変わらぬ。
眼前にて膨れ上がった極大の憎悪と相対してなお、
過去、幾度となく目にした光景、耳にしてきた怨嗟だ。仲間を、近親者を、愛する誰かを殺された人間が、激情のままに武器を執る。己という怨敵を殺す為に。
それを愚かとは思わない。むしろ逆、そうあるべきだとさえ思う。
殺生の有為無為などという議論は平穏無事な温室で哲学者にでも勝手にやらせていればいい。
生前が騎士であったから……それも、一つの理由かもしれない。尊厳と
今や、
人として、戦場で剣を振るっていた頃。
何処に違いがある。
人と人から魔物と人に立場が移り変わっただけだ。向けられる恨み憎しみ怒りは何一つ変わらず、我が身を焼き滅ぼさんとして燃え盛り続けている。
そうして、そんな正当なる復讐者達を幾百と滅ぼし返して来た。傲岸不遜に、その正当性を認め尊びながら、恥など知らぬと、天命すら踏み倒して、動く屍として生き続けている。
いつか。
いつかは報いを受ける日が来る。絶対の確信を以てベルディアは断言する。
何故ならこの身もまた、怨念によって武器を執ったのだから。
変わらぬ。変わらぬと……そう諦めた。
だが。
――――今日こそは俺の、報いの日か
斬り落とされた自身の左腕を見下ろして、ベルディアは兜の下で薄く嗤った。
良い日和であった。
からりと晴れ上がり、白雲の遊泳は
日暮れ頃に一雨、降るやもしれぬ。
不意に空を仰いで、物思う。
歩みはゆるりと綿を踏む心地。四肢から余分な力を脱く。急ぐ理由などない。
そこで思い立って、腰帯に結わえた下緒を斬り、鞘を引き抜いて放り捨てた。もはや用も無し。
為すべきは一つ。一つに絞られ、他の一切尽く総ては削がれ、研がれ、洗われ、落とされ亡失した。残ったものはひどく純一だった。
その
単一能を執行する為だけの器物。即ち――――
まず敵手の間合に達する。
対手は巨躯の全身甲冑姿、得物は刃渡りにして七尺を優に超える巨大な諸刃剣。斬り間は圧倒的に彼方が優越する。
対してこちらの刃は二尺をやや超える程度、身幅厚み共に対手に握られた怪物剣と比ぶれば正しく矮小の二字。
如何にしてこの質量差を覆す。如何にして。
「……」
「!」
縮地法。膝の踏み抜きにより、前進運動の起点を
間合
運剣の最大効率化。体重心の移動により生ずる
下段から斬り上げ。
対手は左手の首を上空へ投げ上げ、片手から諸手に大剣の操法を変ずる。脇構えから横一閃に肉厚の刃が奔った。五体の自在性を取り戻したことでその動きは疾風めいて敏速。もう半瞬の後にも、己は首を刎ねられたであろう。
しかし。
「……」
「!?」
既にその左肘を断裁した。
斯くしてこの儀、この一合、この一刀は最速を窮めた。
なんたる
身体を反転、右手に引き付けた大剣ごと回転する。振り抜くのに比べれば間合、斬撃が網羅する
しかし両刃は空を裂き、骨はおろか皮肉すら触れず。
躱された、のではない。そもそも剣先は届いてすらいない。敵の肉体は最初から、こちらの刃圏の僅かに外側で足を止めた。
読まれた。間合を、剣筋を、何より企図を。
なんたる
回転斬撃を悠々と見送ったその男は、即座上段から斬り下ろす。
狙いはこの、残りの右腕。これが失われればいよいよ文字通り、打つ手は無い。
舌が巻き潰れるかの冷徹さで、相手はこちらの戦闘能力を剥奪する気だ。
斬り返していては間に合わぬ。
逃げ、避けるは死。
故に前へ。敵に向かって踏み込む。肩口から体当て。甲冑を帯びたこの体格の重量が丸ごとぶつかれば、その衝撃は骨をも砕く。
肩部装甲が男の胸骨に衝突し、突き飛ばす。
「ぬぅ!?」
その異常な軽さに呻く。身体同士が衝突、いや接触したならば自身が加えた力に相応する衝撃が、“手応え”が撥ね戻ってくる筈。
それが無い。微塵とて感じぬ。
奴は接触の瞬間に重心を後方へ流し、さらに足捌きによって自身に加わった衝撃力を全て殺したのだ。
その理合は腑に落ちる。全く見事な体操法の妙技。
しかし同時に、認め難い厳然の事実を知る。
またしても、攻め手を読み切られた。
否、否、否、
「逃すかぁ!!」
後方へ退がったのなら追うまで。
敵の重心は下がり、前進移動力に至ってはマイナスにある今、打ち合えば勝てる。必ず勝てる。
そも肉体のスペックが、ステータスは圧倒的にこちらが上なのだ。膂力など比較にもなるまい。打ち合い、押し合い、あるいは剣先が僅かに触れるだけで事は足りる。
捉えれば勝てる。ほんの寸毫、捉えられたなら。
刺突。
半身から踏み込み、胸元に引き付けた剣を前進と共に押し出す。
逃げられまい。この突きは敵手の後退速度を明らかに上回る。追い付ける。貫ける。
敵の鳩尾を、射――――抜けず。
僅かに逸れた。敵は真半身になることで剣尖より逃れ、だけに留まらず。
刀身が翻されている。上段構えにあった切先と柄頭の天地が逆転している。そうして鍔元で剣身を擦るように受け、刺突を完全に逸らしたのだ。
逸らしながら、即座に敵手は動く。攻守すら逆転した。受けた剣の腹を摩り上げながら横一文字に斬撃が奔る。
躱し――切れぬ!
無様に
運良く折良く、そのタイミングを計らって胴体へと出戻ることが叶う。腕の余りでしかない左上腕に頭部を抱え込んで浅ましく安堵を噛む。
男はこちらを追わず、その場に静止。切先を中段に置いて片足の踵を上げる。
危うい。『浮遊』を維持できるだけの魔力が底を突くところだった。もう一合、対敵より攻め寄せられていたならどうなっていたことか。
こうなる。
甲冑の胸当、鎧において最も強固で計算し尽くされた防刃構造から成る胸部装甲が、斬られた。鋭利な裂傷を刻まれていた。
「…………ふ、ふふ、くくくく」
心胆を伝うのは寒気。幾年月踏み倒し続けて来たものが今こそこの身に寄り添っている。
死。
その予感が、こんなにも生々しく、ありありと。
あぁそれはなんたる、なんたる。
「なんたる僥倖! なんたる恐悦!! 俺はこれを、この死闘を待ち侘びていた……!」
無念だった。無念を呑み苦汁を嘗める、ただそれだけの生涯だった。
下らぬ政争と陰謀に巻き込まれ、御家も血族郎党も、愛した女さえ失った。殺された。
人がましい暖かみの何もかもを奪い尽くされ、崩壊の一途をひた歩むだけの自我。しかし、それでもなお、己が己足り得た唯一の
騎士、武人としての矜持。
それだけが己に意味を与えた。人間であることに意義を与えた。
間もなく、その尊厳もまた踏み躙られたが。
身に覚えのない罪状を幾十と貼り付けられ、呆気なくこの首は断頭台を転がり落ちた。
だが命が惜しいなどと思ったことはない。死にたくないなどとこの手が神に祈るなら、それこそ切り落としてしまえばいい。
無念は、慚悔は一つ。たった一つ。
この首は処刑斧によってではなく、戦場の泥に塗れた剣によって斬られ、断たれ、奪われねばならなかった。多くを殺した。義によって、武によって、殺して殺して殺した。ならば己もまた義によって殺されねばならない。武によって殺されねばならない。
謀の末の裏切りでも構いはしない。捨て石として使い潰されるなど至上の栄誉だ。そう、それ一つさえ叶うなら。
俺はただ、戦場で死にたかったのだ。騎士として、武人として死にたかったのだ。
そしてそれは遂に許されなかった。己はただ奪われ、顔も知らぬ権力者共の靴底の赤い染みとなった。それだけの、甲斐も価値もない生涯。
その屈辱、この絶望、余人には解るまい。武人非ざるものには断じて解るまい。理解などもとより不要。
今、その絶望が歓喜に変わろうとしている。
切望が、眼前に現れた。たった一人の剣士が、血と汚泥と火の臭いに塗れたあの世界をこの場に顕現させた。
戦場を、連れてきてくれた。
「やはり」
返礼をせねばなるまい。
とうの昔に諦め、腐り落ちるのを待つだけの我が身が、
斬り殺すべき怨敵として。
ならばその価値が決して翳ることのないように。
「やはり――――あの小僧を殺しておいてよかった」
邪悪は邪悪らしく振る舞わねばなるまい。
人倫に
魔に、身を堕とそう。
それが唯一、殺戮者の責務なのだから。
その甲斐はあった。我が邪悪は邪悪らしく実に真っ当に成果を示した。
まず、空気が死滅した。
肌身に感じていた、世界に満ちていた“生命”とも呼ぶべき気配が消えて、死んだ。
次に、遠巻きに観戦者を気取ってこの剣闘を眺めていた冒険者共。その内の幾人かが卒倒するのが見えた。戦場の気に当てられ正気を失くす新兵など珍しくもない。しかし、その戦気を発散しているのはたった一人の人間だった。
そして。
「――――」
眼前に、立ち現れたのは一つの意志。一つの、概念。
それはたった一節、こう言った。
死
ね