この素晴らしい願い事に奇跡を!   作:赤福餅

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137話

 風を切る音。羽が羽ばたく音。そして、心臓の音。

 安心してしまうその鼓動に後頭部を当てて、身体は少し体温の高い胸元に預けられ、後ろから抱くような形で伸ばされる両腕にしかりと支えられている。

 

「…………んん」

 

 薄らと目を開けるとゆんゆんは――雲の上にいた。

 

(うわぁ、凄い! 街も森もあんなに小さく見える!)

 

 起きた直後の寝惚けた頭は高所にいる危機感などを計算できず、ただ純粋に感動だけを覚えていた。

 空の旅を満喫するよう目を瞑り、そして、とろんとしたまま視点を少しずらせば、力強く羽ばたく天馬の翼があって、自分を抱き支える彼の腕があった。これに視点を沿って行けば辿り着くのは仮面の横顔。寝惚けていても見間違えるはずなどありえない。胸に頭をよりかかっている状態で、息がかかるくらいすぐ間近より見上げるその面は精悍で……ゆんゆんの目には流れゆく青空の景色がぼやけて見えてしまうくらいに焦点をあてて夢中になってしまう。まさしく天にも昇る嬉しさだ。

 

 こんな本当に空を飛んでいるのもそうだけれど、彼とこれほど近くにいるなんて、ああ、これは夢なんだろうか。

 だって、めぐみんから彼の正体が隣国の王子様だと知れたあの時、驚きが収まると共に湧いて出てきた感情の中には、絶望もあった。これは言うまでもないが、その身分差故にであり、けして諦めたくない気持ちがそれを上回ったけれど、自分の想いはもう封じ込めるしかないのだとも思ったのである。

 しかし、こうして独り占めで抱きしめられている状況を想うと頬が自然とほにゃぁと緩んでくるというもの。

 

「――おや、起きたみたいだな、ゆんゆん」

 

 熱い視線に気づき、天馬の幉を取りながら仮面の奥の眼差しがこちらに向けられる。

 綺麗な瞳。その最奥にはどんな時でも絶えることのない光を宿した、力あるその瞳。それが私ひとりを見つめて、私のことを気遣い想ってくれている。これに、再び夢見心地にいざなわれてしまったようにゆんゆんの唇が開いて、胸の奥から篭った言葉を吐き出す。

 

「やっぱり、私ってとんぬらさんのことが好きなんだなぁ」

 

 ・

 ・

 ・

 

 …………………今私、何を口走ったのぉ!?

 い、今のは心の声よね? 口に出したわけじゃなく、心で考えただけ……やっぱりダメぇ! 口が覚えてる。好きって発音したことを、口が覚えちゃってるぅぅ!

 

 あわわわわ!? と唇を戦慄かせて震えるゆんゆんの目に赤点灯。ついやらかして、頭の中の緊急警報が微睡む意識を一気に浮上させる。

 

 どうしよう!? よく独り言呟いちゃうから、ついポロッと……ま、待って。反応がないってことは、聞こえてない? そうよ、落ち着いて。小声で漏らしたんだからとんぬらさんの耳には届いてない可能性だって――

 

「ごほっ、がは」

 

 思いっきり咽てるよとんぬらさん! これ絶対聴こえてるううううう!

 そ、そうよね。うん、きっと――これは、夢! 夢に違いない! なら大丈夫! セーフ!

 

「すーっ、すーっ」

 

「いや、ここで狸寝入りをさせられるとこちらも反応に困るんだが」

 

 うん、ダメだよね。わかってた。でも、どうする? どうしよう? ……だけど、ううん。どうしようもないんだ。

 だって、この気持ちはウソでも間違いでもなく、本心であって、それなら、誤魔化すことに、意味があるの?

 でも、それは声にしても届かないもので、そして、私は届かせてあげられなかった。覚醒直後でも、決闘に負けてしまったことくらい、覚えてる。そう、失敗してしまったのだと。ほんの直前まであった高揚感は天から奈落へと一気に落ち――

 

 

「――っ、ごめんなさい」

 

 一度、喉に詰まってしまった言葉を、胸の奥に呑み戻しはせず吐露する。きゅぅっと絞られる胸を手で搔き毟りながら、沙汰を待つ。

 仮面の奥の双眸が私を見下ろしている。

 

「どうして」

 

 ぽつりと短く零されたそのセリフは、いつもより低い声音だった。聴き心地の良い美声である分だけ、その分恐怖が増す。それで、その瞳は、彼の感情を一目でわかり易く表している。燃え盛る紅玉(ルビー)の魔石を内包したように揺らめく紅魔族の血統示す色の瞳に浮かぶ感情の名を、私は無視なんかできやしない。とんぬらは、怒っている。

 

「どうして、ゆんゆんが謝るんだ」

 

 唇が戦慄くのを、他人事のように感じる。口から出てくるのは薄い吐息ばかりで、それ以上は言葉どころか音にもならない。こちらを見降ろす瞳に宿る光の強さに、唇を噛む力が入る。

 

「ごめん、なさい」

 

「っだからどうして謝るんだゆんゆんが!」

 

 怒声に、空気がびりりと震えた。瞬間、肌が粟立つような感覚が全身を襲う。

 それにビクついてしまった私を見て、とんぬらは無意識に声を荒げたことにやっと気づき、それ以上言葉を連ねることなく台詞を切った。後悔している、と仮面越しでもその顔から見て取れる。

 

 どうして、上手くいかないのだろう。こんな顔をさせたいわけではないのに。

 やはり負けてはいけなかったのだ。勝って証明するのだと決めたのであれば、それは何としてでも証明しなくてはいけなかった。

 そんな緊張を孕んだ沈黙の中で、やがて嘆息がひとつ。

 

「まったく」

 

 それから、掌に爪を突き立てるくらいに服の胸元を掴んでいた自分の手を彼は取ると、その指を解く。そこにはやはり、爪の痕が赤く残っている。痛いことなんか気にしていなかったけど、仮面の奥の目はそれにより細まり、そっと慰めるようにその掌に自らの手を重ねて撫でる。そして、また深く溜息を吐かれる。

 

「……ゆんゆんは、どうしてそうなんだ」

 

「ごめんなさ……」

 

「違う。それは違う。君が俺に謝る必要などない」

 

 違う、ときっぱりととんぬらは繰り返し、手で顔を覆って空を仰いだ。とんぬらさん? と呼びかけようと口が開きかけたけれど、どうしてかすぐに噤んでしまう。

 そうして、声を掛けることができず、じっと震えを落ち着かせていたこちらの耳に届いたのは、細いけれど確かに男性のものだと解る骨張った手の指の隙間から零れ落ちた吐露、余計な装飾などが省かれたその分だけ彼の自分に対する実直さが露わとなった言葉だった。

 

「――――すまなかった」

 

 空を飛ぶ絶景も全く気にならなくなる。自分の目が大きく、そして丸くなっていくのを感じる。一体何をこの人は言っているのか。理解に苦しまずにはいられない発言に、気付けば口が動いていた。

 

「とんぬらさんこそ、どうして謝るのですか」

 

 この問いに、仮面の瞳は瞑られる。その露わとなった目の色を押し隠すように。そして、噛み殺し切れぬよう僅かに震える仮面の下の頬。思わず手を伸ばしそうになったのを、胸元に手を添え直すことで堪えたけれど、口は動いてしまう。

 

「お願いしたあの時も、とんぬらさんは謝りましたよね?」

 

 “(ゆんゆん)”を見つめながら謝罪の言葉を口にした時も、こんな風だった。今度はちゃんと私を見ているのがわかる。でも、その理由はわからない。

 この追及は、彼の内奥に触れていたものだったのだろう。閉ざしていた瞼がピクリとわずかながらもけして無視できない、無言ながら雄弁な反応をする。仮面の合間に長く濃く生え揃う睫毛の垂れ幕が静粛に上がり、少しだけ胸が騒ぐ。

 

「そうだな。まず、打ち明けるべきは俺からの方だろう」

 

 

 ♢♢♢

 

 

「まず、俺は、この世界の人間じゃない」

 

 とんぬらは話した。

 誰の目も耳も届かぬ空の上で、腕の中にいる彼女にだけ聴こえる声量で、白状する。

 自分は同じだけれど別の、並行する世界線から思わぬ事故で渡ってきたことを、語る。ウィズ魔道具店での始まりからしんしんと降り積もる雪のように身の上話を重ねていく。

 

「………と、それで、魔王城の宝物庫にある平行世界を転移する魔道具の箱が欲しくて、カズマたちの一行に加わったんだ」

 

「……えっ、と、と、とんぬらさんは、魔王軍に滅ぼされた隣国の王子様じゃないんですか?」

 

「はい? なんだそれは?」

 

「ダクネスさんがそういっていたとめぐみんが話してくれて……そ、それで、魔王を討伐するのは、懸想している婚約者の王女様と結ばれたいためだって……」

 

「本当にどうなっているんだそれは!? まったくの事実無根だぞそれ!」

 

 途中、何だか頭の痛くなる話をゆんゆんから聞かされたが、気を取り直して、話を続ける。

 

「だから、とにかく、俺は自分の世界に帰るために動いていた」

 

「あっ、じゃあ、つまりあの宝物庫で探してたあの箱が! っ! でも、それ、スライムに呑まれて、私を助けるために」

「――違う。あれも転移の術式が組まれた魔道具ではあったが、目的のものは別なところから見つけて譲ってもらった」

 

「そうなんですか! よかったぁ。……その、それで、じゃあ、とんぬらさんは、王女様と婚約したくて魔王城に行ったわけじゃないんですね?」

 

「二度も確認してくれるな。さっきの決闘騒ぎもそうだったが、俺にそんな気はない」

 

 まさかあんなにも観衆の反応が喜ばしかったのは、このゆんゆんのように『とんぬら=王子様』の方程式が浸透していたからなのか。それじゃあ、国規模でとんでもなくなっているんじゃないのか……

 うん、これ以上、考えるのはやめよう。あまり目立たずに控えめに行動してきたつもりなのに、この平行世界で永らく語り継がれそうな伝説を作っちゃってるのを心配するは精神衛生上よろしくないし、これ以上話をわき道に逸らすのは好ましくない。

 

「そっか。とんぬらさんは元の世界に帰るために……ぁ」

 

 と不意に言葉を切り、こちらから顔を背けて目を逸らして、ゆんゆんは確認してきた。

 

「それじゃあ……その目的も、果たせたんですね」

 

「…………いや、もうひとつ目当てがあった」

 

 ここまでの説明は前置きであって、これからが本番である。

 “この世界のゆんゆん”をちゃんと見て、言った。

 

「君だ」

 

「私?」

 

 きょとんと思ってもなかった反応をされた。今ならばまだ引き返せただろうが、それでもここで打ち明けないのは、先日、想いを打ち明ける勇気を示したゆんゆんに失礼だし、卑怯だ。これがどんなに格好悪かろうが、自分はちゃんと話すべきだ。

 

「この前は、君と接したことに他意などない、と言ったが……本当は違う」

 

「え?」

 

 その目にほんのわずかに期待の色が表れる。だがしかし、それも幻滅されるだろう。

 自嘲するように、皮肉気に口元を歪め、

 

「何やら王子だか勇者だか騒がれているが、俺は、そんな上等な人間じゃない」

 

「そんなことはありません! とんぬらさんは、格好良くて強くて、とても優しい人です!」

 

「それが、出会ったこともない一人の少女が不幸で良かったなどと思える俗物だとしてもか?」

 

 あれは悪魔の囁きであった。人のひた隠していた欲望でさえ絶妙に擽ってくる、甘言だ。この世界で初めて己を視た、仮面の悪魔(バニル)は正真正銘の地獄の公爵、全世界共通で悪魔である。

 

「全てを見通す悪魔に言われた。この世界のゆんゆんは、『我輩でも目を背けたくなるくらい哀れな薄幸なボッチである』とな。だけど、俺はそれを聞いた時、憐れむよりも喜びを覚えた」

 

 思考が追い付かずゆんゆんは目を瞬かせるが、こちらの雰囲気は冗談を言っているようなものではないとわかるだろう。どこまでも真顔で、真剣に、告白する。

 

「“俺が、救える”、と思った」

 

 救われてほしい、なんかじゃない。

 魔が差してしまった、なんて言い訳しようが身勝手極まる思いだ。そんな風に思ってしまう自分がどれだけ最低な生き物なのか、とんぬらは自覚させられた。そんな自分が許せなく、戒めた。そのつもりだったが……できていなかった。

 

「そう、優しかったのは他意があったもんじゃない。他意に塗れていたといってもいいくらいに、俺は勝手なヤツだ」

 

 

 ♢♢♢

 

 

「だから、俺は“ゆんゆんがボッチで良かった”などと思った男なんだ」

「へ?」

 

 よく聴こえなかった。思考が追い付かずきょとんと目を瞬かせる。

 何というか、私自身が言うことではないけど、そんな心配しなくても自分の人付き合いレベルはもう永劫底辺を彷徨っているのではないかと薄々感じているくらいである。彼と出会うまでは、今回の王女様に決闘を挑んだことのように、初対面の相手に強く出ることなんか一生無理だと思っていた。それでいいとも思っていた。人に嫌われないように控えめに、誰かを好きになるなんて畏れ多い真似は望まないように。そんな娘だった。そんな娘だから、自分の幸せは二の次とするのだろう。

 このボッチな境遇を祝福されてしまうほど私には夢見ていた人並の幸せが高望みなのだろうか。――いいや、違う。違うのだろう。そうではないのだろう。仮面の奥の瞳が今、私だけを見つめている。若干の陰りがあっても尚その奥に強い光を放っている綺麗な瞳だ。死を覚悟したときにひとりだった私の元へ真っ先に駆け付けてくれた時の、目と一緒に心を奪われた瞳。そこに浮かぶ光の熱さに焼け焦がされてしまいそうだ。それくらいに、彼は私を欲し()ている。

 

(そんなに、私のことが……)

 

 私に会いたくて、私のことを追って、魔王城へ向かった。私のことを、救いたかったから――

 つまり、話をまとめると、そういうこと。

 とんぬらはそのことを自責で苛んでしまっているけれど、ゆんゆんはその告白に胸が膨らむ思いがした。もう胸を打つ鼓動の音がドキドキと早まってゆく。

 でも、わからない。どうしてそんなに“私を救いたい”なんて執着していたのか。その疑問は囁くような細い声で問いかけた。

 

「何で、とんぬらさんはそんなに私のことを……?」

 

 身を預けていた彼の胸に肩を寄せてより距離を狭めながら、控えめに期待を込めた上目遣いを向ける。するととんぬらは、やや躊躇うかのように一呼吸の間を空け、いったん視線を外してから応えた。

 

「俺は、こことは別の世界に来たと話しただろう?」

 

「はい。とんぬらさんはこの世界と同じで、でも別のところから来たんですね?」

 

「そうだ。ここはどうやら“とんぬら”がいない世界で、俺がいた世界ではない。でも、共通点はある。同姓同名で、同人物もいた。例を挙げれば、めぐみん、アクア様、ダクネスさん、カズマだ。それで……」

 

 とそこで、パクパクと何かを言おうとして、何度も台詞を呑み込んで、彼は、やっと意を決したように続きを語り出す。

 

「信じられないかもしれないが、俺は、俺がいた世界のゆんゆんと恋人で、将来を誓っている。というか、結婚している」

 

「……えっ!?」

 

 だが、こちらへゆっくりと振り向いた彼が、言葉を溜めてから放った言葉はあまりにも衝撃的だった。呆然とするあまりに言葉を失ってしまう。

 

 “ゆんゆん”ととんぬらが婚約者、ううん、夫婦……!?

 最初は聞き間違いかとも思ったけど、彼は冗談を言ってる風には見えないし、そんな真似をする人ではない。若干照れて頬を染めてるけど、どこまでも真顔で、真剣だった。

 つまり。

 別世界の私は、独り身の私が今有頂天になってしまう彼との触れ合いを、当然のことのように享受できる立場にあるというのだろうか。それもその手に指輪をつけて誓うほどに思い合っている。羨ましい。結婚しているということは、もうあんなことからこんなことまで……!? い、いや、嬉しくもあるのだけど、同時にその“私”が妬ましくもある。……なんて、勝手なのだろう私は。

 だけど、他の人であれば生じてしまう遠慮も、“ゆんゆん”にだけは抱かない。自分にまで気を遣うというのは流石に無い。むしろ自己嫌悪の激しいぼっちであるからこそ余計に、キツく嫉妬の念が生じる。元々どうあっても諦めることなどできなかった想いが、胸中に沸々と沸点間近にまで高まる情動に後押しされてより増していく。そう、対抗心、という赤色の情動が。

 

 

 ♢♢♢

 

 

「……だから、俺に君の想いを受け取る資格などないと思った。やはり、俺は君に彼女の面影をどうしても重ねてしまう。違うところはあるとはいえ、一緒だから。それは君にとっても、俺にとっても、辛い事でしかないような気がする。事実、それが原因で君に酷く辛い思いをさせてしまった。もちろん、君の心を惑わせてしまったのは謝る。心の底から申し訳ないと思ってる。だから、……好きに恨んでくれて構わない」

 

 とんぬらは、そこで目を閉ざし、その身体の力を抜く。

 本当は合わせる顔などないのだと思っているように。そんな、頬でも打たれる、胸を刺されることまで視野に入れて――そんな罰を受けることをむしろ望んでいる殉教者の覚悟を決める。

 そのすぐ傍にあるゆんゆんはとんぬらのこの懺悔が、ほとんど頭の中へ入ってきてはいなかった。

 ただただとんぬらの言葉が耳から耳へと通り抜けてゆく中、何も考えられない真っ白な頭が徐々にその瞳をカッと赤色に光らせるものが混じっていく。白に赤が混じればそれは何色になるか。それは、桃色(ピンク)だと予想がつくことだろう。

 

「さっきから、資格って何ですか。そんなのがどうしているんですか!」

 

 そして、あまりに無防備な彼の姿に、考え悩むも一瞬、ゆんゆんは衝動のままに動いた。

 

「っ!」

 

 振り上げたゆんゆんの平手を受け入れようとするとんぬらだったが、ゆんゆんの右手は頬を素通りして後頭部に回った。

 そのままかき抱くようにして、ゆんゆんはとんぬらを抱え込む。抱き締められたことに気付き、ハッと驚愕に目を開けた瞬間に、ただ心からそうしたいと思って、仮面の下の唇に唇を重ねる。

 この世界のゆんゆんの、初めての口付けを捧げた。重ねた唇は、不思議と甘かった、がその時に抱いた感想。今思うのはそれ以外になく、彼にもそうあってほしい。

 告白を断り、そして、その理由も彼の私心によるものだと打ち明けられた。だけど、お生憎様。そんなみっともないと彼が思うその本心を知って、もっとずっと愛おしくなった。これ以上自分を偽って抑え込むのは無理なほどに溢れ出てしまう。

 

「ん――んんんっ――――んんんん~~~っ!!」

 

 もう自分はそんな資格はないなどと卑下する言い訳など吐かせてやる気はなかった。彼が自分を責めるのならその文句は口から紡がれる前に、すべて私の口の中に飲み込む。それくらいに荒々しく唇を密着させる。

 

 しかしながら、その口付けは単に唇を重ねるだけのものであり、いくら気持ちが篭っていても初心な初心者のゆんゆんにとって、これが精一杯の努力だった。

 でも、とんぬらと指輪をしている“ゆんゆん”はこんな拙いのではなく、身も心も蕩ける素敵な口付けを交わしているのかと思うとメラッと来る。ここで退く訳にはいかない。負けられない。それはある種、生涯の好敵手(ライバル)のめぐみん以上に張り合わせる気概を持たせてくれる。そういう意味合いではないのだろうが、『最大の敵は己自身』などという格言がピッタリと当て嵌まると少女は思った。そんなわけでとにかく当面に瀕している問題は、ボッチな娘は初心者すぎた為、口付けの際は鼻で息を抜く事さえも知らなかったと言う間抜けさ。これでは物理的に頭が低酸素状態でクラッとする。

 その結果、体を震わせてまで耐えていた息苦しさだったが、とうとう我慢しきれず、生存本能に従ってやっと唇を離す。

 

「……ぷっはっ!? はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……はふぅ……――」

 

 同時に力尽き、身を彼の身体にもたれかかって荒い息を、顎を乗せた肩から首後ろにみっともなく必死につきまくる。

 おかげで、思い描いていた理想像的な口付け後の甘い雰囲気は何処にも見当たらず、微塵も感じられない。ただやり切った感はあったし、それもすぐに“まだ、もっと”という逸る欲求に早変わりする。全てを出し尽くしたのに物足りない。これがめぐみんが全魔力を使って爆裂魔法をぶっ放した時の気持ちなのだろうか、とゆんゆんはふと思ったが、今は彼のことだ。とんぬらはここまでして、わからない朴念仁ではないはず。

 少しずつ呼吸が慣れ始めると、激しく上下する胸に密着するその身体からも強い鼓動を覚えるくらいに気にすることができた。ゆんゆんは半身身を捻らせてだが馬上で上体を向かい合って抱き合っているこの状況(天馬が自身の上で盛っている二人に不機嫌そうにヒヒンと啼いた)で、相手の顔色は確認できないし、それに言葉もいっこうに返されない。

 この精一杯の勇気を振り絞った行為(ファーストキス)の事後のお預けな時間が長引いているのがどうにもこうにももどかしくて、たまらず声を漏らしそうになった時にやっと隣で口が動く気配があった。

 

「どうして、君は――」

「“君”がじゃないです!」

 

 ただし、出てきた第一声にはカチンときた。返答を待ち望んでいただけに許せない。

 とんぬらの両肩を力強く掴み、こちらへ強引に振り向かせると、何の憚りもなく声高らかに告げた。

 

「私の気持ち、ちゃんとわかったわよね…とんぬらっ!」

 

 いきなりの呼び捨て。これまでなら、どうしても“さん”付けが必要だったけど、もはやそんな遠慮はしない。ガンガン攻める。

 

「あ、ああ、それは十二分に……だけど、それは……」

 

「違わない! 私のこと、ひとりで何も決められない子供だと思ってるの!」

 

「いや、そんなことはない」

 

「はい! だから、私の気持ちを無視しないで!」

 

 この勢いに流石のとんぬらも反論ができず、いったんは言葉を詰まらされたが、その両肩を掴む手に力を込めると、躊躇いつつも頷いた。あるいはその目力で頷かせたとも取れるかもしれない。

 その躊躇いも無理はない。それを成就するのがどれだけ険しく遠い道のりであるかなど容易く想像が出来る故に心配されるのも当然だ。

 だけど、一縷の可能性とは言え、この育んだ想いを諦めるよりはよっぽど良い。むしろ、乗り越えるべき“壁”が明確化され、決意も新たにやる気が漲ってきた。

 

「だがな……俺は、君ではないゆんゆんと結婚しているんだが」

 

 それでも、煮え切らず、言葉を濁しながら尚も説得しようと試みてきたとんぬら。これに力強くギュッと握った右拳をお互いの間に置き、この瞳に宿る彼への自分の燃え上がる決意を見せつける。そして、宣戦布告するかのように名乗りを上げた。

 

「私だって、“ゆんゆん”です! 君ではなく、ゆんゆんと呼んでください!」

 

「ぅっ、いや別に君…ゆんゆんを蔑ろにしたいわけじゃない。ただそうすると重ねてしまうかもしれないからだな」

 

「構いません! とんぬらが結婚してても――ええっ、たとえ王女様と婚約しても、まず二番目から始めるつもりでしたから! めぐみんが言っていました。愛とは、奪うもの! 正室側室の上下よりも、一緒に床につく回数の多い方が真の正妻! ……だって!」

 

 どの世界でもあの頭が爆裂一色な天災児様は、まったくもって余計なお世話ばかりしてくれるな。前世が恋人を見れば容赦なくリア充爆破してきた破壊神だと名乗っていたくせに、いやそうでなくても、初心な生娘であるというのによくもまあそこまで語れたものだ。

 

「その為の予習も今日から始めます! とんぬらの悦ぶ勉強をたっぷりとします! だから――私、頑張りますから! ――必ずこの私を好きになってもらえるように精一杯努力しますから!」

 

 それで、ゆんゆんの決意は成された。もう迷わないし、もう惑わされない。当然、絶対に諦めもしない。その思いの丈を全てぶつけ、とんぬらの首へ両手を回すと共に抱き付き、そのまま天馬の背中で押し倒す。

 この勢い余っての行為に、ここが雲の上であることきちんと忘れていないとんぬらは、ゆんゆんの身体を落とさないように胸の上で抱きしめて――驚愕にこれ以上なく見開いた目、その瞼をわなわなと震わせる。

 

 お互いの胸と胸が重なり合い、お互いの鼓動が早鐘を打つ音を聞きながら、お互いの肩越しに吐息を漏らす。

 沈黙の中、生唾をゴクリと飲み込む音が聞こえ、落とさぬように腰に回されていた両腕にゆっくりと抱く力が籠められるのを感じる。

 それは私の想いを受け入れてくれた何よりもの証拠。喜びと嬉しさに胸の鼓動を更に早めるも束の間。

 

「くっ!?」

 

 とんぬらは私を抱きしめる寸前で踏み止まり、苦しそうな息を漏らしてまで両腕から支えるには余分な力を抜いていく。

 挙げ句の果て、仮面の奥で見開いていた目を一転して力強くギュッと瞑ると、こちらから逃れるように顔を横へ背けた。

 

「そんなに、ダメなんですか! 私、期待するのもいけないんですか!」

 

 女が男を押し倒す。この上ない恥知らずな行動を取ってしまった。

 だからこそ、もう引き返せないし、逃げるとんぬらも許せない。仮面の両頬を両手で包み持ち、正面へ強引に振り向かせるが、とんぬらは目を瞑ったまま。

 

「そうじゃない。俺が、ダメなんだ。俺は、ゆんゆんを通してゆんゆんを見ていたんだ。わかった気になっていたんだ。そんな相手のことを見れていない奴が、相手の想いなんて受け止めていいわけがない」

 

「そんなことはありません! とんぬらは、ちゃんと私のことを見てました! 私、ぼっちだけど、ううん、ぼっちだから人の視線には敏感で……だから、その! わかるんです! 私だってとんぬらのことはずっと見てましたし、とんぬらが私のことを見ていることくらいわかります!」

 

 言われて、より頑なに目を瞑るとんぬら。それが、何よりの証拠だ。これほど至近で見つめ合ってしまえば、その瞳を鏡に写した自分の目が、どこを(ここにいる)(わたし)を、見ているのが彼自身ではっきりとわかってしまうから。それがわかっているとんぬらはやっぱり自身でも誤魔化しなのはわかっているのだ。

 この人は、本当はそんな器用な人じゃない。相手の面影(かお)から別の相手を懸想す()るなんて真似はできっこない。

 なのに、仮面の奥は固く閉ざされて、どんなに訴えても言葉では開いてはくれない。

 

「~~~~~っ、とんぬらの、ばか」

 

 どうしてわかってくれないの?

 声が震えた。彼がこうも頑固に判断を変えないでいるのは自分の為でもあるというのがわかる。それでも私が、どれだけ。そう訴えようにもこれ以上は言葉にならない。声が出ない。ただその代わりに、頬を熱いものが幾筋も伝って落ちていく。

 

「泣かないでくれよ」

 

 ゆんゆんの眼から、ぽろぽろと真珠の涙があふれた。

 

「そんなの、無理よ。しょうがないじゃない」

 

 嘆息し、ゆっくりと己をきつく戒める瞼が見開かれる。

 

「そうか、無理ならしょうがないな……ああもう、わかったわかった」

 

 後頭部に右手。その胸で涙を拭い隠してやるように抱き留められる。そして、左手が背中をポンポンと赤子のようにあやす。それを受けるゆんゆんは感じる。頑なだったその強張りが解けたのを。そんな雪解けの優しさに、一層涙があふれてしまう。

 

「降参だ」

 

「え」

 

「好きだといってもらえたのは、嬉しい。だけど、それを受け入れてもゆんゆんの幸せには繋がらないと思って、俺は何にもしてやることはできなかった。正直今も拒んでやるのがゆんゆんのためになると思い込んでる。でも、そんなのは勝手だったな。

 だから、俺は否定しない。もうゆんゆんの出した答えがそうであるのなら、それでいい。それに……」

 

 ゆんゆんの真ん中にある、抑えきれない思いを、受け止めるとんぬら。

 その返しについにはとんぬらも無様に過ぎる本心を、滑稽なほど誠実に、曝け出して、ゆんゆんは待ち望んだその言葉を聴いた。

 

「俺も、好きだ」

 

「………!」

 

 剛速球の、さらにど真ん中ストレートだった。この身体を抱き留められていたのは幸いだ。でなければ腰砕けて今度こそ馬上から落っこちていた。2割ほど苦笑混じりの、苦労人らしい彼の微笑みにあてられながら、ゆんゆんは頭の中でバタバタと手足を振り回す。尻尾もあれば千切れんばかりにブンブン風を切っていたことだろう。

 

「こんなの言ってしまうのは反則だろうな。そうだ。なんて今更なんだと咎められてもおかしくない。それでも――俺は、ゆんゆんが欲しい。そう思った」

 

「とんぬら……!」

 

 とんぬらは、腕の中で身じろぎする柔らかさを意識した。自分の神経系とは感覚が通わない他人の身体。その重みが震えるたびに、相手の身体の柔らかさと体温が押し付けられて、ゆっくりと、温度計のように顔に朱が色付く。

 喜んでくれているのがわかる。

 ドキドキと胸を高鳴らせているのがわかる。

 そして、自分とは違う甘い匂いを感じ、自分よりも暖かな体温を覚え、自分と重なる彼女の心音に触れた。柔らかな髪を撫で、胸板に顔を埋めさせて密着させる。胸に響き渡っている嘘偽りない鼓動を、彼女にも聴いてもらうように。その華奢な肩を壊れそうなくらいに強く、強く、抱きしめた。

 

 苦しいくらいに抱きしめられているのに、抵抗することができない。ただただ固まることしかできないでいるゆんゆんの耳に、ゆんゆんを力の限り抱きしめている男は囁く。さっきと打って変わって、言葉の奥に芯の強さをうかがわせる言い方で、宣告される

 

「だから、ゆんゆん。これが運の尽きだったと諦めてもらうぞ」

 

 ああ。その声音の、なんて熱いことか。恐る恐る男の背に手を回すと、更に強く抱きしめられる。苦しくてたまらないのに、何故かその苦しさが愛おしく感じてしまう自分が信じられない。余計に溢れ出てくる涙が男の服を濡らしていくけれど、そんなことが気にならないくらいに、ただ、ただ胸の内が満たされていくのを感じる。指先が肌に食い込むほど激し過ぎる抱擁は、それほどにずっと温もりに飢えていた表れ。

 好きだ、とこの男は言った。言ってくれた。たったそれだけの言葉がこんなにも嬉しいなんて、幸せだなんて。涙の色が変わるのがわかる。悲しみの色ではなく、喜びの色になっていく。目を閉じるとそこにあるのは暗闇だけれど、抱きしめるこの温もりが、独りではないことを教えてくれる。

 たとえもうすぐ別れようとも、今は一緒にいる。お互いにそう思った。

 

 

 ♢♢♢

 

 

 そうして、抱き合っていた二人は、地面をつく馬蹄の音、着地の際の馬上の揺れで到着を覚るまでそのままであった。

 それでとんぬらは忠実に運んでくれたが不機嫌な『ペガサス』を誠心誠意にブラシで毛繕いをする。それから、天馬に嵌めていた幉を外す。

 

「悪いな、パトリシア。お前も連れていくわけにはいかない」

 

「ヒヒ~ン」

 

 聖盾もそうだが、天馬にも役目があるだろう。

 賢くその離別を悟りながら、その身をすり寄せる天馬を丁寧に撫でるとんぬら。そんなこの世界のものと別れの作業を済ませる彼に、ゆんゆんにどうしても焦燥が襲う。覚悟はしていたけど今さっきで時間が足らないし、どうしても胸が切なくなるのが我慢できない。

 

「とんぬら、もう行くの?」

 

「材料はすべてそろっている。これ以上ここに留まっていると大変なことになりそうなのもあるが、折角採取した花も萎れてしまう前にやらなければ力は発揮できない」

 

 準備は、紅魔族の里にある観光名所のひとつ、『願いの泉』――その付近にあるこの世界にはない神社の祠があった場所で進めていた。

 そして、最後に必要だった『ルラムーン草』も揃った。

 すでに異世界転移の魔道具の箱を核にして作製した大きな『転移石』を、採取した花々を燃やした煙で燻せば、転移装置の魔道具は完成し、元の世界に繋がった『旅の扉』を開通させる。

 とんぬらは早速、『ティンダー』で火をつけて、するとお香のようにこの心が透き通るような清涼感のある香りがこの場を満たした。

 箱から転じた石も、仄かにだが花香が浸透していくかのように徐々にその輝きを強めていく。仕上げをするのを邪魔しないようにしていたゆんゆんだったが、居ても立っても居られず、つい引き止める言葉を投げてしまう。

 

「で、でも、2、3日くらいはゆっくりしていっても……」

 

「いいや、帰る。これは決めていたことで、今ここで行かなければずるずると引き摺りそうだからな。……それに、向こうで待っているものをこれ以上待たせるわけにはいかないからな」

 

 だが、彼の決心は、やはり固い。

 

「じゃあ、私もとんぬらの世界に!」

「――それは、ダメだ」

 

 言い切る前に、予想済みだったそれを遮られた。

 

「ゆんゆんの世界はここだ。そして、俺の世界にはまだ魔王が健在でな。折角平和になったというのに、わざわざまた魔王との戦いが強いられる環境で出向くなんて危険な真似など誰もさせたいなど思わない。悪いが、こればかりは譲れない」

 

 ゆんゆんが納得がいかない様子なのは見て取れたが、とんぬらはそこから続ける。

 

「それで、俺はゆんゆんのことが好きだ。でも、一番好きであるのはやはりゆんゆんなんだ」

 

 呼び名以外の区別のつけ方を決めていないが、ニュアンスでわかってほしい。後々ここのところをきっちりしておかなければ問題になりそうだが、今は先送りにさせてもらう。

 とにかく、できるだけ誠実な言葉を過不足なく話そうと努めた。飾り気がない代わりに洒落っ気も何もあったものではないが、それでも伝えるべきことは言う。

 

「うん……私、頑張るから!」

 

「受け入れてくれるのはありがたいんだが、そんな目を紅くしてはりきらなくていいからな?」

 

「私、頑張るから!」

 

 二番目から下克上を狙う気満々なのが目の色から明らかである。

 頭痛を堪えるようにこめかみに手をやり、仮面の下でだが眉根を寄せて眉間のしわができる。思い立ったら一直線な彼女の頑張りは、このまま突き進むと大変なことになりそうだ、主にとんぬらが苦労する方向で。だが、たとえ同一人物であっても事実的に二股野郎になるのだから、修羅場になっても刃傷沙汰くらいは覚悟しなければ務まらないだろう。そんな未来の備えとして、とんぬらは(一応は)魔法使い職であるが、今度、バリバリ前衛職の『クルセイダー』ダクネスから防護系のスキルを教授させてもらえないだろうかと頭の片隅ながら真剣に検討した。

 そして、とんぬらは次を言う。

 

「俺以外に好きな相手ができたのなら、それは遠慮しないでほしい」

 

「大丈夫、私、ずっと独り身(ボッチ)を貫ける自信があるから!」

 

「つい納得してしまったが、そんな理由で断言しないほしいなぁ」

 

 自信をもって胸に手を当て自らに太鼓判を押すゆんゆんに、仮面の上から眉間のあるところに指をあてるとんぬら。

 凄い説得力があるが、そんな悲しい理由で身持ちの固さを保証されても虚しさまで覚える。というか、ますます不安になる。“ダメだ、この娘。俺がいないと”いう気持ちを強めるとんぬら。

 そして……声の温度落として引き締めた目でもって、再度、大事な事だから二度いう。

 

「最後に。さっきも言ったが、俺は魔王のいる世界にゆんゆんを連れていこうとは思わないし、俺の世界が平和になるまではこの世界にまた訪れるつもりはない」

 

 おそらく、長いこと会えないだろう。

 わかっていたが、それでもゆんゆんは俯く。別の世界に渡るという行為自体が前代未聞の難事である。そもそも魔王を討伐することだってそうだ。そんな二つの問題をクリアしなければ、彼は自分に会いには来ないという。

 

「ただ」

 

 その繋ぎの一言に引っ張られるように面を上げたゆんゆんは見た。

 

「俺はできない約束はしないつもりだ」

 

 より精悍となった仮面の双眸から強い眼差しがこちらの胸を射抜く。奥底に秘めていた気力の蓋が外されたよう、かつてなく凛々しく見える。

 

「そして、俺は不可能も可能にしてきた奇跡魔法の使い手だ」

 

 ゆんゆんを見つめ、言い切る。その瞳は涼しく、神秘的な輝きに満ちていた。不覚にも今までで一番、ときめいた。

 

「だから、お婆ちゃんになる前にまた会いに来る」

 

 としめはほぐすように緩めた口調で軽い冗談のように放つ。

 

 ここまでカッコよく台詞を決められては、紅魔族的にもはや黙って見送る姿勢が正しいのだろう。

 ただゆんゆんはここでじっとしていられなかった。ここでお行儀よく格好良くしてしまうと逆にそれっきりとなってしまいそうで、だから格好悪くたって悪足掻きする。せめて、ほんの僅かでも私のことを受け取ってほしい、と。たくさんのことを貰った彼に何かを返そうと必死に考えを巡らし、

 

「待って、とんぬら!」

 

 ちょうど手持ちにある小さな巾着袋を手に取ると、髪を一本引き抜いてそこに入れるゆんゆん。

 これは、とんぬらも知る、紅魔族に伝わる魔術的なお守り。強い魔力の持つ者の髪の毛を詰め込み、大事な人へ渡す。即興で作るものではないけど、今は時間が惜しい。

 それでも、髪の毛だけではとても足りないと焦ったゆんゆんは、ふと思いついたものがあった。

 

(これも……)

 

 今日の決闘で、ついに壊れてしまったステッキの魔石。ずっと自分の冒険を支えてくれたこの破片も一緒に袋詰めする。雑多ではあるけれども、本当ならもっと時間をかけて作り込みたかったけれども、今、ゆんゆんにできる精一杯を詰め込んだ。

 

「はい、お守りです。気休めだけど……」

 

 私の代わりに持っていってほしい、と口ではなく目で訴える。

 聖盾や天馬さえも置いていった頑固な青年はこの少女の目力に負けたように、ゆんゆんからお守りを受け取ると、懐の中に大事にしまった。

 そして、

 

「ありがとう。けど、困ったな。俺は贈り物までは準備していなかったから……簡単にだが俺もお守りが良いか?」

 

「ううん、とんぬらからもらえるのなら物よりも……してほしい、かも」

 

 ゆんゆんは真っ赤な目を閉じて、顎を持ち上げる。そして、上下の唇を少しだけ離す。彼女は無意識なのだろうが、薄紅色(ルージュ)が映える唇の隙間から覗く白い歯とピンクの舌は、男を誘っているように見えて、何とも言えない少女の色香を漂わせていた。

 とんぬらは、首を振って、頭に血が上らないようにする。

 そして、ゆんゆんは、これ以上は何も言えず、只管に姿勢をそのままに待っている。

 

 『女性は千の言葉より一の態度を望む生き物である』という師に惚気話をされた際に諭された言葉は、この状況を男のすべき解答まで適切に表しているだろう。

 

 大胆な行動に出ながら恥じらう、精一杯さ。

 自制が弱ければ、湧き出る我欲に素直であれば、ここで理性を失くして少女の嫋やかな身体を抱きしめている輩もいることだろう。鮮やかに色づいた唇を、貪っている場面かもしれない。こういう時に我を忘れることができないのは、多分人生を損している。

 徐々に待ちぼうけをされて、不安がっていくゆんゆんを見つめながら、ひとりの男はそんなことを考えた。

 

「ご、ごめっ」

 

 それでついには勝手に高望みが過ぎちゃいましたよね! とあわあわし出しかけたところで、とんぬらの手が伸びて、ゆんゆんの頬に触れた。ほんのりと温かい男の人の手の温度が、ジワリと頬から全身へと伝わっていくような感覚。何か、大変貴重な、大切なものに接するかのように、するりとそのまま撫でられて――髪をかき上げ、耳を露にされる。

 

「また、窒息されては溜まらないからな」

 

 腰に腕を回して優しく抱き、けれど強引に寄せる。逃がさぬようにしてから、彼女の耳元にそっと。

 

「オス猫はこのように捕まえたメス猫を噛むことがあるんだが、それがどうしてだか知っているか?」

 

「え、それは……?」

 

 予想していた接吻(キス)には近い体勢。ゆんゆんは自分の鼓動が跳ね上がるのを感じた。震え、慄きさえした。それでも何の抵抗もなく状態を受け入れた。ドキドキしながら――彼の解答を待つ。

 

「“コイツは俺のモノだ”という独占欲の表れだそうだ」

 

 ととんぬらは甘く囁いて、紅魔の瞳でもないのに急沸騰したように朱の差したゆんゆんの耳を、痛いくらいに、噛む。ちょうど最も柔らかく敏感な弱点である耳たぶに犬歯(きば)がそっと埋まっていく。

 

「あ、痛……とん……ぬ……」

 

 ゆんゆんはキツく目を閉じて、それに身震いしながら耐える。頭が真っ白になるくらいの刺激なのに、しっかりと、痕を、つけられていると思うだけで、胸の内が充足に満たされていくのを感じて、ゆんゆんの唇から弱々しい吐息が漏れる。瞳が蕩け潤んでしまう。口も半開かせており喘ぎを含んだ涎が垂れそうな瀬戸際。

 

「痛くして、ごめんなゆんゆん」

 

 そして、最後は噛み痕を労わるように、チロッと耳を舐められて、その不意打ちな優しさが我慢していたのを決壊させる最後の一押しに。

 

「んんんんん~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っ!?」

 

 思っていたのと違ったけれど思っていた以上にすごいことをされて、長い長い絶叫の果てで、ゆんゆんは脱力して崩れ落ちた。

 まるでろうそくの炎が燃え尽きる直前のような激しさで、少女は、陥落した。芒と瞳の赤い彼女を撫でて気遣いつつ、仮面の少年はやり過ぎたかと目を逸らしながら、ここで退きさがるに体のいい文句を口にした。

 

「ついいぢめてしまったが、もう少しそのチョロさを何とかしてもらわないと、これじゃこの先へはお預けだな」

 

 そうして……

 

 ♢♢♢

 

 

「――じゃあ、俺は行く。…………また、な、ゆんゆん」

 

 

 ♢♢♢

 

 

 転移装置の起動に連動して、渦を巻く『願いの泉』――異世界へ開かれた『旅の扉』へ、とんぬらは飛び込んだ。

 瞬間、目を焼くんじゃないかと思えるほどの眩しい光。真っ白で何も見えない。

 なのに、眼球の奥まで通過する刺々しい感じはない。柔らかくて、ぬくもりを感じるような……

 それは徐々に収まり視界は元に戻った。

 

「とんぬら……っ」

 

 ぼんやりした視界の中、必死に目を凝らすゆんゆんであったが、探し求めたとんぬらの姿はなかった。出口を閉ざしたように、渦を巻いていた泉も治まっている。

 

「………………………………うんっ」

 

 この時、見送ったゆんゆんは、ひとつ決心した。

 

 紅魔族的に“ダメだダメだ”はかえって逆効果になることがこの世界でも共通であるのを、とんぬらは失念していた。

 

 

 ♢♢♢

 

 

「あなたは大変なものを持っていってしまいました。――それは、彼女の心です」

 

 

 視界が落ち着くと、そこは目指した元の世界ではなく、どこか見覚えのあるのに近しい、白い宮殿のような場所にいた。

 そこで、いきなりズバリと目の前の女性より指を突き付けられた。

 穢れ無き純白の羽衣に、神気を帯びた白銀の髪と雪花石膏(アラバスター)の如き肌。ただ一点、胸元の膨らみには違和感を覚えるが、そこ以外に目の点く欠点などありはしない完璧な女性像を具現化されたような御方は、とんぬらにも覚えがある。

 そう、カズマが復活した際に一緒に連れて来た、幸運の女神エリス様である。それに責められるようなポーズを取られ、リアクションがやや遅れるもとんぬらは驚いて目を見開き、

 

「……え、えっと、俺は何かエリス様の不興を買うような真似をしてしまいましたか?」

 

「今のセリフはちょっと言ってみたかっただけですので気にしないでください。ただ、怒っているのは確かですけど」

 

 エリス様は微笑んでくれているけど、圧のようなものを放っていた。

 この圧迫面接は、女神の類に特に弱い神主志望の青年にはなかなかに堪えるものである。

 

「お店で戻ってくるのを待っている方がいらっしゃるのに、別れも言わずに行こうとするなんて」

 

 ああ、それはクリスのことを指しているのだろう。

 確かに、ダクネスに後を頼んだとはいえ、あのまま待ちぼうけの彼女に何の挨拶もないのは礼を失していた。昨夜に採取した『ルラムーン草』の花の寿命があったのだが、この場合は言い訳にならないだろう。

 

「それは、申し訳ありませんでした……と、こんなことをエリス様に謝ってもしょうがないとは思いますが」

 

「そう、ですね……あなたが申し訳ないと思っているようなら、その方も許してくれるでしょう」

 

 何と寛容で、赦しを与えてくれる方である。流石は女神様。とんぬらもこれには少しだけ気が楽になる。

 が、ニコニコな圧力はこれで解消はされておらず、むしろこれが本題とばかりに増していく。

 

「彼の聖盾『イージス』を復活させたときの行動……あれは、あまりに無茶をし過ぎです」

 

 己の魂を削る――すなわち、経験値(レベル)を下げるというこの世界で受け入れがたい行為を躊躇なく実行する。傍から見れば自棄になっていたと思われても仕方がない。

 とんぬらの中ではあの好機に確信があったものであったとはいえ、エリス様の言う通りに無茶が過ぎた。

 しかし、これにはとんぬらの口は少しばかりの反論をした。

 

「ですが、それなら先に無茶をしたのは、あの聖盾の神器の方です。あの時、彼女の身を守り切ることのできなかった俺を、その身を呈して救ってくれました。そうであれば、そこに命を賭けてでも命を救われた借りを返すのが義理で、受けた恩を返さないのが恥ではないのですか」

 

「あなたはそういうとは思っていました。それはとても高潔な在り方ですが、であるから私は心配してしまいます」

 

 何もかもお見通しな女神様は、こちらが表に出さなかった心中を突いてきた。

 

 

「そんなにもこの世界のものを受け取ることに遠慮してしまうのは、あなたがこの世界のことを忘れてしまうからなのですか?」

 

 

 仮面の青年は黙り込む。

 確かに、それは理由のひとつ。ウィズに説明されたときから、異世界転移の魔道具の副作用には承知していた。『転移はするが、その転移している間のことは戻ってくると忘れてしまう』という彼女が気に入る魔道具には欠かせない重大な欠陥要素をとんぬらは覚えている。

 この世界のことを忘れるのなら、この世界の記憶に残るような真似はしない方が良いだろうし、恩義の貸し借りもこの世界にいるうちに清算しておきたい。それでおつりが余分に出てしまってもそれは余所者が混じった迷惑料に取っておいてもらうとする。

 立つ鳥跡を濁さずにいくのは、もうその巣へは立ち戻らないことを予感しているからであった。だが、どんなに潔癖であろうとも、心残りというのはあってしまうものである。

 

「もし、この世界のことを気に入ったのなら――今ならまだ引き返すこともできます」

 

 その事を見通して、彼の女神は、この狭間、本来現世との境界線である場所にて、選択肢を与える場を設けてくれたのか。とんぬらにとっては想定外だが、女神であれば他所の転移にも中継を挟ませるくらいの芸当はできる。そして、そこから送り返してしまうことも。

 普通であれば、自分の世界だが魔王が存命する世界か、それとも魔王が倒され平和になった異世界か、のどちらがいいかと問われれば迷う場面かもしれない。さらに言えば、今さっき、再会の約束をした彼女のことも忘れてしまうというのであれば、その悩みは増すだろう。忘れてしまうことを前提に契る約束程空しいものはない。

 ――しかし悪いが、それは生憎と、余計なお世話である。

 

「いいえ、エリス様、俺は帰ります。それと、そんな心配はもう大分前からしていませんよ」

 

 人の一生を見送ってきた女神様は、少しびっくりしたように迷いのない青年を見た。

 

「別の世界を渡るその代償は、容易く跳ね除けられるものではないと思いますよ?」

 

 お節介な性分ながら、再度の確認に女神はさほど問う必要性は感じなかった。

 どんなにこんな状況にあっても、周りの人間が諦めて絶望していたとしても、“それでも”と立ち上がって足掻き通した人間。なんとなく、この青年の在り方は、女神すら戒められるこの世界の法則すら蹴り破って逸脱してしまう例外ではないか、と思ったから。

 

「夢の中の出来事は目が覚めたら忘れてしまうのでしょうが、この素晴らしい世界は本物。あんな土産話をするにも盛りだくさんの刺激的な日々を送ったら、この頭の中を空っぽにされようが、“ここ”に染み付いてしまいます」

 

 胸に手を置いて、女神様へ答える。

 あなたの心配は杞憂である、と。

 

 

「我が名は、とんぬら! 不可能を可能にしてきた奇跡魔法の使い手にして、交わした約束は決して忘れない男! どの世界(どこ)でも、()の在り方は変わりませぬ!」

 

 

 畏まって格好をつけた後で、緩めた調子で肩を竦めて、

 

「あんなべた惚れの娘に信じられているんだ。世界をも股にかける存在になってみせましょうとも」

 

「何とも盛大な二股宣言ですね。女神(わたし)も呆れてしまいます」

 

「あはは……それは突っ込まないでくれると気が楽なんですが、エリス様。でも、遊びじゃないです」

 

 とにかくやることが山積みで、立ち止まっている場合じゃない。

 そんな彼の姿勢をみて、女神はその雰囲気を和らげるものに。それまでの険しい圧など霧散させる。

 

「どうやら、私は余計なことをしてしまったようですね」

 

「いえ、こちらもエリス様のおかげで、自分で再確認することが出来ました」

 

「ふふっ、そちらの私があなたのことを特別目にかけている理由がわかりました」

 

 その指先が光り輝く道筋を示す。

 

「出口はあちらです。大変でしょうが、あなたの行く先に幸があらんことを願っております」

 

「ありがとうございます。そして、またこちらにお邪魔させてもらいます」

 

「ええ、またこうして会えるのを楽しみにしておきます。今度は後輩君がお酒を奢ってくださいね」

 

 最後は少し茶目っ気の出た幸運の女神に微笑まれながら、とんぬらは今度こそ、自分の世界へ――

 

 

 ♢♢♢

 

 

 光の差さない場所に出た。

 時空の外には光が伝播しないのではないか、とふと思った。

 けれど、最初に巻き込まれたのと違って、今回は自覚ができた。そう、今度は無差別に異空間(せかい)を移動するわけにはいかず、きちんと目的地の世界へと渡らなければならない。『旅の扉』なる大気圏のように世界を突き破るための発射台はあったが、そこから狙い通りのところへ行けるかは話が別となる。ただ身を任せていているだけの迷子のままではどこまで流されてしまうのかわからないのだ。

 だから、想う。この身に残る結びつきを。

 空間を飛び越える『テレポート』は登録をした地点を頭に強くイメージすることで目的地へ行くことができる。それと同じ、残念ながら『テレポート』は未収得で登録など澄ませていないのだが、既にこの身は彼女と契約している。

 

 ゆんゆん……!

 仮面に、触れる。彼女のことなど、念じるまでもなく思い描ける。場所ではなく、個人を目標として、己の世界を見つけ出す。

 

 ――と。

 

『おおおう、気にするな! 俺は大物ばかりを倒してきたベテラン冒険者だけど、■■■■■■なんだし無礼講だ。お互いそういうのは気にしな■■■■■■』

 

『そう気を悪くしないでくれ。■■■も悪気はな■■■んだが、どうにもな』

 

『む。何だか■に対しての態度が■■■■のとは違いませんか?』

 

 これまで通ってきた道の轍を積る雪が埋めていってしまうように、脳裏に刻まれた記憶が白んでいく。

 

『どうして、トールが■■■■のことを気にかけるのです?』

 

 …………トール、って誰だ?

 いや、それが“彼ら”の自分を指す名称だというのはわかるのだが、その経緯が薄れていってしまう。

 

 あの駆け抜けた異世界での冒険が、何か何処かわからないところから働く大きな力にかき消されるかのように忘却に呑まれていく。それはあの世界からは離れて行けば離れて行くほど吸引が強まり奪う。修正力。その瞬間の圧倒的な焦燥感と喪失感。

 異世界を転移するなどふざけた現象を引き起こせる埒外な魔具の、それを帳消しにするかのように台無しにする副作用にとんぬらは襲われた。

 『ああ、あああ!』と言葉にするには足らない単音しかでないような、“焦る”などという言葉ではとても納まりきらないような、胸をかきむしられるような感覚。覚悟はしていたが、気合いだけではとても抗えるものではない。只管に真っ直ぐに先を見逃してはならないのに、衝動に駆られて後ろを振り向いてしまいたくなる。

 それでも、忘れちゃダメなものがある。そして、忘れられないものもある。

 

 

『あなたのこと、愛しています、とんぬらさん』

 

 

 その奥より声が響いた胸に手を当てる。

 そこには、紅魔族のお守り。ずっと共に冒険してきた杖の核の破片も詰め込んだ巾着がある。

 そうである、女神様にも散々格好つけておいて、何もかもを忘れ去ってしまうのはあまりにも薄情であって、そんな杞憂を晴らせるほどに、あの世界のこと、胸いっぱいに詰め込んだのだ。

 

 そして、全てを掬いきることはできないが、全ては奪わせない。あの少女のことを起点として、それと関わったあの世界の出来事をとんぬらは思い残す。”ここ”に思いを残す。

 そうだ。自分には、あの魔王との接戦で結んだ契約もある。

 

 これが、光になる。そして、その光はこの暗闇の中で真っ直ぐに己の求める先を示してくれる道標であった。

 奇しくも同一人物(ゆんゆん)らとの契約で、二つの点が結ばれて線になるよう、世界と世界を移り渡るための通路は補強される。

 回り道だと思っていたあの経験は、決して無駄ではなかった。

 

(まったく、本当に――何もかもが裏目になってしまう冒険だったな)

 

 人生はパルプンテだ、としみじみに思わされたところで、とんぬらは闇の回廊を抜けたのであった。

 

 

 ♢♢♢

 

 

 色付いた世界に戻るとそこは、肺呼吸の出来ない青。水中だった。

 

(もがっ!?)

 

 とんぬらはその気になれば軽く一時間は潜水していられるが、いきなり水の中では流石に慌てる。息が詰まり、泣き面に蜂とばかりに脚も攣った。

 しかし、こんな不幸の連チャンでも女神様は見捨てていなかった。

 ちょうど目の前に蜘蛛の糸のようなものが漂っていたのだ。とんぬらは咄嗟にそれを掴み、

 

「――ヒット! これは大物だ! ひょっとしたら泉の主かもしれんな! ここは一発デカいのを見舞ってやろうではないか――『ライトニング・ストライク』!」

 

 上級魔法の雷を落とされた。

 

 ………

 ………

 ………

 

 武闘派の魔法使い一族・紅魔族の釣りは他とは一味違う。

 川や池、泉に生息するモンスターを生き餌に食いつかせると、垂らした鋼鉄製の色の釣り糸を介して、電撃系魔法をぶっ放すという。とりあえず他所でやったら釣り場があらされると出禁をくらいそうなこの手法で経験値を稼いでいる猛者もちらほらいる。

 

「いやあ、つい手応えからして大物の反応がしたから思いっきりやってしまったよ。すまないね、とんぬら君。無事でよかったよかった」

 

 紅魔族の族長もそのひとりである。

 異世界を転移したら、今度は違う意味の別世界に昇天してしまいかけたが、不幸中の幸いにもそこが水の中であったために“水をかければ回復する”というとんぬらの体質的にHPがゼロになることはなかった。溺れかけたが。

 それで、だ。とんぬらには気になることが三つある。

 

「しかし、驚いたよ。ちょうど、任されている神社の管理をした後に、ちょうどすぐ前の『願いの泉』で釣りを始めたら、まさかとんぬら君が釣れるなんてね」

 

「俺もまさか族長に釣られることになるとは思いませんでした」

 

 猫耳神社を管理していたという族長の話から、ここがとんぬらのいる世界であることが間違いない。異世界転移は無事に成功したようだ。

 

「それで、とんぬら君、どうしたんだい? 何やら三日前に娘から話を聞いたところによると、とんでもない魔道具でどこか遠くへ飛ばされてしまったと聴いていたんだが」

 

「ええ、まあ、ちょっと簡単には語り尽せないくらいの大冒険をしてきましたよ」

 

 それでどうやらとんぬらはこの世界では三日間ほど消失していたらしい。これはよかった。もしもあの世界で過ごした期間と同じ数ヶ月も消失していたとすれば、大変なことになっているだろうと心配していたからだ。

 

「ふむ、どうやら大変だったようだね。うん、よく頑張った、と言わせてもらおうか」

 

 深く事情は語らずともこの一皮剥けた空気から、族長は察し、労をねぎらってくれた。とんぬらは無事に帰って来れてよかった、と今一度思い……ふけこむには、あと一つ、疑問がある。

 

「そけっと君にも捜し出せないくらいに遠くへ行ってしまったようだけど、とんぬら君ならきっと帰ってくると予言されたからね。私ももちろん信じていたよ」

 

「族長、それでなんですが……どうして、俺、ふん縛られているんですか?」

 

 そう、雷撃で気絶し、族長の介護の末に意識が回復するととんぬらはガチガチに縛られていた。それも大型魔獣捕縛に用いられるミスリル製のワイヤーでである。

 

「実は娘がね。とんぬら君がいなくなってからとても心配してね」

 

 うん、それは簡単に想像がつく。早く顔を見せて彼女を安心させてやりたいと思うわけで、やはりこの拘束は不要、むしろ邪魔になると思うのだが。

 

「それで、昨日、『よくわからないけど、どこかで私以外の女の子に大変なことをしちゃってる!』って、だからとんぬら君を見つけたら、絶対に逃がさないように確保しておいてねと頼まれてしまってね」

 

 と朗らかに語る族長だが、その内容にとんぬらは顔合わせには少々心の準備をする時間が必要かもしれないと冷や汗がたらり。

 全てを見通す悪魔の力を借りた占い師にすら検索不能なところへいたのだが、どうやら女の勘というのは距離どころか世界さえも無視してしまえるものようだ。

 

「まさかだけど、とんぬら君、うちの娘以外の女の子と大変なことをしちゃったのかな?」

 

「ははは、何を言っているのですか族長、俺はゆんゆん一筋ですよ!」

 

 ウソは言っていない。

 

「そうかそうか、それはよかった。安心したよ。無論、とんぬら君はしっかり娘のことを、責任を取ってくれると私は信じているからね」

 

「ははは、もちろんです! ……それで、族長、このワイヤー、解いてもらえませんか」

 

「――お父さんっ! とんぬらが見つかったのっ!」

 

 おっと連絡を受けた娘が来たようだ、と族長は解放することはなくそのまま放置して部屋を出ていった。

 マズいなこの状況。選択肢を誤ると、このまま完全管理(かんきん)ルートに直行してしまいそうであるが、

 

「……いや、ここで逃げてしまうわけにはいかないよな」

 

 とりあえず、覚えている限りのことは白状しよう。説得できるかどうかはまず考えず、やはりこの世界に戻ってきて最初に彼女にあの世界の冒険譚を聴いてほしいのだ。

 

 

 ♢♢♢

 

 

 あの一件……第一王女婚約者選定決闘の後から、ゆんゆんが変わった。何というか漂う雰囲気が大人っぽくなった。

 見た目がそう変わったわけではない。強いて言えば耳にピアスをつけるようになったくらいだ。

 派手なものではないが、ついいつもと違う装いに違和感を覚えて問えば、『ちゃんと私だと見分けがつくようにする』だとか『あと……してもらった痕を、残しておくため』だとかと理由を顔と瞳を赤らめながらも教えてくれた。

 一体アクセサリをつけるのにどうしてこう恥ずかしがる理由があるのか疑問である。

 

 それからゆんゆんは、あの男――トールが遺していったとある魔法の術理を記した書を読み漁っては何かをやっている。この前なんて、どっさりと紅魔族随一の花屋でも開くかと思えるくらいの大量の花を採ってきては、それをせっせと粉微塵にしていた。

 これで転移系のオリジナル魔法、場所ではなく個人を指定する合流魔法『リリテレポート』を開発するのだそうだ。

 何でそんな魔法を研究し始めたのかその理由を問いかけても、『めぐみんには内緒、ううん、私だけの秘密だから!』とこれまた顔を赤らめて語る(何となくイラっと来たのでその時はその無駄に育ってる乳房を揉みしだいてやった)。

 

「……しっかし、トールは一体どこへ行ってしまったのでしょうね」

 

 王女との決闘の後で、様々な憶測が行きかった。

 『結婚の出来る十五歳にまで育ったら改めてアイリス姫を迎えに来る』やら、『猫耳をつけてもらうのを断られて、そのショックでアクシズ教に入った』やら、それから『王女よりもこの少女と天馬で逃避行に出た』と。

 ちょっと表舞台に出ただけで、魔王討伐を成した私達よりも目立ってくれるなんて、もっとトールは慎み深くなるべきだとめぐみんは思う。

 ……で、最後の噂の元、件の少女、トールと最後に別れたはずのゆんゆんはそのことについては頑なに口を閉じているわけで、事の真相と行方は未だに謎のままである。

 しかし、話されなくても、この長い付き合いのボッチの考えてることくらいだいたいわかる。

 

「……ねぇ、めぐみん。待っているだけの女は遅れているよね?」

 

 また何かの雑誌を読んで影響されたのか。

 めぐみんへ確認で話しかけているが、既にそれは彼女の中で固まっている、確定事項であった。

 

「いきなりなんですか。ゆんゆんはこっちから話しかけてくるまでは傍に寄ってこれないボッチではありませんか」

 

「うん、だから、変わるの。ダメと言われても、追いかけていく。絶対に追いついてみせるわ!」

 

 

 参考ネタ解説。

 

 

 紅魔族(エマ)のお守り:ドラクエⅪに登場する主人公限定アクセサリを参照。裁縫が得意な主人公の幼馴染が、心を込めて作った大切なお守り。小さな巾着で、手に取ると彼女の想いが伝わり勇気が湧いてくる。

 そして、呪いと魅了を30%ガードしてくれる効果がある。後に渡される真のお守りは更にすごく、呪いと魅了を70%ガードしてくれる。二つ合わされば100%になる。

 

 旅の扉:ドラクエシリーズに登場する、入ると一瞬の内に他方の別の場所に移動できるワープゾーン。基本的に双方向から移動できるが、たまに一方通行のものもある。『自分が求めるものがある場所に扉を開いてくれる装置』とも説明されることがある。

 『扉』と名乗るものの、形状は扉の形をしておらず、設定上は、『光の奔流』、『闇の通路』ともされたりするが、たいていは渦を巻いている泉である。

 この『旅の扉』は通ると『頭とおなかがグチャグチャになる』とも感想を漏らされるくらいに移動するのが大変であるとされる。

 とんぬらが、『戦闘員派遣』でいう転移装置を設置したのは『願いの泉』の近く(厳密には猫耳神社があった場所)で、扉になるのはその泉になる。

 

 リリテレポート:ダイの大冒険に登場するルーラ系の上級魔法に当たる合流呪文『リリルーラ』が元。通常の転移が場所をイメージするのに対し、こちらは特定の相手のことをイメージする(もしくは思う)事で、移動するので、術者自身が知らない場所にも行ける。ダンジョンなどで仲間とはぐれた時などに便利で、敵対者をイメージすればその追跡にも応用できる。

 ただし、その媒体として、『ルラムーン草』を材料に調合した魔法の砂が必要である。

 ゆんゆんは悪魔の召喚方式を参照しながら、使い魔契約で繋がっているとんぬらとのパスを利用して逆召喚的な瞬間移動を試みようとしている

 

 異世界転移の箱の副作用。

 作中のウィズ曰く、『その世界で過ごした記憶は忘れてしまう』というのが原作設定。ただし、その世界から物を持って帰ることはできる(例としてアクアがゲームセンターで手に入れたキーホルダー)。とんぬらは、ゆんゆんとの契約が繋がったままであったために、全ては忘れていない。

 魔王戦だとか自分の世界の魔王討伐に役立ちそうな情報は残念ながらほとんど忘れており、また超級ハンスなどその世界で得た経験値もほとんど『イージス』復活のために削ってしまったため、ステータス的にも転移する前とほとんど変わっていなかったりする。今回は長編でしたが、結果的にプライスレスに終わりました(将来的にフラグは立ちましたが)。

 

 

 次章予告(仮)

 

 

 族長に認められるための登竜門、紅魔族の族長試練を受けに行ったゆんゆん。とんぬらもそのパートナーとして、二人一組で受ける試練に付き合うことに。

 過酷な(というより紅魔族らしい斜め上を行く面倒な)内容ではあったが三つの試練を達成し、次期族長として正式に認められるようになったゆんゆん。そこで、父の族長は娘の族長認定をお祝いするのを含めて、密やかに()披露宴(的なイベント)を準備しており、二人はついに……はずだったが、そこで、魔王の娘が率いる魔王軍が紅魔の里を襲撃する。

 紅魔の里を一気に占領してみせる魔王軍の精鋭部隊、だが紅魔族随一の勇者(残念ながら『テレポート』未収得)は、次期魔王と名高い魔王の娘へ、避難の遅れた魔法未収得の学生(こども)らを守るために一か八か奇跡魔法(パルプンテ)を振るう――!

 

 

「ここでダーリンと式を挙げるとしようかのう! ここに式の準備が整っているし、ちょうどいい! 城に戻っても父上が五月蠅いだろうし、それに一刻も早く、その他のオンナの匂いがプンプンする“(かめん)”もこの絶対服従の儀で妾の色に染め上げてやりたいからなあ!」

 

 

 そして、魔王の娘に惚れられた(ダーリンになりました)

 彼の魔王の娘にさえ、『ラブラブ夫婦になる(メロメロにさせる)』という効果から逃れられず、またその効果を魔王の娘相手に引き当てたとんぬらの強運()。

 パルプンテが、パルプンテな事態を連鎖させる中で、里奪還、そして、囚われの婿殿(ヒロイン)救出のためにゲリラ戦を展開しようと紅魔族は虎視眈々とその機を窺っていた紅魔族はひとつの決断をする。

 

 

「…………お父さん、ありったけの『マナタイト結晶』を用意しておいて。ちょっと今から『アクセル』に『テレポート』して、頭のおかしい爆裂娘(めぐみん)を連れてくるから」

 

 

 次章サブタイトル『とんぬら死す』。エクスプロージョン!


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