砂塵の舞い上がる空を背景に、黒の巨影を望む。造形は足高蜘蛛のそれに近い。
『あぁぁぁぁどうしてこうなった!? どうしてこうなった!? 何故この俺がこんな、人間共に与するような真似を……来るんじゃなかった! 来るんじゃなかったよぉ!』
「うるせぇな。街を出た頃の勢いはどうした。しゃきっとしろしゃきっと」
一歩、また一歩ごとに地を踏み鳴らす長大な八脚。それらが戴く黒鉄の頭胸と、連なる腹。
空を覆うようだ。城塞との呼び声に些かの過大無し。走る建造物。高速で前進する金属質量。
『はっ! 卑劣な脅迫の挙に出ておいて図々しい。ここで振り落としてやっても構わんのだぞ』
「そん時は、お前さんがウィズの
『ハイヨー! 俺ぇ!』
正面、荒野の只中、距離は既にして半里(2km弱)。刻一刻視界を拡大し占拠する威容。
脅威であった。尋常な生き物にとり、なるほどあれは天災に等しい。
ゆえに、止めねばならぬ。
『……
「今更なんだ。怖気づいたか?」
『抜かせ。あの怪物に剣で挑もうとするのは真性の気狂いか英雄か。さもなくば……人ならぬ魔モノだけだろうよ』
「カカッ、何を言いやがるかと思えば」
今、己が跨る黒毛の巨体。屍の怪馬が、
そんな筈がなかろうに。そんなものである筈がないのだ。
「己が
くだらぬ事実を、我が身に巣食う滑稽なる本性を嘲弄する。
腰から刀を抜き放つ。陽光を嫌うかのように鈍く昏む刃。
二尺と少し。打刀の拵え。その切れ味は凶悪の二字を冠して憚らぬ。
しかし、如何にその刃が鋭くとも刃圏に敵を捉えられないならば、その価値は鈍ら同等に堕す。
携行武装としての趣が強い打刀は、戦場、それもこうした馬上戦闘に際して有効な打撃力足るには小さ過ぎる。なにより、討ち取らんと欲する
工夫が要る。
己が手札を参照し、有効な術策を選定する。
筆頭に上がるのはやはり────異形剣。我が身の血と魂を贄に、破滅と絶死の概念を込めた斬撃を空間そのものに刻む悪鬼の御業。この世の理に対するその反則行為はしかし、現在の課題である射程と、あの巨体を完全停止させ得るだけの破壊力を一挙に叶える。
考慮に値する。
だが、己は即座の使用を戒めた。
異形剣の切断力あらばどれほど巨大な金属塊であろうと、それを裁ち割るに何程の難もあらぬ。豆腐に包丁を落とすようなものだ。だがその中にもし、雷管と爆薬を仕込まれていたなら、料理人は厨房諸共消し飛ぶことになる。
かの機動要塞内部には、コロナタイトなる動力炉が存在する。そしてそれは今この瞬間にも暴走状態にあると────あの悪魔は笑声交じりにそう言っていた。動力機関を停止、あるいは無力化しない限りあの化け蜘蛛は超弩級の爆弾に等しい。
脚を止めるだけでは駄目だ。
加えて、異形剣を使いあれの脚を止められたとして、その後に己の肉体が満足に機能する保証はない。妖刀が次に求める血と魂の代償、それは残った右腕か、足か、それとも内臓諸器官、はたまた五感のいずれかであるともわからぬ。
触覚と痛覚を失った左腕が最低限、棒振りの体裁を繕えるようになるまでに二週間を要した。そうしていざ、斬り合いの運びとなった際には……この腕は持ち主の思惑を無視して対手を破壊しようと
地上で花火に見舞われたくないなら、軽々な破壊力追求は禁物。
ゆえに取るべき手段は一つ。間合を超越した異能の斬撃に依らず、肉薄しての直接斬撃によってその行動力を剥奪する。
その為の長物を、今、この場で、用意する。
鍔元で刃を握る。刃先を左掌に包み込む。そうして、す、と。
刀身を握り込んだ掌中で滑らせ、抜き取った。当然に刃先は皮膚を裂き肉を切った。赤々と鈍く昏い刃金が、黒々とした赤で染まる。血の紅が刀身を彩る。流れ出た血潮がぬたりとへばり付く。
血の粘りと脂が刃を曇らせた。それはみすみす切れ味を損なわせるが如き暴挙に他ならない。それが尋常な、正常な刀剣であるならば。
先刻承知の邪妖剣は生血を啜り魂を喰らい狂喜の
突如、発光する。刃そのものが赤く、紅く。
そうして伸びる。刃先がより長く生えていく。増殖する。
『なんという
「あぁ、まったくよ」
刃渡り六尺余り。妖刀は、大刀から野太刀へと肥大化を果たした。
目にも呪わしい紅色の刀身がざわざわと波立つ。蠢動する。
非常識な長さの刀身は、その長大さに比して異常なほどに軽量であった。片手で振り回すことも容易だ。同様の長さの刃金なればこうは行くまい。
血液を素材とする為なのか、あるいはこれは刃の
正体は知れぬ。が、今この危急にあっては、使えるものは何でも使う。死馬すら鞭打って走らせるのだ。
巨体が近付く。より大きく、さらに大きく、どこまでも大きく。地響きが馬体を伝い骨身を震わせた。圧倒的質量差を骨の髄へと知らしめる。
『機動要塞に一騎駆けなど、馬鹿げている……くっ、くふ、くふふふふ、あぁつくづく馬鹿げている』
「されどこれぞ、
『然り!』
嘶き一喝。馬脚が初めて襲歩を刻む。最大加速。
瞬間、人馬は共に颯と成る。
巨影は目前。その長大な蜘蛛の左前脚が、我らの頭上に迫る。
踏まれれば死。掠ったとて、原型を留めるかどうか。
死間。この世で最もあの世に近い場所。
跳ぶ。馬体を蹴り、馬脚が地を蹴る。空を翔る。刹那の飛翔。
「一太刀馳走」
馬体と共に化け蜘蛛の横合いを擦り抜ける。擦れ違う。
絶えず動き続ける長い長い脚。その節足が屈曲した頂点に。
紅色の刀身を薙ぎ払う。
刃先、物打ち所が、この要塞においておそらくは最も強靭な部位である歩脚を捉え、喰い入り。
斬り、断った。
前脚一本。
「謹んで頂戴いたす」
空中から地上へ舞い戻る。屍の馬は重力を嘲笑うかの静謐さで着地を果たし、何事もなかったかのように抜け抜けとその場を離脱した。
後方を振り仰ぐ。落ちた前脚が跳ね、転がる。そして高速走行の最中に突如として支柱の一本を失った蜘蛛の頭が傾ぐ。均衡を崩して揺らぎ、その顎が勢い地面を抉る。
一気に速度が減じ、すわ止まるかとも思われた巨体が蹈鞴を踏んだ。無事な三本の左歩脚、欠損のない四本の右歩脚が迅速に動き姿勢制御を為した。
先刻よりも歪ながらそれでも脚は止まらぬ。多脚機動の優位性を如何なく発揮して要塞は進行を再開した。
「一つ
やはり片側全てか、ないし両側から。最低限度の姿勢制御を保障する歩脚を斬り落とさねば。
後塵を拝しながら巨体を追随する。追撃する。
「ならば幾度でも」
『ん? おい見ろ。どうも様子が変だぞ』
「あ?」
『腹の下に……あれは、なんだ。跳ね橋のような』
馬の言の通り、蜘蛛の丸い腹の後下部に変化があった。
四角く区切られ、それがぱかりと口を開ける。両側を二本の鎖で吊られた床板が、それこそ跳ね橋の様相で下りてきた。
蜘蛛の腹の中へ続く坂道。奥は暗く、砂煙もあって見通すことは難しい。
見えぬ暗闇、その奥から。
それは躍り出た。
『なにぃ!?』
ベルディアが驚愕に声を上げる。
心情だけならば己とても同様であった。
馬、馬のようなもの。それは人間の上半身と、馬の躯体を合わせたような姿をしていた。
流線形の全身甲冑。人と馬、いずれの体表も全て鈍い金属光沢に覆われ、それが生き物でないこと一目瞭然であった。絡繰仕掛け。この動く化け蜘蛛と同じ。
『ケンタウロス!? いや、それを模したゴーレムか!』
「機械人形の兵隊ってぇ寸法だ。なるほど、こいつぁ……」
随伴騎兵。
地上へ投下された鉄色の人馬共は、走行しながらに隊列を組んでいく。
手に手に様々な武器を携えている。親玉を守護し、それを害さんとする敵を先んじて撃滅し、進路を制圧する為に。
『あんなものまで積んでいやがるとは! あの要塞を作った奴はとんだ臆病者か稀代の戦術家だ!』
悪態だか感心だかもわからぬ怒声で馬が嘶く。
魔法という大火力に対して盤石の防御機構を内蔵させながら、なおも近接戦闘に対する備えを怠らない。物理的損壊を与え得る敵を想定し、防衛と先制攻撃の為の機動力と戦力。騎兵隊を搭載させる。
小回りの利かぬ大型機動兵器を運用するに当たって、随伴兵はある種当然の措置ではあるのだろうが。
『余計なことを!』
「余計なことを」
突撃槍を構え、人馬数体がこちらへ進突する。
得物の有利はあちらにある。まず以て先手は槍の刺突。
半馬身以上の長さで鋭鋒が迫った。それを────屍の馬は苦も無く避ける。
既にして
さらに一薙ぎ。刃圏の長大さは今や槍の専売ではない。
右へ。左へ。両側面より接近した人馬共を順々と斬り払う。
同じく後方へ、金属の亜人は砂塵の中に消えた。
群成す人馬は、未だ蜘蛛の周りを無数に駆けている。この防衛網を突破せねば本丸の怪物は討ち取れぬ。
なるほど、実に。
「戦らしくなってきたじゃあねぇか」
『駄馬共め! 我が愛馬の轟脚で蹴散らしてくれる!』
「征くぞ」
『応!』