「…え?」
呆気にとられた。ハイルは、隣にいる男が何をしているのか理解できなかった。
怪物が此方から目を離したその隙に、佐々木が袖を捲り、自らの腕に噛みついたのだ。少なくとも、ハイルからはそうとしか見えない。
ごくり、と佐々木の喉が動く。見つめた先の佐々木と目が合った。
しかし、何も言う暇もなく。次にハイルが瞬きをしたその間に、佐々木の姿は視界から消えていた。
「え?」
顔に風が吹きつけた。
目が追ったのは風が通った道筋。
その先には、怪物の額から生えていた女の身体をユキムラで断つ、佐々木の姿あった。
「ううぅうぅう」
何か飛んでくる。
視界の右方向から、広範囲に広がる赤い結晶。もう一体のグールがこちらに羽赫を飛ばしてきたのだ。
ハイルは回避しようとしてーー後ろ、延長線上に負傷者を抱える鈴屋がいることを思い出す。
クインケを風車のように、くるくると回した。弾いて、盾にしながら防ぐ。
「硬くうぅうッ」
うわ、二種もち。
ハイルは、敵が二種の赫子を有しているとは予想できなかった。
一瞬、反応が遅れる。
だが、何とかクインケで受け流しながら対処する。
しかし、余裕はない。
敵の背後から溢れる赤が見えた。羽赫だ。
この距離だ。全ては受けきれない。身を削ることになるかもしれない。
心のなかで、あほあほハイセ、全部ハイセのせいだと言い訳する。
甲赫に纏われた腕を弾きながら、身を反らそうとーー
「っと」
しかしその凶突、凶撃が、ハイルの身に届くことはなかった。赫子は腕ごと、佐々木によって根元から断ち切られた。
迫っていた敵は、続けざまの蹴りによって飛ばされ何度か地面を跳ねて、止まった。
起き上がる様子はない。
「ハイセーー」
「ハイル、もう大丈夫だよ」
言葉を強制的に遮られる。まるで何かを隠すようなそんな雰囲気。
佐々木はそのまま、ハイルに背を向けた。
「嘉納先生。あとはその人達だけですね」
佐々木に目を向けられた仮面の集団が、後ずさる。戦闘の意思が感じられない。
ハイルは、佐々木が余裕そうなのが何となく癪に触った。
拍手が鳴り響く。
「…すばらしいよ、金木君。だが、それよりも君ーー」
「これで終わりですよぁ…あ? ぁ れ…ぇ え」
「ハイセ…?」
嫌な予感。正直もう、お腹いっぱいだ。もうやめろや。余裕を続けろ。
しかし、ハイルの願いは叶わなかった。
「 」
がくん、と佐々木の肩が跳ね、ユキムラが手から離れる。冷たいコンクリートに、硬質な音がよく響いた。
ハイルは慌てて佐々木の隣に行く。
「どうしたの!?」
「ぁ ぇ………?」
佐々木と目が合う。明らかに焦点があっていない。
そして呆けた顔になったかと思えば、だらりと身体が突然力を失い、顔が俯いた。
何か呟き始める。
よく聞こえない。
「ハイセ…?」
「……ごめ……め……さい… 」
ハイルは警戒を続けながら、佐々木に近づく。そして、小刻みに震えるその腕に触れた。
「…え?」
まるで、重さを感じなかった。少しの抵抗もなく、佐々木の身体がそのまま地面に倒れていく。
咄嗟に、ハイルは腕を佐々木の身体下に入れて支える。彼の顔は目と鼻の先にあった。ハイルの耳が、彼が何を言っているのかを聞き取った。
〈おかあさんごめんなさい ごめんなさいごめんなさい ぼくなんにもいらないから …ごめんなさい もう ぶたないで… ごめんなさい……〉
「…ぁ?」
何を言っているのか、わからなかった。佐々木は虚ろな目をしていて、泣いて、笑っていた。
あまりな異常な状況に、ハイルは動けない。
《…父さんみたいに… ああぁ… ごめん ごめん 父さん、母さん、───、 あぁ泣かないで 泣かないで ごめんなさい ごめんなさい ごめんなさい…》
いつのまにか、言葉は英語で紡がれていた。込められているのは悲しみ、そして、恨みの感情。
そしてハイルは気づく。
決して充血とかではない。佐々木の左の瞳が、僅かに赤く染まっている。見慣れた感覚だ。
「あっそびまーしょっ」
弾んだ声が耳を捕らえた。
ハイルは佐々木を抱えたまま横に飛ぶ。
頭に巻いていた包帯が裂けて、ほどけていく。遅れた髪の毛が巻き込まれ、ぶちぶちとちぎれる音が嫌に耳に入った。
地面に突き刺さるのは、四本の赫子。断たれた女の上半身の断面から形成されていた。そしてそれは、転がっている巨体に伸びて、元の状態に戻った。
「復活!合体ーー」
ハイルの額に汗が滲む。佐々木の状態も心配だが、この状況が不味すぎる。現状戦えるのは自分と、手負いの鈴屋しかいない。
気づけばその鈴屋も、先ほど佐々木が無力化したはずのグールと交戦している。負傷者がいるせいか、防戦一方だ。あちらも、危うい。
馬鹿みたいな拳が馬鹿みたいな数で迫ってくる。
ああ、やっぱりふざけるなハイセ。
「ねすぽすねすーー」
振り下ろされる殴打によって、コンクリートが砂糖のように粉々になっていく。ハイルは佐々木を抱えながら、それを避ける。
しかし、
「ーーーーガッ、あぐ」
終には、その一つに当たってしまった。佐々木を身体の後ろに回して庇い、クインケを前に出して盾にしたが、いとも容易く弾かれた。
力を失った手からクインケがこぼれ落ち、遠くに転がる。
いや違う、自分達が遠くに転がっていったのだと、ハイルは浮遊感を味わいながら感想を洩らした。
ハイルは佐々木共々、壁に叩きつけられた。
ぼき、と聞きたくない音。
「金木君をこちらに渡して貰おうかな」
喜色に満ちた声だった。
嘉納の言葉に、ハイルの表情が更に剣呑なものになる。さっきと言っていることが違うと、口に溜まり始めた赤いつばを吐き捨てる。
霞がかった視界の中で、怪物が動いた。その動きはゆったりして、しかし額から覗く女の表情は嗜虐的だ。
片手には佐々木。武器はもう手元にはない。それでも探す手が、虚しく空を掴む。
絶体絶命という言葉が、ハイルの頭に浮かぶ。
「いきましょーー 「ーー壊ッッッ!!」きゃびゃああー!!」
巨体が、あっけなくぺしゃりと潰れた。
「娘はッッ返してもらうぞッッ!!」
□
「…いったい何があったんだ」
暁から思わずといった様子で零れた言葉。
亜門は篠原の手当てをしつつ、内心大いに同意した。
亜門達がこの広間にたどり着いた時、ハイルと鈴屋が負傷者を守るようにして、二人で十数の敵を相手取っていた。
敵はいずれも赫子を有した一糸纏わない姿かたちのもの。最初に遭遇した実験体と同類だった。
目には力があるも、明らかに満身創痍状態である鈴屋とハイルを下がらせ、亜門を主体に残党を殲滅した。亜門をもってしても殲滅は簡単にはいかないと思われたが、その予想は外れる。
異形達が同士討ちーー否、共食いを始めたのだ。
そこには、亜門の固定観念の中に存在していたグールの姿があった。
おぞましい光景だった。どれもが狂い、欲望のままに肉を貪る。
化け物だ。
そんな言葉しかなかった。だから、知りたくはなかった。
これは、人間なのだ。
嘉納明博によって、悪鬼に変えられた人間。彼らは被害者だった。
しかし結局、その上で亜門は手を下した。
もしかしたら、彼らは戻れるのかもしれない。腕を振るう最中も、その考えは消えなかった。
だが後ろに、守るべき仲間がいる。それだけ…いや、そのために彼らの命を奪った。
最後の一人は捕らえた。抑製剤を打ち込んで、無力化した。しかし、一分も経たない内に息絶えた。
後悔はない。だが、疑問は残った。
自分に、何ができたのだろう。これは、正義と言えるのだろうか。彼らは悪だったのか。グールに変えられた彼らは悪と言えたのだろうか。
そんなことを考えていると、暁と目が合った。
亜門は反射的に目をそらした。
「亜門上等、貴方は本当に顔に出やすいな」
くすくすと、からかうような調子だ。亜門は何となくバツが悪くなった。
「思考を巡らせるのはいい。しかし、今はこちらに集中を。…あとで一緒に考えましょう」
「…ああ、そうだな」
亜門は一息ついて、死んだように眠る鈴屋とハイルに視線を移す。
次に、一言も喋らないで座り込む安久姉妹を見た。
そして最後に、佐々木琲世を複雑な心境で眺めた。
今回の捜査で、知り得たことは有れど、解決したことは無いに等しい。
得体の知れない巨大な何かに足を踏み入れた不安感が押し寄せる。おそらく、これからなのだ。
“大食い”から始まった一連の事件。しかしおそらく、今の時点でも、未だ始まりにしか過ぎないのだろう。そんな予感がした。
もう一度、順に見回す。
そして、亜門は目を閉じて、大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出した。
瞼を開く。
その目には、意思の火が灯っていた。
エトが不在のため、鯱はアオギリsideではありません。
この展開の鯱が書きたかったんです。