西尾さんとは、一旦別れた。後で“あんていく”へ行く約束をして。
芳村さんに連絡をした際、西尾さんとの経緯を簡単に話した。最後は、とりあえず一度“あんていく”にということで話は落ち着いた。
約束の時間まで一緒に過ごさないかと西尾さんに誘われたが、断った。僕が話せる情報はもう話したし、これから落ち着いて二人で話したいこともあるだろう。それに、目の前で繰り広げられる…仲の良い光景にうんざりしていた。
西尾さんの身体の変化については、保留になった。今のところは先を予測して、その都度対処していくしかない。
“血”と“唾液”についても不明なことが多い。“僕の肉”でどうなるかなどわかるはずもなかった。
リョーコさん、ヒナミちゃんにも継続して吸血行為を行う予定だ。それで、人間の食事はできている。しかし、だからと言って人肉の摂取が不必要になったと言えるのだろうか。グールは一月に一度の食事でも生活できるため、これも最低でもあと二週間は経たないと分からないことだが。
ここで、トーカちゃんが僕の血を飲んでいたことを考えた。あれは、グールの食事と言えるのだろうか。どちらかと言うと、初めて僕が彼女の血を吸った時のものに近い気がする。肉より、血を求めていた気もする。
今のところ、僕の食欲は人肉には向かっていない。これからもないと思いたい。大丈夫…だとは思う。退院後、一番に求めたものは血だった。これを踏まえれば、やはりトーカちゃんは、より僕に近付いてきているといえるんじゃないだろうか。それに、差はあれ、当てはまるのは彼女だけではない。
と、まぁちょっと別のことを考えてみたが、本当どうしよう。西尾さんに、というか彼の赫子に問題があった。問題は言い過ぎか。いや、でもなあ。
彼は尾赫だ。出てくるのは尾てい骨の辺りらしい。
それって…とは一瞬思ったが、すぐにやめた。
最悪自分の肉を切り取ることになるかもしれない。“肉”が“血”よりも効果レベルが低かった場合にだが。
……男のお尻に顔を近づけたくはない。女性だったらいいと言うわけでもないけど。
そんなこともあって保留。ちなみに、西尾さんは唾液の話の時点で顔をひきつらせていた。気持ちは理解できた。僕も男の唾液なんか、塗りつけられたくはない。ゾッとする。前世では見慣れていたが…なんだろうな。
女性三人はこのことに対してどう思っているのだろう。少し怖くなってきた。あ、芳村さんにも結構塗ってる……。
最後に少し気になることがあった。
西野さんが「もしかしたら……」と言いかけてやめたのだ。なんだったのだろう。
■
「そーゆうことだったんだ……変だったんです。依子」
「すみません……」
一度帰宅する前にトーカちゃんの家に寄った。小坂さんとの一件を伝えて、話を合わせてもらいたかったからだ。
「いや、いいですよ。私のせいでもあるし。でも、依子の前では……その」
「…ごめん。えっと、よろしくお願いします」
なんだか、照れくさい。…まぁ、当然だと思う。
勝手にだが、トーカちゃんはもう身内だと思っている。その目線からしても、十分過ぎるほど彼女は可愛い。何て言うか、うん。気分を味わうくらいはいいだろう。少しだけだ。
「いっそ、本当に付き合っちゃいますか?」
聞き間違えかな。
「えっと…」
「冗談です。ふふっ」
彼女は悪戯っぽく笑った。
なんだろう。振り回された感じがする。
「あ、依子の肉じゃが少し残っているんです。食べますか?」
「…うん。いただこうかな」
実は気になっていたんだ。
トーカちゃんが台所に向かい、する事がなくなる。あ、そうだった。西尾さんのことを話しておくべきだ。どんな反応するかな。西尾さんとは、仲が悪いどころではないらしいし。西尾さんなんか 第一声で「クソトーカかよ‼」なんて言っていたし。
「あの、トーカちゃん」
もう少し待って下さーいと返事があった。いい匂いがこちらまで流れてくる。…いや、確かにまだかなーとは思ったけど、そうじゃなくて。
「西尾さんのことなんだけど…」
彼女の反応は、予想通りだった。特に、西尾さんに肉を食べられた辺りからは、控えめに言って過激だった。最終的には、西尾さんをシメるということで落ち着いたようだ。“あんていく”で働くことになれば、こき使ってやるとも。ほどほどに、とは言っておいたが、西尾さん大丈夫だろうか。
トーカちゃんも一緒に“あんていく”に行くことにった。じゃあ、と今日はうちで夕食をとることに。今日は家にいる二人が作ってくれている。楽しみだな。
■
「やあ、いらっしゃい」
少し賑やかになった夕食を終え、西尾さんと合流し、“あんていく”に着くと芳村さんが出迎えてくれた。
「こんばんは。すみません、いきなり」
「気にしなくていいよ。もうお客様も来ないだろうしね」
もう閉店時間は近い。残っている客もいないらしい。
「西尾くんもね」
芳村さんが西尾さんに声を掛けた。芳村さんは西尾を知っていたのか。声色からそんな感じがする。対して、西尾さんは気まずげに返事をする。
「あ…はい。その、よろしくお願いします」
「うん。話は中に入ってからしよう。コーヒーもご馳走するよ」
やった。…いや、なんだか申し訳ないな。
「なるほどね…うん、西尾くん。君を採用するよ。むしろ、こちらこそよろしくね。勿論、給料も出すからね」
芳村さんが微笑んで言った。
結構即決だった。既に決めていたのかもしれない。
大まかな出来事を話した後、西尾さんは頭を下げて言った。お金はいらない。働かせてほしいと。その代わり、と保護を願い出ていた。
「ありがとうございます‼でも、なんで…」
頭を下げ、感謝の意を表した西尾さんは、同時に戸惑っているようにも見えた。芳村さんの態度に疑問を持ったようだ。西尾さんの中では、芳村さんは裏で何をやっているか分からない、得体の知れない人と言っていたし。
「似ているからかな」
「…?」
芳村さんがチラリと横目で僕を見た。もしかしたら自分の過去と重ねているのかもしれない。
「まあ、いいさ。それで、西尾君」
早速、打ち合わせをするようだ。時間もあるということで、簡単に接客の指導から始まった。見ているだけだが、滅多にない機会だ。ワクワクする。
コーヒーの煎れ方に移ろうとした時。
「あの、下で体動かしていきません?」
トーカちゃんから誘いを受けた。下というのは、この店の地下の更に下。昔、グールが作ったという通路のことだろう。特に断る理由もない。…いや、ちょっとコーヒーの煎れる所見たかったけど。
「あいつ、真面目にやってんな…」
離れる際、トーカちゃんが指導の様子を眺めながら呟いた。
西尾は真剣だ。目の色が違う。出会った頃とは、もはや別人のようだ。何と言うか、そう。謙虚になっている。事実、トーカちゃんは、何か気持ち悪いものを見ているような目をしている。
「さっきも、いきなり謝られたし…。錦に何かしたんですか?……あ。そうだった。凄いことしてましたね」
それもあるだろうが、一番は西野さんのためだろう。そう考えると、今の西尾さん少しカッコよく見えた。
■
「トーカちゃん、身体柔らかいね」
「う、んー。…ふぅ。そうかなぁー」
激しく動く前の準備にストレッチをしていた。今しているのは……なんだったけ。長座体前屈だったか。彼女の身体はぺたーと下についている。投げ出された白い足が眩しい。それに、冷たくないのかな。下、コンクリートだし。
交代。
「まあまあですね」
「トーカちゃんみたいには……いかないね」
息をゆっくりと吐き、徐々に伸ばしていく。うん。今はこの辺が限界だ。
「よし、いきますよー」
「え?ちょ、いたっ……⁉」
トーカちゃんが後ろから押してきたのか。無理やりだ。酷い。
「あれ、進まない…。よいしょ」
「もう、無理……って。やめ……あ」
くすぐるような、ふんわりと甘い香りが唐突にやってきた。痛みも相まって、くらくらとしてきた。
そして、背中に感じる心地よい柔らかな感触。これは…
「まだ、いけますか」
囁くような声がすぐ耳元からした。普通の声だ。それが耳をスッと通り、身体全体までゾクゾクと電流が走って、震えた。
彼女、気づいていないのか。痛みと快感が同時に襲ってくる。止めないと……
「あの、うぐっ……む、むね…」
「よし、あと少しー……へ?…あっ」
「じゃあ、いきます」
「うん」
柔軟をした後は組み手をすることになった。勿論、赫子はなし。僕が出せないからだ。「無理矢理だったらなんとか……」とかは聞かなかったことにした。
「よし。……うわっ⁉」
トーカちゃんが力強く蹴り出したところでバランスを崩した。あ、こける。
「……っと」
なんとか受け止めることに成功。
「すみません。思ったよりも、スピードでてて…」
うーん。変異したことにより、身体能力も上がったのだろうか。
それから徐々に慣らしていくことで、淀むことなく動けるようになった。流石だ。運動神経良さそうだしね。
「トーカちゃん。今、赫子って出せる?」
「…いいですよ。ちょっと待ってください」
そう言って彼女は服を脱ぎ始めた。
「……」
「…あ、私羽赫なんで。この服お気に入りだし、破けるのいやだから……」
恥じらった声で慌てるように言った。そう言えば、赫子を出した後の、四方さんの服の背中部分に穴が開いていたような。思わぬ赫子のデメリットに気づいてしまった。でも、鱗赫は服を捲ればいいかな。
気づいたら、彼女はキャミソール一枚になって僕に背中を向けていた。こほんっと改まるように咳をした。
「それでは。……あれ?」
トーカちゃんは赫子を出せなかった。
確か、彼女が捜査官を襲撃した時も上手く赫子が出なかったと言っていた。しかしそれは、僕の血を摂取した後にはその阻害していたものは無くなったと確認したような。それで対応したと考えていたが、違ったのか。変異型は赫子を出せなくなるのだろうか。だが、確かに今、一瞬トーカちゃんの肩が紅く色づいたのを見た。あれは、皮膚の下では赫子を形成していたのではないだろうか。
それを彼女に指摘してからはそれすら無くなってしまった。
今日はもうここで切り上げることにした。終わろうと切り出した時、彼女の小さな呟きを耳が拾った。聞き間違えかもしれない。それほどに小さな声だった。だが、しばらく耳から離れなかった。
「よかった」という言葉が。
■
「おや、君が金木君かい?。僕は……魔猿と言えば分かるかな」
親しみやすさを感じさせるこの人は、古間円児さん。ここの従業員だ。芳村さんと一緒に西尾さんに仕事内容を教えていたみたいだ。もう一人従業員がいるそうだが、今日は先に上がったらしい。ちなみに二人ともグール。魔猿というのは二つ名だと言っていた。最近まで普通の人間だった僕にそんなこと言われても、当然だが知らない。笑って誤魔化した。
「金木君はここで働かないのかい?」
古間さんが名案だとばかりに尋ねてきた。申し訳なく思うがそのつもりはなかった。今はまだ、あまりグールに関わりたくないというのが本音だ。まず、自分自身について知ってからだ。といっても、最近は逆のことをしているような気もするが。芳村さんも僕の気持ちを分かってくれていると思う。だから“あんていく”に誘われていない。…そうだよね。そう思いたい。
アルバイトは探している。このままだと、生活費が心配だ。リョーコさんは、もうほぼ決まりそうだ。彼女は僕の分も頑張るからと言ってくれているが、それは無理だ。僕の精神的に。だって、ヒモみたいじゃないか。家事もしてもらっているし。それに、お金はあっても困ることはない。大学はもう慣れたし、両立できると思う。
「おや、金木君なら歓迎するよ」
芳村さんが話に乗ってきた。失礼だが、同時に二人も雇っていいのだろうか。いや、僕が断ると分かって言っているのだろう。
「…すみません。せっかくですが」
「働きたくなったら、いつでもいいから」
「うん、うん」
そう言ってくれたことが、嬉しかった。トーカちゃんは少し残念そうだったが。
「その時は俺が先輩だな。教えてやるよ」
西尾さんが得意げに言った。すぐに、トーカちゃんにチョーシのんな!‼と頭を叩かれていた。
そう言えば、ヒデは西尾先輩って呼んでいたっけ。
もし、僕が働くことになれば、トーカ先輩とか呼んだほうがいいのかな。二人の言い合いを眺めながらそんなことを考えた。