REBORN DIARIO   作:とうこ

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君と、初夏の頃のプールサイドで

【六月二十八日

 

 まもなく学校でもプール開きということで、クラスの男子一同が文句を言いながらプール掃除に駆り出された。

 沢田綱吉は50m泳げなければ女子と補習か、本人には嫌で仕方ないだろう。年頃の男子が女子達に囲まれて水泳指導というのは確かに拷問だ。放課後は山本武に連れられ市民プールで特訓だろうな。

 

 放課後の廊下で偶然見かけた彼らを見送り、私は応接室へと踵を返す。】

 

 

 

 

 

 

 初夏の兆しが見え始めた頃、夕暮れになるとようやく風紀委員の労働から解放された。

 夏服制服の裾を翻し紫乃はジリジリと蒸し暑い夕暮れ時の帰り道を急ぐことにしたが、黄昏色に染まる校内の屋外プールに人影を見つけた。

 何故そこにいるかわからず、紫乃はこっそりと気づかれないようプールの内部へと侵入した。

 

 

 

 

「よお! 伊波!」

 

 無地のTシャツにジャージというラフな格好で、デッキブラシを支えにして一息吐く山本武。一段落ついたようで彼がふと顔を上げたところに、入口前でこちらを見つめる紫乃に気づいた。

 

「……そんなところで何をやっているんだ?」

 

「これか? グラウンド借りて自主練やってたついでだよ。水泳部の奴が一人で最後の仕上げまでやってたんだけどよ、電話でばーちゃんが急に入院したって言うから代わってやったんだ。早く行かせてやりたいだろ」

 

 そんな彼は、白の無地のシャツを濡らして、ずぶ濡れの格好でお気楽に言う。この男はまた……と紫乃はもう言い返す気にもなれない。彼の前で何度目の大仰な溜息を吐く。

 

 初夏の香りを運んでくる風を背に受け、乱れる髪や制服にも構わず紫乃はプールサイドへと近づいた。

 

「相変わらずお人好しだなんだな」

 

「ハハッ、伊波に言われると満更でもないぜ」

 

 向こうも気を悪くすることもなく、お決まりの軽いノリで返している。

 彼とのこんなやり取りも、一年前の今頃には想像もしなかったことだ。

 

 

「これで後は水を汲むだけだぜ」

 

「そうか……山本」

 

 清掃作業も大詰めのところで、蛇口に手を掛ける山本武にここに来る前に自販機で買ってきたペットボトルに入った飲料水を投げる。

 

 野球で鍛えた反射神経で難なくそれを受け取る。彼は笑った。

 

「ハハッ、ありがとな。しっかし緑茶ってのはちょっと渋くねーか?」

 

「甘い飲み物は骨を溶かしてボロボロになるぞ」

 

「なんだそれ、ガキかよ」

 

 子供の迷信じみた話を意外と真に受ける彼女に思わず笑いがこみ上げる。学年で十番以内の秀才である彼女が真面目に言うので尚更面白い。

 

 

 

 放課後もとっくに過ぎていた誰もいない屋外プールの一角に、彼とこうして二人だけでふざけ合う。

 クラスでも明るいムードメーカーである彼は、彼女から一番遠い存在のはずだった。

 

 話しかけられた頃は、何かの気まぐれだろうと軽くあしらっていた。落ち着けばまた元通り。白紙のような毎日。けれど、彼は違った。

 彼女のレンズ越しの視界に、夕暮れ時の山本武の姿は眩しく見える。錆びれたフェンスに漏れる夕暮れの光は、どこか寂寥感を助長させた。

 

 彼女がどれだけ泣いても、怒っても、一方的に拒んでも、あの笑顔で彼女を受け入れてくれた。素直になれない自分に、ゆっくりでいいからと、歩み寄ってくれようとした。

 

 そして、彼との時間が過ぎていくに連れて気づいた。彼が情けだけで接してくれているのではないんだと。この心は彼に蝕まれていたんだと。

 

 

 

 

「山本」

 

 彼はきっと、自分の声に振り返ってくれる。自分の声を遠くにいても聞いてくれる。

 

 

「あの日……公園で君が私に好きだと言ったことは、本気なのか?」

 

 薄桃色に染まる公園で、あのベンチで君が告白してくれたことを、君はまだ憶えているだろうか。

 

 

「ん? そりゃあ、冗談で言わねえぜ。伊波のことはもちろん好きだぜ!」

 

 紫乃は、きっと自分でも知らないところで、密かに期待を込めていた部分があったかもしれないと、ようやく気づいた。気づいてしまった。

 

 ずっと返事を待たせてしまった。その気持ちと向き合うには、随分と遅くなってしまった。

 

 

 

「……君が、どんな意図でそう言ったであれ、私は君の気持ちには応えられない。それは詫びの品だ。もう約束は守れない」

 

 屋外プールに敷き詰めたタイルの上を踏みしめて、彼女は長く待たせてしまったあの日の返事をした。

 

 彼の夢も、自分は壊した。だから、気持ちも殺した。

 二度と振り返らないよう、伊波紫乃を貫いて、彼のもとを去ろうとした。

 

 

 

 

「待ってるぜ」

 

 プールの向こうから、山本武の声がした。

 気持ちを込めた力強い声だ。思わず振り返りそうになる。

 

 

「約束したぜ。今は無理でも、伊波が来るまで、俺は準備万端にして待ってるぜ」

 

 

 

 ああ、なんて、君らしい発想だな。

 

 

 黄昏色の景色に染まる君の姿を、せめて忘れないように――……初夏の風に背中を押されて、彼女はその場を後にした。

 

 

 

 

 

 さよならと告げる彼女に、あの時どんな言葉をかけてやればよかったんだ。

 

 あんなことを言いながら、寂しさと取り繕った虚勢に押し潰されそうな目をしていた、あの時の彼女に、まだ具体的な名前を知らないこの想いを打ち明けてみたら、もしかすればもう一度立ち止まってくれたかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【放課後、夕暮れ時の、二人だけの屋外プールで、山本武との縁に終止符を打つ。

 

 それでも、彼は"待ってる"なんて、最後まであのバカは人が良いにも程がある。

 

 

 

 もしも、違う形で出会っていたなら、きっと好きになっていたんだろう、彼のことを。

 それとも、伊波紫乃でなければ、彼と巡り会えたことを運命には赦されなかった。皮肉なものだ。

 

 こんなにも涙が溢れ出るものとは知らなかった。知りたくなかったよ。こんな涙の味なんて。】

 

 

 


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