鼓膜を直接引っ掻くかのような重低音だった。ひたすらに不快不快不快、耳におぞましい蟲の羽音。
蝿や蚊でも耐え難いそれが、数百、数千倍のスケールで空から降り注いでくる悪夢。蜂の群だ。
悪夢は、地上とて変わらない。
地を埋め尽くす黒い背中。整然とした行列が幾重にも並走している。子供の頃、公園で観察した小虫の行進を懐かしむ。そうして眼下の、重戦車のような怒涛の侵攻風景に恐れ戦く。形だけは同じ様。特大の蟻の川だ。
蟻に追従して長い長い巨体が
大蟻の背や腹には、無数のカタツムリが纏わり付いていた。背中に岩を背負った人間大の軟体。曰くアダマンタイト並の硬度を誇るという殻は、それの持ち主だけでなく、それを体に付着させた蟻すらも守る堅固な盾になる。
一個の完成された軍団のように、蟲が、蟲の群が自らを連体して自らを編成し、敵地へ侵攻している。獲物の巣を襲撃しようとしている。
人間の巣を、蹂躙しようとしている。
アクセルはもう目前だった。平原を雲霞のように包む群体の大攻勢が、北門から数キロに迫る。
昔見たSF映画に、こんな場面があったな。
空の高み、雲に手が届きそうな天界の入り口で翔ける。グリフォンの背中からそんな怖ろしい光景を見下ろした。
「アクア!」
「まっかせなさい!」
ここは羽虫では届かない空域だ。よしんば届いたとしても昇らせやしない。
第一手は、水攻めだ。
「『セイクリッドォォオオオオ!! クリエイト・ウォータァアアアアアアアッ!!』」
女神らしからぬ気合と威勢で、女神の名に恥じない超巨大超弩級の水の塊を生成する。雲は間近にあり、高高度の大気には大量の水分が含有されている。ゆえにその集積率は地上の比ではなかった。
即席
逃げる隙間なんてない。そんな手心、この女神様の脳味噌には端っからありはしない。
まずその天災を被ったのは飛行していた蜂共。羽は折れ、巨躯は押し潰され、流れ落ちる。
水と共に地上の蟲すら巻き込んで、そこにあるものは全て洪水の流れの一部になっていく。
群体の進行が、完全に止まった。そして足を止めた軍団などただの的だ。
「今だ、めぐみん!」
「万雷の鉄槌よ、獄炎の断罪よ、赦さずの誓いにおいて異形の群を撃ち払え────『エクスプロージョン』!!」
幾何学の陣、それは赤熱する円環の檻だった。
濡れ鼠になった蟲のほぼ全てを包囲して、少女は叫んだ。ゆるさない、と。
爆炎が、それこそ稲妻のように落ちて地表を、地盤を貫く。吹き飛び、千切れ、解けて消える。
その一撃によって目算でも群体の八割が消し飛んだ。いや九割に届くかもしれない。延焼に晒される分を数に入れれば、もっと増える。
イカれだの頭がおかしいだのと日頃散々からかってきたが、今日のめぐみんの爆裂の威力は過去一番かもしれない。
赦さずの……誰に対して言ってるんだか。
グリフォンの背中に少女はぐったりとしな垂れる。紐を結わえてあるので落ちることはないだろうが、念の為に後ろからその腰のベルトを掴んだ。
「カズマ!」
「なんだよ。セクハラとか言うなよな。ここから落ちたら流石に洒落にならんわ」
「そんなことより! ジンクロウの様子はどうなってますか!?」
切羽詰まった声で少女は叫ぶ。風鳴りの轟音を吹き飛ばす勢いだ。
こんな軽口に悪態を返す余裕もないのだろう。
そりゃそうか。こいつはそうやって逸る気持ちを押し殺して、ここに来てるんだから。
肩掛けのバッグから掌大の水晶を取り出す。ギルドでルナから預かった遠見の石だ。
ギルドはモンスターの生態やその生息域の観測用に飛行ゴーレムを保有している。鳥型の、現代風に言えばドローンだ。
北西のデストロイヤーの予想進路近辺に配備されたものが、今はジンクロウを追跡している。
魔力を通す。すると水晶が淡く光って内部に映像が投写された。
「くっ……」
「お、おい危ないって!」
「あー! 私も! 私も見たい!」
「あぁ危っ、ひょえぇっ、だからあっぶねえっつってんだろうが!!?」
無理矢理に体を引き起こしためぐみんが、俺の腕を支えに水晶を覗き込む。俺の後ろにいるアクアまで身を乗り出してくるもんだから、本来は広いグリフォンの背中が狭苦しいったらない。
小さな丸い石の中。流れる荒野の景色が続く。
その只中に、蜘蛛。
「! こいつが」
「デストロイヤーです」
先刻吹き飛ばされた蟲共など比べ物にならない巨体。それこそ城が八本脚を生やして歩いているようなものだ。
こんな怪物をたった一人でどうにかしようっていうのか、あの爺は。
そこに突然、紅色が閃いた。
「!」
赤黒く、目玉を抉られるみたいに凶々しい光。
あの刀だ。それも明らかに様子がおかしい。刀身の長さと身幅が異常に増してる。
それを握り、黒い屍馬に跨がって真っ直ぐに、デストロイヤーへ駆ける後ろ姿。
ジンクロウ。
男は一切躊躇せず、馬を手繰り跳んだ。そうして横薙ぎに一閃。事も無げに、蜘蛛の脚を一本斬り飛ばした。
「……」
水晶を覗き込みながら三者三様に絶句する。
ふと、あの男とまだ出会って間もない頃を思い出した。ジャイアント・トード討伐の時も、あいつは確かこんな風にしていたっけなー。
「頭おかしいんかぁぁあああ!?」
「ええはい知ってましたよ! こういうことする人でしたねぇあなたは!!」
「で、でもでも、頭おかしいけど、おかしいっていうかもうめっちゃ頭悪いけど、これ勝てそうじゃない? ジンクロウ、勝てそうよね!? あと七回おんなじことすればいいだけだもん! やった、やったわ!! デストロイヤー討伐よ! 賞金がっっぽりよ!! うひょー!!」
「あっバカ! そういうこと言うと……」
特級フラグ建築士アクア様の勝利(予定)の雄叫びが轟いたと同時に、デストロイヤーの腹の下から次々と何かが飛び出してきた。
高速の足高蜘蛛に追随して、ケンタウロスが、ケンタウロス型のゴーレムが大軍で布陣した。
「おバカァ!!」
「私のせいじゃないもん! 私のせいじゃないもん!」
「カズマ! 私達も現地に向かいましょう! 爆裂を逃れた蟲は大した数じゃありません。きっとダクネスや他の冒険者達が狩ってくれる筈です。このグリフォンの速さなら今からでも……間に合うかもしれない! だから……!」
また、少女の小さな手が握り締められている。
俺を見上げる必死な目。それを見返して、歯を剥いて笑う。
「しょうがねぇな」
「カズマ……」
「行くの!? じ、じゃあ私は下でダクネス達を手伝いに……」
「いっけぇ! グリちゃんんんんん!!」
「いぃぃやぁああああ!? 降ろしてよぉー!!」
馬の突進速度と相まってその反動は激烈。しかし、対手を断ち割るという企図と、対手の得物を逸らすという企図。この一合、より先んじて成就を見たのは我が企図である。
人馬は身を仰け反り、その肉厚な得物ごと体勢を崩した。
それはもはや据え置かれた畳表も同じ。
胴を斬り断つ。人体の部位が地を転がり、馬体だけが走り去っていった。
「二十八」
己が後背を突かんと迫る長槍の矛先を気取る。上体を前面に傾け、やり過ごす。
同時に手綱を引き付け、馬体のうねりに
『小賢しいわ!』
その躯体、黒く太く強靭なり。屍馬の後ろ蹴りが人馬を吹き飛ばした。
「二十九。残りは」
『十と一。くっはははは! この程度かデストロイヤー! 存外に手緩いではないか』
「調子に乗るんじゃあねぇよ。本丸は今もぴんぴんしてやがるんだ。とっとと片付けるぞ!」
『言われるまでもない!』
二射目を番えるその隙を逃さず、弓騎兵の殿から前方に向かって撫で斬る。
「三十六」
最後の四騎は変わり種だった。
人馬が一頭ずつ対になり並び駆け、その間に鎖が
まるでそれは。
「縄跳びがしてぇとよ!」
『舐めるなぁ!』
跳び越える。障害飛越の馬術競技会にでも出れば一等賞も夢ではないか。
愚昧な思考を笑い、笑いながら片割れを黒馬が蹴り飛ばす。機動要塞の足元へ。その足踏みの下へ。
敢え無くぐしゃりと人馬は潰れた。そして蜘蛛の脚先に絡んだ鎖に引かれて、もう一頭の方も引き摺り回される。
さらに、二騎。
頭上で鎖鎌を振り回す者。そして巨大な片刃剣、斬馬刀を振り翳す者。
擲たれた鎌が弧を描いて飛来する。その先端は騎手たる我が頸を狙い打っていた。正確無比の投擲術。正確過ぎる。あまりにも、容易に防ぐことができるほど。
大太刀で鎌を弾く。同期して接近していた斬馬刀の主へと、弾き飛ばす。それは過たず人馬の喉笛を貫いた。
鎖鎌の主に返礼を。急速接近し、その忙しなく動く馬体の脚を斬り飛ばす。
喉を繋がれた方諸共、雁字搦めに鎖に巻かれ、彼らはさながら地面を転がる藁玉となった。
障害は刈り取ったが、時を奪われた。このまま行けば直に穀倉地帯に出る。
「蜘蛛の腹の下へ潜り込め!」
『あぁ!? 正気か貴様!? 下手をすれば圧し潰されるぞ!?』
「猶予はない。次で斬り切る」
『……よくよくの兇人め! 精々振り落とされるなよ!』
異形の黒馬による再びの襲歩。生身の馬を亀と嘲罵したとて何を咎めよう。
常軌を逸した速度。速度。幽鬼の如く、重みを忘れ疲れを忘れ一陣の魔風と化して。
地を踏み砕きながら上下する脚の隙間を縫い、這い入る。
内懐。巨大な蜘蛛の、その腹の下。
「ギッ」
刀身を握り込む。もっと深く、もっと広く、切り裂き滴る血の代償を湯水の如く貪らせ、異形なる剣はさらに増長する。その兇刃を擡げて、大太刀を超え、長槍を超え、武具の条理を超越し逸脱して、ひたすらの
その刃圏────実に一町(109m)。
握り、保持できるとして何秒だ。一秒か? 二秒か?
刹那でいい。
この一刹那で。
「おぉおぉおぉおおおおおおおおおおおおおッッ!!」
馬の躯体が回転する。踏み締めた地面を削り、蹴散らして。
刃が
残る七本の脚、全てを斬り飛ばした。
同時に刀身が崩壊する。そうして即刻離脱。
蜘蛛が脚を、支えを失い落ちてくる。沈みゆく鋼の虫けらから、辛くも脱出する。
巨体の墜落による衝撃と暴風に後押しされ、圧殺の憂き目を逃れた。
振り返れば、脚の残りをばたつかせ、地面の上を藻掻く巨大な無様がそこにある。
『終わったか』
「否」
未だそれは動いている。当然だ。動力は健在なのだ。
その金属の体内に宿る心臓は今なお鼓動を刻みながらに燃え盛っている。
ならば。
「息の根を止める」
『ふんっ、念の入ったことだ』
「応さ。戦ってなぁそういうもんだろう」
馬が嘶く。息荒く昂って笑声を上げる。
地を蹴り駆けて、牙城へと進撃する。
「殴り込みだぜ」