影船八番艦は長い沈黙を破る。
1話だけの短編。ヤマもオチも、ストーリーすらありません。
その黒い船の周りは、空と海の青に囲まれていた。
偶に見かける他の色といえば、餌を探して時折飛来するカモメの白だけ。
「いやぁ、十年ぶりの航海におあつらえ向きの穏やかな天気ですな」
舳先に立つ少年にそう語りかけるのは、長い白髪をうなじ辺りで一括りに纏めた好々爺である。
だがこの好々爺の言葉は、何も応えない少年によって独り言にされている。
先程もそうだ。
副長が呼んでおりますぞ、という報告をした時にも、彼はずっと海と空を眺めていた。
海都を出港してから三日、彼はずっとこの調子で舳先に立って空と海を眺めていた。
初めての航海で高揚しているのか。それとも世人には計り知れない深謀があるのか。
初日は、初航海はこんなもの、と捨て置かれていたのだが、二日目、三日目と同じ様子を見ると、船員たちも段々と不安になってくる。
道理である。
航海経験もない齢十五歳の少年が、いきなり影船八番艦の艦長に任ぜられたのだ。しかもこの少年、船員たちとは殆ど言葉を交わさないのだから、船員たちも不満に思うというものだ。
それでも斜め後ろに立つ好々爺──レズンだけは少年の傍らにいようとしていた。
レズンは少年──カシュー・オンタネラを幼い頃からよく知っていた。
人見知りで無口で捻くれ者だが、根は優しい子。それがレズンがカシューに抱く印象だった。
だが、レズンもカシューの船乗りとしての能力はまったくの未知である。だからこそ、隠居である老体に鞭打って、自身八年ぶりの航海に志願したのである。
「お、陸が見えてきましたな」
懐から取り出した
「まあ、この分なら夕方には武王に会えましょうな」
武王とは、大陸を統一したウォルハンの王に代々受け継がれる二つ名である。
ウォルハン中興の祖、カザル・シェイ・ロンが大陸統一を目前に斃れてから百有余年。それから直ぐにウォルハンの大軍師アル・レニオスの手により大陸は統一された。
現在のウォルハンは陽武王と呼ばれるダミア・シェイ・ロンが治めている。
今回の船旅は、その陽武王ダミアに海皇からの親書を届けることなのだが──。
レズンは少年カシューの背中を見て不安を抱く。果たしてこの少年に、一国を代表する使者が務まるのか。
「……爺、取り舵30度。船脚落として」
久々に口を開けたカシューの言葉に、レズンは耳を疑う。
前方、目的のヘルサの港までは一直線。風は追い風、避けなければならない暗礁など無い。視界も良好、雲ひとつ無い。
つまり、無意味に舵を切れば入港が遅れるだけである。
加えていえば、取り舵──右に舵を切れば、ヘルサの東にある半島へと船を向けることとなる。
あそこは岩礁が近く、半島自体も切り立った崖に周囲を囲まれている土地だ。船を着けられる場所ではない。
その時、温かい風がレズンの頬を撫でた。
それで合点がいった。
「嵐、ですかな」
レズンはこくりと頷くだけのカシューを尻目に、直ぐに船員を呼び止めて副長に報告させる。
若い船員は信じられないと目をぱちくりとさせていたが、ちょうど甲板に出て来た副長にカシューの言葉を伝えると、直ぐさま指示を始めた。
「取り舵30、2時の方向へ転進。岩礁を迂回しつつ半島の向こうに船を隠すぞ!」
「──ほう」
この副長、若いのにやりおる。
直ぐに初航海のカシューの進言を聞き入れおった、とレズンは感服すると同時に、そういえばこの副長はあの幻の八番艦のクルーの血筋だったと思い出す。
影船八番艦──正式名称「零番艦」は、
彼は死に向かう十日をこの八番艦の甲板で過ごし、海上で101歳の大往生を遂げたという。
そう言い伝えられているだけなので真実かどうかは定かではない。だが、その生き様は海都という巨大な帆船に身を置く多くの者たちの憧れであった。
「副長殿、何故あの子の言葉を信じなすった」
「ま、匂い、ですかね」
「匂い、とな」
「これでも船乗りになって十年ほど経ちますからね」
「ほう、十年で海の匂いを感じなさるか」
「いいえ、感じるのは人の匂い、です。海に愛される者の匂い、とでも言いましょうかね」
そんな会話をしている内に、先程まで晴れていた西の空に黒い雲が現れた。
雨雲だ。しかも厚い。
「ほらね、海に愛される者の言葉は常に正しい」
「……庶子に落ちようと、さすがは海皇の血筋、か」
未だ舳先に立つカシューの小さな背中を見つめて呟かれた言葉は、突風に呑まれて消えた。
三時間後、嵐は過ぎ去り、空は茜色に染まっていた。
了
お読みくださいましてありがとうございます。
他の作品を連載で書いている途中なのですが、どうしても書きたくなって書いちゃいました。
そんな純度百パーセントの自己満足の文章でした。