妹が小首を傾げ、上目遣いで訊いてきた。
「レミ姉、どうして目が赤いの?」
やっとの思いでたどり着き、部屋に入った直後、フランの開口一番だった。
「ちょっと目にゴミが入っただけよ」
目元を手でぬぐいながら、何でもないと取り繕った。
フランの部屋にたどり着けず、右往左往した挙句半ベソになったのは内緒である。たとえ地図を貰っても涙を流していただろうと謎の自信もあった。咲夜によってリフォーム中の我が館はダンジョンに片足を突っ込んでおり、二股に分かれる階段の分かりづらさは反則級である。だから迷うのも仕方がなく、咲夜に泣きつかないだけ今日の私は大人だったと思う。
フランの部屋の造りは基本的に私の部屋と同一である。ただ、妹の部屋の方が少々ファンシーで少女趣味めいていた。部屋の隅に天蓋付きのベッド。その反対にカラフルな絵本が並んだ書棚。カーテンにはゆったりとしたフリルが施されている。やたら大きなソファと星の形をしたクッションにはリボンが結わえられていた。
それら敷物を無視して、フランは床にぺたんと座っていた。足を外側に開いた中途半端な正座で、くるぶしの肌色が眩しい。
フランの右手には色鉛筆が握られていた。その色鉛筆で魔法陣を編ませれば、パチェに次ぐほど高度な陣を敷設するのだが、絵の実力となると外見年齢相応なレベルなのだから微笑ましい。
今日はお絵かきの日だったようだ。
「お庭を背景にして書いてるの。これが美鈴でこれがパチュリー」
生まれ持っての不思議な羽をふゆふよと揺らしながら説明してくる。私はうんうんと相槌をうつ。庭園の噴水を背景にした集合絵だった。
「それでね、これが咲夜でこれが咲夜で、これとこれが咲夜」
満面の笑みで次々と絵の中の咲夜を指さす。二人がフランの横で、もう二人が私の横に並んでいた。
「やっぱり咲夜は4人なのね」
「レミ姉も嬉しいでしょ。大好きなものが増えて」
直球な表現にドキリとさせられる。純真な言葉は幼さの強みであり、少し羨ましくもあった。
「否定はしないわ」
けれど肯定も微妙なところだ。
「ねえ、せっかく4人もいるんだから一人くらい私の眷属にしてもいいでしょ」
「ダメだ」
即答した。「咲夜は私の従者よ」
「よくばり」フランが口を尖らせる。「レミ姉ばっかりずるいよ」
「ずるくない」
「咲夜がいいって言えばいいはずよね」
「それなら……」頷きかけて、断固首を振る。「やっぱりダメだ」
「どうしてよっ! 咲夜が良ければいいに決まってる」
本人のことは本人が決めるのが道理だとフランが理論武装する。
自由意思を重んじるならば、よく考えるまでもなくフランが正しい。理屈ではそうだと私も認めざるを得ない。
でも、咲夜は首を縦に振るかもしれないのだ。「一人くらいいいかも」と、自分のことながらどこか現実感なく答える姿が容易に目に浮かんでしまう。そして、その咲夜は微笑みながらフランの横を歩いていくのだろう。
想像しただけで胃が捻じれそうだった。
つまり、私が嫌なのだ。咲夜がよくても。
「フランがチャームしてるかもしれない」
「言いがかりよ。そんな恥知らずなことはしないわ」
確かに分の悪い言いがかりだ。だけど、食い下がる。
「咲夜を増やしたのもフランの仕業でしょ。フォーオブなんたらってスペルがあったわよね」
「あれは人間には使えないわ」
「じゃあ何で増えたの」
「そんなのあたしの知ったことじゃない。――もういいわ! レミ姉さえいなければ咲夜は私のものだもの。我儘で欲張りで自己中なレミ姉なんか消えちゃえ!」
フランが八重歯をむき出しにして叫ぶと、たちまち炎が彼女の右腕を取り巻いた。ちりちりと空気の焼ける音の中、赤々と燃える火は次第に形を変え、剣を成していく。フランはその切っ先を私に向けてきた。
いいだろう。
姉妹喧嘩なんて久しく忘れていたけれど、力ずくは嫌いじゃない。
「丁度いいわ。推理が外れてむしゃくしゃしていたの。姉に勝る妹など古今東西いないと教えてあげる」
魂の通貨――〝血〟を右腕に集めて蒸発させる。槍を具現化させるとき、そんなイメージをするとするりと出てくる。鎖でも十字手裏剣でも、あらゆるイメージを形にできるのが私の血の強みだろう。
懐かしい感覚だ。腰だめに握った槍の重みは血が騒ぐほど手に馴染んだ。
躰を半身に逸らし、睨んだ先はフランの喉元。
「コンテニューなんてさせないよ。災禍の業火:レーヴァティン」
「咲夜は渡さないわ。深紅の神槍:グングニル」
啖呵を切り合い、姉妹で切っ先を向け合う。
先手を取ろうと、脚にためたバネを解き放つ――。
その直後だった。
「お嬢様方ぁー、ワッフルが焼けましたよー」
ドアが開かれ、香ばしくも甘い香りがふわりと広がる。
「あら、喧嘩中でしたか?」咲夜はきょとりと首を傾げてから、手に持った銀盆に目を落とす。「ならこれはパチュリー様への差し入れにしましょう」
咲夜の手の上の銀盆にはチョコレートソースのかかったワッフルが並べられていた。こんがりとした焼き色に思わず食欲がそそられる。
カランカランと足元から鳴った乾いた音に、自分の目がワッフルに釘付けになっていたと気づかされる。いつの間にか、私は槍を手放していたらしい。隣からはぎゅるるると、フランの腹に飼われている虫が騒がしい。横目で確認してみれば、フランの手に握られていた炎は既に影も形も無くなっていた。
フランと互いに目を合わせ、コクリと頷きあう。
腹が減っては戦ができないのである。
そもそも争いには怪我や痛みが付き物なわけで、怪我や痛みより美味しいの方が好ましい。
「嫌だなあ咲夜、私とレミ姉は仲良しよ」とフランが肩を抱いてくる。
「喧嘩なんて子供みたいな真似はしないわ」
「ふふっ、そうでしたね。ところでお二人とも、よだれが出ていますわ」
咲夜に身だしなみを指摘され、うぐっと声を漏らした。慌てて手の甲でぬぐい、隣のフランにはハンカチを貸してやる。それを見た咲夜がフフッと微笑んだ。どういう意味の笑みなのだろうかと気になる。
しかし、よだれを出してしまったのはレディとしてあるまじき失態だった。私は朝ごはんを食べないまま館に翻弄され続け、フランはフランで夢中に絵を描いていたと言い訳をするにしてもだ。
幸い、腹の虫が鳴る前に食堂へたどり着くことができた。お嬢様度(今作った指数) は1点くらい私のリードだろう。
でも、どちらのワッフルが大きいかでもめたから、マイナスに傾いているかもしれない。
吸血鬼というのは案外単純にできていて、お腹が満たされるとフランへの敵意もなくなっていた。フランも私くらい単純だったら嬉しい。
昼下がりの午後、安楽椅子に座って推理をして見る。まず形から入るのが私の主義なので、チェックの鹿内帽も見繕ってきた。
「咲夜を増やしたのは誰だろうか?」
素直に疑問を声に出す。
パチェでもなくフランでもないとすれば、残るは美鈴だろうか。体術マスターの彼女が分身の術を咲夜に伝授した可能性も否定はできない。しかし、夢の見すぎな仮説である。
では館の人間の仕業でないとなれば、外の人間の仕業だ。排中律である。
例えば白黒の魔法使いは少しあやしい。頻繁に紅魔館に出入りしているし、パチェとは体系の異なる魔法を操るとも聞く。その白黒が魔法の触媒にするのは茸であり、分裂や増殖は茸の十八番だ。ふむふむ。十分あやしいので走査線に上げておく。
次点に紫をあげよう。幻想郷の黒幕オブ黒幕の彼女なら、何をやっても不思議ではない。『咲夜が一人の境界と咲夜がたくさんの境界』を弄ったと言われても、もはや私は驚かないだろう。
次々点として永遠亭の薬師があやしい。月の民というだけで甚だしく危険なのに、永琳はやつらの親玉なのだそうだ。それにだ。永夜異変の際、永琳はうちの咲夜に異様な興味を示してきた。『たくさん増やしてしまえば、一人くらいちょろまかしてもばれないでしょう』と企てても不思議じゃない。
少し考えてみただけで、容疑者候補が簡単に出そろった。
幻想郷恐るべし。
明日は日傘を用意しよう。