目抜き通りから路地へ入り、建物が押し合い圧し合うような狭い袋小路にその店はあった。
行燈の仄かな灯が暗い小路の中でまるで道標のように我々を出迎える。
「いらっしゃい」
扉を開くと、柔らかな声が掛かる。カウンターに立っていたのはここの女店主だ。歳は三十がらみ、などと本人は言っていたろうか。己の見当が爺の節穴であることを差し引いても、もっと若い。もっと幼く見える。小造りな顔立ち、特にその、甘く垂れた目尻が、童女のような印象を齎した。
淡い青のロングスカートに前掛けをして、編み込んだ黒髪を纏め上げ、それを頭巾で覆っている。それは夜の酒場より、昼間の定食屋こそ板に付いた装いとも思えた。
事実この店は、昼に食堂も商っている。
「あら、ジンさん。まあ、今日は大勢で」
「すまねぇな。座敷は空いてるかぃ?」
「ええ。どうぞ」
奥は十畳ほどの板間の座敷になっている。
我が徒党五人、そして新たに三人を加えなかなかの大所帯だが、思いの外に収まりもよく全員が腰を落ち着けた。
「じゃあ先に、お飲み物はどうなさいますか?」
「ああ、エールを六つとオレンジジュースを一つ、それから一本浸けてくんな」
「いつもの、ですね」
「かかっ、早速覚えられちまったな」
「ふふふ、少しお待ちくださいね」
注文を受けて、ぱたぱたと女将は奥へ引っ込んだ。
「……ジンクロウ、よくここ来んの?」
「いんや、常連気取れるほどじゃねぇさ」
「その割には気安い感じでしたが」
ぶっきらぼうにめぐみんが呟く。何を勘繰っておるのやら。
どうもこの娘の目に己は稀代の女誑しのように映っているらしい。
そうこうする間に両手に硝子杯を持った店主が現れ、卓に置いていく。
「お待ちどうさま」
「はいはーい! エールこっちこっち!」
「さあさあ、お前さんらも取れ。あぁめぐ坊はこっちだ」
「そして私だけナチュラルにオレンジジュース……」
目敏いボヤキに聞こえぬふりをしつつ、女将を手招く。
「鴨鍋を二つ。それから焼き物、蒸し物を一通り頼む」
「はい、お鍋がお二つと、焼き……あ、そうだ。実は今朝採れた筍を灰汁抜きしたんです。よかったら」
「おお、そいつぁいいねぇ。調理は任せる。二皿ほどこさえてくれ」
「はぁい」
注文を終える頃に折好く熱燗も上がった。
アクア嬢が『待て』し続けるのもこの辺りが限界であろう。
「では、親睦会といこうじゃねぇか」
乾杯の音頭を執ると、おずおずと杯が掲げられた。
店を訪れてから、いや店への道すがらも、妙に一同は静かだった。間合を量りあぐねているのか、出会い方が悪かったか、初対面同士が訳も分からぬまま飲みに連れ出され困惑しているのか。
まあ全部であろう。
この場に漂う不味い空気など知らぬ存ぜぬと、アクア嬢は元気良く一気に酒を飲み干していた。
「たっはぁぁぁあああ……! この為に生きてるわぁぁああ……!」
「おっさんか」
「ちょ、サトウ・カズマ! 女神様に対して失礼だろう!」
「いやどう見てもおっさんだろ。よく見てみ、仕事上がりの中年サラリーマンがそこにいるから」
「……どう見ても女神様だ」
「今ちょっと言い淀んだな? やっぱりお前もおっさんだと思ってんだろ!」
「お、思ってない!! 断じて思ってないですからねアクア様!!」
「んぇー? べっつにーどうでもいいわ。すみませーん! お代わりおなしゃーす!」
心底興味も薄く、アクア嬢は空の杯を振り回した。今あの娘の両目には酒しか映っていない。
アクア嬢の素気無い返事に青年はがっくりと肩を落とす。
「まあまあツルさんよ。そう気を落とすな」
「ツ、ツルさん? えっと、僕ミツルギです……」
「おおすまんすまん」
ミ……ツル……青年は二人
最初こそ警戒心も露に、青年の後ろでこそこそとこちらの様子を窺っていたものだが、同じ卓を囲み酒にも口を付けた今、気を張るのも馬鹿らしくなったようだ。近くに座るめぐみんやダクネスと姦しくも世間話に花を咲かせている。
「へー、めぐみんちゃん紅魔族なんだー! あたし初めて会ったよー! うちは魔法使い自体いないから余計に新鮮かも。あはは、有名人に会えたみたい」
「べ、別に有名という訳では。ま、まあ! 我が魔道の才は確かに紅魔族随一! 畏敬と尊敬にひれ伏してしまっても無理からぬことでしょう!」
「キャハハハハ! なにそれウケるー!」
「ウケる!?」
「クレメアさんは剣士なのだろう。是非立ち会って(斬られて)みたいものだ」
「やー私なんてぜんっぜん。ダクネスさんはクルセイダーでしょ? ステータスだって私なんか足下にも及ばないって」
「そんなことはないさ。数字は数字。大事なのは(痛め付ける)テクニックだ。私で良ければいつでも練習台になろう」
「ダクネスさん……ありがとう」
流石は女子衆。頭の固い男共とは違い、ああしてすぐに打ち解けられる柔軟さは見習うべきであろう。多少の擦れ違いがないではないが。
店主が小さな焜炉を二つ、卓に並べて置く。次に蓋をされた土鍋をまた二つ、その上に据えた。
「煮えるまで少しお待ちください。あ……ジンさん、同じものでいい?」
「おぅ、あんがとよ。騒がしくてすまねぇなぁ」
「ううん、賑やかで楽しいわ。うふふっ」
柔らかに笑むと、空の徳利を下げて店主が調理場へ戻る。
不意に、じぃとこちらを見るカズマに気付く。
「なんだぃ、カズ」
「いや、前々から思ってはいたけど、ジンクロウの年齢不詳具合がさ」
「ぁんだそりゃ」
「酒の飲み方が様になり過ぎっていうか。あと『いつもの』が通じるのが羨ましい割と本気で」
「へっ、
「もぉ、ジンさんったら……」
気付けば熱燗を布巾で包んだ女将が来ていた。困ったように眉尻を下げ、微笑を浮かべる。
徳利を卓には置かず、女はそのままこちらに注ぎ口を向ける。こちらも御猪口を差し出した。
「そんなこと思ってませんよ。贔屓にしてくれて嬉しい、っていつも言ってるじゃないの」
「おや、そうだったかぃ? いつだか、相伴が過ぎて酔っ払ったお前さんから『飲んだくれ剣士はとっとと帰れ!』などとキツぅく御叱り頂いた気がするんだがなぁ」
「ぁ……あの時は久しぶりで飲み過ぎて、ジンさんまで深酒しないようにってっ……もぉ! ばか!」
「かっはははは!」
女将は顔を赤らめて、ぴゅーっと調理場へ引っ込んでしまった。
そんな下らぬやり取りをカズマと、そしてなにやらツルさんまでもが神妙な顔で眺めていた。
「あんたホントに幾つだよ……」
「あなた一体幾つなんですか……」
「知らん。忘れた」
それ以外に答えようもないのだから。
散々っぱら飲んで、大いに食いに食った。
酩酊と満腹が程よく身体を重くしている。寝床に入り目を閉じれば、一息で眠りに落ちられよう。
店を出て、一先ず大通りを目指して八人ぞろぞろと歩く。
「ふぁ~……」
「くく、めぐ坊はもうお眠のようだ」
「ふぁぶっ!? し、失敬な! 全然眠くなんてありません! このまま朝までコースでも余裕です! ……ふ、く……」
意気込んだ矢先に欠伸を噛み殺していれば世話もない。いや世話を焼きたくなる。
己とカズマ、アクア嬢は同じ馬小屋だが、めぐみんとダクネスはそれぞれ寝所が別にある。
めぐみんを宿に送らねばならんが、それは己でもダクネスでもいい。
そうして通りに行き着いた。
「クレメア、フィオ、先に宿に戻っていてくれ」
「え? キョウヤはどうするの?」
「僕はもう少しだけ、彼らと話がある」
そんな会話が耳に入り、話の主を見やる。ツルさんは己とカズマに視線を寄越していた。
「ふむ……ダー公、めぐ坊を頼めるかぃ」
「それは構わないが、大丈夫か?」
「……あの魔剣男、まだゴチャゴチャと絡む気ですか。撃っちゃいましょうか」
「心配要らねぇよめぐ坊。今日はもう帰って休みな」
剣呑に紅い瞳を光らせる娘に笑みを送る。
「ありがとうよ」
「ん……ジンクロウがそう言うんなら」
娘は素直に引き下がってくれた。
一方、素直でない男は満面の顰め面で溜息を吐き捨てる。
「メンドクセ。ボクもう帰りたいんですけどぅー」
「そう言うな。野郎同士、梯子酒と洒落こもうぜ」
「お酒!?」
「ダクネスー、
文字通り浴びるほど飲んだであろうにまだ飲み足りぬか酒乱の女神。半ば意識もない泥酔状態でありながら、酒の一言に反応したようだ。
譫言で酒、酒、酒と垂れ流しながら、アクア嬢はダクネスに引き摺られていく。
「またねーめぐみんちゃん!」
「おやすみ、ダクネスさん」
女子衆が夜景に消え、男共三人が通りの端に居残った。
「んで、なんだよ。手短にな」
「君なぁ…………はぁ、謝りたいんだよ」
カズマへの苦言を一つ飲み込んで、ツルさんは言った。
「今日、あなた達に働いた無礼と失言を」
「殊勝過ぎて気持ち悪い」
「確かに」
「やっぱり酷いな君ら!?」
カズマの言に同調してはみたが、よくよく思えば平素のカズマの慇懃無礼、手練手管、悪戯三昧を見慣れ過ぎている為にこうした善人を怪訝に感じてしまうのではないか。
世慣れし過ぎた傍らの少年に苦笑を送る。
「と、とにかく! すまなかった。何も知らずに、僕は思い込みであなた達を貶した……一緒に食事をして、君達が強い絆で結ばれているんだってことを思い知ったよ。まるで暖かい家族みたいに」
「くっさ。そういうセリフ吐くのって恥ずかしくなんない?」
「役者でもやってみたらどうだぃ? いやお前さんなかなかの美男子だ。そらぁもうわんさと固ぇ客を掴めること請け合いよ」
「あの、もういいです……」
ツルさんは悲しげに項垂れた。流石に少し、ふざけ過ぎたか。
己はもとより、どうやらカズマの方も先刻の件は特に気に留めてなどいない。そう、些細な出来事を一々
この場合、揶揄いこそがこの
その不器用さに忍び笑いする。
「……でも」
「うん?」
「一つだけ、頼みがあるんだ」
俯いていた顔を持ち上げ、ツルさんは真っ直ぐにこちらを見据えた。それこそ腹を据えた様子で。
「もう一度勝負がしたい。いや、今度こそ……アクア様をかけて僕と勝負をして欲しい。条件は同じ。一対一で戦い、勝った方がアクア様をパーティに連れていける」
「えぇー……」
「そらまた、律義だねぇ」
心底嫌そうにカズマは呻いた。己は内心に可笑しみが湧く。
わざわざ宣言を上げ、宣誓を決め、決闘まで設けて。
「惚れっぽい野郎ってのは厄介だな、カズよ」
「だってあのアクアだぞ? 趣味悪過ぎだろ……」
行き会った時から知れたこと。この青年、どうやら本気であの飲兵衛女神に首っ丈らしい。心酔、といった毛色も見えるが。
「恋だの愛だのってな往々にして
「めんどくせぇ……」
「くくく、だからおめぇは
「どどどどど童貞じゃねぇしっっ!!!!」
「ぷっ、くひひひ……!」
「す、すみませーん、あの、そろそろこっち向いてもらっていいですかー……?」
カズマと顔突き合わせてひそひそ話に花咲かせていると、ツルさんがいかにも消沈した声を上げた。
少々放っぽり過ぎたようだ。
「よしカズ、任せた」
「任されねぇよ!?」
間髪入れずに言を跳ね返される。
「ジンクロウがやればいいだろ! なんで俺!?」
「その方が向こうも納得するからな」
「は? どういう…………あ、あー……まあそうだろうけどさ……」
やはりというか、聡いこの少年は己の意図するところを瞬時に察した様子で、見る見る反発が弱まっていく。
そうして最後には溜息交じりに。
「……しょーがねぇなぁーもぉぉおお」
「かかかっ、頼りにしてるぜ御頭」
「ふーんだっ!!」
不承不承、また不承。嫌々全開でカズマが進み出る。
対するツルさんは怪訝な顔をした。
「君が? 戦うのかい?」
「それ以外の何に見えますかー?」
「……いや、そちらがそれで構わないなら、僕に異論はない。ただ、勝敗が決まってからの撤回は無しだ」
「はいはい」
「なら、行くぞ!」
言うや、ツルさんが剣を抜く。なんでもその銘を魔剣“グラム”という。神から与えられし特典の武器。外観は、飾りがやや派手な身幅のある諸刃の剣だった。
刃は実に滑らかであり、街灯に依らずそれは自ら発光していた。特典の武器には何かしら特殊な能力があるとかないとか。要は己が使っているあの妖刀と似たようなものだろう。
翻って、カズマは無手。腰には短剣を革帯で吊るし、身体各所に小刀も仕込んでいる。
「武器を構えろ。サトウ・カズマ!」
「あ、そう? んじゃあ『クリエイト・ウォーター』」
「な!?」
軽い調子でカズマは手を構え、掌から水を発射した。バケツ一杯分ほどの量、浴びれば風邪でも引きそうだ。
寸でのところでツルさんは後退して水を躱した。
「魔法が武器ですどうぞよろしく」
「くっ、この男は!」
「はい『フリーズ』」
続いて掌から飛び出したのは冷気。空気中の水気を凍らせながら、ツルさんの足元目掛けてそれは飛んだ。これで、ばら撒かれた水を踏むツルさんの脚が地面ごと凍り付く。
が。
「その手は食わない!」
甲冑のままでありながら、身軽にも青年は跳躍してみせた。
冷気はツルさんの脚の下を素通りし、その動きを凝結させることは叶わなかった。
「『バインド』」
「へ?」
するり、薄い世闇を泳ぐ蛇――否、細い、それは細い糸。目を凝らしてようやく見えるほどに黒く、暗く塗り潰された鋼の糸だった。
それがカズマの袖口から伸び、未だ宙にいた青年の、その片足に絡み付く。
半拍よりも短い間に、青年が地上に降り立った。
凍結した石畳の上へ。
青年の体捌きはそう悪くない。平素から身体を動かすことに慣れているのだろう。凍った石畳の上でも直立できるだけの体幹を、その身体はきちんと備えていた。
「くぉっ……!?」
カズマは鋼糸を握り、力一杯引き寄せた。不安定な凍結した地面、そこに立つ青年の片足を。無慈悲にも。
見事な一本釣り。脚は天頂を差し、もんどり打って青年は背中から倒れ込む。
「『スティール』」
止めもまた静かなもの。一瞬、掌を発光させたかと思えば、既にその手には魔剣グラムとやらが握られている。
悠々と歩み寄り、倒れた青年の鼻先へ切先を差し向けた。
「はい終了!」
「――――」
「終わり終わりー。お疲れっした~」
絶句するツルさん。
魔剣をポイと捨てて早々に踵を返すカズマ。そのままこちらに歩き去ろうとした少年が、ふと足を止めて青年の方に振り返る。
「俺に勝てない奴がジンクロウに勝てる訳ねぇだろボケ」
捨て台詞も堂に入ったもの。中指まで立てる様はもはや悪漢、チンピラ、立派な小悪党そのものである。
「ではな。風邪などひかぬよう気ぃ付けな」
「ア、ハイ」
尻餅を付いたままこちらを呆然と見上げる青年に別れを告げて、少年と二人、己が
「随分とまあ、怒ってくれるじゃねぇか。えぇ?」
「そんなんじゃねぇし」
「くく、そうかぃ? くふふ」
「……あーあー、ったくもぉ。酒! また奢ってくれよな!?」
乱暴に頭を掻いて少年が怒鳴る。
「応さ」
それがどうにも、嬉しいのだ。