あとで分かりやすいようにタイトルつけました。
「こんにちは、四方さん」
「研か」
一時間前、芳村から連絡を受け、金木はあんていくを訪れていた。裏口から入った辺りに、四方が所在なさげに立っているのを見つけ、声をかける。
昨日⎯正確には今日の深夜に、あんていくで、アヤトと少女の処遇を話し合っていた。金木の意見は、アヤト、少女の二人が目覚めるまで、ここで監視することだった。思い起こされたのは、今思えば寒気がするような女の声。一人で少女を監視するには危険であると、芳村に進言した。
しかし、芳村はそれを断った。卑怯であることは承知だが、出来ればこの機会に、娘と話がしたいと、金木に頼んだのだ。
そして、金木はアヤトのことを頼まれた。芳村から、自分はアヤトに煙たがられている。このままあんていくにいるよりも、トーカの家にいたほうが、アヤトも落ち着けるだろうと。
懇願するように話す芳村に、金木もそれ以上何も言えなかった。しかし、自分をあそこまで負傷させた相手なのだ。ヤモリのような、暴走が起きないとも限らない。やはり、金木は芳村の身を心配した。
だから、連絡を受け、芳村のどこか嬉しそうな声を聞いたときは、安心した。芳村が淹れたコーヒーを飲んでくれたらしい。そう言った時の、どこか泣きそうな声には、聞いているだけで、胸がしめつけられるほどに感情がこもっていた。
そして、もう一つの安心要素。少女は、記憶を失っている様子らしい。
なぜそうなったのか。いや、身体が縮んでいることよりは、おかしくはないが。
無論、トーカに赫包を移植した時には、起こり得なかったことだ。トーカには、記憶の混濁すらも起きていない。だからこそ、心的外傷を負っている。
ヤモリは、暴走した。ではやはり今回の少女の件も、自分の細胞を過剰に摂取したことが原因だろうか。しかしそれだと、芳村の例があるため、疑問が残る。
一つ、考えられる原因としては、少女が人間とグールのハーフであったことだろうか。
しかし、結局のところ、個体によって適合率が違った場合、色々と推測したところで無駄になる。
聞くところによれば、日常的なものの記憶は、ある程度はある。しかし、少女を個人として形成するための記憶がごっそりと欠落しているらしい。ただ、記憶を失っている少女が自身のことで、一つだけ覚えていることがあった。
それは、芳村愛支という少女の名前だった。
「四方さん、なんでこんなところに?」
「いや、な」
目線を閉ざしたドアへと、四方は向ける。
「俺は、監視だ。中に芳村さんがいるんだが…」
金木には、四方が疲れた顔をしているように見えた。
首を傾げたその時、弾んだ声がドアの向こう側から聞こえてきた。
『おじいさん、これおいしい。これ、ケーキ……だよね?』
『まだあるよ。だから、ゆっくり』
『⁉っケホッ』
『ほら、慌てないで。これを飲みなさい』
『……あ…オレンジ…ジュース?…おいしい』
「ずっと、こんな感じだ」
四方が同意を求めるように、金木へと頷く。入りづらい雰囲気だよなと、金木は何となく察した。
「仲、良さげですね」
「ああ、もう三十分も前からあれだ。それに」
そこで、キイと音を立てながら、ドアが半分ほどまで開けられた。
「四方君、すまない。ケーキのお代わりを」
「あ…はい、それはいいんですが」
「あ、あとジュースもお願いしてもいいかな……あ、金木…君」
「…どうも」
何とも気まずげな空気が流れる。
金木は、四方に同情の目を向けた。おそらく、こうして使い走りにされていたのだろう。監視とはなんだったのか。だが、自分の娘だろう少女から目を離したくない芳村の気持ちも何となく分かる気がする。
カシャン
硝子が割れたような音。
全員の目が音の発生源へと集中する。そこにあるのは、割れたコップだけ。
「げふぉっっ」
ドシーン
それは、少女が金木の腹に飛び込んで、金木が壁に激突した音だった。そんなことはお構い無しに、金木の腹に顔を埋めた少女が一言。
「…お父さん」
少女からの襲撃だと判断して、反撃に出ようとしていた金木の手がピタッと止まる。金木はグリグリと顔を動かしている眼下の少女を見つめた。
ぶるぶると、震えている。何やらフンフンと荒い鼻息も聞こえてくる。抱き締める…いや、締め付ける力がちょっと強い。
何か犬みたいだ、と金木は思った。というか、今のフリットではなかろうか。気を抜いていたとは言え、全く反応できなかったのだ。
未だ顔を埋めている少女を放置して、沸いた疑問に金木は唸る。
「金木、君?…何をしているのかな」
「え?」
芳村の視線を辿ると、犬みたいだと思ったからだろうか、少女の頭をわしゃわしゃと撫でている右手があった。初雪のように真っ白で、フワフワな毛並みだ。何だか懐かしい。ポンポンと適度な弾力に加え、指を通せば、スーと抵抗なく通る。気持ちいい。むふーと満足げな反応が返ってくる。
はっ。
「あ、これは」
「中に入ろうか」
「あ、はい」
「林檎ジュースだ。研は…コーヒーでいいか?」
「はい。すみません、ありがとうございます」
「…ありがとう、おじさん」
「また、おじ…」
何か慣れているなと金木が見ていると、四方が昔ウェイターをしていたことを芳村が説明する。しかし、四方が店に出ている姿は、金木の記憶にはなかった。それに、四方があんていくの制服を着ている姿はあまり想像できない。
「今はもうしないんですか?」
「四方君には、別のことを頼んでいるからね」
「そういうことだ」
「でも、今でもできそうですね。流石です」
「…そんなことはない」
若干照れている四方に、金木は微笑みを浮かべた。
先日、トーカが負傷したことを知ったときの四方は、激昂した。金木が元凶を消したことを聞いて、いくらか落ち着いたが、それでも怒りは収まっていなかった。しかし、金木の纏う暗い空気に、自分以上の感情を抱いていることを察し、怒りも冷めていく。過去の記憶が呼び起こされたからだ。
四方は、金木に話をした。自分の姉が家族を逃がすために、有馬貴将によって殺されたこと。そして、その夫であった霧島新を責めたことを。
四方は、いまや霧島新のことを恨んではいない。彼を恨むことは、筋違いであることはわかっていたのだ。その話をした上で、四方は金木に言った。ありがとう、とお礼の言葉を。それは短くも、様々な感情が込められた言葉だった。
トーカが生きていてよかったと、心から思った。
そして数日後、初めて飲んだビールの味を、四方は一生忘れられないだろう。
四方の金木への好感度はほぼMAXである。
くいくいと、服の袖を引っ張られる。金木はぴたっと自分にくっついて座っている少女を見た。
「ねぇ、まだおかわりしてもいい?」
「えっと…どうかな…」
金木はチラッと芳村を見る。その表情は明らかに気まずげだ。それもそのはず、流石に父であることは訂正したが、少女が離れてくれないのだ。にこやかに笑う芳村の視線が痛い。
そして、記憶を失っていても少女は賢かった。金木から芳村に目線を移す。フワッと少し遠慮がちな笑顔を浮かべる。
「おじいさん、もうだめかな」
「四方君」
「……はい」
即落ちである。しかし、芳村としては内心複雑だ。初見で、少女が自分の娘であることはわかっていた。名前を確かめたところで、確信に変わった。少女が目覚めて、記憶を失っていたことを悲しんだが、それだけではなかった。
ホッとした。娘と向き合うことが、怖かったのだ。芳村は、そんな自分を浅ましく思う。だから、少女に自分が父親であると言わなかった。自分にはその資格がないのだ。
こうして会話ができるだけで幸せだ。おじいさんポジションもいい。外見年齢的にもそれがあっている。できれば、これからもずっと。そう思っていた。そう思っていたのだが、金木が父と認識された時は、思わず顔をひきつらせていた。
「ねえ、ほらあーん」
金木は、目の前に差し出されたクッキーと、少女を見る。そして、チラッと芳村を見る。芳村はニコニコと微笑んでいた。それが怖い。
「おじーさんもあげる、あーん」
「……ありがとう、おいしいよ」
こいつ、本当に記憶失っているのか。何かいろいろ理解している気がするのは気のせいだろうか。金木は少女を疑いの目で見る。
金木の中で少女は、第一印象が酷すぎた。強烈だった。だから、未だに頭のイッているクソ女と認識している部分がある。
しかし、返ってきたのは、少し照れたような笑顔とクッキーだった。
「ほら、おいしい」
「…あ、ほんとだ」
金木は、いつのまにか口に入れられたクッキーを、そのまた気づくことなく食べていた。ここの手作りだろうか。チョコレートの風味が口の中に広がる。
「ね」
「…うん」
もうやだ。
さっきから、芳村の視線が痛いのだ。早く来て四方さん。
金木は、若干ひきつらせた笑顔の裏で、四方に助けを求める。
しかし、してやられた気分であるが、嫌な気分にはなれなかった。朗らかな少女の笑顔を、可愛いとも思ってしまった。それでも、少女を見るたびに頭の中で、イカれた女の声が反響しているが。
「持ってきました」
四方が、色とりどりのケーキを乗せたプレートを持って、部屋に入ってきた。それを見た少女の目がキラキラと輝く。
「…これ、全部食べていいの?」
「いいよ、好きなだけどうぞ」
やった、と少女は芳村と、運んできた四方にお礼を言った後に、ケーキを受けとる。そして再び、ちょこんと金木の隣に座り、フォークで少しずつ、ゆっくりと味わうように食べ始めた。
「ふあーうめぇ…なにこれ…」
口に入れたまま、少女は小声で呟いた。
「本当にお子さん、で間違いないんですか?」
「ああ…姿は幼いが、私の娘には間違いないよ」
ベッドには、すやすやと眠っている少女がいる。そして、服の端を掴まれた金木がベッドに腰かけていた。
「じゃあ、その…この子が僕を父と認識したことなんですけど…」
「身体が、変質したからだよね」
「気づいてたんですか」
「ああ…匂いが、君に近い。その存在としてもだ。愛支も本能的に判断したのだろう」
「ですよね…正直、トーカちゃんよりも僕の身体に近い状態です。ハーフであることが、関係しているのでしょうか…」
「そうだね、記憶喪失は、負担に耐えきれなかったことが原因か…もしくは、幼児退行のようなものを起こしているのか…」
「その…危険じゃありませんか、この子」
不発弾のようなものだと、金木は警戒する。いつ爆発するかわからないのだ。
「そうだ、な。…しかし」
「ああ、大丈夫です。殺したりはしません」
しかし、記憶が戻り、敵対するようなことがあれば、その時は。金木は、その心の内を、言葉にはださなかった
「まあそれに、今は弱体化してる見たいです。赫包、一つしかないみたいだし」
芳村と同等、もしくはそれ以上の赫包を有していたとして、それはどこにいったのだろうか。芳村に意見を求めるために、金木は顔を上げる。しかし、開いた口は、芳村によって遮られた。
「この子を、連れていってくれないだろうか」
「……?…えっと?」
「そう。この子、愛支をどうか君と一緒に連れていってもらえないかな」
「…あ!…その、この“えっと”はお子さんのことではなくて…って、それはいいんです。その、このまま芳村さんと暮らすのは…?」
「その、ね。この子は、私が所属していた組織に目をつけられている。この子の外見からして連中が気づく可能性は低いだろう。しかし、やはり…」
芳村の本心としては、店を畳んででも、娘と暮らしたい。しかし、もうこの店は、自分だけのものではないのだ。古間、入見になら任せることもできるが、すぐに決められることではない。
「この子が心配です、か。…すみません、やっぱりちょっとそれは…」
金木は、未だに自分の服を握って眠る、少女に目を向ける。心底安心していますと言っているような、安らかな寝顔。整った容姿からして、まるで天使だ。あの狂ったような女の正体が、この少女だったのかと、疑わしげな表情になる。
「…この子が目覚めるまで、そんな気はなかったんだ。だがね、気づいたんだ。この子は今、見た目の通りの子どもなんだ。知識としてはあっても、全てが新しいものに見えている。一応、確かめたんだ。アオギリ、隻眼、そして…憂奈。この子はどの言葉にも、反応しなかった。首を傾げるだけだった」
「…それは」
「ああ、正直…悲しかった。でもね、嬉しかったんだ。この子は何も知らない。だから…人として、生きられるんじゃないかって。私よりも、君と一緒にいたほうが、この子のためになるのでは、と」
「……」
「どうか、宜しくお願いします」
頭を深々と下げる芳村に、金木の胃はキリキリと痛んだ。しかし、芳村には恩がある。たとえ、拒絶しても、芳村は何も言わないだろう。だが、ここまで頼られて、この場で断ることはできなかった。
「……一度、皆と話してみます。…それに、あと一週間ありますので、その間に何もなければですが…すみません」
危険度は下がっているように見える。自分だけならば、問題は少なかっただろう。しかし、そうではないので、話は別だ。
「それで十分だよ。ありがとう」
「…いえ」
いつの間にか、金木の手を抱き込むように身体を丸めて、スヤスヤむにゃむにゃと眠っている、天使のような寝顔を晒している少女。しかし、やはり脳裏にあるのは、化け物を形作った赫子に身を包んだ、頭のネジが飛んだ女の姿。
金木は、溜め息を吐きそうになるのを、ぐっと堪えた。
四方さんはお留守番でした。