”を名乗る“魔導王”など、あまりにもおかしすぎる。破綻しているどころの話ではない。カワウソの馬鹿な脳みそが見せた夢であるならば、そのようなラスボス設定を想起する筈がないだろう。まだ“モモンガ”のままの方が夢っぽい気がする。
「……絶対防衛城塞都市、ね」
カワウソが最初に赴いた、魔導国の第一魔法都市・カッツェ。
そこからわずかに北上するような形で、この大陸の中心である首都が存在しているとのこと。
あの都市でヴェルやマルコたちと一度別れ、そこへ赴くことを第一に考えていたのだったが、それすらももはや懐かしい気さえ覚える。
そういえば。
カワウソはマアトが遠見の魔法と併用して録画してくれたニュース映像のひとつを思い出す。
ボックスから取り出した掌大の水晶。そこに映りこむ映像こそが、マアトの記録魔法の発現である。
《続いてのニュースです。
昨日、絶対防衛城塞都市・エモットにて、バレアレ商会の誇る老舗ホテル・
魔法都市で無数に流れた、朝のニュース映像の一部を閲覧。
マアトの言う通り、魔導国のニュースの中に、ユグドラシルプレイヤー……ギルド:
それこそ、『
「国民は、ユグドラシルのことを知らない──わからないから、情報を流す必要がない」
単純に考えるならば、先ほどの対応協議の場でミカが発言した通り、『国民のレベルが低いが故に、重要な情報を与えられていない』可能性を想定して然るべきところ。現地に住まう魔導国の人々は、ユグドラシルと比較してみれば明らかに低レベル帯に位置しており、数億単位で存在する彼等全てに情報対策のアイテムや魔法を授ける──なんてことは不可能なのだろう。
「つまり、アインズ・ウール・ゴウンにも“限界”はある」
何とかポジティブに解釈するならば、彼等にも出来ないことや太刀打ち不可能な事象があるということに他ならない、はず。
あえてそのように振る舞っている・演技しているだけというのもありえるだろうが、そうでも思わなければやりようなど無い。
昨日の映像に映る
カワウソとミカであれば、容易に突破できるだろう構成である。
まるで、アインズ・ウール・ゴウンは昨日のカワウソたちの宣告と暴掠を知らぬがごとく、平然と衆人環視の前に己の身を
魔導国──ナザリック地下大墳墓の情報伝達系統に不具合がないと判ずるならば、これは……
(生み出した上位アンデッドによる“替え玉”か──あるいは、
わかりやすい“釣り”の可能性も十分ありえる。
疑似餌に食いついた魚を、釣り針で引っ掛けあげるように、連中はカワウソたち敵対者を待ち構えているのかも。
ユグドラシルに存在する変身能力に特化したモンスター・
ナザリックが有する拠点NPCか何かが、高度な幻術や変身でアインズ・ウール・ゴウンの姿を映し出しているだけかもしれない以上、カワウソたちが急襲し強襲しに行くメリットはどこにもない。
この程度の場所に、遮蔽物や何の防御もされてなさそうな場所で──カワウソ達がやろうとおもえば、ウリの広域殲滅魔法で周囲一帯を焦土に変えることも出来るだろう。周辺住民への被害を考えると絶対にやらないが。
しかし、
カワウソは言ったのだ。「自分は、アインズ・ウール・ゴウンの“敵”だ」と。
そう宣告した以上は、連中が動き出すよりも先に、こちらが動く必要がある。
待ち構え籠城などすれば、数日でギルド:
「やっぱり、城塞都市とやらに、乗り込むしかない……か?」
アインズ・ウール・ゴウンが居住する、ナザリック地下大墳墓。
ユグドラシルの中でも有名な拠点を、グルリと取り囲むように存在する“首都圏”こそが、「絶対防衛」と銘打たれた城塞都市・エモットであると
カワウソは必死に、城塞都市とやらに乗り込むための手段を模索してみる……だが。
「イズラの潜伏スキルは……連中にバレていると考えた方がいい」
指折り、自分たちにできること──できないことを確認していく。
生産都市で調査中に、潜伏していたイズラの能力を見破った
ナザリックに仕えるというメイドですら、天使の澱の中で最高位の隠密能力者を発見できた事実がある以上、城塞都市内にもそういった看破能力に長じた存在がすでに徘徊・巡回している可能性は極めて高い。
「クピドの転移魔法──は、位置情報がないと無理だ」
最上位の転移たる〈
たとえ、どうにかして城塞都市に潜り込み、彼に情報を送付することができても、高度な転移阻害などが都市全体に張り巡らされている可能性も実際としてありえる。そうなっていれば、いかに〈転移門〉といえども、すんなりと侵入できるはずもない。最悪、防衛魔法の
「下手に死なせでもしたら、それだけこっちが不利になるよな……」
Lv.100NPCの復活にかかる費用は、ユグドラシル金貨5億枚。
カワウソがサービス終了時まで蓄えた財では、そんな大金を支払う余裕はほとんどない。
そして、この異世界には、ユグドラシル金貨のドロップは存在せず、また、拠点周辺の土壌や植物などを換金装置……通称シュレッダーにブチ込んでも、二束三文にもならなかったことを考えれば、無駄な出費は極力抑えなければならない。
あれこれと思案にふけるカワウソの耳に、コンコンと、扉を叩く音が。
カワウソは鬱屈しそうな意識をまっすぐに整えた。
ソファに寝転がる身体をシャンとする。
「誰だ?」
「カワウソ様。ミカ様が、お話ししたい議があると」
扉の向こうにいるメイド──水精霊の乙女であるディクティスの声が、訪問者の名を告げる。
「ミカが? ──どうぞ」
先ほど別れたばかりのはずなのに、話すことがまだ残っていただろうか。
疑問しつつも入室を許すと、水色の髪のメイドが開けた扉の向こうに、NPCたちの長たる女天使の姿が。
「入ります」
堅い女の声をカワウソは緊張する自分の声をほぐすように努力して、迎え入れる。
「ああ。何の用だ?」
「…………」
珍しいことに、ミカは常の調子とは明らかに違う様だった。
「どうした?」と訊ねても、そこから一歩も動かず、また、一声すらも発しようとはしない。
奇妙な沈黙が続く。
こういう時は、どうすればいいのだろう。
カワウソは悩んだ末、ミカにとりあえず着座するように言ってみる。
「……それは御命令でありやがりますか?」
問い返してくる天使の声は、やけに不機嫌そうだった。
これは、先ほどの会議でカワウソが何かやってしまっていたのだろうかと不安を覚える。
「命令って……ああ、──命令だ」
聞き返したくなった瞬間、そう明言してやった方がいいかと思い直す。命令だと言った瞬間、ミカが
「……何か飲むか?」
自室への来客をもてなすといえば、やはり“お茶を出す”しかないだろう。自分の家に誰かを招き入れたことのない──あんな狭小スペースに客を招くわけがないカワウソであっても、一応、会社務めとしての常識として弁えていた。
思って、室内備え付けのバーカウンターに向かうカワウソ。
その様子に、ダイニングテーブルを挟んで向かいのカウチに腰掛ける黄金の女騎士は、少し戸惑いすら覚える声をこぼした。
「イスラに、ドリンクでも頼むつもりで?」
「いいや」カワウソはこの程度の些事にNPCを使う気はない。「茶ぐらいなら、俺にも
ミカは何やら目を瞠ったが、別に驚くほどのことではない。
ユグドラシルにおいて脆い堕天使に必要な
「……イスラが悔しがりますよ?」
「そうなのか?」
何にせよ、彼女は第二階層の防衛を担う要。余計な用事を頼んで、その隙に襲撃されでもしたらいかんともし難い。自分でできることくらいは自分で済ませておいた方がいいはず。
とりあえず何が飲みたいのか、ミカにリクエストを求める。
「……では。プラチナム
ミカご要望の銘柄は、九つあるワールドのひとつ・アースガルズの特定の場所で、特定時期に、特定時刻に、特別な職業を有する存在だけが収穫できる貴重な茶葉だ。つまるところ、最高級品の中の最高級品。そんなものを所望するほど、ミカは紅茶通なのだ。そのように、カワウソは彼女を設定した。
この階層の、この屋敷の守護を任されている彼女だからこそ、食材の備蓄状況なども把握できている。
「貴重品だぞ?」
「それが何か?」
辛辣な口調が、意外にも耳に心地よすぎて笑ってしまう。
NPCたちに誠実かつ忠義あふれる言動をされることに慣れていないカワウソには、まだ馴染みやすい刺々しさが良かった。思えば、ミカとは外へ出てから長いこと生活行動を共にしていたので、それで慣れてしまっているのかもしれない。
「まぁ、いいさ」
小気味よく頷く堕天使は、調理台に半ば死蔵されていた茶器を取り出し、メイドNPCのおかげでよく手入れされたティーセットを用意する。魔法の棚から紅茶の包みを二人分ひっぱりだした。
そしてカワウソはいつどこで習ったのかよくわからない動作──魔法のティーポットからカップに注ぐまでの距離を適度に離して、空気に触れさせることによりお湯を紅茶の銘柄に則した適温に調整。料理人Lv.1は、ユグドラシルを冒険する上で──特に空腹対策や強化アイテムなどが重要な堕天使にとっては──あまりにも有用なクラスだった。人間種のプレイヤーパーティなどでは、ひとりくらい取得しておくだけで冒険の利便性が上がる。それがこんな形で、異世界に転移して役に立つことになると、誰が予想できるものだろうか。
白と金を基調としたオーソドックスなティーセットが、瞬く内に芳しい香りを漂わせる茶会の場を築き上げる。お茶請けは、魔法の冷蔵庫に保存していたチーズケーキ……アウズンブラの牛乳製にしてみた。
「ほら、どうぞ」
「……」
主人の手ずから運ばれ差し出された紅茶と菓子類を丁寧に受けとったミカは、何やら不機嫌そうだった顔色を、一瞬だけ柔らかく緩ませてくれた。
滅多に見られない、ミカの油断した表情。
ゲームだったら思わずスクリーンショットしていたかもしれないほど、その天使の
「何か?」
視線に気づいたミカは、
そんな変わり身すら、今のカワウソには
「いいや、別に?」
……対等に話し合える存在は、いてくれるだけでも、心の支えになるもの。
異世界へと転移した現在の状況は、あまりにもカワウソの──普通の人間だったモノには、気が滅入る状況に相違ない。誰とも本音で語り合えない人生の重さ辛さを、カワウソはよく知っている。
人生ではじめての仲間たちと別れ、その事実を認め受け入れ、たった一人でゲームを続けながら、ナザリックへの挑戦を続けてきた。誰とも何も分かち合うことのない人生が、どれだけ空虚で空疎なものであるのか──仲間たちというものをはじめて知った、知ってしまったカワウソは、よく、わかってしまう。
あるいは、彼等と、仲間たちと出会わなければ、…………そんな馬鹿な想像を浮かべる自分が、とんでもなく惨めだ。
「どうかされましたか?」
「なんでもない」
浮かびかける冷たい感情を、紅茶の香気で無理やりに温めてみる。
なるほど、最高級品だけあって素晴らしい香りだ。口に含めば苦味の奥に、爽快な風味が駆け抜けていく。
ゲームに、ユグドラシルに嗅覚が存在しなかった以上、この現象もまた今の状況が現実であることを存分に知らしめてくれる。
「……アインズ・ウール・ゴウンも、こうだったのかな?」
紅茶を優雅に楽しんでいたミカが、首を数ミリほど傾ぐ。
もしも。
アインズ・ウール・ゴウンが、カワウソと同じプレイヤー……モモンガであれば、100年も前にこの異世界へと渡り来たことになる。
その時、その瞬間──アインズ・ウール・ゴウンは、どんな気持ちでこの世界に転移したのだろう。
共に語れる仲間がいたのだろうか。胸襟を開いて話せる友がいたのだろうか。
こうして、一緒に食事をする存在はいてくれたのだろうか。
──いなかったからこそ、彼は“アインズ・ウール・ゴウン”と名乗っているのか?
「自分で淹れた紅茶がそんなに不味かったのですか?」
ミカの刺々しいながらも心配する声に、カワウソは重々しい形相を横に振る。
「不味いわけじゃないが。イスラの淹れたコーヒーやドリンクの方が美味い気がしてな」
「あたりまえであります。あなたが与えた彼女の料理人レベルは、10。文字通りの桁違い。圧倒的に彼女の方が料理人スキルは上なのですから。……ああ、もったいない……」
そう言いつつ、ミカは最後まで……ほんのりと頬をお茶の湯気で赤らめながら、ティータイムを堪能した。これは、イスラに無理を言ってでも淹れてもらうべきだったか。そうすれば、ミカの微笑みも深まったのではあるまいか。
己の顔に浮かぶ微笑みが喜色に歪みそうになるのをなんとかこらえる。ただでさえ気色悪い顔なのだ。目の前の天使が、堕天使の笑みを苦手にするかの如く直視しない事実を思うと、ここはこらえておくべきだろう。
カワウソは訊ねる。
「それで、わざわざ俺に何の用だ?」
本題に入る。
ミカが、ギルド長の……創造主の自室に赴いてまで遂行せねばならない用件とは。
紅茶の香気と甘味苦味を口内に含み、
女天使は、しばらくカップの底に残った茶の滴を、眺める。
果断苛烈なミカにしては珍しく、何か言葉を選ぶような、気後れしているような、言いたくないことがあるような、そんな時間が五秒ほど流れた。
天使の表情──頬の赤みが完全に引くほどの時間が過ぎる。
「……、ぁ」
「──あ?」
すべてを決意した女の瞳が、熾天使の峻厳な宣告が、堕天使の全身を射抜いた。
「あなたを、止めに来ました」
次回、記念すべき50話目で、あのキャラが登場します。