スレが音をたてている。何かつやつやした巨大なものが体をぶつけているかのような音を。
二次創作の海を泳ぎきったところでわたしを見つけられはしない。
いや、そんな! あの野菜は何だ! 畑に! 畑に!
私を端的に定義するならば、よくいるそれなりに優秀な人間だろう。家庭は金持ちではないが生活に困らない程度には裕福であり、事実として中学から私学に進学させて貰っている。
地方に一つはある名ばかりの私立などではない。中高一貫の私立学校。高校となれば県内でもトップクラスの進学校で通っているような立派なところだ。となれば集まる生徒も小学校ではトップをひた走ってきたような連中ばかり。当然プライドも相応に高く、私も例に漏れず無駄に選民意識を持ったガキの一人だった。
が、残念な事に私は「本物」ではなかったらしい。
地元では並ぶ者ない神童扱いであったが、中学で初めての定期テストの結果は上位に入る程度。言い訳かもしれないが、ベストを尽くしたつもりだった。部活は無論、評価を上げるために最低限参加している。限られた時間の中で、ほぼ娯楽を廃して徹底的に勉学に打ち込んだと言っていい。
それでも上位の壁は越えられない。
次の定期テストでも、二学期になってもだ。
ここで私は初めて挫折を知った。勉学に関しては、だが。運動に関しては正直、小学校の時点で諦めがついていたので楽なものだった。あればかりは本当に生まれ持った才能なのだ、と。故にこそ、後天的な要素に支配されていると思い込んでいた勉学での敗北は認めがたいものとなった。端的に言えば衝撃的であり、屈辱的だったのだ。
自棄にならなかったのにも理由がある。私の足元にいる残り八割程の、元天才たちを見下ろす光景は屈辱の中での救いであったから。15に満たぬ子供が不良にならなかった理由がそれなあたり、私の人格も大概歪んでいるのだろうが。
有象無象の中に私が含まれる事など我慢ならない。諦めが悪いというのならばその通り。開き直ることの便利さを知った瞬間でもある。
まだまだ子供らしい傲慢さと、目の上のたんこぶである本物の秀才、天才達への嫉妬心が私の原動力だった。それだけの話だ。
とはいえ、アニメに限らず、フィクションの世界で頭のいい役柄の人間が何故悪い性格で描かれたりするかよく理解できようというものだ。何せ自分というあまりにも身近な実例が証明している。中途半端な秀才というのは、徹底して性根が歪んだ救い難い存在なのだ、と。
本物の秀才ならば自己の承認欲求を満たせるだろう。
本物の天才ならば自分の知的好奇心を追い求めるだろう。
だが、私を含む世間一般でのエリート、つまりは公務員や大企業へ入る程度のサラリーマンはそうはいかない。常に自分では敵わない存在と比較され、内心では煩悶しながらも自己の有用性を示し続けねばならない故に。
まぁ、世にオタクも増えようというものだ。かく言う私もオタクでね、とでも言えばいいのだろうか。数少ない友人相手ならば吝かではないが。
ああ、失礼した。
一社会人とは思えない自分語りを聞かせてしまい心苦しい限りだが、どうか許して欲しい。重ねて汚れた格好であることを謝罪しよう。
常ならば恥にならない程度には清潔さを保っている気に入りのコートも汚れてしまっている。現状は確かに見苦しいだろうが、逆に言えばそれ程追い詰められていると言っていい。何せ眼前には未だ速度が落ちきっていない通勤電車。死を前にした人間が残す未練か、あるいは走馬灯となれば憐れんで聞いてくれるものだろう?
まぁ、憐れまれるなどさっぱりごめんな訳だが。
だってそうだろう?
内心は兎も角、私の経歴も人生も、表に通っているものはなんら恥じるものない立派な社会人のそれだ。少々友人は少なく、三十路を前にして彼女もいないがまぁ今時は珍しくもない。思想の自由は憲法で保証されているのだからとやかく言われる筋合いはない。
学生は部活と勉学に打ち込んだ勤勉な学生であり、大学は全国に名の通った私立大学。サークルは風聞が悪くはない文化系の真面目なものであり、講義もしっかりと受けていたからOBやOGからの評判も非常に良い。極めつけに都内に本社を置く大企業(無論、一部上場企業だ)へ新卒入社、今は人事部だ。
誰憚る事もない程度には社会的に成功していると言っていい。少々自慢に聞こえるかもしれないが、上司の憶えも良好だ。
そんな私が憐れまれるなど、あっていい事ではない。
いや、それを言うならばこんな事態を作り上げた原因こそが存在してはならないという話だ。
やけに遅く感じられる時間の中、数瞬前まで私がいたホームへとどうにか目を向ける。ああ、やはり。諦めにも近い納得が胸を支配する中、視界に写ったのはいかにも愚鈍といった風な冴えない男だった。
覚えている。ああ覚えているとも。何せ正しく今日、リストラした対象なのだから。
大企業に寄生しようとする社会のクズ。端的に表するならば、そう言うしかない人材だった。会社に貢献できるような要素はなく、実際彼が所属している事そのものが弊社の損害だっただろう。
遅刻。
この時点で既に社会人としてはあり得ないが、まぁ年に一、二度ならば仕方ないだろう。都内ともなれば電車の遅延などもあるし、時計が止まっていたといった事故も有り得る。
だがこの男は常習犯だ。
無断欠勤。
社会人としては失格と言っていいだろう。これが携帯電話も高価な時代で、雷雨で停電などが発生していたと言うならば別だが。現代においては携帯電話を持っていない社会人を探す方が余程難しいのだ。
報連相という社会人の基本理念すら理解できない無能。
多重債務。
どうやら社会人としてだけではなく、そもそも人間としてどうしようもないらしい。会社がプライベートに口を挟むのは確かによろしくないが、それは一企業人としてやるべきことをやっている場合だ。職場どころか、社名に泥を塗りかねない存在となれば会社とて組織なのだから自衛はする。
つまり、ただいるだけで長年かけて築いてきた弊社のブランド価値を下落させるようなクズはパージすべし。
コミュニスト並に存在そのものが害悪だ。
故に彼がリストラの対象に選ばれるのは必然だった。仕事に私情を挟むつもりはないが、纏められた情報を読んだ時は呆れのため息すら出た程だ。
私に落ち度があるとすれば。そういった社会の下に位置する人間が存在することは知っていても、実際に理解していなかった点だろう。今以って理解しようと思えないし、現在進行系で殺されている状況となっては理解したくもないが。
「……呆れるよ。あなたたち、ほんとに人間?」
暗転。電車に轢かれ、死んだ筈だった。しかし声が聞こえ、意識は未だ存在した。咄嗟に顔を守るように構えた腕を恐る恐るといてみれば、眼前には眠たげな少女が。
「失礼、どちら様だろうか?」
問いながらも私の頭脳は常の如く、どうにか状況における最適解を出そうと足掻く。例えば、そう。奇跡的に生き延びて、眼前の幼女は、幼女は……さて、なんだろうか。
腰どころか足元まで伸びたぼさぼさの白い髪に対し、その頭上で輝いているのは王冠とでも言うべきものだ。あまりにもチグハグ過ぎる。
単純に、今私が見ているのは幻想の類なのだろうか。
否定材料はないが、であれば私の服装が汚れたままというのは物悲しいものがある。登場人物が私と少女だけというのも問題だ。ロリータ・コンプレックスには罹患していない。。
「面白いことを考えるね。馬鹿みたいだけど」
私の問いに答えず、少女は呆れ果てたように呟く。面白い事なのだろうか。私自身としては至極真面目なつもりなのだが。というより、私は先程からの思考を口に出したつもりもない。
まさかとは思うが、読心かその類ならば問題だ。プライバシーの保護と思想の自由に対する脅威である。
「察しは悪くないんだね。他人の感情を読むのはダメダメなのに」
科学技術が発展した現代でも、読心は人間にとって超常の出来事だ。物理法則を超越できるものといえば人外、特に神や悪魔といったものだろう。
仮に万能なる唯一神がいたとすれば、自分だけで完全である存在が人間如きに干渉するなどあり得ない。であれば眼前の存在は多神教の神か、あるいは悪魔や邪神の類か。神道と仏教が平気な顔で仲良くやっていた国家の一市民としては神と邪神の違いすら曖昧ではあるが。
何せ祀れば神で、死ねば仏だ。
眼前の存在Xはそういった人外の類ということだ。他人の呼称にするには無礼ではあるが、まぁ他人の心を読むような無礼な相手だ。お互い様だろう。
血が通っていないと思う程の白い肌と毛髪を持つ少女は驚いたのだろう、僅かに表情らしきものを浮かべてみせた。眉毛やまつ毛すら白いあたり、アルビノの類なのだろうか。
カラーコンタクトを入れているかのように瞳孔と虹彩の縁以外が白い目が奇妙なものを見るような視線と共に私に向けられる。
「……すごいね。創造主に悪口、しかも直接だよ?」
創造主。
成る程成る程。では宗教において語られる、人類を作り給うた創造主は私のような異教の民に一体どんな用事があるというのだろうか。信心を試したいならば基督教あるいはその元になった金貸しの多い宗教、または最新版へのアップデートができない宗教の信者でも呼んで存分に試されればよいのではないか。
どんな宗教だろうと祭日であればとりあえず祝って楽しむ妙ちきりんな国家の一員に話があるようにも思えない。あるいは、私が死んだというのであれば天国か地獄かの審判なのだろうか。個人的には閻魔大王からの判決だと思っていたのだが。
むさ苦しい髭面の老翁(私の勝手な閻魔大王のイメージだ)と奇妙な少女、どちらが良いかというのはあまりにも答えにくいが。勘違いしてほしくない点として、私は別に仏教徒という訳でもない。
ただ一神教よりは思考や思想的に自由度の高い多神教の価値観は受け入れやすいという、程度問題に過ぎないのだ。
「……最近の人間さんは物事の理非を知らなすぎるよね。
知識としては知ってはいても身につけようとはしてないっていうか。
輪廻から解脱したり、涅槃に至ったりに興味はないの?」
少なくとも一神教には涅槃という概念はなかったように思うが、あるいは天国がそれなのだろうか。死後の世界が良きものであるというのは、成る程、生きる事すら困難であった時代には確かに心の救いたになり得ただろう。
それにしても聞く限りでは彼らの教義における天国はやたらと人間らしい欲求に溢れている気はするが。
涅槃ということは煩悩からの解脱なのだから、つまりは悟りではないのか。いや、あるいは私が覚者に対してあまりにも清廉なイメージを懐き過ぎているだけなのだろうか。何にせよ、私は悟りには至っていない普通の一般市民だ。そういった場合はどうなるのか。
「転生かなぁ。」
「実に結構です。では、よろしくお願いします。」
単純にして明瞭。情報のやり取りとはかく有りたいものだ。人外にしてどうにも話が通じているか不安な存在Xだが、それはそれとして私がここにずっといるのもよろしくないだろう。
私と同様に死んだ人間がここを通って輪廻転生をするのならばそれこそ大変だ。何せ今の地球上の人口は少なく見積もっても70億人以上。一日の死亡数は統計でも15万人以上なのだから、一秒あたり二人程度死んでいても不思議ではない。
待合所があったとしてもパンクしてしまうだろう。周囲は靄がかかったようにどこか不明瞭で、しかし広大に感じるこの不可思議な場所でも時間の流れが同じならばだが。
「もうちょっと信仰しようよー。」
「……は?」
せめて来世では背後に気をつけるべきだろうか。あるいは、現場で働く技術者を参考に危険予知に務めるべきか。
安易な考えは、少女の呟いた言葉に吹き飛んだ。
「信仰。昔はすっごい信仰してくれてたよね。どーして今は信仰してくれないのかな」
「……端的に言えば、社会の進歩が原因でしょうな。文明の発展、科学技術の向上。
加えて集団的自衛権の発展により、先の大戦から大きな戦争は発生せず、世界は平和なものです。
テロや犯罪は未だ頻発していますが、暮らしやすさという点で言えば段違いでしょう。
神にすがれば救われた気分になれた時代はとっくに終わっているのですよ」
人類の歴史が即ち社会の歴史と等しい以上、社会全体の幸福を重視するというのは必然である。現代への倫理や道徳の進歩を考えるにあたり宗教の業績は否定できない。個人としては唾棄すべきものと思うが、その歴史的功績まで否定しようとは思わない。
そうすると宗教的な倫理から功利主義を元にした社会倫理への発展にあたり重要であったのはその通りだが、逆に言えばその時点で役割の大半は終えていると言える。
ロールズの正義論へ至り、規範倫理学となった事で、大半の人間にとってはなくても生きていく事はできるというものになったのだ。
実際はより複雑であり、社会も完璧ではない以上全く無価値という訳ではない。そこもまぁ、拒絶はしない。
私もその点を専攻していた訳でもないので理論的に間違っている部分がある可能性もあるのだ。
が、少なくとも私個人にとっては信仰など不必要だ。
「70億もいるんでしょ?それでも信仰は大赤字。魂って信仰してるのが普通の筈なのに、びっくりだよね」
信仰とは利益だったのか。絶滅危惧種であろう敬虔な宗教家が聞いたら卒倒するであろう新事実だ。あるいは、自らの信仰が神の利益になっていたと知れば喜ぶのか。
知らせる方法がない以上妄想以上にはなり得ないが、それでも一つだけ言える事がある。
「それは、ビジネスモデルの欠陥では?」
あるいはマーケティング不足だろう。科学文明の発展した世で信仰が芽生えにくいのは言うまでもないのだから。
全世界レベルの信仰低下という事は、それだけ神に縋れば生きていけない人が減っているという事でもある。
文明的、文化的生活を送れている人間が増えるのは良いことではないだろうか。それはそれで食糧不足や自然破壊等の諸問題が発生するのも事実だが、公害については先進国は既にクリア済みという点に目を向ければいい。
科学技術による解決。実にスマートであり、論理的だ。神に祈らず、妙なまじないや魔術に頼らずとも自己救済が可能な世界で信仰が減るなど当然ではないか。
「さっきから思ってんだけど、一応上位の存在に対してすっごい口のききかたをするね。
あれだよ、新入社員が社長にがっつり意見してるのと同じだよ?」
だが事実だ。痛いところをつかれたのか存在Xは若干引いた顔をしている。話の方向性を変えてくるあたり言われたくない所だったのであろう。上位存在と自分で口にするあたり、精神性も話の逃げ方もやはり子供か。
「うわぁ、もっとやばいよこの人!
勝手に会社に入ってきた浮浪者が社長にお説教してる感じ!」
流石にそこまで言われる謂れはない。というより話しかけてきたのはそちらでは?
「だーかーらー、本来なら信仰してる魂が普通なんだよ?
信仰心がないから、君は勝手にこっちの領域侵してる浮浪者と同じなんだって」
故に話しかけてきたことを感謝しろと?無茶苦茶にも程がある。
何故だ。私は平和な国の模範的市民、エリートであった筈だ。社会的に成功した、誇りある立派なサラリーマンであった。
訳の分からない存在Xに理不尽に絡まれる程悪辣な事をした記憶など一切存在しない。加えて、一応は会話しているのにどこからともなく取り出した布団に入るのはどうかと思う。
「超常の力を持っててー、ボッチでー、君に言わせれば子供だよ?
多少コミュニケーションとれるだけマシって思わないと」
唐突にマジレスをされても、その、困る。
布団に潜り込むあたり、寝るつもりというのならば私をさっさと転生さればよいではないか。
「そもそも、神なんて人間さんからすれば理不尽極まりないって創作でもよく書いてるじゃない。
そりゃ自分の中で色々完結しちゃうよね。ようは、おっきな力を持った感性子供のご老人」
一般的にはそれは悪夢というのでは?
「おーけー?」
全く持って良くない。こちらに顔だけを向けて眠そうな顔をしても、私とてそうすぐ寛容な気分になれる訳ではないのだ。
「ふーん?」
そんな外見だけは可愛らしいと言えなくもない存在Xの気配が一瞬で変わる。立っている事すら困難に思える程の重圧と共に、癖だらけだった長髪が意志を持ったかのように動き始める。
どこからか聞こえてくるのは、太鼓と言うにはあまりにも下劣すぎる殴打の音。
不明瞭でこそあるが十分に明るかった空間は光源を失ったかのように暗く、か細く不快なフルートの音が空間を満たしていく。
呼吸が、できない。
いや、死んだ以上呼吸など不要な筈だ。であればこれは、恐怖。
布団だったものは膨張と収縮を繰り返す、見る事すら不快な混沌とした色合いの泡と化している。
小さな頭に乗っていた王冠は既にない。どころか、顔が存在しない。
「Kyぅ制てキnい畏怖sAセてτアケ”teもぃいkE℃」
止めてくれ!喋らないでくれ!目を、目を閉じさせてくれ!
いや、ダメだ。目を閉じるなど、この存在を視界から外すなどあってはならない。何をしでかすか解らない恐怖に比べたらどれ程冒涜的でも見続けた方がマシだ!
「SANチェックしっぱ~い、ってね。あんまり魂を汚染しちゃまずいし、このぐらいにしておくよ」
口、いや、口ですらない穴からこぼれ落ちてきていた脳を壊しかねない言語がようやっと終わる。
存在Xはおぞましい姿からつるりとした一つの塊へと姿を変えるが、この身を震えさせる恐怖は未だ続いていた。
ああ、なんという事なのだろう。
人外や創造主などという、「まだ」かわいらしい存在であったと信じ続けられたらどれ程幸せだったことか。
まるで、ですらない。眼前の存在は邪神そのものなのだと理解させられてしまう。自分が立っている事すら信じがたい程の、精神的足場の崩壊とはこの事か。
悲劇作家ですらこんな酷い話は描かないに違いない。この、私が存在する世界を作ったのが邪神の気まぐれだなどと!
「まぁ、でも有意義だったよ。
科学だけじゃなく魔法があって、平和じゃなくて戦争があって、サラリーマン?ああ、男だもんね。
女になって、しかも追い詰められれば君みたいな人間さんでも信仰に目覚めるんだね。
答えが出た!やったね!」
無茶苦茶だ、などとは言えなかった。
屈辱だ。屈辱だが、しかしこのまま見逃されそうな状況に私は欠片程の希望を見出してしまっている。元の、白い少女の形へと戻っていく存在Xを見れば尚更だった。
だが、やはり外見を取り繕ったところで中身は邪神なのだろう。最後の最後になってとんでもない事を存在Xは口走る。
「でも一人だけだと変な考え方して余計拗らせちゃいそうだから。
私のこと信じてくれた人間さんも一緒に送っておくね、ちゃんと見張ってね?」
「主の御心のままに」
何時の間にいたのだろうか。私の後ろから響く声に振り返れば、一人の男が立っていた。
驚きに言葉を出す暇もない。そして唐突に訪れた浮遊感は落下へと変わり、私と男は落ちていく。
「いってらっしゃーい」
どこまでも不遜な存在Xは暢気にそんな事を言う。
……クソッタレめ。忌まわしき存在Xに災いあれ。それはそれとしてどうか、二度と関わることのないことを。
「あれを信じるとか貴方正気ですか?」
「あれもまた、八百万の神の一柱と言えるのじゃないかな、と」
ある意味においてそれは、大通りで繰り広げられるデモ活動よりもはるかに異様な光景だった。
狭く、汚れた細道から通りを眺める二人の子供はどこまでも冷めた目と表情をしている。まだまだ幼い、本来ならば舌っ足らずな言葉で喋るであろう幼児が、である。
「というか悪魔だろうと明らかに超常の力を持っているのは見ればわかるだろうに。
むしろ、なんであそこまで頑なに挑発を続けたのかがわからない」
壁によりかかる金髪碧眼の男の子はあり得ないというように手をひらひらとさせながら女の子へと言い放った。存在Xに遣わされた彼ではあるが、あくまで数多存在する神の一人として信仰しているのだろう。
邪神を信仰する人間のそれとはとても思えない、理性的な言葉遣いだった。
「あの胡散臭い……どころか冒涜的な存在を信じ、その言葉に甘んじろと?」
対し、放置されていた木箱に腰掛ける金髪碧眼ではあるが白すぎる肌と見ているだけで吸い込まれるような目をした少女は毒を吐く。取り繕う事もなく、表情は苦々しいと語っている。
元男が強制的に女に転生させられたというだけでも屈辱的なのに、苦境に立たされると解りきっていればこうもなろうという話ではあった。理不尽ではあるが、自分の言葉は安易に過ぎる挑発であったと社会人として理解できるために余計に、である。
「普通に転生する筈だったんだがなぁ。誰かさんのせいでなー、巻き添えだわー」
「……私にも過失があったことは、認めましょう」
故に、少年に一切非がないという観点から被害者である。認めざるを得なかった。
少女が存在Xなる悍ましいなにかとの間に波風を立たせなければこの場にいなかった人物ではあるのだ。
あの邪神を神の一人と認める程度には滅茶苦茶な価値観をしている時点で真っ当ではないが、少なくとも彼自身に過失はない。元サラリーマンとしての矜持と、曲りなりにも法を守って生きてきた人間としての多少の罪悪感とて存在する。
他人に罪悪感を抱く。そんな当たり前のことが前世において少なかった彼女からすれば、その時点で完全に放置という訳にはいかなかった。経験の少ない罪悪感という感情をそのままにするのはどうにも座りが悪かったのだ。
今生においてはターニャ・デグレチャフという名前を持つに至った少女はため息をつくと仕方がないとばかりに首を振った。加えて、悲しい話だが実際問題として悪い話ばかりでもない。
「こうなった以上は協力するとも。ああ、まずは餞別だ」
未だ幼いが、それでも年齢の割に恵まれた体躯を持つ少年は取り出したパンをターニャへと投げ渡した。
硬く乾燥したライ麦パンである。が、幼く、小遣いを未だもらったことのない子供が入手するのは難しいものでもある。庶民ならば普通に入手できるものではあるが、孤児故の悲しみだった。
もしこの場に他に孤児がいれば、どこで手に入れてきたのだと驚いたことだろう。庶民ならば普通に入手できるものではあるが、孤児故の悲哀だった。
「ととっ……ハイドリヒ、これは?
食料の余裕はないはずでは」
歴史と経済に対し造詣の深いターニャにとっては尚更だった。孤児院の経営は極端に悪い訳ではないが、余裕がないことは生活で理解できる。
子供達の世話にその身をすり減らす老シスターには申し訳ないが、帳簿すら覗いた事もある。そこから見えるのは、雀の涙程の国からの援助と厳しい中でどうにかやりくりしている現状だ。
彼らの住むこの帝国が新興国としては非常に強靭な国力を持っている事も、だからこそ周辺国との軋轢で軍事費にかなりの国費を注がざるをえないのは理解できる。が、健全なる国家経営として福利厚生がお粗末というのはどうなのか。
ましてや次の世代を担う子供達へのものである。孤児院への援助は治安の向上や公衆衛生の観点からはそれなりに意義があるものの筈だ。
端的に言えば、帝国は経済的にも社会的にも閉塞的になりつつある。そんな状況ですら他国が実際に感じている経済的な行き詰まりや社会不安に比べればマシと言えるあたり、既に戦争の火種は出来上がっていると言っていい。
ともあれ、孤児院の食生活はその余波もあってか酷いものなのだ。ぶっちゃけ、シスターの私財すら切り崩している。彼女の財布もほぼ空なのだから、パンか、その元となる金をどこで手に入れてきたというのか。
教会経営である以上清貧を良しとするのは組織的方針として理解できるが、清貧と飢えに苦しむことは流石に別だとターニャは思う。
味の悪いパンと粗末なスープのみの食事。最低限度の栄養は確かに取れているだろう。肥満とは無縁であり、生きるに必要なラインを少し越えた程度。
娯楽になるとは間違っても言えない食生活だ。飢える事はない程度に裕福で、かつ食事に底知れぬ情熱をかける国出身の身としては過酷に過ぎる環境である。
「ウチの食事じゃ禄に成長もできんだろ。カツアゲしてる糞ジャリから逆にぶんどってきた」
硬いパンをどうにか小さく千切り、礼を言ってからもそもそと口へと運ぶターニャを見ながらハイドリヒは平然とそう言った。自慢をしている訳ではない。淡々と事実を報告しているという口調に、ターニャも流石に冷や汗をかかざるを得ない。
「貴方は、随分とその。アグレッシブな方のようで」
一歩引いたのは身の安全を考えれば当然だった。納得はしていないが、事実として今のターニャは力のないただの幼女なのだ。同じ年齢とはいえ男で、既に身長に差がある存在が暴力に迷いがないと知って安穏としているほど暢気でもない。
「まぁ、人一倍、人を殴った経験はある。
その挙句にパンチドランカーでふらふらしているとこを事故って死んだわけだが」
「ボクサーかなにかでいらっしゃった?」
「そんなとこだ」
口にこそ出さないが、野蛮だと思いながらもターニャは再びパンを口に運ぶ。自分も恩恵に預かる以上、明確に批判する気はない。
ハイドリヒの言う糞ジャリもハイドリヒ自身もどっちもどっちではあるが、実際問題として空腹は辛いのだ。
「この食料の出所についてはわかりましたが、何故私に?
しかも態々他の子供から隠れて。
同郷のよしみとでも言うつもりですか?」
一方で、大企業という社内政治も考慮しなければ生き抜いてこれなかった経験がただより高い物はないと警告を鳴らす。同じ転生者であり、おそらくは自分と同じようにある程度年を取った人間である。
境遇としては近いが、だからこそ相手を出し抜く可能性もない訳ではない。
多少の不利益でも要求されれば飲まざるをえない、ターニャの方が巻き込んでしまったという後ろ暗さもある。前世の同僚にも弱みにつけこまれて苦労している者はいたのだ。
当時は愚かなことをと馬鹿にしていたものだが、当然の心理として自身がそうなるのは避けたかった。
「いや、取引だ。あんたは、性格が悪い。」
「……えぇ、自分の人格が歪んでいるのは理解していますとも。
そうも真正面から無遠慮に指摘されたことは、生前では終ぞありませんでしたが」
ターニャの警戒心を知ってか知らずか、ハイドリヒは容赦なく言い切った。流石にターニャも自身の顔が引きつるのを感じつつ、眼前のおそらくは馬鹿にもわかるよう婉曲さを控えた表現で反論する。
「だが、頭はいい。俺よりは確実に」
どうやら、お前は無遠慮だぞという指摘は通じずに終わったらしい。
少年の名前であるラインハルト・ハイドリヒという名前で馬鹿とか嘘だろお前と言いたいが、チョビ髭伍長殿なら兎も角。パンチドランカーになるほどの殴り合い好きが教科書に出てこない人物を知っているとは思えなかった。
「はぁ、それで?」
「お目付け役として、どうせあんたの面倒は看ないといかん。
けど渋々やるよりは。
率先してあんたの言うこときいて気にかける方が、あんたも得だろう?」
「幼女の身体では何かと不便です。
未だ幼いはずなのに屈強なその身体が自由な手足となってくれるなら、そうですね、得でしょう」
教養はないし馬鹿ではあるが、下衆ではない。ハイドリヒが示したのはシンプルな構図だった。
「俺があんたの手足になる。だからあんたは俺の頭になってくれ」
「はぁ……何を言われるかと思えば。
とどのつまり、これから先の指示を示せと。貴方自身の考えのもとには動かないので?」
肉体労働と頭脳労働。
よくある区分けであり、肉体的には弱者もいいところのターニャとしては諸手を挙げて歓迎したい内容だった。だからこそ無警戒に飛びつきはしない。契約の詳細を詰めるのは社会人としてはマナーに近い。
コンプライアンス的にも、契約内容の確認は身を守るという観点からも重要だ。
「あんた、もうこれからどうすれば良い生活が出来るか思いついてるんだろ?」
その言葉にターニャは納得する。現代人から考えれば、一世紀は前の生活水準などお粗末もいい所なのだから。ハイドリヒが求めるのは良い生活。提供するのは労働力。
突き詰めてしまえば上司と部下の関係だ。
方針を示し、業務内容を教えて実行させる。前世ではそろそろ課長も見えていたターニャにとって部下を持つというのは経験済みでもある。
「魔導適正、確か貴方もあったはずですね?」
「軍か」
幼児に対しても行われる健康診断の一環として、魔導適正の検査は組み込まれていた。自身の目指す所とハイドリヒの求める所に齟齬がない事を確認すべく、ターニャは解りやすい言葉を選ぶ。ハイドリヒもターニャの意図を誤る事なく理解できていた。
「ええ。適正があるならいずれ徴兵対象となる。
なら自ら志願したほうが受けはいいでしょう。士官学校は給与も出ますし。
それに、先を行けるなら行くべきです。
戦端が開き泥沼化する前に、安全な後方勤務ができるよう、努力する」
頷くハイドリヒを見て、ターニャの中での評価が定まっていく。
生前は本人の言う通り、喧嘩か格闘技あたりにでも明け暮れて頭脳労働をしなかったのだろう。教養はなく自己評価も低いが、地頭は悪くない。
カツアゲの対象に奪いやすい他の孤児ではなく、ヘイトの向いている子供を狙う手腕やターニャに迷いなく分前を出すことがそれを示していた。一見すれば単なる損失だが、営業活動への投資と見れば実に妥当。接待とはメリットがあるから行われるのだ。
加えて、子供の範疇ではあるが幼年とは思えない恵まれた肉体をしていた。大きな手足と、まだ鍛えてもいないのにがっしりとした骨格。
ゴツいという程ではないが、成長すれば平均など目ではない立派な体躯となるだろう。存在Xの加護か偶然かはわからないが。
ハイドリヒ自身、存在Xを妄信している訳ではないのも評価を高める。
存在Xの差し金であることを差し引いても、結論として使える。
優秀な人材の確保にどれ程の労力と金が必要か理解している元人事部としては逃す手はない。
就活をする方だけではなく、運営する側でも多大な負荷がかかるのだなと己が身で実感済みのターニャである。
現在の境遇は間違いなく不運ではあるが、手近に転がっていた素晴らしい人材の発見ににやけながらも判断を下した。
その様子を見ながら黙ってにやけるターニャに何してんだこいつという思いを浮かべているあたり、ハイドリヒも中々にいい性格をしているが。
「いいでしょう、乗りました。では共に軍で出世コースを歩もうではありませんか」
そう、ハイドリヒとて自身で考えることのできる人間なのだ。加えてターニャが評したように無教養ではあるが愚かではない。
言ってはいないが、存在Xと生前のターニャのやりとりを聞いてすらいる。一部の性癖という名の病気を持つ人種にとってはあれやそれやの対象になりかねない幼女が油断ならない存在であるというのはよくわかっていた。
俺を裏切って自分だけ後方に行こうとしたら、足首を掴んででも絶対に闘争に引きずりこんでやる。
秀麗な少年の顔の裏でそう決意したのはハイドリヒなりの決意か、あるいは実際にとんでもない状況に巻き込まれた事への多少の恨みがあるのか。
「なにか?」
「いや、なんでも?」
ではよろしくと握手をするも、互いの笑顔が表面上だけのものだとは双方理解している。それはいつ破綻するかも解らない不安定な協定ではあるが、互いが互いの利となる間は間違いなく有効なものだった。
一見すれば、貧しい少年少女が互いに協力をすることとなった心温まる場面なのだが。
もし未来の各国魔導師が見れば、観客一同阿鼻叫喚の地獄絵図となっただろう。
謎の多かった戦争に浪漫を求める人間が観客であれば、伝え聞く伝説からはあまりにも遠い貧相な光景にブーイングが出たかもしれない。
いずれにせよ、こうして将来「ラインの比翼の悪魔」とアダ名される帝国軍人コンビが誕生してしまったのである。
尚、キャベツ氏や織部庵の要請あれば本作品は削除される旨注意されたし。
2017/2/26
改定。改行等が適当だった部分を修正しました。
内容も一部追加。