オーバーロード 天使の澱 ~100年後の魔導国~   作:空想病

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調

/Wyvern Rider …vol.9

 

 

 

 

 

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「なんてこと……」

 

 ハラルドは、指示を仰いだ自分の族長、ヴォルの命令により、街はずれの墜落地点にそのまま留め置かれた黒飛竜の骸の前で、彼女らを迎え入れる。

 布で覆い隠した異様な死骸を目の前にして、族長は落胆の声を挙げる。〈伝言(メッセージ)〉を受け、早馬のごとく直接伝令に赴いた一番騎兵隊の飛竜騎兵に促された女族長は、ヘズナ族長との個人会談も終えて婚約者の彼を見送っていた為、この場に直接訪れることを即決できた。

 それに伴い、モモンの求めに応じ、邸に招集していた人の移送も。

 老いた飛竜に乗った者と、若い飛竜の抱える籠に揺られて舞い降りた者が、一人ずつ。セークの部族が誇る知恵者たちが、族長を含めて──三人。

 

 危なげなく老竜の鞍から身を翻す老人は、先ほど秘密部屋で会った時の装束の上に、昨夜と同じ武装した格好で現れた。ハラルドの部下である老兵であり、ハラルドの“元”上官。

 次に、若い飛竜が抱えた籠から身を乗り出して、運んでくれた若い騎兵の手を借り、何とか老人は大地へと降りるが、足が悪い彼は車椅子に腰掛けるのを余儀なくされる。

 

 彼等もまた一様に、目の前にある死骸が信じられないという面持ちで、死に対する礼儀として飛竜騎兵の祈りの姿勢や仕草をとる。黙祷の儀──心臓の真上に五指を突き立て、そこにある臓腑を引き摺り出すかのような形をとるのは、「心が掴みだされるかのような」深い悲しみの表れとされるもの。

 その膨れた黒い異形は、誰の口からも言葉を失わせるほどのものを持っていた。

 首を斬られた飛竜の姿というのは、むしろ見慣れてすらいる。飛竜騎兵は飛竜を食す。食すために飛竜の骸は解体され、等しく食卓のスープなどに盛られるのだ。それが、彼等への供養であり、飛竜騎兵全部族共通の死生観に基づく、葬送の儀であった。

 だが、目の前のコレは、本当に飛竜なのかどうか、疑問せざるを得ない。

 首を落とされた死体である以上の恐怖を、族長たちは感じているのだろう。

 

 幼い「逆鱗(げきりん)」からは想像だに出来ない巨躯を横たえ、飛竜騎兵の里を一時騒然とさせた(ちから)を示した“この子”は、確かに飛竜の特徴を誇示している。だが、生後一年ほどでこの身体というのは、悪い冗談だ。この成長速度では、この黒い飛竜は純粋な“竜”に匹敵するほどの巨体を確保して然るべき道を辿ったのかもしれない。こんな(おぞ)ましく不吉な肉腫に包まれた“竜”が、本当に存在すれば、だが。

 

 竜と飛竜は、違う。

 似ているが決定的に違う生物だ。

 

 竜は四足の、手と足を持つ爬虫類然とした四足獣の背中に、独立した翼を生やすモンスター。巨大に成長を遂げ、基本は個人主義的。群れは滅多に作らず、あらゆる言語を解し、交渉したり友好を結んだりすることも可能な、知性溢れる異形種。

 反対に、飛竜は爬虫類の前肢が翼と同化し、それを使って四足歩行するモンスター。竜種の中では小さな見た目を補うべく、家族や仲間と群れをつくることを前提とする習性を持つ。基本、竜の言語しか解せず、自分が気に入った相手──“相棒”などとの意思疎通だけを可能にし、交渉も友好も通用しない、知性のない(とされる)異形種。

 

 では、この目の前にある亡骸は、何だ。

 いったい、どちらだ。

 飛竜と竜の合いの子とも言えない──まるで飛竜を黒く魔的に改造しただけのような、この子は一体なんだというのだ。

 答えを持たない女族長は一応、自らが連れてきた智者たちにも意見を求めるが、答えは当然(かんば)しくない。

 暗くなる視線で、ヴォル・セークが部下を見る。

 

「彼等は、……何処に?」

 

 彼等という言葉に、ハラルドは了解の意を示した。三人を先導し、彼等を詰め込んだ建物へ案内する。

 歩を進めた先は、街はずれの倉庫……穀物倉の中で人目を避けていた人たち──協力者らと、族長たちは合流を急ぐ。周囲にある人家はまばらな上、カワウソやモモンたちは黒飛竜を討伐した姿を見せていた。認識阻害の指輪も万能ではない。あまりにも注視され続けるのは差し障りがあるらしく、とりあえず人目をしのげて直近にある休めそうな屋内空間が、これしかなかったが故の苦肉の策だ。

 女族長一行は、相棒の飛竜らを連れて、穀物倉の巨大な戸を叩く。

 

 邸で進めていた会談の準備──そのために呼び出された、とある知恵者らを伴って。

 

 

 

 

 

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「では、そのように話を進めましょう。カワウソさん」

「わかりました」

 

 堕天使は商談をまとめたような調子で頷きを返す。

 この倉庫にカワウソたちが案内され──閉じ込められてから、それほどの時間は経っていない。

 だが、これ幸いとモモンたちはカワウソと話し合うことにした。

 あの黒い飛竜についての対処。ひいては、ヴェルの──セーク族の狂戦士の一件についての今後の対応のことも、互いの意見を交換することができた。

 その内、“黒白(こくびゃく)”のエルが外に無数の気配を感じて声をかけた。モモンは鷹揚に頷く。

 予想通り、倉の巨大な搬入口──運搬を担当する飛竜が積み下ろしをするのに丁度いい倉庫の造りに合わせた巨大な横開きの扉を叩く者たちが現れる。

 モモンが代表し、「どうぞ」と促す。扉に近い位置にいたマルコが下知を受けた女給のごとく、粛々と扉を開けていく(女性とは思えない腕力だ。かなりスムーズに開閉が行えるのは、装備か魔法の力だろう)。

 

「モモン殿、カワウソ殿。皆様方には、部族の皆を代表して、深く御礼を」

 

 カワウソたちの見る先で、セークの族長は開口一番に感謝を告げた。

 ここでは無用となった認識阻害の指輪を一旦外して、とりあえず案内された避難所(そうこ)──ハラルドの厚意によって用意された椅子に腰かけていたモモンとカワウソ。二人の脇にはエルとミカがそれぞれ控えており、ヴォル達一行を迎え入れるべく戸を開けたマルコは、カワウソの背後に回る。

 族長らを案内してきたハラルドの他に、カワウソの知った顔が一つ、知らない顔が一つ続く。

 

「特に、マルコ殿には墜落した二騎の治癒まで行っていただけたようで」

「お気になさらず。落ちた飛竜や騎兵の皆さまは、幸い軽傷でした。倒壊したやぐらの方々も、セーク部族の医務官の方々が治療中です」

 

 死者が出ていなくて幸いだった。死人が出れば、隠蔽の余地なく魔導国に詳細を報告せねばならなかったという。それを怠ることは、臣民の義務に反する──逆心ありと疑われて当然の事態しか招かない。ただでさえ狂戦士(ヴェル)の一件でゴタゴタしている状況で、部族の者に死者が出てしまえば、非常にまずいことになるところだったと、この倉庫内でモモンから語られてカワウソは知った。

 

「では、このような場で申し訳ありませんが。モモン殿のご要望通り、一応ご紹介を」

 

 備蓄された穀物の香りに包まれた、だが決して不快な匂いではない場所で、簡単な会合を開かれる。

 

「セーク部族の長老会に属する者の内の二人です」

 

 モモンの要求というのは簡単明瞭。

 セーク部族の知識者……長老などとの会談の場を設け、彼等から有益な情報を得ようという、至極シンプルな発案だったが、何しろ長老というのは部族の領地内で散り散りとなっており、場合によっては他の小規模な奇岩を統治するのを任された者もいる。長老と言えど暇をもてあそんでいる者は僅かもいないし、暇を出されていようとも、老齢なため飛竜に乗れない者もいる。誰かの助けが必要な場合がほとんどなのだ。族長が〈伝言(メッセージ)〉で招集をかけても、一朝一夕に集まるわけもない。

 そんな状況の中、僅かの時間の内に召喚に応じることが可能だった長老は、二人。

 ヴォルによって案内された二人の内、一人は既に知った顔となっていた。

 モモンが言及する。

 

「──そちらの御仁は、邸の秘密部屋でお会いしましたね?」

「改めまして紹介を」

 

 彼等の長たる女性の声が、朗々と響く。

 

「“老騎”ヴェスト──セーク一番騎兵隊“元”隊長。現存する現役の全騎兵の中で最年長の古強者(ふるつわもの)

 

 彼も長老の一員だったとは。一応見た目は老齢と判る皴の深さに白に染まった紫の髪であるため納得を得るのは早かったが、カワウソは純粋に驚き、モモンもまた感心したように頷きを返す。

 族長の紹介は続く。ヴェスト以外の老人を手で示した。

 

「“老学”ホーコン──医療部隊の代表にして、魔法薬学の師。現セーク家の主治医でもあります」

 

 粛々と腰を折る老人二人が、セーク部族の長老たる二人。

 他にも“老婦”ヴィーゲン──農産技術研究家にして、食料管理の長や、“老吏”シュル──魔導国・一級政務官、政治部や事務方のトップという長老なども数名いるようだが、今は集まっていない。招集令を発し、集合時刻に定めていた昼過ぎまでの間に、あの黒飛竜が出現してしまったのだ。間に合う通りがない。

 役職上の関係で、邸内や邸近くに常駐する二人が先に参じることになったのは、ただの必定でしかなかった。

 

 ヴェストとホーコンの二人は、対照的な立ち居振る舞いをもっている。

 老騎兵は邸で会った時と同じく、かなり厳粛な姿勢を保っており、老兵(ロートル)として恥ずかしくない、まったく老いを感じさせない挙措が印象的だ。身に帯びる鎧甲冑の重みに辟易した風もなく、自分の“相棒”の頬を撫でて労る姿からは、ある種の余裕すら感じられる。

 それに対して、老学者として卓越した治癒薬(ポーション)生成などの技能を誇るらしい禿頭の御老体は、車椅子に腰掛け、骨が浮き上がりそうなほど細い腕などを見るに、実に薄弱とした(たたず)まいだ。白亜の御仁の姿は、頭髪の寂しさや顔だけでなく全身に刻まれた皴の深さから言っても、ヴェストより十年ばかり年長者と見てよい印象しかない。

 

「お会いできて光栄です、モモン・ザ・ダークウォリアー殿、そしてエル殿」

 

 明るく口火を切ったのは、ホーコンの方だ。気軽に、だが礼儀正しく握手に応じる一等冒険者たちに続いて、ホーコンは車椅子を巧みに操り、さらに初対面となる人物に手を伸ばした。

 

「お話は聞いております。ヴェルを救っていただいた、カワウソ殿と方々。誠に感謝いたします」

 

 カワウソは薄く笑って応じるしかない。もはやここまで来たら慣れの境地で、純白の衣服──医者や科学者のような長衣を身に纏う車椅子の老爺に話をあわせた。彼はさらにミカやマルコと挨拶を交わすが、ミカは頑なに応じず、代わりにマルコが二人分の挨拶を受け取ってくれた。本当に申し訳ない。

 改まった挨拶も終えた全員が、早速、とある問題について話し合う。

 

「では、部族で最も知識に長けている族長と、長老のお二人に対し、率直にお訊ねします」モモンは単刀直入に問う。「本当は狂戦士の、ヴェル・セークさんのことをお訊ねするつもりでしたが──あの、黒い飛竜について、族長を含むお三方は、何か心当たりはありますか?」

 

 ヴォル、ヴェスト、ホーコンの表情は、限りなく重い。

 

「誠に申し訳ないことですが、モモン殿。族長たる私、そして長老である二人も、あの黒い飛竜について、知っていることは何もございません」

 

 まったく不甲斐ないと零す女族長の無念さが、この場にいるほとんどの者に感じられたような沈黙が舞い降りる──ことはなかった。

 

「──本当に?」

 

 カワウソは、半ば尋問のような厳しい語気で、問い質す。

 空気を読むならば、ここは沈黙するという選択が正しい気もするが、だからといって石のように口を閉じていても状況は解決しない。

 何より、今は時間が惜しいのだ。黙って時を浪費していては、何もかもが遅きに失するやもしれない。

 ヴォルは僅かに心外そうな面持ちで、だが理知的に応える。

 

「……ええ。私の知る限り、こんな飛竜は見たことも聞いたこともありません」

「そうか。だが、あの黒いのは、間違いなく飛竜の造形を秘めているという。もし仮に、あれが飛竜騎兵の知らない飛竜だとするなら、一体どこからやってきたのか……手掛かりは、アレが“下から飛んできた”という事実だけになる。……この問題に対して、族長はどう対応する?」

「それは、──もっと広く情報を集め、我が部族の記録や歴史を入念に探って、然るべき調査を」

「その間に、またアレと同じものが現れたら、どうする?」

 

 その可能性は想定していなかったわけでもないだろう。

 少なくともヴォルは、表情に驚きを含ませること無く、観念したような調子で頷きを返したのに合わせたので、カワウソは言葉を続ける。

 

「アレは単騎で、数で勝る騎兵隊を翻弄していた。今回は幸いに人死には出なかったが、次も大丈夫という保証はどこにもないと思うが?」

「ええ、ですが対応するにしても、情報が」

「セーク族長。カワウソさんの意見は、自分も同意できます」

 

 カワウソの意見に、モモンが会話に割り込んでまで同調してくれたのは当然であった。

 族長たちを待つ間、倉庫の中でさんざんアレの脅威について話し合い、訪れるやも知れない最悪の状況を想定することができていた。

 有体に言えば、二人共に湧き起こる疑念を、一刻も早く解きたかったのだ。

 故に、二人は示し合わせた通りに、この地に降りかかる災厄の可能性を口にする。

 躊躇(ためら)っている暇などない。

 

「今回、アレは単体の一匹限りでしたが、あるいは他にも仲間が、群れがあるのかもしれない。それに、ハラルド隊長の調べによれば、あれはただの子ども。となれば、アレを産んで育てる個体がいてもおかしくはない上、そうなるとさらに成長した個体がいるのだろうと考えられます。無論、ただの突然変異か異常発生かによっては違う見方もできますが、最悪、アレよりも成長した黒竜の群れが、この里や周辺地域に殺到。大襲撃をかける可能性を考慮せねばならない」

 

 かつては、モンスターを狩るだけの傭兵じみた存在だったという、冒険者。

 しかし、モンスターの脅威は魔導国の台頭と共に一掃され、解放区以外のモンスターは、むしろ魔導王の許しがなければ討伐することは許されないという、ある種の保護生物の様相を呈している(無論、人の居住区である都市や街に迷い込んだものは、緊急避難としての討伐殺傷は一応可能)。

 野にある獣が何らかの因果や要素によって異常発生することも、なくはない。

 だが、あんな異常な形に膨れた飛竜が他にも、最悪の場合は大量に発生しているやもしれないとなれば、可及的速やかに、調査と討伐を遂行しなければ、魔導国の臣民──セークやヘズナの飛竜騎兵たちに被害が及びかねない。

 実際、軽傷者はすでに出ている。これが明日明後日にはどうなっているか。

 対応を誤れば、またいらぬ被害や損害が生じ、今日カワウソらが助けた子らが倒れるなんてこともありえるはず。

 そういった危険を率先して発見し、組合を通して政府に報告、しかるべき手順を踏んで“国”が討伐に乗り出すのを補助するというのが、現在の冒険者に与えられる基本任務のひとつであり、率先しての討伐を冒険者に依頼するということはない。彼らはあくまで調査検分に努め、周辺住民の避難や誘導などを心掛けるよう教え込まれているプロなのだ。

 しかし、一等冒険者(ナナイロコウ)であるモモンには、例外的にある程度の自己裁量特権が与えられているらしく、場合によっては討伐も視野に入れて良い。が、とにかく冒険者の責務として、未知のモンスターの実態を調査することは、まったく当然の選択と言っても良いのである。

 

「……わかりました。お二人の言う通り、調査部隊を至急編成して下の巣に」

「いや、族長。調査には私と、出来ればマルコさんやカワウソさんたちの随伴“のみ”を、お願いしたい」

 

 モモンの申し出に、ヴォルは当然疑念する。

 

「このタイミングで、冒険者である自分がこの地を訪れることができたのは、むしろ僥倖(ぎょうこう)といってもよかった。私たちと、私たちの装備があれば、巣の調査は必要最小限のパーティで進められる。おまけに、中々の実力者であるカワウソさんたちも協力してくれるとなれば、鬼に金棒というところです」

 

 カワウソを同行者に選んだのは、無論、彼が黒い飛竜に抗し得る人物だったからだ。

 冒険者としての常識として、モモンは大量の人間で調査に向かうことの危険を説いていく。

 

「モンスターは、特に竜種というのは鋭敏な知覚能力を持っており、ご存じでしょうが、飛竜のような脆弱かつ矮小なものでも、その傾向は強い。そんなものを相手に調査を行うには、隠密裏に、彼らを一切刺激しない努力が望まれる。そのため、大人数での調査は推奨できない。人数分の〈不可視化〉が行えれば問題ないでしょうが、それほどの備えは貴女方(あなたがた)にはないことは知っております。さらに無礼を承知で申し上げれば、あの黒い飛竜の強さに対し、飛竜騎兵の方々の力では、とても太刀打ちできそうにない。子ども程度の存在だろう黒竜に対し、効果的な攻撃や防衛手段を持たないものばかりを大量に投じても、ただの無駄骨、足手まといになるだけです」

 

 モモンの正論に「その言い分は無礼では」と、族長に長く仕える老兵が気を吐きかけるのを、当の族長が諫めるように手で制した。

 

「確かに。ハラルドたちから伺った話ですと、我々セーク族では太刀打ちならぬモンスターであることは事実なようです」

「ご理解いただけて、ありがとうございます」

「ですが。我々としても、飛竜の巣への調査には騎兵を一人、同行することの許可をいただきたいのですが?」

 

 女族長はギリギリのところで譲らない。

 お目付け役というところだろうか。モモンやカワウソたちが、本当に飛竜の巣で無茶をしないかどうか見定める人員を派遣する旨の申し出を、モモンは当然の如く理解している様子。彼は逡巡するようにカワウソの方に視線を向ける。委細承知した感じで、堕天使は冒険者に「それで構いません」と頷いてみせた。

 

「族長。同行する飛竜騎兵というのは?」

「私がいければよいのですが、ここは…………ハラルド・ホール!」

 

 ヴォルの呼び声に、脇に控えていた一番隊を預かる若者が鋭く応じる。

 が、意外にも目の前の人物は難色を示した。

 

「ハラルド隊長は勇敢な青年だと判っておりますが、あまりにも若い。万が一のことも考えれば、死なせるには惜しい才能の持ち主だ」一等冒険者・モモンが、族長に物申した。「巣に降りるために、できれば巣の内部をある程度知悉している人物がいれば、心強いのですが?」

 

 もっともらしい意見だ。

 いざ飛竜の巣に降りることができても、内部の構造──“飛竜の巣”になっているという、直立奇岩の洞窟内の情報を知っているのといないのとでは、どう考えても知っていた方が調査作業はスムーズに円滑に行えるという理論。

 だが、カワウソとしては、自分の拠点にいるマアトあたりに地図化を頼めば、そこまで苦労する心配はないだろうという心算もあったが、ここは冒険者(プロ)の指示を仰ぐに越したことはないだろう。

 

「詳しい者、ですか…………ふむ」

 

 明らかに言い淀む女族長を、一人の長老がフォローする。

 

「──ヴェストが、それになります」

「騎兵の長老が?」

「ええ。セーク家の家令でもあるヴェスト・フォル。彼はかつて、飛竜の巣で“相棒”を得た帰還者です。それも、二度も。なので、巣の構造や地理関係は、概ね把握できているはずですが──」

 

 もう一人の長老、ホーコンの推挙を受ける形になったヴェストは苦い表情を見せた。

 全員が見つめる先で、白紫の短髪が特徴の精悍な老体が、恭しい挙措で首を横に振る。

 

「この老骨では、皆様の足を引っ張る結果になるだけでしょう」

 

 しわがれながらも謹直な声が、微笑みなど一切望みようのない硬い表情で謝辞を述べる。彼が率先して名乗り出なかったのは、発言した通りのこと──足手まといになることを危惧してか。

 確かに。このご老人が、単独で飛竜と──場合によっては、あの黒い暴走竜と対峙しても、一合も交わすことなく殺される結果しか見えない。

 ヴェスト老騎兵は粛々と辞意を表明し続ける。

 

「巣の内部は、“相棒”の飛竜に搭乗しての探索には向かない空間が多数存在しております。入り口や内部は比較的広大な場所もありますが、巣の詳細な調査となれば、単騎でも戦う力に秀でた、我が隊の隊長こそが、適任かと存じますが」

 

 たとえ、“相棒”の背に乗っていたとしても、アレと同等以上の竜に遭遇すれば、何の戦力にもならないかもしれない。

 黒竜に包囲戦を挑んだ現役の騎兵たちが、幼い黒竜を相手に、何の戦果も挙げられなかった事実を思い出せば、隊長であるハラルドですら、連れていくのは無駄になる確率は高いだろう。お目付け役は必須としても、ただの足手まといが増えるというのは遠慮されて当然というところ。その点で言えば、ハラルド以上の適任など他にはいないのも納得か。

 例外としては族長と、その妹の狂戦士だろうが、まず同行は無理だろう。

 

「では調査には、私とカワウソさん、ミカさんとマルコさん、そしてハラルド隊長で挑むということで、よろしいですね?」

「マルコ殿を?」

 

 ハラルドはセークの者を代表して、冒険者の言を問い質す。

 

「エル殿は?」

「万が一に備えて、里の警備のために残します。巣以外の場所から、あの黒いのが湧く可能性もあるので。連絡と転移を行える魔法詠唱者のこの()を、地表に残しておくのが最適かと」

「しかし、マルコ殿は」

「彼女もまた、中々の実力者。ご心配には及びません」

 

 ハラルドは頷くしかない。彼女は魔法都市(カッツェ)上空で、一番騎兵隊を直卒する少年隊長と戦い、カワウソらが介入してくるまでの間をまったく無傷に敢闘してみせた放浪者。ただの拳で投擲された鎗を弾き、ヴェルとラベンダを護る戦いを良しとした義の女。

 だとしても。

 

「冒険者のチームを崩されて、大丈夫なのですか?」

 

 ハラルドの最後の疑問に、一等冒険者たる二人は同時に頷く。

 冒険者はチームで動く。その原則は悪習でも何でもなく、誠に素晴らしき効率性を保持しているが故の、変えることのできない機能美から生じる常道であった。未知を探求し、探索し、冒険する。その過程において「チーム」という構成は必要不可欠な因子ともいえる。チームだからこそ、弱い命は強靭な結果を勝ち得る。これは自然の摂理ですらあった。

 だが、それは一等冒険者には──戦士のモモンだけでなく、魔法詠唱者のエルですら──通用しない。

 自信過剰、ということはありえない。

 

「それが出来るからこその、一等冒険者ですので」

 

 まさに、御伽噺に謳われる英雄・モモンのようだと、ハラルドは思い知らされる。

 漆黒の戦士が紡ぐ厳しくも勇ましい決定に、その場にいる全員が了承の声を紡ぐ。

 すでに示し合わせていたカワウソも、彼の意見に追随するのみであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 黒い飛竜──モンスターの骸は、死体をさらしたその場で荼毘(だび)にふされた。

 解体された肉腫……死体の一部や臓器などを可能な限り採取し、〈保存(プリザベイション)〉の魔法で鉄製筐体の中に保管。然る後に魔導国に献上するための物証として必要なものを、可能な限り保存した後の余った死骸は、ヴォル・セーク族長、ハラルドとヴェスト一番騎兵隊の四人、老学者のホーコンと、飛竜数匹が見守る中、用意された(たきぎ)と油と共に火をかけられた。ハラルドたちの相棒たちが、幼い同胞の死を悼むかのごとく、静かに()いた。

 

 だが、これは飛竜騎兵の正常な儀式ではないという。

 こういうのは飢餓や病気、部族間戦争などで“大量死”が出た際の……言うなれば葬儀をするだけの余裕すらない状態でのみ行われる簡略化された手法に過ぎない。

 その様子を遠巻きに眺めるのは、近い場所にマルコ、そしてモモンとエル、それらをさらに遠巻きにしてカワウソとミカが見つめている、五人だけ。

 

 さらに意外なものが、この略式葬儀に参列していた。

 部族の領地に駐在する中位アンデッド──死の騎士(デス・ナイト)の邏卒に、死者の大魔法使い(エルダーリッチ)の事務官が一体ずつ。……死者のモンスターが死者を送る儀式に列する様子は、何というか、珍妙な印象が強いが、これも魔導国の法で定められた義務要綱のひとつらしい。何故、中位アンデッドを葬儀に参加させるのか大いに疑問だが、多分、監視員か記録係みたいなものなのだろう。

 

 戦地などで使うという略式葬儀の文言を唱え続ける女族長は、族長であると同時に、先代の竜巫女の薫陶を受けた、一族の祭司でもあるという。

 彼女が魔法に長じているという話は、彼女がセーク部族の巫女であることの証でもあったようだ。

 そんな見目麗しい女族長の弔歌に耳を傾けつつ、堕天使は嘆息する。

 

「……悪いことを、したかもな」

「カワウソ様?」

「いや、すまん。独り言だ」

 

 軽く手を振って誤魔化す主人に、右隣のミカは憮然と視線を伏せて、空を焦がす炎を眺め見つめる作業に──戻らない。

 

「あの黒い竜を狩ったことを?」

 

 悔いているのかと、言外に問われるようだった。

 だが、カワウソはきっぱりと否定する。

 

「いや。ヴォルに、族長に対して、あの言い方はなかったかもなって、そう思っただけだ」

 

 何処から来たかもしれぬ幼竜を、深い憐憫と共に送る女に対し、カワウソの内心は随分と卑屈な感じにさざめいていた。

 カワウソは、黒く幼い飛竜を殺したことは、大して心動かされた感じはない。ゲームのPOPモンスターを狩った程度の感覚でしか、あの憐れな竜の死を思うことはまったくない。

 できなかったという方が正しいのかも。

 ゲームとは違う生の肉を思うさま切り裂き、命を(ほふ)った感触というのは、生々しいほどに堕天使の掌にこびりついて離れない。そう理解しながら、それを心の奥底で(たの)しんでいるような昂揚が、暗闇の奥に灯る篝火(かがりび)のようにはっきりと認識できる。

 ならば、この冷徹な思考力、冷淡なほどの状況適合力というのは、異形種の脳髄であるが故のものかと思われる。──命を奪う行為に対する忌避感が、そこらの地面を這う虫を誤って踏み潰した程度にしか感じられない。戦闘後によくよく考えてみると、どうしてあんな冷静に戦闘行為を遂行できたのか、軽く恐怖すら覚えかけるくらいに、自分の思考が通常の人間のそれから逸脱している感じが否めないのだ。これが人間のままだったら、果たしてカワウソは黒い飛竜との戦闘をやり遂げられたのか微妙な気さえするのに。

 いや、今は思い煩う時ではない。そんなことよりも(・・・・・・・・)

 カワウソの懸念──後悔は、セーク族長に対しての対応の拙さであった。

「本当に?」などと真正面から(いぶか)しんだのは、やり過ぎだったのではないだろうか。

 自分の言葉選びが不適切だったように思えてならない。

 彼女は明確にしていなかったが、黒い竜の発生源やも知れない“飛竜の巣”を探る可能性くらいは考慮していたはず。だが、カワウソが強く促すようにして、そっちの方向に話を振り切った。そういう自覚が、カワウソにはあった。

 もっとうまく話を誘導することができなかったのだろうか。

 カワウソは営業トークで失態をやらかした後の商取引みたいな感覚──明快な自責の念に駆られてしまう。

 

「いいえ。あの場ではあれで正解だったと思われますが?」

 

 しかし意外なことに、毒舌を誇る女天使の美貌が、カワウソの失敗を労ってくれた。

 

「気心の知れたわけでもない相手を疑うのは、当然の心理でしかありません。それに、セークの部族は、未だに何かを隠している(・・・・・)。そんな相手を信用することはできないというのが、むしろ普通では? ヘズナ家に雇われたモモンも、族長たちが倉庫に着くまでに、そうお話していたではないですか」

「セークの族長たちを疑っている──って話か」

 

 ヘズナ家に、一応はかつての敵対部族に雇われた存在だからこその判断であるだろうが、それを加味しても、今回の事件──セークの領地に現れた黒い飛竜の一件については、さすがに猜疑されて当然な状況に相違ない。

 一般的な飛竜騎兵が認知しない、強大な力を秘める、黒い飛竜。

 ヴェル・セークという狂戦士が暴走した事件から幾日も経たずに、こんな異常事態に陥るとは。

 まるですべてが図られていたかのようにすら思える。

 

「ですので。カワウソ様一人が、勝手に恥じることなどないと思われやがりますが?」

「そう割り切れるものなのか?」

 

 訊ねながらも、ミカの毒言に理解を示すことができる。

 カワウソもいろいろと違和感というか、何か隠されている気がしてならないのが実際だったし、あのモモンたち一等冒険者にしても、「彼女たちは何かを秘している可能性がある」と推察していた。それが何なのかは、情報が少なすぎて確信が持てない。ただの気のせいと判断するには、状況はあまりにも不明瞭な部分が多すぎる。

 

 たとえば、狂戦士の件。

 狂戦士への信仰がなくなった現在に存在する、同時代に生きる狂戦士は、二人。

 ウルヴ・ヘズナとヴェル・セーク。

 一方はヘズナ族長として勇名を馳せながら、もう一方はただの飛竜騎兵──族長の妹としか認知されていない。

 セーク部族が、ヴェルを狂戦士として認知していない理由。

 推測だが、「隠さなければならない理由」があるのだろう。

 

 では、その理由とは?

 ──ヴェルが狂戦士だと不都合だから。

 誰にとっての不都合だ?

 ──ありえるのは、部族の長。あるいは、それに準じる誰か。

 

「ヴォル・セーク族長は、ヴェルが狂戦士だと困る?」

 

 仮に、(ヴォル)にとって(ヴェル)が狂戦士という存在だと困ること──不都合な事実というのは、何だ。

 

「……嫉妬、でしょうか?」

「力を尊崇する部族というからには、いかにもありえそうな話だが……」

 

 狂戦士の力を持つ妹に対し、非力な姉が嫉妬するという感じか。

 ミカがそういう仮説を打ち立てるが、カワウソは頷くことはできない。

 仮にも部族を治める族長が、非力ということはないと思う。少なくとも魔法の理解がある以上、魔法戦士とか神官戦士みたいな強さを獲得しているだろうし、ハラルドたち一番騎兵隊全員から尊崇される飛竜騎兵の女族長が、何の実力もない木偶の坊ということはないだろう。

 では、狂戦士が部族内で特別な意味合いがあるのか──と思ったところで、『狂戦士に対する信仰は失われた』という言葉を思い出す。その可能性は薄いはずだが。

 

「あるいは、ヴェル・セークが狂戦士であることが、彼女自身のためにならない可能性が?」

「……それは、どういう?」

 

 訊ねた先で、ミカは首を傾げてみせる。

 

「さぁ……ただの憶測ですので、参考意見程度にしかならないものと」

「いっそ、ヴェルに訊く方が早いか……しかし……」

 

 カワウソは口内で呻く。

 幽閉されているという狂戦士──当事者本人に訊いて、正直に話してもらえるものなのだろうか。

 答えは限りなく(ノー)だろう。

 部族ぐるみで……というか、部族内ですら隠匿されている情報というのを、ただの部外者のカワウソたちに対し、詳細に明かすというのはありえそうにない。ヘズナ家が──それに関連してモモンたちが詳細を知っているというわけでもなかったのは、既にモモンを通じて確認が取れている(モモンからの情報を信じることが大前提だが)。

 そもそもどうやって会いに行く? 彼女は邸の何処か、奇岩深部の牢に入れられているというが、会いにいってよいものなのか? 族長に許可を取って見舞いに行くとしても、囚人という状況から考えるに看守がいるのかも?

 あまり魔導国の臣民に怪しまれたくない現状では、深く突っ込んで藪蛇は勘弁願いたいところ。

 当然だが、隠している張本人たる族長・ヴォルに訊くのは論外だ。

 

「情けないな……本当に」

 

 誰にでもなく肩を竦めてみせる堕天使。

 だが、情報は着実に集積されつつある。

 この魔導国において英雄視される一等冒険者の実力。ユグドラシルと同じモンスターがいながらも、独自の使用方法や進化を遂げた存在。魔法やアイテムが生きるファンタジーの世界。堕天使という異形種の力や特性を発揮する今現在の自分。

 その分、謎が深まっている感じも、蓄積されてはいる。

 ゲームとは違う異世界で、ゲームの法則が通じる事実。ギルド:アインズ・ウール・ゴウンの名を冠する100年の歴史を持つ大国。その中に住まう低レベルな飛竜騎兵(ワイバーン・ライダー)の部族。その中で何故か誕生する狂戦士(バーサーカー)。ユグドラシルと同じだが、ユグドラシルとは違うものが確実に混淆(こんこう)され混在している異常な世界。そんな中で展開される策謀と疑義と闘争の坩堝(るつぼ)に、確実に巻き込まれつつあるという厳然としすぎた現実。

 

 だが、そんな状況でも、人は慣れる。

 人ではなく堕天使というべきところだろうが、そのおかげか(あるいはせいか)、カワウソは諦観にもよく似た奇妙な適応を感じつつあった。

 ありえない状況を前に絶望することなく、狂気的としか言いようのない現状をどうにかしようと思考し、希望を模索することができる自分が、奇怪なほど冷淡に思えた。冷酷とも言っていい。いっそ酷薄なのかもしれない。

 いずれにせよ。

 目の前の光景は夢幻のごとく消えてくれはしないのだ。

 ならば、この状況でどれだけ自分にとって有益なものを拾い集められるかが、今後の自分の運命を占う材料になる。

 転移した先の異世界で覇を唱える大陸国家……あの悪名高いギルドの名を冠し、同じ名の最上位アンデッドが君臨し、そんなアンデッドの王に仕える階層守護者がいるという、悪辣極まりない冗談じみた現状を打破するために、カワウソはどのように生きるべきか。考えて考えて考え抜かなければならない。

 

 気が重いことこの上ない。

 いっそ狂うことができれば楽なのかも知れない。

 ……あるいは、すでに狂っているのかも。

 

 堕天使は「狂気」や「支配」への耐性を備えているが、それは“すでに狂気に陥っている”という種族設定が生きているとしたら。

 

「何にしても。確かなことは、ひとつか」

 

 やるべきことは変わらないということ。

 カワウソの望みはこれまで一貫している通りのもの。

 ──こんな状況で、何もわからないまま死ぬのだけは、ごめんだ。

 利己的なまでの自己保存を良しとし、カワウソは抗い続けることを己に確約する。

 そのためなら、何でも利用する腹積もりだ。

 この状況を、現在を、すべてを使って生き残る。

 逃げ出したところで生き残れるとは確定できない以上、みっともなく足掻いて、その中で活路を見出すしかない。

 

 ……他にどうしろと言うのだ。

 

 魔導国に(くだ)る?

 ありえない。カワウソの身の安全を保障するものなど何処にもない。カワウソのようなユグドラシルプレイヤーを、あのギルドが保護する理由がないだろう。カワウソが知らないだけで、そういった事例もあるのかもしれないが、現状では悪手としか思えない。PKやPKKを繰り返してきた“悪”のギルドが、好意的にカワウソを受け入れるという様がこれっぽっちも想像できないのだ。むしろ逆の方がしっくりくるくらいである。

 

 では、魔導国から逃げる?

 さらに、ありえない。逃げる先も道も手段もわからない。大陸を走破し、海の先を目指すにしても、別の大陸があるかどうかすら判然としていない。他の大陸があるとしても、その大陸にまで魔導国の旗が掲げられていたら……仮に手付かずの大陸や島があったとしても、逃亡(それ)をすることはあそこを──自分のギルド拠点を捨てなければならないかもしれない。何らかの方法で平野の真ん中に転移した拠点を移送移動する手段があったとしても、現状はそんな方法が存在するのかどうかも怪しいところだ。

 

 横目に、自分の拠点NPC──ミカの綺麗すぎる横顔を見る。

 かつての仲間たちの遺品を与え、役割や外装も旧メンバーのそれに似せた存在。

 自分があの拠点を捨てて、ミカたちを捨てることになれば──彼女たちの存在を魔導国が発見し、何らかの方法で吸収されてしまうことになれば──やがてカワウソの存在に届くだろう。

 

 では拠点のみを捨て、ミカたち全員を連れて脱出を?

 馬鹿げている。それをしたところで、ギルド拠点を掌握され、やはり何らかの手段で追尾追跡を受けるだけだ。最悪なのは、空っぽにした拠点を破壊されれば、拠点NPCのミカたちに悪影響を及ぼすやもしれない(というか、NPCの消滅もありえる)し、あるいは何らかの方法で拠点を改造改竄され、NPCたちの所有権などの強制移譲が可能だとしたら──完全に“詰み”でしかない。

 

「何か?」

 

 見られていると判った天使が、憮然としつつ問いかける。

 

「いや。何でもない」

 

 カワウソは負の思考が悪循環を起こすのを遮蔽するように瞼を下した。

 そうして、再び瞼を開く。まっすぐに目の前のすべてを睨みつける。

 すべては、見極めた後で決めればいい。

 この国で、この大陸で、この異世界で。

 自ら称するところの悪のギルド(アインズ・ウール・ゴウン)が、果たしてどんな存在として君臨しているのか。

 平和に統治されていることは既に十分以上に判っているが、それが(イコール)自分(カワウソ)たちの命と安全に繋がるとは、確信しかねる。むしろ、彼ら魔導国は、カワウソのようなプレイヤーを追い立て、悪辣な手段でもって処断する可能性もありえる。絶対に、自分たちの方から「プレイヤーだから保護してくれ」なんて口が裂けても言えはしない。言った途端に自由を奪われ、命を落とす危険が1%でもある以上、今の均衡を自ら崩すのは、無謀を通り越して愚策以下でしかないのだ。

 カワウソたち天使の澱(エンジェル・グラウンズ)が生き残る道はあるのか。

 それとも、ないのか。

 では、もしも、生き残る道は存在せず、カワウソたちはここで尽きるしかないとしたら。

 

 それならば……いっそのこと(・・・・・・)……とも思いつつある自分を、カワウソは実感せざるを得ない。

 

 カワウソは己を嘲笑った。

 バカか、俺は。

 そんなことを考えてどうする。

 思考がそちらの方向に転げ落ちそうになるのを叱咤し、懸命に断崖から飛び降りたがる自己を押し留める。

 ──あちらの世界で“果たせなかったこと”を、この異世界で成し遂げてやろうとする自分の声が、耳元に心地よく(ささや)くのを感じてしまう。

 その声は、言葉は、実に魅力的な響きを伴っていた。

 

「約束を……」

「──カワウソ様?」

 

 何でもないと再びミカに頭を振ってみせる。

 馬鹿げすぎた妄想だが、一考の余地はあった。

 何もかも無駄で無意味だとしたら、何もかも“無駄で無意味な行為”に奔るのも、悪くはない。

 だが、まだだ。

 まだ自暴を起こし、自棄(やけ)に陥ってよい段階じゃない。

 

「……大丈夫です」

 

 すごく言い慣れていない雰囲気で、女天使がカワウソに向き直り、告げる。

 堕天使は思わず目を瞠った。

 

「ミカ?」

「ウダウダ考えても(らち)は空きません」ミカは言い募った。「あなたの望むこと、あなたの願うこと、あなたが挑もうと欲すること──それらを実現するために必要な事を、ただ成し遂げていけばよいだけです。あなたには、その権利がある」

「権利?」

「物事をなし、またはなさぬことを自らに決める資格です。今のあなたは、いっそ義務的に物事を対処しようとなさっているが、ならば自らの利益を追求することを恥じてはならない。それを反故にしてよい道理など、ありえない」

「道理か……」

「無論、この世界、この魔導国とやらに、我々の道理が通る筋道はないのやも知れません。ですが、……私は……私たちは……」

 

 カワウソの瞳に、かすかに呑まれたようにミカが退こうとして、踏み止まる。

 

「お守りします──あなたの行く先を。あなた、御自身を」

 

 優しげな雰囲気すら一瞬感じられた声音は、その人外の美貌からは感じ取れない。

 いっそ冷酷な復讐の女神のようにすら思えるほど、女天使の表情(かんばせ)は酷烈に過ぎた。

 だが、

 

「そうだな」

 

 思わず微笑んでしまった。

 ミカの強張(こわば)った主張に、明るく微笑みを返せた。

 カワウソは、少しだけ肩の力を抜くことができた。

 もっと状況を楽に考えるのも、悪いことではない。

 

 たとえば。

 アインズ・ウール・ゴウンはプレイヤーに寛容だとしたら? 自分以外にも同じ状況に陥ったプレイヤーがいたとしたら? そいつらが魔導国の庇護下にあるとしたら? あるいは庇護下にはないとしても、カワウソ同様にありえない状況に困惑して、どこかで右往左往しているとしたら?

 無論、懸念は残る。

 そもそもにおいて。

 何故アインズ・ウール・ゴウンを名乗る魔導王とやらは、死の支配者(オーバーロード)であるならば、プレイヤーの”モモンガ”ではないのか? モモンガは何処にいった? あるいはモモンガの姿をしたゲームアバターが、よくわからない理由で“アインズ・ウール・ゴウン”を名乗っているだけなのか? モモンガに似た名前の“モモン”という漆黒の英雄がいる以上、モモンガはいるのでは? いたのでは? まさかとは思うが、モモンガというプレイヤーが、何らかの理由で“アインズ・ウール・ゴウン魔導王”に改名したとか?

 疑問や理屈は様々に考えられるが、どれも確証があるわけではない。

 

 そして、最大級の懸念は──

 この状況に置かれているのは、もしや自分(カワウソ)だけなのか?

 

 ただでさえありえない状況が続いている中で、他のユグドラシルプレイヤーの影がまったく見えない状況が続いているのは、かなりの恐怖をカワウソの心臓に植え付ける。今のところ、カワウソはモモンガの名に近いモモンと接触を持っているが、それだけだ。彼が色々と知っている可能性は、果たしてどの程度のものだろう。

 

 しかし、希望はあるのだ。

 

 少なくとも、ギルド:アインズ・ウール・ゴウンは、ナザリック地下大墳墓は、この異世界に「ある」のだ。

 他にもユグドラシルと同じモンスターの存在が、自分以外のプレイヤーの転移している可能性を補強している。

 もっともありえそうなのは、魔導王アインズ・ウール・ゴウン──死の支配者(オーバーロード)がプレイヤーである可能性。

 

「プレイヤーの痕跡を探すべきかな?」

 

 口にしてしまうが、方法や手段が見当たらない。

 まさか魔導国の図書館や書店の本をすべて調べ上げるわけにもいくまい。そもそもにおいて、そんな情報を観覧できるとも思えない。

 町々にはアインズ・ウール・ゴウンの旗が翻り、都市にはアンデッドの従僕が(うごめ)いている。

 他にプレイヤーがいるのであれば、何故アインズ・ウール・ゴウンばかりが名をあげているのか?

 答えは簡単。

 他のプレイヤーがいないからでは?

 

「あーあ……どうしようもないな。本当に」

 

 そう呟きつつも。

 奇妙なほど淡泊に呟ける自分がいた。

 

 燃え上がる炎の底で、朽ち崩れる骸を、見る。

 黒い飛竜の死を飲み込んで、炎は空を焦がしている。

 

 弔いの調べは、今もまだ、(うた)われている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ひと通りの儀式が終わり、残骸のあと始末は一番隊の人たちがやってくれることになる。

 カワウソたちは、そのまま街の調査──という名の散策──を切り上げて、族長たちを残し邸に戻ることに。

 モモンたちは〈飛行(フライ)〉で、カワウソは〈空中歩行(エア・ウォーク)〉で、ミカは自分の翼で空を駆ける。ハラルドの”相棒”の影に隠れて空を進んだその後、認識阻害の指輪は、モモンたちに返した。この世界独自のアイテムを拠点で鑑定したい気持ちは山々だったが、さすがに個人から借りたものを勝手に調べるというのは礼儀に反する上、彼から緊急で返却を望まれた時に、手元にない状況を作るのは躊躇われる。礼を一言添えて返却した指輪を、モモンはいずこかに仕舞いこんだ。

 この国、この大陸で随一と謳われる存在・一等冒険者に警戒されるのはデメリットしか生まない。カワウソはなるべくモモンとは友好的に事を進めようと半ば躍起になっている自分を理解しつつ、そんな自分の浅ましさに酷い自己嫌悪を覚えてならなかった。

 飛竜の発着場にまで戻ったカワウソたち五人は、昼まで休息の時間を設けることで意見が一致していた。モモンたちは雇い主であるヘズナの領地へ見回りがてら帰還し、マルコも己の客室に戻る。

 

「失礼、カワウソ殿」

 

 その途中。カワウソとミカも後に続こうとして、調査準備のため共に邸へと戻ったハラルドとその相棒に抱えられた籠に相乗りしていた長老の一人に、廊下で呼び止められる。

 

「少し、ヴェルのことでお話を聞きたいのですが、構いませんかね?」

 

 族長家の狂戦士の主治医も務めるという“老学”ホーコン。

 禿頭の老爺が面に浮かべる微笑に、堕天使は気軽に応じる。

 

「ええ、何なりと」

「カワウソ殿は、ヴェルを保護してくれたという、話でしたが」

「……ええ。それが?」

 

 実際には、保護というよりもただの成り行きで助けた(+死の騎士(デス・ナイト)たち魔導国の部隊を壊滅させた)だけなのだが。

 

「保護した時の状況を、詳しく教えていただけますか?」

「それは…………何故?」

 

 老人を見る目から温度が消えていくような感覚を覚えながら、カワウソは和やかな笑みで応じつつ、老人を値踏みするような警戒の色で透かし見る。

 

「私は、あの娘の主治医を20年も続けて参りました。ヴェルが暴走したとあっては、一大事。昨夜、軽く診断した限りでは問題はなさそうでしたが、一応、保護された際の状況も聞いておこうかと」

 

 なるほど。カワウソは納得に至る。

 

「主治医と言うと……ヴェルは何かの病気を?」

「あー、いえいえ。あの娘の狂戦士化を抑えるための安定剤などを処方する程度で」

 

 丁寧かつ親し気に微笑まれる。

 好々爺然とした車椅子の主治医に対し、カワウソはまったく冷静に、それとなく詮索することから始める。

 

「彼女と会った時のことは、ヴェル本人から聞いておりませんか?」

「昨夜の診断で訊いてみたのですが、あの()は狂戦士化の影響で記憶が混濁していたとかで、曖昧な感じだったところを、貴公らに保護されたとか?」

 

 なるほど、ヴェルはそのように話したのだな。

 

「大体はそんなところです」

「やはり、そうでしたか」

「こちらも、質問してもよろしいか?」

 

 カワウソは無礼にならないように言葉を選んだ。

 

「狂戦士化を抑えるというのは?」

「ええ。治癒薬(ポーション)の亜種みたいなもので。定期的に処方しております」

「定期的に、ですか──」

 

 ふと、堕天使の脳裏に閃くものが生じる。

 

「ご老人は、セーク家の主治医と伺っておりますが」

「ええ、さようでございます」

「では普段の二人……ヴォルとヴェル姉妹のことについて、お伺いしたいのだが?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 黒い飛竜を退治し、族長の邸に戻ってから三時間は経過した。

 カワウソはセーク族長邸で与えられた二人部屋にミカと共に帰室し、予定まで──長老たちとの協議の刻限をダラダラと待った。

 一刻も早い調査を。

 そう族長に大見得を切りはしたが、いろいろと準備というものがある。飛竜の巣に降りる際の装具の点検がモモンやハラルドには必要だったし、何よりモンスターの巣へ調査に赴くためには、国の許可状が必要になるという。モモンだけの調査と侵入ならいざ知らず、カワウソやミカ、放浪者のマルコ、さらに部族の代表監視員として派遣されるハラルドなどの追加員数分については、一等冒険者だけでどうこうできる権限を越えている。その許可の発行を待つ間、カワウソはここで時が過ぎるのを待つしかない。街の周辺警戒は地元民である飛竜騎兵の部隊が行っている中で、黒い男が加わっていても意味がないし、何より彼らの職務を奪うことは、この地に住まう彼らへの侮辱ともなると、遅まきながら気づかされている。もし異変があれば、モモンやカワウソたちが“跳”んで駆けつける。それまでは十分に休息時間を満喫しておくことが、今の堕天使には重大な役割であるだろうと、誰あろうモモンから注言を受けていた。彼の言い分はもっともであり、反駁する理由が薄い。

 それに、調査に赴く前の準備というものは、カワウソたちにも必要な事案であった。

 室内の時計を見る。

 

「そろそろ時間か」

「はい」

 

 ミカを通じて、〈伝言(メッセージ)〉で指定された時間は、11時。

 ベッドの上で半身を起こし、窓辺の席が定位置と化したミカに命じて、客室周辺の警戒を厳にさせる。カワウソはベッドを離れて〈伝言(メッセージ)〉を飛ばした。

 

「クピド」

『おぉ。御主人かぁ? 時間通りだぁ』

「こっちは大丈夫そうだ。それで、そっちは〈転移門(ゲート)〉の準備は?」

『もちろんだぁ。すでに、マアトから位置情報は得ているぅ。今、開くぞぅ』

 

 途端、カワウソたちの目の前──丸卓の上の空間が歪み、二点間を繋げる闇が蠢く。

 短く細い黄金の髪が、眉間を隠すようにひょこんと一房だけ現れ、次いで産毛ばかりの赤ん坊の頭と、次いでその小さな全身が(あらわ)となった。

 現れた天使は、普段から銃火器類で武装し、くわえタバコじみた棒付きキャンディーを味わう口元を歪ませ、サングラスをかけた、小さな一対の白い翼を肩甲骨辺りでパタつかせる、奇妙奇天烈な赤ん坊だった。

 ギリシャ神話に登場する愛の天使(キューピッド)をモチーフにした外見を、まるで炸薬と硝煙──弾倉と鋼鉄で構築された近代兵装で着飾ったがごとき、兵隊じみた存在に変貌させた具合である。下半身の大事なトコロを護るのは、軍の階級章や勲章(みたいな、ただの飾り)をぶら下げた、ふわふわ純白のオムツだけだが、彼の肉体は矮小ながらも特殊なもので、ほぼ真っ裸な赤ん坊の外見ながら、実は相当かなり頑丈にできている。

 さらに言えば。

 彼は、ギルド:天使の澱(エンジェル・グラウンズ)が誇る『兵士(ソルジャー)』として、各種近代兵器じみた「魔法銃」を扱う職業レベルを多数保有した存在だ。彼が転移関係に長じているのは、兵站を前線に供与配給するための役割として……というよりも、ガチャで獲得しぶち込んだレア職業の関係で、偶然そういった戦法を得意とするようになったという方が正しいだろう。

 皮肉屋(ニヒリスト)じみた笑みを唇の端に刻んで、乳歯ではない真っ白な歯を見せつける。

 

「息災のようだなぁ。二人ともぉ」

 

 彼に設定した『外見にはまったく似合わない、低く渋い、うねるような口調』に、カワウソは気安く応じる。

 

「こっちは無事だ。そっちは?」

「ふむ……問題らしい問題は、ないなぁ。安心しとけ、御主人よぉ」

 

 何かを言おうとして止めた雰囲気を感じるが、クピドは転移魔法の闇を背後に控えたまま言葉を続ける。

 

「要件は手短にすますぞぉ」

 

 言って、クピドは小さい手に担いできた無限の背負い袋(インフィニティ・ハヴァサック)をひとつ卓上に置く。この中に昨夜要請しておいた、拠点内の金庫などに放り込まれたままだった、この異世界で有用そうなアイテムが詰まっている。代わりに、カワウソは予備の(戦闘実験用に持ち出していた)武装をいくつかクピドに預けた。

 任務を無事に終えたクピドは、「武運を祈るぅ」と言い残して、再び闇の奥へと消えていこうとする。

 

「待て」カワウソは、少しだけ彼を呼び止める。「悪いが、アプサラスに、“これ”を鑑定させてくれ」

 

 手渡したのは、採取用の紙袋に包んだ、黒い肉片であった。

 先の戦闘で、あの黒飛竜の肉腫を削いだ時に、聖剣にこびりついていたもの。それを、カワウソは念のため採取していたのだ。包みを受け取ったクピドは鋭く微笑み、「任せておけぇ」と威厳たっぷりに頷いて、空間の歪みの中に戻っていった。

 途端、発動時間を終えた魔法が消滅する。魔力消費をなるべく抑えた、絶妙な転移魔法の実演である。

 カワウソは、彼から受け取った袋の中身を(あらた)めた。

 言語解読用の眼鏡をはじめ、こちらの世界で使えそうな──しかし、ゲーム的には長らく倉庫の肥やしになるしかなかった──アイテムが軒を連ねていた。

 ふと、その中に奇妙なものを発見する。

 決して軽くはない、紙と金属の満載された包みの感触が指先に触れた。

 

「ん……これは?」

 

 包みから取り出したものは、見たことのない紙幣……否。

 

「まさか、魔導国の?」

 

 間違いなく魔法都市で見かけた、アインズ・ウール・ゴウンの印璽が刷り込まれた1000ゴウンの紙幣だ。他にも2000ゴウン紙幣や500ゴウン金貨、100ゴウン銀貨などを早速手元に来た眼鏡を使って確認。

 驚愕しつつも金額を数える。

 3万は確実にあった。

 

「先ほど、ナタから配分された現地の金銭ですね」

「これ、どうやって手に入れたんだ? ……まさか……偽造、とか?」

 

 だとしたら、とんでもない。

 一瞬だけ自分のNPCたちが馬鹿なことをしたのかと不安を覚えるが。

 

「いいえ。どうにも、辻決闘だか野良試合だかの“興行”で獲得したようです。報告によると、マアトが撮影した動画を送ってくれたとか」

 

 言ったミカが、荷袋のさらに奥へ手を伸ばす。

 そこにあった掌大の水晶には、マアトの情報系魔法──〈記録(レコード)〉が込められていた。

 

 

 

 

 

 映像の中に映し出されたのは、どこかの都市。

 多くの人が行き交う通りの、ちょっとした広場。

 大風呂敷には、山と積まれた金貨や紙幣が詰め込まれていた。

 その上の看板。記された文字には、こう書かれていたようだ。

 ──腕に覚えのある奴、募集。参加費2000。勝てば、大金。

 そのことを理解した花の動像(フラワー・ゴーレム)のナタは、腕を組んだ仁王立ちの姿勢で叫び、確認の声を発する。

 

『ということは!! 自分があなたに勝つことができれば!! そこのお金をいただいてもよいということですか!!』

 

 気軽に応じる妖巨人(トロール)の戦士。

 

『オウとも、元気一杯な坊ズ! ちッこい身ナリダが、男ト男の戦イに、二言はねぇともヨ!』

 

 一分後、妖巨人の彼はひどく後悔することになる。

 人間では体格差から、ほぼ太刀打ち不可能。これまでに挑戦した亜人のビーストマンやミノタウロスでも歯が立たないという強靭な肉体を頼みとする巨人にとって、剣装を外し旅行者の子どもを演じる少年兵の矮躯は、子犬ほどの脅威すら感じられなかっただろう。本来であれば参加費2000ゴウンを支払うべきところなのだが、ナタは無一文(スカンピン)だったものを、あまりにも面白そうな対戦相手に気を良くした妖巨人が、少年の勇気を讃えて、特別に便宜を図ってくれたのである。やめておけばよかっただろうに。

 

 そうして始まった勝負は、一方的だった。

 

 半径数メートルの白い円周の中で向かい合う巨人と子供。巨人はぐりぐりと両腕を軽く振り回し、ナタは手を合わせる合掌の姿勢で一礼を送る。いじめてやるなよと野次が飛んだ。巨人は「心配イラネぇ」とほくそ笑む。遠慮なく振り下ろされる剛腕の鉄槌。湧き起こる悲鳴にも似た歓声──その後に。

 少年は、にこやかな表情のまま、立っていた。

 どよめき。呆気にとられる巨躯の亜人。

「少シ、疲れテタか?」と呟き、目測を誤ったんだなと自己分析。

 次こそ、本気も本気の拳を振り上げ──再びの衝撃。

 しかし、ナタは無傷。軽やかな少年の笑み。

 続けざまに、もはや意地になって繰り出される拳の圧力を、ナタは危なげなく回避し続ける。

 少年兵が巨人の拳をひらりと躱す姿は、一枚の花びらを思わせるほど優雅だった。

 徐々にヒートアップする妖巨人。だが、触れれば折れそうな少年の身体をとらえることは一切かなわず、ふと、盛大に空振ったところで巧みに足元を優しく蹴り払われた。尻餅をつかされた巨人の重量で、都市の石畳がベコリと歪む。湧き起こる歓声。悔し気に呻く巨人の横面に、少年は烈風を伴う正拳突きを寸止めで喰らわせた。もはや歓声すら付いてこれない。『……まいッタ』と苦笑して両手を上げる巨人と共に、ようやく人垣が喝采を挙げる。少年は演武でも披露したような美しい所作で一礼する。

 ナタは口々に褒め称える人々や亜人に手を振りつつ、妖巨人が差し出してきた大風呂敷の、その中身の“半分だけ”を失敬した。妖巨人の彼にも生活がある。プライドの高そうな妖巨人は、少年の慈悲を突き返すでもなく受け入れていた。『正直、タスかッた』とのこと。

 

 

 

 

 こうして。

 一応は、正当な手段でいただいた金銭が、しめて12万ゴウンほど。

 調査に赴く四部隊それぞれに分配して、カワウソが受け取った金額は、紙幣や金貨で合計3万ゴウン。これならば、当座の資金難はしのげそうだった。

 

「ありがとな。──マアトを通じて、ナタに礼を言っておいてくれ」

 

 承知するように瞼を下して頷くミカ。

 自分のNPCが、うまいこと現地の人々を相手に出来ていることを確認できて、少し安堵すら覚える。

 こっちも負けてはいられない──そう気負うほどの感慨もなく、だが、彼等の主であるところの堕天使として、これから待ち受けるだろう状況に対し、カワウソは自己を律することを心に決めた。

 

 黒い飛竜の調査──“飛竜の巣”への潜入は、今夜である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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