REBORN DIARIO 作:とうこ
沢田綱吉の暗殺計画を妨害した後、二人は偵察を終え竹寿司の山本武の自室に籠っていた。
「よし、じゃあ俺達もちゃっちゃと終わらせようぜ」
卓袱台を囲んで山本武がここ一番のやる気を見せる。そんな奴と比べて本来の目的をやり遂げた紫乃の方は課題などもうすでにどうでもよさげである。
ここはやる気のある奴にひとまず任せてみるかと原稿用紙に食らいつくそいつと壁の時計を交互に見守る。
すると山本武が不意にこちらに顔を寄越す。
「んで、何すりゃいいんだこれ?」
「絶望的だな」
原稿用紙と向き合う姿もまるで全然様になっていない。あと十年はかかるな、と落胆する紫乃である。
この男に任せていても課題は終わらないことは早期にわかったので、そいつの代わりに仕方なく紫乃が筆をとることにした。
「つか、伊波のガキの頃の夢がわかんねえんじゃ、やりようがねえんじゃねーか?」
「そんなものは勢いで乗り切るものだ。お前は野球で一体何を教わってきたんだ」
「これと野球ってどう関係あんだよ……」
まさか優等生の伊波紫乃の口から根性論が飛び出し、彼女との会話が思わず後退る山本武であったが、原稿用紙に向かうなり割と真剣に頭を捻る彼女を見て横から口を挟んでみた。
「でもよ、ひとつくらい何か思い出すんじゃねえのか? 子供の頃の夢なんてころころ変わるもんだろ」
「そうだな。花屋とでも書いておくか」
「おいおい待てよ、そんな簡単に決めるもんでもないだろ。もっと真剣に考えてみようぜ」
「普段授業で居眠りしているくせにそのこだわりはなんなんだ」
横からしゃしゃり出るこの男が鬱陶しくて書き出しもろくに思いつかないではないか。
紫乃が文句のひとつも言おうとそいつの顔を睨みつけるが、目が合った山本武は神妙な顔つきで、彼女から視線を逸らさなかった。
「当たり前だろ? 伊波と一緒に課題やれるんだからよ」
「……は?」
相手を黙らせるどころか、こちらが豆鉄砲を喰らうように黙り込んでしまった。それを見て山本武ははにかんでいる。
さらに機嫌を悪くする紫乃に、こんな提案を押し通す。
「んじゃ、今からでも探しに行こうぜ。伊波の夢」
山本武に流されるまま竹寿司を出て向かう先は、白い校舎の外観が夏の日差しに照り輝いている。
「それで小学校というのは安直じゃないか……」
「そうか? まあ、いいんじゃねえか。久しぶりに来たら色々思い出すもんがあるかもだろ?」
小学校の敷居を潜りながらそいつがまた脳天気なことを言う。これは不法侵入ではなかろうか。
「言っておくが、私の母校は並盛ではないぞ」
「え、まじで?」
驚きに立ち止まる山本武の横を軽快に歩いて校舎方面へ向かう途中、校庭から人影がひょっこり現れて彼らに声をかけた。
「あ、武のにーちゃん!」
校内のグラウンドで野球の練習をしていたらしいちびっこの男児が、グローブをはめた手でこちらに手を振る。ランボ達よりひとまわり大きな身体の上に、少年野球のユニフォームを揃えていた。
彼らの声に気づいた山本武が、紫乃の隣から大きく手を振っている。
「よお! 練習サボってねーかお前ら」
「サボってねーよ! もうすぐ武にーちゃんからホームラン取ってやるんだぞ!」
「おう、こっちも簡単に取らせてやんねーけどな」
少年の一人が練習を止めて山本武と話していると、他の少年達も徐々に山本武に気づいて彼のもとに駆け寄ってくる。十数人の男児に囲まれるなり、彼らの視線がその男の隣にいた紫乃に突き刺さる。
「つか武にーちゃん、そいつ誰なの?」
「もしかして武にーちゃんの彼女?」
「にしても彼女地味じゃね?」
「武にーちゃん、野球は上手いけど女のセンスはゼロだよな」
ただ山本武の横に立っていただけで、子供達にこれだけの仕打ちを受ける有様だ。これだから野球をする奴はチャラいんだ。
根拠のない理屈をでっち上げて動揺を隠す。紫乃をここまで連れ出した本人に不満は募るばかりだ。
「お前らそこまでな。もういいから練習戻れって」
紫乃の暗い表情を察して、少年達を紫乃から離すように山本武の声が急かす。しかしそれももう後の祭りだ。このバカの隣を歩くだけでこんな仕打ちを受けるんだ。
「いやー、やんちゃな小僧達でほんと参ったよなー」
「君の彼女面をしたつもりはないが、地味な女で悪かったな」
「いや……あいつらもそこまで言ってないと思うぜ……」
山本武なりに彼女の気持ちを察するが、それが気の利いたことを言っているかといえば別問題だ。彼が変な方向に気を利かせるとむしろ火の粉に油を注ぐことになる。彼が女心を学ぶには、恐らく十年では足りない。
その後も少年達が並中野球部のエースである彼に監督をしてもらおうと度々山本武の進路を阻み、本来の目的からすっかり脱線して彼らの仲睦まじい光景を外野から眺める紫乃は、グラウンド脇のベンチで退屈から目を背けるように晴天を仰いだ。
熱を帯びた空の下で、渇いた風が紫乃の頬を撫でる。心地良く吹く風の感触が、昔の記憶を呼び起こす。夢を見るように、紫乃は目を瞑る。あの頃の声を思い出そうとする。土を踏む音、跳ね上がる呼吸、彼の大袈裟に笑う声……。
「いーなみ」
視線を上げると、日向から日陰のベンチにいる紫乃を覗き込む山本武の顔があった。思わずあの頃の彼の面影と重ねた。
「お前もやろうぜ、数足りてねえんだ」
それは野球のことを言っているのだろうか。紫乃はぼんやりする意識を彼がはめたグローブに向ける。彼の手元で鈍く光るグローブは、穢らわしい己の過去を清算するための火の粉を散らす炎のようにも見えた。
「……ああ、でも、野球はやったことがない」
「ハハッ、そんな構えなくたってゲームみたいなもんだし気楽に楽しもうぜ」
そう気さくな笑顔で誘ってくるものだから、紫乃は仕方なく頷いた。
しかしそう言った本人が一番の本気で投げてくる球に、大人げないだろと冷めた視線を隠そうともしない紫乃の番が近づく。
「がんばれ! 地味なおねーちゃん!」
「地味なおねーちゃん!」
ベンチから同チームの少年達の地味女コールを受ける屈辱的状況下で、紫乃はバットの柄を握る。
彼女の視線の先には、遊びと言いながらその奥に野性的な眼光を飛ばした山本武。先程までのバカを絵に描いたような山本武はどこへ行ったんだ。彼女の目前でフォームを構える殺し屋のそれと同じ男を、紫乃は睨みつける。
こうなれば、仕方ない。三振さよなら。この男に、はなから素人の紫乃が打てるわけがなかった。すまない、少年達。
負け試合を心中で挑んだ紫乃の真横を、山本武が投げる豪速球が突風に勝る勢いで横切った。一年でエースに選ばれるのは伊達じゃない。
やはりこの試合無理ゲーだ。
"立て"
記憶の片鱗が、紫乃の脳裏を過ぎる。
その男の声は、血だらけの脚を庇い地べたに蹲る紫乃に告げた。
"お前が選ぶのは、ここで立つか死ぬだけだ"
ああ、どうして。
三球目が、紫乃の身体の真横を通り過ぎていく。
そこで、何かの魔が差した。
晴天に響き渡る音と、彼らの頭上を大きく飛び越えていく白いボール。
痛みの中で立ち上がる紫乃が見たあの頃の世界の色に似た、眩しい世界を見た。
「打った……」
「ハッ……まじかよ」
「ねーちゃん早く回って!」
「えっ、あっ」
紫乃が一塁に慌てて向かうが、飛距離が伸び悩んだ球は呆気なく失点となった。
紫乃のチームは、山本武のチームに結局負ける結果となったが、彼の球を打ち破った紫乃の功績は彼らにそこそこ尊敬されるものだった。地味女の格は、少しだけ上がったのかもしれない。
ちびっこ達と別れ、並盛の道を並んで歩き始めた二人は互いにくたびれた様子であった。子供の体力は舐めたものではない。
当初の夢探しという大儀なものも、すっかり汗とともに溶けて流れ落ちていた。
「しっかし、伊波に打たれちまったのはさすがに落ち込むな」
まさか本当に打たれるとは思わなかったのだろう。野球においては真剣な彼だからこそ、そのショックは彼の中で大きい。
「相手が悪かったな。屋上ダイブなら付き合わないぞ」
「へへっ、もうやんねーよ。あの頃とは違って野球以外に大事なもんができたからな」
そう言ってはにかむ山本武の顔つきは、たしかに初めて河原で話したあの時とは大分違っていた。彼の中でどんな変化があったのだろうか、しかし彼が紫乃に語ることはない。
この夏が終わる頃には、きっと彼の声も忘れるはずだ。
偶然通りかかった木造家屋の駄菓子屋で、二人は道草を食うことにした。
彼が小学生時代、野球の帰りによく立ち寄った店らしい。その話を彼から聞いて、紫乃も少しだけ付き合うことにした。
店に入るなり、昔から顔見知りの店主の年老いた女性と会話を咲かせているようだ。
「久しぶりだねえ、武君」
「ちわっす、おばちゃん」
「おやおや、見ない間にすっかり大きくなって、どこの男前かと思ったよ」
「大袈裟っすよ、中学でも相変わらず野球しかしてねえし」
まるで祖母と孫の親しい会話を見ているようで、妙に息の詰まる空間に紫乃は彼らの邪魔にならないよう視線を彷徨わせる。
「おやおや、隣にいるのは武君のお友達かい」
「同じクラスの伊波って言うんだぜ」
「どうも」
駄菓子屋の店主に挨拶をして、店内の棚に陳列される駄菓子を見ることにした。店内の駄菓子に懐かしいなとこぼす山本武を見守る横で、紫乃もチラチラと棚の菓子に目を通す。
なんとなく手に取った可愛らしいパッケージのグミを見ていると、山本武が気づいて声をかけた。
「それってたしか女子がよく買ってたやつだな」
「そうなのか」
「買ってやるよ、負けた奢りな」
バツの悪そうな笑みを紫乃に向けて、そんな囁かな気遣いを見せるこの野球バカには、散々振り回されてもどこか憎めない自分がいる。
こんな気持ちを、言い表す言葉があるとするなら。
「じゃあ、オレこれ!」
「ボクこれね、武にーちゃん!」
「お前らいつの間に!?」
先程グラウンドで別れたちびっこ野球団が様々な駄菓子を持ち寄せて山本武にご馳走になる気満々だ。若さとは図々しい。
山本武の財布事情が深刻になることを予見して同情する紫乃は彼らのやり取りを見守る他方で、駄菓子屋の店主に不意に声をかけられる。
「あなた達を見てると、昔の恋愛を思い出すよ、あたしの昔にそっくりだね」
「え?」
「小さい頃から武君はうちに来てくれたけど、今まで女の子を連れてくることはなかったんだよ。あなたが初めてだよ。彼はお気楽に見えるけど、そういうところはしっかりしてる子だよ」
紫乃の知らない彼の時間を見守ってきた彼女の言葉には、説得力があった。鵜呑みにしてしまえば、紫乃は混乱しただろう。
「どうして、わかるんですか?」
「この歳だとお節介焼きたくなるんだよ。あなたを見てると昔のあたしを見ているようでね」
彼女の視線が追いかける彼の姿は、誰よりも今の彼女のそばにいる存在だった。
だから彼にどれだけ振り回されても、夢探しも、野球も、君と一緒なら楽しかった。嬉しかった。ただ一緒にいる時間が、心地良く感じた。
「惚れた弱み、みたいなもんだよ」
それが彼女のお節介を焼く根拠なのか、彼女の気持ちに向けた言葉なのか、今の彼女にはまだ答えが出せなかった。それは、きっと単純に生まれたものではないから。
駄菓子屋で騒いだ後、結局は全員に奢ることになった彼の懐は寂しそうだったが、公園のベンチで有り余る元気を消費する子供達を見守りながら、不意に紫乃はこんなことをこぼした。
「……あったんだ。昔の夢だが、ひとつだけ。もう一度叶えたい夢が」
紫乃の告白に、どんな?と山本武が聞き返す。その目を見つめれば、彼女の記憶の根底にあった些細な恐怖は吹っ飛んだ。
「故郷の花を、また見たい。春が来ると、日本の桜のように一面に咲く、赤く美しい花なんだ」
公園の敷地を走り回る彼らの姿が、昔の自分と重なる。
春に満開に咲いた花の中を、あの人の背中を追いかけてひたすら走った。
どんな花より、その人の笑顔が見たかった。
「いいじゃん、伊波の夢。絶対に叶えようぜ!」
どんな時も背中を押す彼の言葉は、彼女の大好きな赤い花に込められたおまじないのようだ。
またいつか、会えるだろうか。あの頃の景色と。
「ああ、ありがとう」
それから発表会当日になり、伊波紫乃は学校を休んだ。
彼女の空席を、彼だけはその胸に不甲斐なさをとどめて見つめていた。いつか、彼女自身の夢と向き合うことを願って。
これだから、自分は弱い奴なんだ、紫乃はそんなことを思う。
彼との時間も、夢を語ったことも、嘘偽りない。彼とバカを言い合う時は、ありのままの自分でいられた。
けれど、現実は、彼らを騙し続けていることは変わらない。
膨らむ罪悪感と嫌悪感を後に味わうと、深入りできなくて、また距離を置こうとする。事実から逃げるために、こんなことをしているのではない。
そうして紫乃は向き合う。
この世界と、
過去と、
過ちと、
業火と、
彼らと、
犠牲と、
自身と。
【夢物語はここまでだ。
彼の夢を潰した私には、過去の夢を見る資格などないのだから。君とも、最後にしたい。今まで、ありがとう。】