色彩の花嫁   作:スカイリィ
<< 前の話 次の話 >>

5 / 7
第四話 子供たち

 明日にはもう日本を出てしまう、というので夫が寂しがることはあったけれど、夕食は和やかに進んだ。幸運なことに夫には昨日のデンジャラス・ビーストに関する騒動の記憶は無いようだった。もしあったら殴ってでも消していた。

 片付けも終わり、皆も風呂に入って後は寝るだけになったころ、私は電気も付けずリビングのソファーで一人座っていた。
 もうすぐ日付も変わる。月曜日を控えているというのに、私は寝つける気がしなかった。しかし夜食をつまむ気もテレビを見る気も起きない。

 月明りが綺麗だったのでカーテンは開けてある。夜に慣れた目には上等な明かりとなってリビングを照らしていた。

 マシュ・キリエライト。実質的なお嫁さん候補としてこの家を訪れた少女の顔が脳裏に浮かぶ。

 あの可愛らしい女の子がこれから立香を支えていくのだと想像すると、どうもその実感がわかないというか、心に霞がかかったような気分になる。嫌というわけでもないが、心の底から喜んでいるというわけでもない。

 すでに彼女は、私の知らない立香の顔を知っているのだろう。不思議な気分だ。十八年間も育て上げたのはこちらであるはずなのに、どちらかというと彼女の方が立香のことをよく知っているのではないかと思えてくる。

 負けて悔しいのか、と自分に問いかけるが、どうもそうではない。複雑な気持ちだった。
 子離れできてない親ってのは、こんな感じなのか。

 私はそんな思考を、ぼうっと繰り返していた。

 しばらくすると、階段を下りてくる音が耳に届いた。この足音は立香だ。

「母さん」息子はパジャマ姿のまま、リビングに入ってきた。
「どうしたの」
「ん、ちょっとね」

 立香はテーブルを挟んだ向かい側のソファーに座った。互いにパジャマ姿だった。
 特に用事が無いように装っておきながら、息子がこういう顔をする時は、なにか大事な話があると相場が決まっていた。

「しばらく帰れない、とか?」
「うん。また忙しくなりそうだから」

 そっか、とだけ私は返事をした。きっとそれだけではないだろうと予想していたけれど、息子がそう言うのだから仕方がない。

「ありがとね」微笑んで息子は言った。「マシュを歓迎してくれて」
「あんな良い娘、そうそういないもの。歓迎しない理由がないって」
「それもそうだね」
「大切にしなさい」
「もちろん」
「……今朝までイジメてたくせに」
「あれは、マシュも乗り気だったから……」
「せんぱいさいていです」
「やめて」

 そこまで言ってクスクスと二人で笑った。息子の笑い方は夫に似ているけれど、笑顔それ自体はあまり似ていない。顔立ちが違うからだ。息子は母親に似るというから、きっと私似なのだろう。

「それで」私は笑いを収めて立香を見つめた。「何か言いに来たんでしょ?」
「……うん」
「言いにくい?」
「少し」息子ははにかむように言った。「本当は人に伝えるべきものじゃないんだけれど、母さんには、言っておきたかったんだ」

 そして彼は自らの右袖をめくって、ブレスレットを見せた。金色の、植物の蔦を思わせるデザインだった。

「それ、あんたの体調をモニターするやつなんでしょ?」
「あ、エミヤに聞いてた?」
「それで昨日何があったか訊かれた」

 あー、やっぱりか、と息子はブレスレットを見つめてため息をついた。

「それだけ?」
「ううん。これにはもう一つ、別の機能があるんだ」

 そう言って、立香は手の甲をこちらに見せつけた状態でブレスレットのロックをパチリと外す。
 ブレスレットが拳を通過する瞬間に、それは起こった。

「……なにそれ」

 それまで何もなかった息子の拳に、赤い痣のような模様が広がった。翼を思わせる痣と、そこに真上から楔を打ち込んでいるような痣。血のように赤いが、きちんとした模様になっていて入れ墨のように思えた。

「このブレスレット、隠蔽の効果があるんだ」左腕に付け直しながら立香。「そう簡単に消せないし、かといってそのままだと目立つし」
「入れ墨?」
「似てるけど違う。これ、令呪っていうんだ」

 れいじゅ。今朝あたりに口にしていた言葉に、そんな単語があった気がする。

「それよりもうすぐ日付が変わるから、見てて。一日一回しか見れないんだ」

 息子が壁の時計に目をやって、カウントダウンを始める。私は黙って彼の言った通りにその痣を注視していた。

「五、四、三、二、一」

 カウントが終わった瞬間、先の痣を囲むように赤い光が現れるのを、私は呆然とした顔で見つめていた。
 そして光が収まると、同じような痣がまた一つできていた。全体としては盾を思わせる意匠だった。

「おれ、魔術師なんだ」

 その令呪とやらを指でなぞって、そう告げてくる。
 微笑んではいたけれど、いつになく真剣な目つきで息子はこちらを見ていた。

「それでまあ、世界を、救ってきたんだ」





 息子の口から語られたのは、人類停止の真相だった。

 三千年前に魔法で作られた人工知性体が暴走して、人類をその歴史ごと消滅させようとしたのだと。
 そして運良く生き延びたカルデアの人間たちが一年かけて元通りにしたのだと。
 その際、魔法を用いたタイムマシンを使って様々な時代と国を行き来したのだと。

 とてもじゃないが信じられない話のオンパレードだった。SFでさえもう少し真実味のあるストーリーを考えるだろう。

 だがそれよりも驚いたのは──息子が一切嘘をついていないことだった。私はそれらが全て真実であることに気がついて、愕然とする。

「それで世界が元通りになって、一段落ついたから帰省したんだ」大体のことを話し終えたのか、そこで立香は肩の力を抜いた。「信じられないことばかりかもしれないけど、母さんには言っておきたかったんだ」

 聞いてくれてありがとう、と彼は付け加えた。

「……タイムマシンって、実用化されてたのね」
「え、うん。まあ実用化っていうか、実験段階だったんだけど、使うしかなかったんだ」
「どの時代行ったの」
「えっと、フランス百年戦争と、古代ローマと、大航海時代と、産業革命時代と、アメリカ独立戦争と……」
「日本は無いんだ」
「いや、平安時代の京都と鬼ヶ島で鬼退治してきた。あと十字軍と、古代バビロニアかな」
「安倍晴明いた?」
「いなかった。でも酒呑童子と茨木童子はいた」
「酒呑童子。日本最強の鬼じゃない。あんな大江山の化け物と戦ってきたの?」
「確かに強かったけどさ。……待って、母さん」
「なに?」
「信じるの?」不安そうな眼差しでこちらを見つめる立香。「こんな、三文小説みたいな話をさ」

 私は、はあ、と深く息をついてから答えてやった。「だって嘘ついてないんだもの、立香」

「なんでわかるの」
「あんたの母親は誰だと思ってるの?」私はソファーから立って息子を見下ろす体勢になる。「息子が嘘ついているかどうかぐらい、わかるって」
「そうなの?」

 嘘をつくのが苦手な息子というのもあったかもしれないけれど、私は息子が嘘をついているかどうかが一目で分かった。
 以前見たあの夢と合致する話をされたというのもあって、私は彼の話を信じた。信じることが、できた。

 未だ戸惑うように見上げてくる立香。私はテーブルを回りこんで、静かに彼の座るソファーの、隣に座った。

「それにね、わかるの」
「……何を?」
「立香がものすごく頑張ったってこと」

 私は立香の頭を優しく撫でた。
 いつだったか、幼いころ、補助輪なしで自転車に乗れるようになった彼を褒めた時のように。すり傷だらけになって、乗れるようになったことを私に伝えてきた時のように。それを褒めたたえるように、優しく、その頭を撫でた。

「……あなたが帰ってきたとき、顔つきがすごく大人っぽくなっていたもの。こりゃあ何か大きなことがあったんだなって、わかっちゃった。それで今、世界を救ったって聞いて納得したの。あなたを成長させたのが、その旅なんだなって」
「母さん」
「頑張ったね、立香」

 えらいえらい、と私は息子を褒めた。
 魔術だとか、過去への旅行だとか、小難しいことは私にはわからなかったけれど、立香が精いっぱい頑張ったことが、私には分かった。子が頑張ったのなら、それを褒めて労うのが親の務めだ。

「……うん。俺、世界のために、がんばったんだ」撫で続けていると、今にも泣きそうな声で彼は言った。「あと、いろんな人に助けられて……」
「でも、頑張ったのはあなたでしょ。誰かに助けられていたにしても、世界を救うなんて、並大抵の頑張りじゃない」
「……うん」
「よく頑張ったね。母さんは嬉しいよ」

 そこで立香の目から、ぽろぽろと涙がこぼれ始めた。
 信じてもらえたことが嬉しかったのか、それとも褒めてもらえたことが嬉しかったのか、もしくは今までの旅とやらを思い出しているのか。
 あるいはそれら全部だろう。私は息子を抱きしめて、あやすように、ぽんぽんと背中を叩いてやった。

 想像以上に息子の背中は大きかった。小さい頃は抱っこしてやれたのに、今や背中を抱えきれない。しかしその大きさが私には喜ばしかった。
 こんなに大きくなってくれて、母さん嬉しいよ、と。




 立香の涙は私の肩を濡らして、しばらくしてから収まった。こういうのを男泣きというのだろうかと思いつつ、私は残った涙を己の袖口で拭ってやった。二十歳を目前に控えているのに母親に泣き顔を見られてしまったことが恥ずかしかったのか、立香は少し照れた様子だった。

 その表情を見ながら私は先ほど立香の話した内容を反芻していて──明確な間違いを、話された時には気づくことができないほど小さな、この子の嘘を見つけ出してしまった。この子はとんでもない勘違いをしている、と。


「ありがとう、母さん」
「いいの。私も嬉しいんだから」

 泣きはらした目と、しかし凛々しい顔を見て私は彼の成長を実感する。
 そして迷った。先ほど気づいたこの子の過ちを、告げてやるべきかどうか。この嘘は本当に小さなものではあったけれど、この子の頑張りを根底から別のものにしてしまう可能性を持っていた。

「明日早いから、もう寝なきゃだね」
「そうね」

 スッキリした顔でリビングから出ていこうとする立香に、私は思っていたことをぶつける決心をつけた。子が嘘をついたなら、正してやるのが親だ。


「あなたは一つだけ、嘘をついた」

 え? と彼の足が止まる。振り向いて、こちらを見つめてくる。どういうことなのかわかっていない表情だった。もしかしたら彼には怒っているように感じられたかもしれない、と思いつつ私は構わずに続けた。

「嘘というより、立香自身が気づいていないのかもしれない」
「俺自身が?」
「あなたはさっき『世界のために頑張った』って言ったわよね」
「うん。だから俺は、戦って──」
「そこが違うの」
「なにが」
「あなたは一度だって『世界のために』戦ったことなんてない」私は断言してやった。「あなたの頑張りは、そんな理由で積み重ねられたものじゃない」
「じゃあ……なんのために世界を救ったのさ、俺は」
「自分のことなのに、わからないの?」

 そう言われてしばらく悩んだ立香だったが、結局「わからない」と返してきた。
 私は一度ため息をついて、息子に歩み寄り、教えてやる。

「あなたが世界を救ったのは、ただ一人の、女の子のためでしょう?」

 立香の顔が固まる。やはり、気づいていなかったのか。

「そうでしょ?」再度確認するように尋ねる。「あなたはマシュさんのために、マシュさんと一緒にいるために世界を救った。違う?」
「でもそれは俺のわがままで──」
「でも、じゃない」

 私は息子の反論が出る前にそれをはねつけた。

「その事実があんたの欲望でしかないというのはわかる。女の子一人と世界丸ごとを天秤にかけて、女の子を選ぶのは正義に反しているのかもしれない。世界を救う動機としても不純で、人類全員に対する裏切りなのかもしれない。けれどそれは、絶対に間違いなんかじゃない」

 それは母さんが保証する。ほとんど叱りつけるようにそう述べると、立香は呆然としていた。

「世界のために戦うなんてことができる人は、この世にほとんどいないと思う。それができるのは聖人という名の狂人よ。せいぜい自分か、家族か、好きな人のために戦うのが人間って生き物なんだから」

 圧倒された息子を引き戻すように、私はそっと彼の手をとって優しく握ってやった。

「……いいじゃない。好きな女の子のために世界を救うなんて、男らしくてかっこいいわよ」
「そう、かな」
「あんたは変なところで奥手ね」

 あれだけマシュ嬢と熱い夜を過ごしたのに、この子はまだ彼女に対する好意を表に出すことを恥ずかしがっている。世界を救ったのならもっと堂々としていても良さそうなものだが。

「……うん」少し照れた様子で、立香は自身の嘘を訂正した。「俺はマシュのために、マシュと一緒にいるために、世界を救ったんだ。そのために頑張ったんだ」
「それでいいの。それを間違えたままだと、あなたの頑張りが無駄になっちゃうから。母さん心配しちゃった」
「ありがとう、母さん」

 吹っ切れたような清々しい立香の顔をじっと見つめていた私だった。
 ただ一人の女の子のために、人類を救った英雄。確かに今のこの子の顔は英雄のそれだ。良い顔つきになったと。十八年間育ててきたかいがあったと、私は感嘆の息を漏らした。



 だが、私は立香の後ろに佇む人影があることに気づき、意識を現実に引き戻された。

「マシュ、さん?」
「え、マシュ?」

 立香がそちらに振り向く。
 人影はマシュ・キリエライトだった。しかし、どうも様子がおかしい。うつむいて、身体が小刻みに震えている。

「せん、ぱい」

 それだけ言って、彼女は小走りで立香の胸に飛び込んだ。

「マシュ、待って。大丈夫?」
「せんぱい、せんぱい、せんぱい……!」

 立香が身体を少し離してその顔を上げさせると、マシュ嬢の顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。彼女は眼鏡が落ちるのも構わずに涙をぬぐう。カシャンと音を立てて眼鏡が床に落下し、その周りを止めどなくあふれる涙が濡らした。

「マシュ、落ち着いて」
「さっきの話は、本当ですか?」泣きじゃくりながら彼女は問う。「せんぱいは、私のために、世界を、人類史を、救ったって」
「……うん。俺は、マシュのために、頑張ったんだ」

 それはマシュ嬢への返答であると同時に、彼自身へ言い聞かせる言葉であると私は気づいた。
 彼女はそれを聞いて、ぎゅうう、と幼子のように彼のパジャマを掴んだ。

「それじゃあ、せんぱいは、私のために、苦しんで、傷ついて、あのグランドオーダーを、成しとげたんですか」
「……うん。そうだよ。でもマシュが支えてくれたから──」
「私は……!」彼女は再び彼の胸に顔を押し付けた。こもったような声が響く。「なら、私は、どうすればいいんですか。どうすれば、せんぱいの苦労と努力に、応えられるんですか」

 立香が背中をさすりながらなだめていると、彼女はゆっくりと語り始めた。泣いているせいで言葉が途切れ途切れになってはいたけれど、私も立香も黙ってそれを聞いていた。

「せんぱいは、あの旅を、楽しいものだったと、言ってくれました。でも、それと同じだけ、辛い思いを、したんです」

 それは、彼女の慟哭にも似た強い感謝の念だった。

「私は、せんぱいの苦労と、努力に、どうやって、応えればいいんですか。私の命を、費やしても、せんぱいの費やしてきたものに、報いきれる気がしません。どうすれば、せんぱいは報われるのですか……!」

 マシュ・キリエライトという少女の抱いていた立香への想いは、想像以上に強いものだった。私はそれを理解して立ち尽くしてしまう。こんなにも強烈な好意と感謝の気持ちを、私は人生で初めて目にしたのだ。

「……良いんだ。俺が、俺のわがままでやったことなんだから」
「やぁっ」その言葉を拒否するように、彼女は彼の胸の中で強く首を横に振った。「私、せんぱいに、守られてばかりで、まだ何も、できてない。まだ何も、返せてない。そんなの、いやです……!」

 立香も同じように立ち尽くしていた。彼女より年上とはいえ、このような激しい情動をなだめるすべを彼はまだ知らないのだ。


 本人に自覚はなくとも、立香がマシュ・キリエライトに与えたものは、とてつもなく大きい。

 死の恐怖を和らげてくれる手の温もりと、何よりも暖かい優しさを。
 孤独だった人生に、生きがいと頼れる仲間たちを。
 無限に広がる外の世界へ、自分の足で歩んでいける身体を。

 ──そして、この世界の本当の色を教えてくれた人。それが彼だ。

 何もなかった女の子に「好きだ」と言ってくれた男の子。藤丸立香。

 彼が与えてくれたものは、マシュ嬢からすれば、それはもう己の命をなげうってもまだ返し足りないほどの、あまりに大きくて、何よりも価値のある贈り物なのだ。

 立香の世界を救った動機を知ったことで、とうとう彼女は感情を抑えきれなくなって爆発させてしまった。どうしようもないほど大きな感謝と、未だ理解できずにいる「好き」という想いを。

 そんな彼女の気持ちはあまりにも純粋で、強固で、ちょっとやそっとじゃびくともしない。誰もその感情を正面から否定なんてできるはずがない。立香ですら、どうすることもできないだろう。


 けれども私は、すでに彼女の情念に向き合うことができていた。彼女にかける言葉が、見つかったのだ。それは単純なことではあったけれど、人生の経験が不足している彼らにはまだ見えていないことだった。

 私は手始めに足元に転がる眼鏡を拾い上げて、袖口で涙を拭いてやって綺麗にしてあげた。

「マシュさん」私は立香の胸に顔をうずめる彼女を覗き込むように問う。「あなたは、立香に恩返しがしたいのね。彼に、幸せになってほしいって」

「……はい。私にできることなら、私の全部を、差し上げます」立香の胸に顔をうずめたまま、彼女は答えた。「命も、身体も、心も、全部、せんぱいにあげます」

「あなたがそう思うのなら、立香と一緒にいてあげなさい」

 ほんの少し落ち着いた様子の彼女に安堵しながら、私は続けた。

「たくさん手をつないで、キスをして、セックスをして、一緒に笑って、一緒に泣いて、一緒に楽しんで、同じ景色を見て、同じごはんを食べて、同じ道を歩いてあげなさい。……それをさよならの時まで続けてあげれば、立香への最大の恩返しになると思う」

 そんなこと、とマシュ嬢は私に反論するかのように顔を上げた。「そんなことで、良いのですか。せんぱいはそんなことで、報われるのですか?」

「そんなことって、あなたね。立香がなんのために世界を救ったのか、聞いてたじゃない。そんなささやかなことのために、この子は命を張って頑張ったのよ」

 私はそう言って彼女の顔に眼鏡をかけてあげた。まだ涙は流れていたけれど、さっきよりは収まりつつあった。

「何もできなくても、どうか、立香のそばにいてあげて。それだけで、この子が費やしてきた全部が報われるはずだから」

 そうなのですか? 彼女は自身が抱き着いている立香の顔を見上げる。彼はゆっくりとマシュ嬢の身体を抱きしめながら頷いた。

「もし、母さんがさっき言ってくれたことをマシュがしてくれるなら、俺にとって最高の幸せだよ?」
「最高の、幸せ。せんぱいの?」
「うん。無理強いはしないけどさ」
「せんぱいが望むなら、私、どんなことでもします……」それまで彼のパジャマを掴んでいた手を離して、彼女はおずおずと立香の背中に手を回した。「私にできる全部を、せんぱいに、あなたに」

 マシュ、と呟いて彼は抱きしめる力を強くする。彼女の涙はまだ収まっていなかったけれど、立香はそんなことなど気にせず彼女の身体を腕に閉じ込めていた。

 やはりあの時の夢で見た女の子は、この娘だったのだ。私は確信した。
 立香のために生きようとしてくれる、健気で、儚くて、優しくて、しかしごく普通の女の子。彼女を夢で見た理由なんて分からなかったけれど、あの夢のように、これからも立香を支えてくれる人だ。

 立香が支えられるだけではない。私が言ったことを続けていれば、いつか彼女も気づくことができるだろう。彼の幸せも、己の幸せも、等価値なのだと。どちらも同じくらい大切なもので、同時に叶えられることなのだと。

 やがては、彼に向けている「好き」という感情も理解できるようになるはずだ。心に満ち溢れる、その想いを。
 立香と一緒にいれば、いつか、きっと。

「マシュ……」
「せんぱい、せんぱい……」

 頬を染めた二人が見つめあい、今にもキスし始めそうな雰囲気になってしまったので私はその場をこっそりと後にした。

 このカップルは実に世話が焼ける。しかし、手間のかかる子ほど可愛いと言うように、私はこの子たちの関係を応援してやろうと思えた。

 もうすぐ巣立ってしまう者たちだけれど、今はまだ、子供だ。子供を見守るのは大人として当たり前のことだ。だから、まだ、私はこの子たちの世話を焼こう、と思っていた。

 リビングを後にする時、私はチラリと二人を見た。

 月明りが優しく口付けを交わす二人を照らしていて、一幅の絵画を思わせる光景が、そこには広がっていた。

 今ならよく寝れそうだ、と私は思った。