少年の目覚めです。
「…おねえちゃん、お母さんって……」
「⎯⎯⎯⎯⎯」
「僕、お母さんに会いたいなあ……」
「おねえちゃん、お父さん今どこにいるんだろう」
「⎯⎯⎯⎯⎯」
「お父さん、ちゃんと逃げているよね…」
「お姉ちゃん、赫子出せたよ。これで、僕も人間を狩れる」
「⎯⎯⎯⎯⎯」
「白鳩相手だって…」
「姉貴、そっちいったぜ」
「⎯⎯⎯⎯⎯」
「ああ、弱いな」
「なあ、あのジジイむかつくよな」
「⎯⎯⎯⎯⎯」
「だよな。人間相手にヘラヘラしやがってさ」
「は?なんて言った」
「⎯⎯⎯⎯⎯」
「おい、トーカ。…忘れたのかよ」
「俺を、ここに入れろ」
「なんでかって?…は、志望動機?」
「そんなもの、一つしかねえよ」
「俺は、グールだ。人間の中で暮らすなんて、しねえ」
「…そんなところにいたのかよ、親父」
「っ……?……なんだ、これ」
長い夢を見ていたような気がする。懐かしく、もう手の届くことのない、そんな夢だ。
ボンヤリとした意識の中、アヤトは手の甲で、頬を流れる暖かいものに触れた。
「くそ………って、俺生きて…」
コクリアに囚われたかとも思ったが、違うようだ。それどころが、薄く霞んで、ボンヤリとした視界に映るのは、どこか見覚えのある天井。
「っ」
かつて、自分も暮らしていた部屋だった。出ていったきり、一度も訪れていない、短い間だが姉と暮らしていた場所。
上体を起こそうとすれば、ズキン、ズキンと身体全体に痛みが走った。おまけに、のし掛かってきている怠さのせいか、感覚も随分鈍くなっている。自分の身体とは思えないほど重く感じ、まるで石にでもなったみたいだ。
アヤトは、動くことを諦めた。動けないのだから仕方がないのだ。心の中で、誰に向けることもない言い訳をする。断じて、懐かしくなったとか、そういうものではない。
ベッドに横になったままボンヤリし始めて、どのくらいたっただろうか。アヤトは、緩やかに回転し始めた頭で思考を始めた。
十一区のアジトは壊滅だ。アジトにいたグールは、全滅はしていないだろうが、ほとんど死んだと思っていいだろう。だが、アヤトは悲観しない、わかっていたことだ。自分達の役割は、囮だったのだから。
しかし、そうなるとやはり、コクリアに向かった本隊の成果が気になるところだ。どれほどのグールが集まったのだろうか。タタラはSSレートのグールの所までと目標を決めていたし、もしかすればそれ以上の戦力の増加も期待できる⎯⎯⎯⎯かちゃりと音がした。
「あれ、もう起きてたんだ。おはよう」
自分はなぜここにいるのか。
無意識に考えようとしなかった原因が今、アヤトの前に現れた。
「アヤトっ」
金木の後ろから飛び出した影に、アヤトはのし掛かられるように抱き締められる。そこそこの衝撃に、身体が悲鳴をあげるが何とか耐える。それが誰であるかはわかっているため、アヤトは抵抗をせず、その抱擁を受け入れた。いや、抵抗する力も気力もなかったというのが、正しいかもしれない。同時に混乱もしていたのだ。されるがままだった。
「おい」
そろそろ離れろ、そう言おうとしてアヤトは違和感を覚える。左側にだけ、圧迫感がなかったのだ。
「トーカ、右腕は…」
あるべきものが、なかった。トーカの右腕の欠損は知っている。しかし、自分達はグールである。その場で再生しなくとも、食事をとれば、何もなければ次第に再生する。そう、トーカが負傷したのはもう何日も前のことだ。で、あるのにトーカの右側は空白だった。
「そんなこと、いいのよ。…よかったぁ」
「…」
感情のこもったその声に、アヤトは思わず口を閉ざす。気まずい気持ちになったアヤトは目線を横にずらした。
金木と目があう。
「…」
「あはは…」
微笑ましいものを見るような目で見られた。アヤトの頬にサッと赤が集まった差す。
「ぐっ…」
走る痛みを無視して、身体を捩る。抜け出そうともがくが、思いの外トーカの力が強かった。びくともしない。羞恥が沸き上がるも、ふと以前見たプロレスの試合を思い出した。押さえつけられた方をだせぇと馬鹿にしていたが、今なら少し、その気持ちがわかった気がした。
「はなれろ……痛い」
バッと勢いよくトーカが身を退かせる。ああ、解放感。
「ごめんっ、大丈夫⁉」
「…うるせえ」
「あっ、ごめん……」
「え、いや…大きかっただけ…」
妙に汐らしくなっている様子のトーカに、アヤトは思わず否定を入れる。
「よかった…」
誰だこいつ。アヤトは思わず、心の中で叫んだ。何とも言えない気持ち悪さを感じる。続いて、目に涙を溜めたトーカに金木がハンカチを渡す光景にも苛立ちが募る。
「アヤト君、身体の調子は?」
トーカに労りの言葉をかけた後、金木がアヤトに尋ねる。しかし、アヤトはそれに答えなかった。
「おまえが、ここに?」
「?…ああ、あの場所から連れ出したのは僕だよ」
「そう、か…」
ならば、あの声は。それを聞こうとしたアヤトだったが、口を開きかけて、止めた。記憶は霞がかってはいるが、覚えている。気になるが、あの時の会話の相手が金木だったところで、自分の恥にしかならないということに気づいて止めた。
「アオギリのグールを狩っていたのはおまえか?」
「そうだよ。半分くらいだと思うけど」
やっぱりか。
しかし、アヤトは不思議に思った。それは、こんなことを聞いても、怒りがさほど沸いていない自分に対してだ。別に、金木の行動を受け入れている訳ではないと思う。僅かにだが、苛立ちはしている。ただ、脳にフラッシュバックされるのは、あの日の、血塗れになったトーカの姿。それが原因であるのは確かだった。頭のどこかで、ヤモリを殺った、目の前の男に作戦を台無しにされることを、理解していたのかもしれない。そして、自分は結局のところ、その懸念を誰にも話さなかったのだ。
「…コクリアは?」
「朝ニュースで見たけど、捜査官側に重傷者多数。殆どのグールは逃走。でも、コクリアは死守したって」
「…そうか」
「…僕を責めないのかな。自分で言うのもあれだけど、僕のせいだと思うんだ。CCGにリークもしたし」
「…売ったのか」
「うん」
金木が、言葉とは裏腹に少しも悪びれる様子もなく、ただ純粋な疑問から、アヤトに聞く。白鳩に情報を流していたことに少し驚くも、アヤトの無気力な様子は変わらなかった。どこか投げやりな口調で、アヤトは言葉を投げる。
「ああ……てめえのせいだよ。全部な。同じグールなのに、白鳩なんかに売りやがって…しかも、半数って何人殺ったんだよ。…ヤモリもだ。…あれでも、仲間だった」
「だった…だったんだよね」
「…ちげぇ」
「君も赦せなかったんだよ。心のどこかで、アオギリに反感をもったんだ。…トーカちゃんが」
「ちがうっ……ちげぇよ…」
「あの時に、わかってたよ」
「何がっ……ぜんぜん………………わかんねぇ……」
両手を交差させて、顔を隠しながら、アヤトは言葉を吐き出す。その声は、苦渋に満ちていた。最後は、消え入るような小さな声。
しかし、金木の耳にはそれが確かに届いた。思春期かな、と生暖かい目で、素直になれない目の前の少年を見つめる。
「アオギリには戻るのかな?」
「…戻らねえ」
「なぜ?」
「俺は、裏切ってたんだ………お前のことを話さなかったんだ」
「…ふ…あ…あはは」
笑い声を怪訝に思い、アヤトは両手の隙間から覗く。そこには、目を細めて嬉しそうに微笑む金木がいた。
「…なんだよ」
「いや、何か嬉しくて。ごめん」
「……」
「まあ、どちらにせよ、もう選択権はなかったんだけど」
「…は?」
「ほら、できたみたい」
アヤトは、金木の視線の先を辿る。いつの間にか、トーカが立っていた。いや、何時からいなくなっていたのだろう。
「はい」
片手で、トーカが持っていたものは、トレー。その上には、一つのスプーンと、湯気の立っている茶碗がのっていた。
「おかゆ、熱いからゆっくり食べなよ」
「……は?」
アヤトには、トーカの行動の意味がわからなかった。唖然としている内に、金木によって、ゆっくりと上体を起こされる。
「しょうがねーな」
金木がトレーを持って、トーカが木製のスプーンでひとすくい。それは、一度トーカの口元へと持っていかれ、吐息によって冷まされた後、アヤトの目の前へとやってきた。とろとろに見える、少し香ばしい匂いのするそれに、人間の食べ物であるはずであるのに、なぜか興味を引かれる。
「ほら、あーん」
「…頭、大丈夫かよ。食えねーよ、そんなもん。人間と生活している内に、ついにイカれたの「食え」ぶっ」
アヤトの口に、スプーンが突きこまれる。直ぐ様吐き出そうとするが、トーカの力が強く、それはかなわなかった。キッと睨み付けると、威圧感のある笑顔を向けるトーカがいた。
今のアヤトは、身心ともに弱っていると言っていい。アヤトはその迫力から、目を反らしたのは、仕方のないことだろう。
そこでふと、違和感。口の中の異物がなくなっていた。自分はまだ、吐き出していない。いなかったはずだ。
「なんだ、ちゃんと食べてんじゃん」
「…は、あ……?」
「ほら、もう一口」
先程と同じように冷まされたそれは、抵抗する間もなくアヤトの口へと入る。舌にのった瞬間、不思議な感覚がアヤトを包む。
「ほら、あーん」
次々にそれはやってくる。無くなれば、またやってくる。アヤトは、トーカにされるがままに、それを受け入れた。
「全部食べたね。おいしかった?」
金木が横から聞いてくる。何で、そんなに当たり前のようにしているんだと、アヤトは混乱する。
「まだ食べる?」
トーカも当然のように聞いてくる。
依然、アヤトは混乱の最中にある。しかし、口は自然と動いた。
「…よこせ」
「はいはい」
トーカが嬉しそうに、笑いながら立ち上がって離れていくのを、アヤトは目で追った。そこで、目の前に白い何かが、差し出された。前を見ると、金木が微笑みながら、ティッシュペーパーを持っていた。
「よだれ、でてるよ」
その姿が、いつかの記憶と重なる。
アヤトの中から、感情が溢れた。
「…おい」
不機嫌な声の主は、アヤトだ。本を開こうとしていた金木が、顔を上げる。
「ん、僕?」
「…ほかにいねぇよ」
トーカはたった今、洗い物に行った。金木と、どちらが洗い物をするか言い争った末、結局トーカが行った。
ちなみに、アヤトはお粥を全て平らげている。覚えのない満腹感から、眠気がアヤトを襲っていた。この微睡みに身を任せたら、さぞ心地よいことだろう。
しかし、金木に聞いておくことがあった。
「そうだね、ごめん」
「……」
金木の、笑顔がアヤトの癇に触る。幼い記憶の父の姿と、重なる。しかし、アヤトは目の前の男が、父親ほど甘くないことも知っていた。アヤトは、ヤモリとの戦闘をその目で見ていないし、これまでの金木のことも知らない。だが、アオギリに居たからこそ分かる、強者空気。それを肌で感じとっていた。
「…お前がしたのか」
「食事のことなら、そうだよ……えっと、僕の細胞をアヤト君の身体に入れたから」
「…は、細胞?」
「…うん、まあそれはいい。適応したみたいだし。よかった、よかった」
金木としては、己の唾液を全身に塗りたくったなど、言えるはずもない。そうやって、目を反らして話す金木に、アヤトは胡散臭げな視線を送る。
「俺の身体、どうなったんだ」
「一時的に、グールじゃ…無くなったのかな?…ごめん、まだよくわかっていないんだ。話せば長くなるんだけど、今聞く?」
明らかに眠たそうなアヤトに、金木が尋ねる。既に目に力はない。
「…いや、いい。……これ、他のグールにもできんのか…?」
頭に浮かぶのは、アオギリの構成員。結果的に裏切っていたという罪悪感から、アヤトの顔が歪む。
「しない。…可能か不可能かなんて、関係ないんだ。…まあ、この先はどうなるかは、わからないけど」
「……」
アヤトは、何も言えなかった。怒りも、疑問も沸かない。金木の答えを聞いても、何も感じなかったのだ。
「他に、聞きたいことある?可能な限り答えるよ」
「いや、今は…いい」
「そう」
眠たい。
感情のこもっていない、しかしゆったりとした金木の口調、低めの音が、余計にアヤトの眠りを誘う。
本隊の奴等は、今頃どうしているのだろうか。少なくとも、自分のように、暖かなベッドに包まれて微睡んではいないだろう。
部下だったあの男はどうしているだろうか。赫子とも言えない、小さな赫子を発現していたが、逃げられただろうか…………
…………すぅ。
薄いのカーテン越しに、冬真っ只中の暖かなお日様の光が、部屋の中に降り注ぐ。アヤトの意識は、柔らかな空気のなかに溶けていった。