この素晴らしい浮世で刃金を振るう   作:足洗

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56話 抜き打ちの

 開け放った扉から、開襟姿がぞろぞろと店の中に入ってくる。一様に青い制服、青い制帽、そして一人残らず現れたのは女であった。

 その先頭、いや筆頭に立つ人物こそ、その名にし負う『会』の長。

 

「私は王国検察官セナ。本日これより、店舗に対して内部捜索を行います。容疑は『無許可での風俗営業』」

 

 応対に進み出た店主に、検察官の女は書面を提示した。

 所謂、令状であろう。

 

「先にバックヤードへ入って。裏口は開かないで! 店長、店の帳簿を見せてください。店頭も隅々まで調べなさい!」

 

 号令ははきはきと、指示は無駄なく端的で手際も良い。そして実に、無遠慮であった。客商売、飲食を饗する()()、だからとて何をか配慮などあろう。

 捜査員らは一切の手心なく店中を調べ尽くした。棚という棚を開け放ち、食器や酒瓶、調味料に至るまで辺りに広げ、棚の裏、絵画の裏などは序の口、床下の収納庫に潜り込み、なんとなれば天井板を外して顔まで突っ込んだ。

 それで正しい。

 公権力の行使に際して、迷いや躊躇などというものは不要、否、もはや不実なのだ。正義ここにありと傲岸を宣う者は、安易な倫理観で行動の精細を欠いてはならない。それは真実究明行為における不正義、悪業と呼んで差し支えない。

 そこまでの傍若無人が赦されてこそ初めて、明かされた真は揺るぎないものとなる。

 

(つまりだ。これだけつぶさに御調いただいたならこの上は疑いの御尊眼今少しお和らげくだされること疑い無くまっこと有り難き幸せとな)

(くっど。回りくどっ)

(くくくっ、ま、あれよ。向うさんにも面子があらぁ。抜き打ちの家捜しなんて横車ぁ、そう何度も押せるもんじゃねぇのさ)

(今回さえ乗り切れば疑いは晴れるって意味?)

(その通り)

(……ホントかよ)

 

 それこそ疑わしげな目で少年は己と、店を駆けずり回る捜査員らを睨んだ。

 

「悪いようにはせん。おぉ、なんなら己が請け負って進ぜよう……だからよ、お前さんが気に病むことなんざ無ぇんだぜ?」

「なっ、別に、アタシは……そんなこと……」

 

 少年は再び、その表情を鍔の下に隠す。

 自身の働いた悪戯と此度の御調、奇妙な重なりで起きたに過ぎぬ二つの出来事。そこに責めの所在を問うことこそ愚かしかろう。

 だのに自責を負うてしまうこの少年が、なんとも労しいのだ。

 帽子の上からその小さな頭を軽く撫でると、三白眼の不満顔がこちらを見上げた。

 

「ぐぬぬ……や、やさしく撫でんなっ。せめてヤラしく撫でろ!」

「どんな文句の付け方だそりゃ」

 

 ちりん、と。鈴が鳴った。

 

「ん?」

「うげっ、あの魔道具……!?」

 

 音の出所を見ると、それは検察官の女の手にあった。

 掌に収まるほどの金属の半球。それが黒と白で色分けされた台座に乗っている。

 半球の頭頂に釦が打ってある。手押しの鈴のようだが、少年の渋面を見るにそう安直な代物ではないらしい。

 

(なんだいありゃ)

(相手の嘘を看破するベルだよ)

(ほう! そんな便利なもんがあるのか。いやつくづく魔法様様よな、この浮世は)

(感心してんじゃねぇ! やべぇやべぇやべぇどうしよう……)

 

 メイアは青い顔で頭を抱え、卓に俯く。

 己の方は一つ、素朴な疑問が浮かんでいた。

 

(しかし、嘘を見破るというなら、わざわざこんな家捜しをするのは何故だ。店の者を問い質せば事は早かろうに)

(一応スキルとか魔法とか、誤魔化す方法はいくつかあるんだよ。実際悪魔(アタシ)達は精神作用系の魔法には耐性あるし)

(なるほど、何れにせよ証拠の現物があるに越したこたぁねぇ訳か……ん? ならばお前さん、何をそんなに慌てふためく)

「あんたがいるからだよ!」

 

 声を潜めるのも忘れて少年が昂する。当然に視線の集まりを感じ、すぐに身を縮こませた。

 

(まあ、その辺りもどうにかなるだろう。いや、むしろ()()()()()()()、といったところか)

(はあ?)

 

 不意に。

 

「ん?」

 

 己自身に刺さる気配。所謂、視線の針を感じた。

 とはいえ敵意、害意ほどに険を孕まぬそれ。出所を追って周囲を見渡し、見付けた。

 捜査員の女の一人である。青い制帽を目深に被り、顔容は窺い知れぬ。が。

 

「っ!?」

 

 彼方に此方が目を向けたと見るや慌ててそっぽを向いた。その挙動だけでも十二分に不審である。

 

「ん~?」

 

 疑りを以て観察してみれば、その背恰好、歩幅、細かな挙措、なにより制帽の中に纏めて結い上げてあるのだろう金髪。実に見覚えがあった。

 

「……なんだよ、知り合い?」

「そのようだ。声を掛けて来んあたり何か訳ありらしい」

「ふーん」

「し、失礼します。パンケーキセットです!」

 

 前から声が掛かる。振り返ると、そこには両手に盆を持った女給の娘が立っていた。年頃はメイアと同じほどに幼い。メイアよりも淡い桃色の髪、透き通るように白い肌をしていた。

 止り木(カウンター)の向かいから盆が卓に置かれる。焼けた丸い生地、甘い湯気を立てたパンケーキに、バターがとろりと溶け広がっている。

 

「おぉ、ありがとよ。う~ん良いぃ匂いだ。早速頂こうかね」

「はい、こっちはメイアちゃんの分。それとミルクセーキね」

「サンキュー」

「それと……あの~」

 

 遠慮がちな声がなおも降ってくる。

 それもその筈、娘の手にはもう一人前、パンケーキの皿があった。なにせ己はしっかりと三人前を注文したのだから。

 どうすればよいのか、娘は困った顔でそのように問うてくる。

 

「おっとっと、すまんすまん。そいつぁ窓際の席に置いてきてくんな。右端のあそこだ」

「はぁ……?」

「?」

 

 女給の娘も、メイアも意味が分からぬといった顔で首を傾げている。

 なにやらそれが面白い。さながら悪戯の細工を密かに施しているかの心地であった。

 

「証拠品はまだ見付からないの!? 使途の分からない物品、名目不明の領収書、メモの切れ端でも構わないわ! どんな小さなことでも報告しなさい!」

「だ、駄目です会長」

「バックヤードや食糧庫、金庫まで開けさせましたが、何も……」

 

 会長と呼ばわる検察官の苛立ちとは裏腹に、店中を漁る捜査員からの報告は芳しくない。

 彼女らの尽力が実らぬのも無理からぬことだ。どうしたとて、ない袖は振れぬ。

 実際の行為はおろか、客との金銭の授受もごく少額。おそらくは帳簿上にそれらしい項目を設えてあるのだろうが、まさかそんな木っ端な小銭が娼屋商いの上りなどとは思うまい。

 会長、検察官セナはその黒髪を掻き上げ、落ち着きなく頻りに眼鏡に触れた。取り澄ました顔をしてはいるが、内心の焦燥は一目瞭然。

 このまま事が運べば、それで目出度く仕舞いと相成るが。

 

「……」

「お?」

「げっ」

 

 今再び視線が己に刺さる。しかし此度、こちらを見たのは眼鏡の奥の切れ長のそれ。検察官殿がじっとこちらを見据えていた。

 それに気付いたメイア少年が呻く。

 そして、検察官殿の足は真っ直ぐこちらに向かってきた。

 

「お待ちください。あの方は」

「退きなさい。彼に二、三質問をするだけです」

 

 さっと店長がその行く手を遮るが、女の方は明らかに訊く耳など持っておらぬ。

 先程からの様子を見るに、今回の査察はどうやら相当の確信を以て臨まれたものであるらしい。いやさ抜き打ちの家捜しとは得てしてそのようなものだが。

 しかしいざ捜査が始まって早小一時間、手掛かりの“て”の字も出て来ぬとあって遂に手段を()()()()()らしい。

 

「店主、俺ぁ構わねぇよ」

「けれど……」

「ご協力に感謝します」

 

 なおも言い募ろうとする店主を横切り、検察官が進み出る。そしてずいと、手にしたそれをこちらに見せ付けた。

 

「それともう一つ、質疑応答にはこの看破のベルを使用します。万一、虚偽の証言を口にした場合は、念の為に署に同行いただき改めてお話を伺うこともあります。その辺りを理解した上で、発言は()()に願います」

「くくっ、そいつぁおっかねぇや。(ゆめ)気を付けるとしよう」

「では」

 

 眼鏡の硝子が灯りを照り返す。検察官の女から、気迫のようなものが発した。この問答で仕留めてくれる、という。

 それもまた、役人の気組。

 

「名前は」

「シノギ・ジンクロウ」

「シノギ……?」

「セナさん、この人は……」

 

 こそこそと歩み寄っていたルナ……もとい捜査員の一人がセナに耳打ちをする。

 

「……そう、貴方があの」

「どのシノギのことかは存ぜぬが、このシノギは名をジンクロウと申す。見てくれ通り、ただの貧相な剣士よ」

「身元は確認できました。敵軍の幹部一角を屠ったとか。その武勇が今後も王国の為に尽くされることを期待します」

「微力なれば」

「結構。続いて尋ねます。この店はよく利用しますか」

「いんや。今日が初めてだ」

「来店の目的は」

「見ての通り、腹ごしらえだ。あぁ、ついでにこの坊にもな」

「ん……」

 

 隣の鳥打帽頭にぽんぽんと触れる。少年の微かな緊張が肌身に伝わってくる。

 その様に、眼前の女は反応を示した。

 

「貴方と、彼とのご関係は」

「店のすぐそこで知り合った。腹を空かせておるようだったのでなんぞ食わせてやろうとな」

「初対面の子供に施し……? 貴方は普段からそのようなことをしているのですか」

「んな大仰なもんじゃあねぇさ。救貧坊主じゃあるめぇし、常日頃そんな真似するほど……」

 

 ふと、思い出す。店先で伸びた娘、河原で彷徨い歩いていた幼子、化外の獣や山の神霊、人の幽霊、揃いも揃ったり色物奇人妖怪変化。まさか施しなどとは驕るまい。しかしよくまあ色とりどりの連中と同じ釜やら酒杯やら交わしてきたものだ。

 妙な、今更に感じ入る。というより己が節操の無さにまず呆れが先立つ訳だが。

 

「……気が向いたなら、またやるかもしれん。かかかっ!」

「? はあ、そう、ですか」

 

 けらけらと笑う己に、女は不可解そうに目を瞬いた。

 対して、隣からまたしても不満気な三白眼がこちらを覗いていた。ミルクセーキを口に含み、至極つまらなそうにして。やはりまだ、己を捕らえられなかったことが不服なようだ。それを笑い飛ばされるのも、あるいは淫魔にとっては何より業腹なのやもしれぬ。

 

「んぐっ」

「くふふっ」

 

 なおも仔猫のように睨んでくる少年。

 布巾を手にして、その白く汚れた口を拭った。

 

「ッ」

 

 一瞬、呼吸の乱れを聴き取った。

 その出元と思しき検察官の女は、こちらの視線に気付くや露骨に咳払いする。

 

「んん゛っ……随分と、仲がよろしいようですね」

「そうかい? ははっ、己が世人より余計に馴れ馴れしいのさ。見なよ、坊のこの嫌っそうな面ぁ。うりうりぃ」

「べ、別にイヤってわけじゃ……んひゃっ、あ、あんま撫でんなっ。くすぐったいって!」

「ッッ」

 

 また一息、先程よりも深く吸気の音が響く。そしてやはり、それはセナという女の喉奥から聞こえたようだ。

 

「くっ……これ見よがしに、イチャイチャして……」

「あ?」

「いちゃっ、そんなんじゃねぇよ!」

「ところで先程から気になっていたのですが」

「聞けよ!?」

「この子が羽織っているジャケット、かなりのオーバーサイズのようですが……もしや」

「ああ、こいつぁ己の持ちもんよ。こやつがあんまり寒々しい恰好だったんでほッ被せてやった。なあ?」

「ぬぐ……うるせっ」

 

 顔を赤くして少年はそっぽを向く。

 その頬を悪戯に軽く摘まんでやる。

 

「ブッフッッ……!! 彼ジャケ……だと……!?」

「セ、セナさん? 大丈夫ですか? 趣旨ずれてませんか? ご趣味が漏れ出てませんか?」

「だ、大丈夫、大丈夫デス。私は淑女私は淑女私は淑女これは仕事これは仕事これは仕事」

 

 助手よろしく捜査員から諫言を呈されると、女は念仏のように何やら唱え始めた。眼鏡の奥の瞳があまり見たことのない色合いに混交し渦を巻いている。

 

「……そういう世界もあんだよ。僕は興味ないけど。あんたは知らなくてもいいから」

「そういうものか」

「お゛んん゛っ、失礼。少し取り乱しました。では、今度はそちらの彼に質問します…………シノギさんのどんなところに惹かれたのかしら?」

「セナさんんんっ!?」

「やっぱり匂い? 匂いでしょう? さっきから貴方、度々そのジャケットの匂い嗅いでたでしょ? クンカーなの? 一嗅ぎ惚れ?」

「セナさ、ちょ、お腐れが出てる! どこもかしこもから出てる!」

「放しなさい。上質なおにショタよ? リアルおにショタよ? 現実でこんなの滅多にお目にかかれないの。次の本は王道おにショタに決まりよ。私はその取材を今からしなくちゃいけないの。だから放しなさい。放して、はな……はなせー!」

 

 他の捜査員らも手伝って、暴れ出そうとした会長が取り押さえられる。

 四、五人と一人、押し問答が繰り返されること暫し。パンケーキを一枚平らげる程度の時間を要して、彼女らは鎮まった。もとい検察官セナがこの世に帰還した。

 

「失礼。また少し、取り乱しました」

「本当にな」

「んん゛っ……はい! ではこれで最後の質問です!」

 

 碌々満足な尋問も出来なんだというにこれを最後にしてよいのかと要らぬ懸念を抱いたが、口にはすまい。

 

「『この店では無許可の風俗営業が行われている』。“はい”か“いいえ”で答えなさい」

「!」

 

 流石御公儀御役人。戯れに乱心しても、核心を忘れることだけはなかった。

 傍らで少年の身が僅かに強張る。

 眼前に突き出される金の鈴。その調べ一つで、我が身は即刻召し捕られるのだ。

 

「“いいえ”。この見世は、真っ当に商いをしているよ」

「――」

「…………」

 

 逡巡もなく発した応えに。

 鈴は――――鳴らず。微かな身動ぎすら見せず、完璧な無音を貫いた。

 

「……よく分かりました。ご協力感謝します」

 

 セナは言うやその場で一礼する。

 女は務めを果たしたに過ぎぬ。それでも上手に在るその頭を垂れたのは紛れもない女なりの誠意であろう。

 

「撤収だ!」

 

 号令一喝、店の裏に回っていた者も含め、捜査員達が立ち退き始める。

 張り詰めていた店側の人間達も、気を緩めて帰って行こうとする背中を見送った。

 セナとルナ嬢が表扉へ向かう。

 その、殿(しんがり)に。

 

「……なに」

 

 いつからだ。

 そこに立つ女。青い制帽に青い開襟の制服。

 いつからそこに立っていた。

 捜査員の装いをした女が一人、店の只中に居残り佇んでいる。

 もとより揃いの制服、同じような姿が店中を行き交っていたのだ。その存在を見落としたところで何が不思議であろうか。

 しかし、その女はまるで、今この時()()()――――そのように感じた。そのように、観えた。

 傍らの少年、店主、女給、誰一人驚いた様子はない。その女の存在に疑問を持っていない。その女は検察官が引き連れてきた部下の一人だ。集団に紛れ、見落としていた一人。それだけなのだろう。

 この違和感こそ、錯覚なのか。

 

「……」

「? どうしたの? 早く撤収作業に入りなさい」

 

 立ち止まったままの捜査員にセナが指図する。

 しかし、その捜査員は首を左右した。

 

「この店舗にはまだ一件、容疑が掛かっています。私はその調査を命じられました」

「なっ、そんな報告は受けていないぞ! 密告文には、確かに」

「これは領主様直々の密命です。この店には……悪魔共が棲み付いていると」

「!?」

 

 気配が震撼する。その驚愕は誰あろう、この場に居合わせた悪魔達のそれ。

 セナがなおも問いを重ねようとするのを無視して、女はこちらに一歩進み出た。そうして、その手にあるものを掲げる。

 それは硝子の蓋をされた蝋燭であった。

 

「領主様より下賜されたこの魔道具は、悪魔の気を帯びた時だけ(あお)い火が灯る」

「そんなものまで……」

「逃げられると思うな。疑わしき店舗に対する浄化、アクセルのエリス教会へは既にそのように下命が走っている。私の号令一つで付近一帯の聖浄が始まる。この蝋燭が、灯り次第」

 

 硝子蓋に女が手を掛けた。まるで確信が、いや全てを知った上での、最後通牒の如くに。

 半瞬で、結果は露わとなる。あの蝋燭が女の言葉通りの性能であるなら、この空間に芯が触れた途端、緑が火を噴く。

 どうする。

 薄紙一枚分の時間の中、高速化した思考という針が繊維質を貫き徹るまで。

 なにができる。

 

 ――――蓋が離れた刹那、斬る

 

 それしかない。もとよりそれ以外に能がない。

 それを振るうことだけが、我が一芸。

 幸いにして対手は間合の内。刃先は確実に蝋燭の芯を捉える。その先端、寸毫を刈り取ることも然して難しくはない。

 そしてこの、兇き刃金ならば、道具に込められた魔なる“ちから”そのものを喰い殺せる。

 問題は、それを見られてはならぬということ。

 抜刀、斬撃、そして納刀。それらを、少なくとも人間の知覚可能域を超越した速度によってやり遂げねばならない。俗に、神速と呼ばれるその領域。

 そんな至芸が己に能うのか。

 

 ――――是、也

 

 できる。神速、その真に迫ることならば、できる。

 そして、なにも己は速力のみでそれを為す必要はないのだ。間を外し、虚を衝き、より早くに仕掛ける。これらの工夫を以てすれば人力にて神業の真似事が叶う。

 これは武芸ではない。居合抜きの大道芸だ。敵を斬り伏せる技術ではなく、観客を騙し果せる奇術の類。

 だが。

 抜き身を見せず、衆人から最後まで刃を鞘の内に隠し通すことはできよう。

 だが、この身が()()()という事実だけはどうしたとて隠せまい。それだけは、如何ともし難い。

 この場、この時を切り抜ける為の必須条件は“何も起こらぬ”ことだ。

 如何に神速によって斬撃を欺瞞しようとも、己が何かしらの小細工を働いたと見られれば全て意味がない。

 

 ――――ほんの、一刹那でいい

 

 瞬き一つの間も要らぬ。雷光の如き光陰で構わぬ。

 眼前の、こちらに注がれた女の意識を、ほんの微かに揺るがせてくれたなら。

 その一刹那を、与えてくれたなら。

 

 ――――それを

 

 甲高い音色が、空間を刺した。

 

 

 

 閃

 

 

 

 石床に落ちた陶器が割れ、砕けたのだ。

 

「あ、すみません!」

「どうしたの」

「わ、わからないです。突然お皿がテーブルから落ちて……」

「あんダメよ、手で触らないで。箒と塵取を持ってきて」

「は~い」

 

 そんなやりとりを横目に見ながら、琥珀色の酒精を呷った。穀類独特の香りが醸され、嫌味のない甘みと苦みが舌の奥に残る。炒った豆など合いそうだ。

 

「…………」

「……蝋燭は点かないようね。まったく……アレクセイ卿の独断には、後日抗議しなければ。話を通してくれれば協力できるものを……」

 

 火はおろか煙すら上げぬ蝋燭。

 軽い嫌味を口にして、検察官セナは店を後にした。

 それに続く捜査員の女。その顔に色はない。落胆も、驚きもなく、無感情な目で足早に去っていく。

 その目は、それこそまるで、人のものではないような。

 扉が閉まり、馬車の蹄が遠ざかる。それを聴き取った途端、席から少年が翼を広げて飛び上がった。

 

「いよっしゃぁああー! 切り抜けたー!!」

「やったやった! やったねメイアちゃん!!」

「あっぶなかったね~!」

「あぁぁあああ最後ほんっっとに緊張したぁ……」

 

 奥の間から他の従業員も顔を出す。安堵の息も深く長く、どれほどに気を張り詰めていたかよく分かる。

 席を立ち、腰を拳で打つ。奇妙な凝り方をしている。着座の姿勢からの抜き打ち、あまり体に良くはないらしい。

 

「シノギ様」

「おう、店主」

 

 声に振り向くや、ふわりと女が両手を広げて飛び込んできた。

 首に腕を絡められ、ぴたりと全身にその肢体を擦り付けられる。甘い女体の香、肉の熱と柔ら。

 ふと、首筋が吸われた。強く吸ったと思えば、啄ばむように幾度も幾度も。それが首筋から顎、耳に登り、頬に至る。

 

「なんだなんだ。えらく気前がいいな、えぇ?」

「当然ですわ。そしてこんなもの序の口です。んふふ、あぁ、どんな風に、お礼をすればいいかしら。抱いていただこうかしら……それとも抱いて差し上げようかしら……?」

「あっ!? ズリィよ店長!!」

「私一人なんて申しません。この子も一緒にいかがです? それとも、ここにいる全員で……」

 

 やいのやいのと騒ぎ始めたメイアも、店長の言に静まる。

 妖しげな微笑が我が身を囲む。今の今まで抑えていた色香が、むんむんと店内を噎せ返った。

 

「ほほう、そいつぁ贅沢だなぁ。思わず涎が出ちまいそうだ」

「たっくさん、かけてくださいな。涎でも、小水でも、精液でも……たっくさん汚してくださいな」

「そうさな。だが、己だけで美姫を独り占めにしたとあっちゃ罰が当たらぁ。何より一番の功労者を蔑ろにはできまい」

「?」

 

 好色な瞳に微笑みを返し、そっとその前髪を指の裏で撫でる。

 そのまま女の腕を離れた。

 真っ直ぐに足を向けたるは、窓辺、右端の席。その虚空を()()

 

「なぁ、カズよ」

「うぉお!? びっくりした! いきなり触んな!!」

『!?』

 

 触れた途端、その存在が露わになる。

 緑の外套を纏った少年の姿。カズマが椅子に座っていた。

 おそらく彼女らには、この少年が今まさにこの場に現れたかのように見えているだろう。盗賊のスキル、潜伏とかいったか。

 

「目端が利くというか用意がいいというか。まったく、流石よ。こんの小僧は」

「……褒めてんの、それ」

「無論だとも。お前さんが居らねば、仕損じていた」

 

 絶好の機に、皿を床に落として叩き割ったのは誰あろうこの少年である。

 あの“逸らし”が無ければ、己の大道芸は意味を為さなかったろう。

 

「店主、見ての通り、この小僧っ子の働きこそ勲章もんだ。大いに労ってやってくれ」

「ふふふ、勿論ですわ」

 

 少年が有無を言う間もなく、瞬く間に三人の淫魔がカズマに群がった。

 

「カッコよかったわよ」

「あなたは命の恩人です」

「い、いぃ~っぱいご奉仕しますね!」

「い、いいやいやそんな! お、俺は当然のことをしたまでですはい」

「緊張してる?」

「かぁわいい~」

「あ、でももうここは固く……」

「あひん」

 

 鳥に啄ばまれる獲物のような様相だが、本人は夢心地であるらしいのでまあ良かろう。

 踵を返そうとして、ふと思い出す。小言を一つ置いていくことにした。

 

「カズよ。血気盛ん大いに結構だが、あまり家の子らを心配させるな」

「…………はぁい」

「かかかっ!」

 

 萎んだ声を背に受けて扉に手を掛ける。

 店主の女は、溜息交じりの笑みでこちらに手を振った。引き留めても無駄と覚ったのだろう。引き際の心得。やはり、よく出来た女だった。

 

「ちょ、おい!」

「ん?」

 

 表に出たところで追い縋る声に振り返る。

 メイアであった。腕には牛革のジャケットを抱えている。

 

「おぉ! いけねいけね、すっかり着せっぱなしだったな。はははっ、ありがとよ」

「う、うん、いいけど……いいけど……」

「うん? どうした」

 

 ジャケットを羽織りながら少女を見下ろす。いつの間にやら姿容は元の娘子に戻っていた。

 指先を突き合わしながら、なにやらもごもごと口の中で言を弄んでいる。

 

「……アタシじゃダメ、か……?」

 

 怖々と、潤んだ瞳が己を見上げる。精一杯の勇気を振り絞って発したそれ。

 実に男心を擽ってくる。

 

「なるほど、それがお前さんの必勝手か」

「――――ちっ、糞! これでもダメか! あぁあぁ、渋ってる奴ほどこれで落ちんだけどなぁー」

「くふふっ、いやぁいい線いってたぜ。しかしやんぬるかな」

 

 少女の頭を撫でながら、その場に屈む。

 愛らしい少女の渋面に微笑む。

 

「俺ぁ素面のお前さんの方が好きなのさ」

「…………へ?」

「じゃあな」

 

 呆けた顔に見送られ、路地の暗がりを行く。

 茜が薄れ、群青の闇が滲み出す。

 明日は、晴れそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 暗がりに女が佇んでいる。

 青い制帽、青い制服。王国検察捜査員の姿。

 その手には、火も灯らぬ蝋燭が乗っている。

 

「『どうして……どうして……?』」

「ほほ~う、肉の傀儡か」

「『……』」

 

 女は振り返る。路地の暗がりよりさらに暗く、人が通ることなどできない家々の隙間。石造りの壁に挟まれた細い空間。

 声はそこから発された。

 

「『誰、だ』」

「ふむ、なるほどなるほど、材料は本物の死にたての女か。これならば確かに高位のプリーストの目も欺けよう。不出来な死霊術(ネクロマンス)とは一線を画す出来栄え。流石は地獄の公爵だ」

「『誰? 誰? 誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰?』」

 

 女の首が折れる。手足が折れる。それはまるで骨を抜き取られてしまったかのようだ。

 蜥蜴か、芋虫のような挙動で女が地を這い、声の主に迫る。

 狭い隙間であっても関わりない。なにせ(つか)える骨が、この女にはないのだから。

 暗闇の空間に女の形をした肉塊が滑り込む。

 ぎちゅ、ぐちゅ、肉とも皮とも分からぬ音色が辺りに響き、最後にびしゃりと赤い液体が隙間から噴出した。

 そうして、ぬるりと。

 

「いやいや息災で大変結構。近々我輩もそちらを訪ねよう、マクスウェル」

 

 闇間より出でた一人の男。

 奇怪な仮面の下で、男はひどく楽しげに笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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