REBORN DIARIO   作:とうこ

68 / 92
雨と小話
雨日和


 例の赤ん坊から厄介な招待状を送りつけられてから、少し経った頃のことだ。

 

 

 

 風紀委員会の雑務をようやく終えて、校舎の正門玄関を潜ろうとしたところ、曇天の空からパラパラと降り始めた雨粒の大群に、彼女は日頃からの無愛想な顔を顰めた。

 

 日本とは豊かな四季がある土地だ。この頃は連日雨ばかり。あの男のように鬱陶しい雨が連日降り頻る。しかし、今朝は傘を持つのを忘れて出てしまった。そのことを彼女は今更ながら思い出す。

 この脳の細部までここ数日の間に降り続く雨の湿気にやられてしまったか、と深く息を吐く。

 応接室までのやけに長い廊下を往復して傘を借りるのも億劫で、ましてやあの男に自分が甘ったれてると思われるのがどうにも癪であり、結局この雨の降る中を帰るしかないと、紫乃はまた深い溜息を吐いたとともにその腹を括ろうとした。

 

 

 この先の見えない土砂降りの中をびしょ濡れになって帰る覚悟をした紫乃だが、霧のように降り頻る雨のせいで不安定な視界には、彼女が雨を凌ぐ正面玄関へと近づく人物の黒いシルエットが浮かび上がる。

 まさか、とその直感を勘繰らせることもなく、部活のユニフォームから何から濡らしている山本武とばったり遭遇する。

 

 

「伊波じゃんか。どうしたこんなとこで、って傘忘れたのか?」

 

 野球帽の下の髪までびしょ濡れにした自分のことは棚に上げ、棒立ちでいる紫乃にそんな声をかける。

 練習の汗か雨のせいか、中に着るインナーがうっすらと透けている。見なかったようにそいつにろくに視線も合わせず、不貞腐れたように紫乃は頷く。ここで彼と遭遇しなければ一秒でも早くシャワーを浴びれたというのに。

 

「伊波でもうっかりしたところあるんだな」

 

「うるさい」

 

「んなこと言うなら早めに帰りゃよかったのに。こんな時間まで何してたんだ?」

 

「風紀の雑用だよ」

 

 

 淡々と無愛想な声で答える。紫乃の頭にはこの男に構うより帰ってシャワーを浴びることだけが念頭にあった。

 その返事を聞いた山本武は、これまでの会話の調子を崩さず紫乃に食い下がると思いきや、少しの間を置いて「へえ……」と曖昧に返すのみだった。

 山本武が作った空気にふと違和感を覚えた紫乃は、反射的にそいつの顔を睨んだ。

 

「そういう自分こそそんな格好じゃないか」

 

「ん? まあな。気づいたらグローブから何までびしょ濡れになっちまって焦ったぜ」

 

 どんなバカでもそんな格好になるまで気づかないバカなど早々いないだろう。彼は天性のバカを秘めた男なのかもしれない。

 この雨の中を帰ってシャワーまでたどり着くシミュレーションの傍ら紫乃は思う。

 

「伊波と違って傘はちゃんと持ってるけどな」

 

「日頃から君をバカと卑しめる私への皮肉か?」

 

「冗談。入ってくか?」

 

 このバカにからかわれるのは屈辱だが、今の彼女には言い返す言葉がない。こんなバカでもこの時期に傘は忘れないものだ。自分の愚かさに、早くこの男から距離を置きたい。

 

「いらん。雲雀に貸してもらう」

 

 適当な理由をつけて、この男から離れようとした。雲雀恭弥のもとへ傘を借りに行くわけではないが、適当な理由でもつけないとこのお人好しなバカが、ヘタクソな気を回すかもしれないからだ。この男もクラスメイトの帰りを気遣うより、早く着替えたいだろう。個人的に、この男には迂闊に頼りたくない気持ちも多少ある。

 

 しかし、彼のもとを離れかける紫乃を、どうしてか雨に凍えた手で男は引き止める。

 

 

 

「伊波」

 

 

 そいつの異常な手の冷たさに驚いている紫乃を無視して、そいつはそれよりも彼女に言いたいことがあると言わんばかりの目の奥の鋭さを向けた。

 

 

「ソッコーで着替えてくるから待ってろ」

 

「え」

 

「ここで待ってろ。いいな」

 

「山本?」

 

 

 

 それだけを紫乃に一方的に押し付けた男は、彼女に待ってろと言いつけて校舎の奥に消えていった。

 わけがわからないと置いてけぼりにされた紫乃は、あの男の誘いを断ってこのままずぶ濡れで帰るべきかを逡巡したが、カップラーメンが茹で上がらない間に紫乃を迎えに来た山本武と、結局は同じ道を帰ることとなってしまった。

 

 

 

「しっかし、伊波と二人で帰るのも初めてだよなー」

 

 期待もしていなかったこの男と二人で帰る帰宅の道中に、例によってこの男からズカズカと話しかけてくる。着替えて戻るまでにすっかりいつもの調子に戻り、二人きりでひとつの傘を差して帰るこの状況の中、ヘラヘラと会話できるこの男のメンタル構造はどうなっているんだ。

 

「……そうだな」

 

「緊張してんのか?」

 

「するか」

 

 断じてそんなことはない、と相手をよく考えて紫乃は間髪入れず否定する。このちゃらんぽらんな相手を見てもそんなわけはない、と無意識に言い聞かせるかのように、紫乃は自分が吐いた言葉を何度も反復する。

 

 

「そっか。俺は結構してるんだけどな」

 

 

 

 雨の音がどんどん遠くなる。隣を歩く男の声だけが、紫乃耳を釘付けにした。

 

 

「どうした急に」

 

「伊波と二人で帰ってるなんて実感ねえっていうかさ、まさかこんだけ話せるようになるなんて正直最初の頃は思ってなかったぜ」

 

 普段教室で見かけるような軽い口調で、彼は淡々と告げた。

 それは紫乃も同じだった。彼らの中でこの男と一番関わることになろうとは、標的の沢田綱吉をぼんやりと観察していた頃には予想にしていなかった。彼の存在は、彼女には大きな誤算だった。

 

 

「あの河原で、初めて伊波と話す前より、教室でお前のこと見てたけど、伊波は教室の奴らなんか見てなくて、もっと別のとこ見てるようでさ」

 

 彼のその話を、彼が差す傘の中で、視線の行き場を彷徨うように俯き加減に聞いていた。それまでは彼の視線を気にしていなかったが、それも彼から距離を詰める度に難しくなってしまった。

 紫乃はあの教室で誰の視線も気にしなかった。ただ澄み渡る空を見上げていれば、退屈な空白を過ごすのも苦ではなかった。大空だけは、彼女の希望であった。

 

 そんな大空を今や覆い隠してしまう灰色の天気の下で、彼女の隣を歩くのが、大空とかけ離れたこの男だなんて、昔の自分に想像できただろうか。

 

 

「初めて話してから、伊波のことどんどん知りてえと思ったら、やりすぎたり、タイミング間違えてばっかで、何度も伊波に突っぱねられたけど、限界まで自分の気持ち我慢して俺の胸で泣いてくれた時に、俺やっぱりお前のそばにいたいと思ったんだ」

 

 見慣れたはずの通学路も、雨が降るだけで特別な景色のように変わる。透明なレンズ越しに見える景色は、逃れられない運命に枯れ果てるまで流した涙を彷彿とさせた。

 この世界に価値もない涙を、あの月の夜男に甘えてボロボロとこぼした。彼女一人には、背負うなんて大義は荷が重すぎた。

 せめて、彼のような資格があれば、戦えたかもしれない。沢田綱吉を犠牲にせず、人知れずこの手を汚して彼を傷つけずに済んだと思う。

 

 君のことも、振り回さずに、お互い無関係なクラスメイトでいられただろうか。

 

 

「正直、嬉しかったぜ。あの時俺を頼ってくれて。クラスのどいつよりもお前の心に踏み込めた気がしたんだ。だから、もうちょい頼って来てくれてもいいんだぜ。雲雀なんかより、俺を頼ってほしい。あいつより頼りなく見えるかもしれねえけど、どんな奴よりお前の一番そばにいて、お前のこと見ていてやりてーんだ」

 

 お気楽だったり、機嫌を悪くしたり、拗ねたり照れたり、忙しい奴だな。いつも紫乃の想像もつかないことをやらかして、それは容赦ない雨が打ち付けるように、紫乃の荒んだ心に染み渡る。

 

 君に頼る資格など、ないと思っていた。そう遠慮する度に、君を不安にさせていたのかもしれない。

 

 

 

 

「君らしくもないな」

 

 本当に君に言いたいことは、別にある。けど、これでいい。

 

 

 

「相手の気持ちなんか顧みず、そいつのためになんとかしてやろうと、とことん真っ直ぐに向き合うのが君だろう」

 

 違うのか? そう卑屈な笑みを向けた。

 

 

 この男の純粋さは唯一無二だ。仲間の悲しみを洗い流してやれるのは、この男にしかできないことだろう。考えるより、君なら仲間のために最善の行動を起こせるはずだろう。あの赤ん坊の言う通りだ。

 皮肉だが、沢田綱吉をボンゴレの未来に導いてやることができるのは、紫乃ではなく彼の家庭教師の男だ。紫乃にはその力量に遠く及ばないことを、彼の成長を見守る中で悟っていた。

 

 限られた時間の中で彼らの力になれることを、いつか彼らが危機を乗り越えられるよう、その信条を信じて疑わず彼女は胸に刻んだ。

 

 

 

「ハハッ、そうだな。自分でもよくわかんねーこと言って、どうかしてるぜ」

 

 穏健な表情に戻り、照れくさそうにはにかむ山本武から、眩しそうに視線を外し、雨の景色に気を逸らす。

 仲間のために行動する君は常に正しい。紫乃の言動に左右されず、剣士であるなら自分自身を信じることだ。いつかそれをわかってほしい。

 

 

「そこの角を曲がったところでいい」

 

 雨は降り続くまま、とある曲がり角に差し掛かると紫乃は彼に言った。曲がり角を曲がると、ほのかな灯りを照らすコンビニの外観が見えた。

 

「いいのかこんなところで?」

 

「ああ。ちょっと待ってろ」

 

 山本武の疑問に、紫乃は返事をする間もなく一人コンビニへと姿を消した。雨の勢いは止まないままだ。そのまま少しして、コンビニのタグをつけたままのビニール傘を一本手にした紫乃が出てきた。

 彼女が傘を購入してそのまま別れてしまうのは想像できた。が、押し付けられたコンビニ袋を前にして、山本武は困惑していた。

 

「ん?」

 

「お節介もいいが、体調管理も杜撰な奴に心配されたくはない。これを飲んで少しは反省しろ」

 

 手際良く傘を開いた彼女に押し付けられた袋と彼女の不貞腐れた顔を交互に見つめて、どう反応していいのやらわからなくなった。袋の中のカイロや温かい飲み物を一通り見て、伊波らしいと苦笑していると、挨拶もなくその彼女は帰路に向かって行くのだ。

 

 

「さんきゅ、伊波」

 

 彼女には当然のように無視されてしまった。けど聞こえてるはずだよな、と山本武は楽観的に彼女とのやり取りを楽しんでいた。彼女が自分のために差し入れた豆乳味のドリンクは、ほのかに甘い味がした。

 

 

 

 

 

 

 

「ばーか」

 

 

 

 山本武と別れ、彼とのやり取りの一連を思い出しながら、紫乃は何度目のそれを吐き捨てた。

 

 

 

 

 雨が降る度に、思い出すだろう。君との帰り道を。

 

 

 

 

 

 

 彼女がシャワーを終えるまで、外は雨が降り続いていた。

 頭から降り注ぐほのかに温かい雨粒を、彼女は両手に掬う。外の音と室内の雨音は乱雑に交わっていた。彼女が人知れず流す涙は、雨にかき消された。

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。