毒々の国のアリス   作:柏木祥子

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 ブラック・ローカストと呼ばれるイナゴの軍勢がアメリカの農場を襲う話は有名である。彼らは黒煙のごとき噴で麦穂に襲い掛かり、畑を跡形もなく喰い尽す。ブラック・ローカストが過ぎた後に残るのは麦の根だけだ。その無残な光景に人々はかの《ブラック・デス》を重ねざるを得なかったという。

 奔流と呼ぶに相応しい数の人がOKの入り口から溢れ出てきていた。内部で何が起こっているのかレジ袋を持っているもの持っていないもの必死の形相で逃げ惑う人の中に、OKの店員らしき制服を着た奴らが混じっている。「レジカウンターが36…そのすべてに人がいたとして36人、在庫管理に4人、警備員が3人、清掃夫が6人-1=5人…このほかにいるかな?」毒々モンスターは言った。

 店員の一人が五十路の女性の肩を踏み台に飛び上がり、毒々モンスターに襲い掛かる。毒々モンスターは手にしたモップを握りしめ、それを迎え撃った。

 毛先で店員の胸を打ち、次いで左右から来る店員たちを牽制する。階段を後ろに飛んで降り、モップを振り回しやすいよう手すりから離れる。襲い掛かる店員たちは皆一様にさきの清掃夫と同じ目をしていた。ヤバい薬だ。「アリスワンピースの人!早く君も避難を…」毒々モンスターは振り返った。そこには誰もいなかった。もう逃げた…かな?だといいんだけど…。毒々モンスターは店員のシャベルをいなし、鼻っ面にパンチを挿れた。背後に降り立った店員の胸に石突を突き込んだ。毒々モンスターは囲まれていた。

 階段の上にシャベルを構える店員が数人、後ろにも数人、階段の左右にあるテラスに鎌を持った店員が見える。毒々モンスターはこの絶対的なピンチにも笑みを浮かべた。

「さあ骨を折られて退場するか棺に入るか選ぶんだ」

アリスはふらふらと歩いていました。客の波を避けるよう、OKの建物をぐるりと廻っていました。華美で集客に力を注ぐ正面に比べ、側面はそこかしこが灰色で華がありません。業務用入り口らしきシャッターの降りた空間があり、その前にトラックが数台停まっていました。警備会社の車も見えました。2011年製造の新しめのダッヂ・チャレンジャーと見ました。さすがに旧式は走っていないのでしょう。少し寂しくなりました。

 喧騒は背後にありました。こうして対岸をフラフラと歩いていると、現実離れする感が頭を支配するようで、ただでさえ朦朧としている意識を夢見心地にしていくのでした。

 アリスはスカートをたくし上げました。先が変色していました。アリスは空を見上げてなにかを飲み干すようなしぐさをして、倒れるように歩きました。声は枯れかけているのか、ぁを滲ませた息を吐きました。

 白兎はどこだろうとアリスは思いました。あの可愛らしい兎を見失っているなとアリスは思いました。アリスは匂いを嗅ぎました。もちろんそれで分かるものというわけではありませんが、何だか奇妙なにおいがする気がして、アリスは建物の裏を目指しました。

 

 携帯をしまった毒々モンスターはOKの中に突入しました。階段に死屍累々を残し、モップを構えて。店内に残る客はまばらでした。買い物を目的として残っているわけでないことを鑑みると客と定義することはできないかもしれません。大半が痛みから起き上がれないようで、ここで何らかの事件があったことは明らかでした。毒々モンスターは足元に流れる血から退きました。

 レーンとレーンの間に店員が数人固まっていました。彼らは手に思い思いの凶器を持っていました。店員の中には血の付いた肉の塊を持つ者もいて、その手から血を滴らせていました。口元にも血がついています。想像したくない話でした。

 毒々モンスターは店員に見つからぬよう、慎重に移動しました。毒々モンスターの目指すところは、店長がいるだろう場所でした。バックヤードです。受注や発注の管理などもこなさなければならないでしょうから、少なくともパソコンのある部屋であることは予想がつきました。となれば、二階だろうと毒々モンスターは思いました。一階は生鮮食品が大半を占めているため、運搬を考えると裏には冷凍庫があるだろうと。つまり商品の在庫とパソコンを一緒にはしないだろうということでした。

 二階に向かう手段としては非常口で上がるかエスカレーターかエレベーターがありました。毒々モンスターはエスカレーターに向かっていました。毒々モンスターは店員を伺いました。店員たちの数が減っています。何かを探しているのでしょうか、隠れて毒々モンスターの姿を伺っているのでしょうか。

 毒々モンスターは音をたてぬよう素早く動きました。エスカレーターはまだ稼働していました。一番下で老女の死体がピストンのような動きをしていました。腕がエスカレーターに持ち上げられ、ある程度持ち上げられると滑って上半身が落ちて…。毒々モンスターは老女をまたいでエスカレーターに乗りました。店員の姿が見えました。死体を物色して、肉を切り取っています。中にはそのまま齧り付くものも。「地獄の窯でも開いたのか?」毒々モンスターは言いました。店員がうなり声をあげました。毒々モンスターは身を屈めました。エスカレーターはごうんごうん言っていました。

 二階について毒々モンスターが立ち上がった矢先、横合いに店員がぶつかってきました。若い店員でした。白い泡を吹き、目が飛び出さんばかりに張られています。まともにタックルを喰らった毒々モンスターは壁際まで店員と一緒に転がりました。毒々モンスターの屈強な体に若い店員の拳が入ります。包丁を持った女の店員が三人、毒々モンスターに群がろうとしていました。

 毒々モンスターは若い店員の腹を蹴って浮かせ、真ん中の女の店員の足元に転がしました。そして足元のモップを横にもって走りました。女の店員たちはガードに腕を上げ、体格差で押し負けて倒れました。真ん中の女の店員は毒々モンスターの膝を喰らって鼻をへし折られました。

 エスカレーターの下から怒号が聞こえました。仲間をやられたことを知った店員たちの声でした。

 毒々モンスターは走りました。音を立てるのも気にせずモップを構え。中途襲ってくる店員をなぎ倒し、パソコンのある部屋を目指しました。

『あ~店内を勝手に歩いている君!』

 スピーカーが音をたてました。

『僕たちがどこにいるかはわかっていると思う。そして僕が拳銃を持っているってことも、なんとなく察しがついてるんじゃないかな』おじさんの声でした。

 そりゃそうだ。じゃなきゃ俺に逆らう気なんて起こさないだろう。毒々モンスターは思いました。『その拳銃は今、君の友人の頭に向けられている。ブラジル製のセルフローディング・ピストルだ。簡単に脳みそをばら撒けるぞ!そんなのは君の本位じゃないだろう。悪いことは言わない。引き給え。君の手に負える事件じゃない』

 放送室か、と毒々モンスターは思いました。放送室はどこにあっただろう――毒々モンスターは考え、すぐに答えを出しました。「迷子センターか」

『お~動き出したな。だがそっちじゃないだろう、エスカレーターに向かい給え!君が外に出るまで店員には手を出させないでおく!』毒々モンスターは構わず進みました。

 おじさんはマイクに手を当て、唸りました。「なんだあいつは。何考えてるんだ」少なくともこの瞬間、白兎の頭に拳銃は向けられていませんでした。

『もういい!君に人質は無駄なのかな?それともいよいよ切羽詰まらなければ殺しはしないだろうと考えてるのか?どっちでもいい!いずれにせよ君は私のもとにたどり着く前に死ぬからな!おい!動けるものは全員、あれを使え!』

 あれとはつまりヴァルキリーのことでした。ヴァルキリー:valkyrieは米国で多数の死亡事故を引き起こす麻薬の一種。かの有名なDEAの捜査官、マックス・ペインが現役最後に追っていた麻薬であり、痛みをなくし感覚を限界まで引き上げる。

 毒々モンスターの前で店員がブルーの錠剤をのみ下し、毒々モンスターが脇を悠々通過するをよそに苦しみだしました。毒々モンスターは走りました。「冗談じゃないぞ」

 迷子センターは建物の奥まった場所に何故かありました。毒々モンスターは天井につるされた表示を頼りに家電コーナーを走りました。『なにやってる!早く追え!』おじさんの怒号が店内に響き渡りました。

 店員が体を痙攣させ、白目をむいています。これは本当に大丈夫なのでしょうか、少なくとも自分の身は大丈夫なんじゃないかと思った矢先、店員が跳ね起きました。

 毒々モンスターはモップを構えました。毒々モンスターの目の前で店員は気持ちの悪い動きをしていました。手を触角のようにやたらと動かし、足が滑るように持ち上がり、ナイフを持って毒々モンスターに突進しました。

 ハエほどの速さでした。毒々モンスターは店員が動き出す瞬間を見ていましたが、対応は遅れました。モップでナイフを叩き落とそうと払いをかけましたがそれは店員の頭上を切り、店員のナイフが毒々モンスターに迫りました。毒々モンスターは後転倒立の要領で切っ先を避け、店員の顎を狙ってモップを振り上げます。突進を繰り返していた店員は頭を傾げただけで攻撃を潜り抜け、体勢を整えきれない毒々モンスターの懐に飛び込みました。一瞬の交錯、毒々モンスターはモップを捨て、店員の腕をつかみました。ファインプレーでした。店員の体を振り回し、商品棚に叩き付けました。もしモップを持ったままだったなら店員の持つナイフが毒々モンスターの屈強な肉体に突き刺さっていたでしょう。冷たい海に沈むマーク・ウォールバーグを映していた液晶のテレビが割れました。

 冗談じゃないと毒々モンスターは思いました。一人一人がこの強さではさすがに対応しきれないかもしれません。毒々モンスターはモップを拾い上げました。これは早急に事件を解決せねばなるまい。毒々モンスターは走りました。背後から店員たちの軽い足音が聞こえてきていました。

 毒々モンスターは数を思い出しました。ここまで倒してきた敵の数からすると、残っているのは6、7人といったところです。面倒な人数だと思いました。各個撃破できる数ではないからです。敵はツ―マンセルかスリーマンセルで動いているに違いありません。毒々モンスターは振り返らず走りました。迷子センターに今行ってもどうしようもありません。

 家電の積み上げられた棚の上を疾走する店員の姿がありました。二人でした。二本足なのに口にナイフを加え爬虫類か何かのように器用な動きで棚から棚へ移動し、毒々モンスターを狙っています。

 と、店員の一人が空中を移動中に別の店員にぶつかって落ちました。「ん?」別の場所でも店員が店員に接触して一緒に転がったりしていました。『おいお前ら仲間同士でつぶしあってどうする!』

 これは単純に毒々モンスターを狙いすぎたことによるミスでした。感覚的に鋭くなっていた彼らは毒々モンスターにばかり集中し、毒々モンスターの隙をつくことばかり考えていたのです。ツ―マンセルスリーマンセルになって動く頭はある割に、別の班のことはすっぽり頭から抜け落ちていたのか仲間とぶつかりまくっていました。

 結果として互いを障害と認識した彼らは、やがて仲間同士で戦いを始めました。ナイフでお互いの頬を抉り二階から落とし金的を喰らわせストーンコールドスタナーをかけて相手を豪快に飛び跳ねさせました。

 最後に残った店員を毒々モンスターは殴り倒しました。

 釈然としない顔でした。

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「くそっ、どこに仕舞ったっけ」おじさんは言いました。机の引き出しを乱雑に開けては中を捻り回しなにかを探していました。さっきからない:ない:ないを繰り返していて、こういうときついつい何を探しているの?と白兎は言いたくなりますが、猿ぐつわを噛まされているので何も言えませんでした。差し引いても今回は何も言う気にはなれませんでしたが。

 おじさんは車のカギを探していました。

「まあ殺せるなんて期待はしていなかったがね、まさかこんなに早く来るとは思わなかった」原因は実力不足だけではないでしょう。理性的でなかったのも問題でした。白兎は縛られた両手を動かしました。ぎりぎりと縄が食い込み、肌を傷つけるその下を猛烈にひっかきたい欲求に駆られていました。「あーあーあーくそ片付けときゃよかったな」おじさんはちらりと監視カメラを見ました。毒々モンスターは迷子センターの窓口へ足を踏み入れていました。後ろから襲い掛かった店員をモップで軽くいなし、部屋の奥へと進んでいきました。おじさんは未だ見つからぬ鍵を求めて額の油を増やしていました。

 白兎はおじさんの様子をじっと見ていました。心中でアリスはどうしているだろうと思いました。こんな状況になってしまって、自分はどうすればいいのだろうと思いました。明らかな心細さを感じていました。毒々モンスターが助けに向かっている今でもそれは変わりません。アリスは今どうしているのでしょうか。監視カメラの映像ではどこにも映っていないように見えて、ひどく心配になりました。あんなふらふらしている人だからまさか客の流れに押しつぶされてやしないだろうか……と白兎は心配になり、自然と顔が青くなるように思えました。

 そのときお客様サポートセンターの扉が大きな音をたてました。衝突音と思われました。おじさんはビクリと肩を震わせ、扉を向きました。

 また扉が大きな音を立て、全体が大きくきしみました。木材の割れる嫌な音も聞こえました。おじさんは叫びました。「扉の前にお前の友達がいるぞ!」扉の向こうで巨体が静止したのが分かりました。

 おじさんはせせら笑いながら腰のタウルスを抜きました。マガジンリップに弾薬が入っていることを確認すると、扉に向けて数発の弾丸をたたき込みました。

 おじさんは黙りました。白兎も動きませんでした。誰しもが動きませんでした。穴の空いた扉から数筋の光が漏れていました。おじさんは何も倒れる音がなかったことに気づいていました。じっと銃口を扉の先に向け、何らかのアクションを待っていました。白兎が足をさすりました。扉から漏れる光が塞がれる気配はありません。おじさんは壁際に座らせていた白兎に駆け寄り、猿ぐつわを外しました。タウルスの先を白兎の頭に向け、何か言えと言いました。白兎はこんなことを言いました。

「お、お姉さんはどうしてますか」

 場がまたしても沈黙に包まれました。おじさんは何だこいつという顔をした後白兎の猿ぐつわを戻し、また銃口を扉に向けました。

 白兎はアリスがどうしているだろうと再び思いました。

 おじさんが非常口の近くまで来たとき、突如として天井が割れ毒々モンスターが姿を現しました。おじさんのタウルスが火を噴きましたが、見当違いの場所に命中しました。おじさんは気を取り直して毒々モンスターに狙いを定め、硬直しました。

 毒々モンスターはその手にスプリングフィールドを持っていたのです。鉄色の銃口がおじさんに向けられていました。

「アリスワンピースの人は……大丈夫っだっ」毒々モンスターは白兎に言いました。あまり説得力のない言い口で、白兎は若干不安になりました。

 ここでようやくおじさんはアリスワンピースの人が一体だれを指すのか理解しました。が、ますますなんなんだこいつらと思っただけでした。

 すべてが終わりに近づいていました。

 毒々モンスターはスプリングフィールドを構えたままデスクへ目を向けました。白い粉の入った袋が鎮座していました。「お前はここで終わりだ」毒々モンスターは言いました。

おじさんは銃口を白兎に向けました。「お前に撃てるかな?」

 白兎はアリスをずっと思っていました。銃口を向けられる前も後も考えていました。ふらふらのアリスが今どこで何をしているのか気にする気持ちが沸き上がると銃口を思い出し気持ちが掻き消えてしかし恐怖を消したいからか無意識がアリスを思い出させました。

 アリスとの思い出が走馬灯のように駆け巡りました。大半がトイレでの一件で、これは拳銃のことをずいぶん忘れさせてくれました。

 白兎は顔を赤くしました。手がうずきました。体がうずきました。アリスの柔らかい体に飛び込みたい欲求に駆られて体を動かすとおじさんが暴れるなと言って、ようやく現実に引き戻されるのでした。

「撃てるとも」毒々モンスターは言いました。毒々モンスターは気持ち、おじさんの脳髄を狙っていました。正確に打ち抜くことさえできれば、死後の反射作用が起こらないからです。

 おじさんはもちろんそれに気づいていました。軽い白兎を片手で自分の顔の前にもっていきました。タウルスはもちろん、白兎の体に突き付けています。

 毒々モンスターはそれでもおじさんを狙いました。今、射線を外すことは瓦解に直結すると思いました。かといってこのままこの状況を続けるわけにもいきません。おじさんが白兎を片手で持ち上げるのに疲れるを待つとしても、時間が分からないのです。遠くからサイレンの音が聞こえてきました。毒々モンスターは舌打ちしました。今警察に来られれば話がどんなふうに抉れるか分かったものではありません。

 膠着が続きました。

 しかし、有利なのは明らかにおじさんでした。白兎がいる限り毒々モンスターはスプリングフィールドを撃てません。一方のおじさんは早打ちで負けさえしなければ毒々モンスターを処理できる可能性すらあります。おじさんの顔には余裕が浮かんでいました。人質の有用性を改めて思い知ったようでした。

 おじさんは後退しました。毒々モンスターは射殺す目でおじさんを見ながら、しかしその動きを止められませんでした。

 おじさんは尻でノブを下しました。タウルスを白兎の頭に向けたまま、非常口の扉を開きました。毒々モンスターから目は離さず、非常階段へと降り立って――

 丸形の革靴を踏んづけて、足を滑らせました。「うぉっ?」

 非常階段にアリスワンピースの少女が突っ立っていました。ふらふらとひどい格好で、今にも非常口のノブに手を置こうとしていたタイミングでした。

 白兎がおじさんともども落ちようとすると、柔らかい手に腕をつかまれました。「あら??」と脳がしびれるような声が白兎の耳に届きました。

 白兎は浮かぶような調子で、ふわりとスカートをたなびかせ、地面に着地しました。

 おじさんが物凄い音を立てて転がり落ちていくさまを、二人して目を丸くしてみていました。

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「あ、アリスワンピースの人」スプリングフィールドを下げた毒々モンスターが素っ頓狂な声を出しました。

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「イトーヨーカドーよね」アリスは言いました。

「はい!」白兎は意味も分からず満面の笑みでした。喉から悦びが迸っていました。アリスワンピースをちぎれんばかりに握りしめ、アリスの胸に顔をうずめていました。「ここはOKだから。イトーヨーカドーじゃないと」ダメなの、とアリスはふらふらしながら言いました。顔はさっき別れた時よりも土色でしたが、白兎は気づきませんでした。「はい!そうですね!」白兎は言いました。言ってからああでも私はイトーヨーカドーの場所知らない……と思いました。

 毒々モンスターはおじさんの落ちた先を覗いていました。おじさんは非常階段を転がり落ちた勢いで手すりを乗り越え、下のゴミ捨て場に落ちていました。毒々モンスターはすぐ追おうと考えました。その前に、と。

「いや、君たちには迷惑かけたね。埋め合わせは必ずするから…」「あ、あの!」白兎は叫びました。「わたしたちイトーヨーカドーに行きたくって!」

 毒々モンスターは一瞬だけ呆けた顔をして、微笑みました。「君がそんなに自己主張するところ初めて見たよ。そっちの人のおかげかな」「え、は、はあ…。で、イトーヨーカドーなんですけど…」下から銃声がしました。毒々モンスターは下を覗きました。急行した警官に向けておじさんがタウルスを撃った音でした。おじさんはそのまま車道に出て一般人の車を奪いました。「ふむ…よし、送ろう。車は…」「あ、あそこ」白兎はデスクの下を指さしました。

 鈍色の鍵が光っていました。

 

「イカした車だ」ダッヂ・チャレンジャーに乗り込んだ毒々モンスターは言いました。後部座席のドアを開けてアリスたちを招き入れ、エンジンをスタートさせました。

「冷房が壊れてるみたいだな…まあいいか。じゃあ行くぞ、シートベルトは絞めたね?」

 二人の返事を待たずして車は発進しました。

 

 いつもは静かなはずの県道を二台の車が走っていました。前方、逃げる車は銀色のアウディ。乗っているのは脂ぎった中年のおじさんです。サスペンションを盛大に軋ませ、交差点を曲がりました。それに続き、焼けたタイヤの匂いを残すダッヂ・チャレンジャー。追う、追われるの構図を崩さぬまま全力で走り続けます。

 

「もうすぐ着きますよ、お姉さん」アリスに体を預けた体勢で白兎は言いました。「ここまで長かったですね…」感慨深げでした。

「ひい、ふう…」アリスは懐から財布を取り出して中身を確認していました。車がやたらと揺れるので数えづらそうでした。「まあ足りる」白兎はアリスに身を寄せました。「お姉さん、わたし怖かったです。銃頭に突き付けられて…。慰めてほしいなぁ…なんて」

 アリスは無言で白兎の頭を撫でていました。ほぼ無意識でした。

 

 ダッヂ・チャレンジャーのフロントバンパーがアウディを捉えました。鈍い衝突音、チャレンジャーもアウディも大きく揺れました。苦し紛れにおじさんが放ったタウルスが地面に弾かれます。チャレンジャーのコントロールを得た毒々モンスターは再び体当たりを敢行しました。アウディも小さくありませんが、いかんせんマッスルカ―が相手では分が悪いです。おじさんは横転しないよう走らせるだけで精いっぱいでした。

 

 白兎はアリスにすり寄りました。「色んなことがありましたね…正直言って最初、お姉さんのこと変な人だなと思ってたんです」白兎はアリスの胸を触っていました。「でも今は素敵だなって、お姉さんのお姉さんらしいところ、素敵だと思うんです」

 車内はじっとりと湿っていました。熱せられた空間とどこかから香る酸い匂いは公衆トイレを思い出します。白兎は自然とアリスの口に口を寄せていました。

 

 チャレンジャーとアウディが並走しています。

 

「お姉さん、わたし思うんです。隣同士なのは運命だったのかななんて」

 

 アウディから放たれた銃弾は見当はずれの方向に飛んでいきました。毒々モンスターはハンドルを切ってアウディに体当たり。車体重量の差はいかんともしがたくアウディは軽く揺さぶられます。

 おじさんは低く呻きました。頼みの綱を早々に失い、このカーチェイスに勝たなければ未来はないとみて間違いありません。

 チャレンジャーの体当たり。それを避けるように右へ移動するアウディ。しかし永遠に右へ行けようはずもない。ブレーキでチャレンジャーの体当たりを避けることも考えたが、一度避けたところでむしろ追いつめられる未来しか見えない。チャレンジャーを走行不能にしなければならなかった。

 

「お姉さん、これが終わった後もまた一緒に遊びましょうね。お互いの家に行ったり、出かけたり…勉強も見てほしいです。お姉さん、確か凄くいいところに行ってるんですよね」

「んー?」アリスは言いました。「そう」

 アリスはフロントガラスの向こうの建物に目を奪われました。

 

 アウディは一か八かこちらから攻撃を仕掛けることに決めました。しつこくぶつかってこようとしてくるチャレンジャーから距離を置きます。加速で前に出ようと試みますがうまくいきませんでした。スピードを落として後ろに遅れようともしましたが、それも防がれました。扱いづらいダッヂ・チャレンジャーで随分器用な真似をするものです。

 アウディは車線を移動してチャレンジャーから距離を話し、タウルスを撃って近づかせまいとしました。偶然にも弾の一発がサイドミラーに命中、ミラーのかけらが後方へ散らばります。しめた、とおじさんは思いました。ハンドルを両手で持ち、ダッヂ・チャレンジャーに向けて特攻を仕掛けました。

 

(衝突の直前、かぼそくも通る声が聞こえた)

 

「止まってーっ!」とアリスは叫びました。ここに来て初めての叫びに、白兎は目をむき、毒々モンスターは思わずアクセルとブレーキを間違えました。

 ええ、イトーヨーカドーについたのです。

 アウディが中央分離帯に乗り上げ、横転しました。

 

 アリスは降りました。びっくりしたまま白兎も降りました。毒々モンスターは後部座席のドアを支えながらアリスたちと、横転したアウディを見比べました。アウディのドアを持ち上げ、満身創痍のおじさんが現れました。毒々モンスターは困惑した表情で言いました。「あ~…近々また会うと思う。……それじゃ」

「本当にありがとうございます」白兎は言いました。

「いいっていいって」毒々モンスターは笑いながら車を降りておじさんのほうへ走っていきました。毒々モンスターに気づいたおじさんは折れた足を引き釣りながらぴょんこぴょんこ逃げていきます……タックルを喰らって転倒しました。

 アリスはイトーヨーカドーを見上げました。純白の建物は清潔で、掃き掃除しているのは天使のように品の良い店員でした。「OKとは大違いね」アリスは白兎の手を握りました。白兎はアリスの顔を見上げました。

 二人は歩き出しました。足は棒のようで、体や服のあちこちが汚れ、心も憔悴しきっていましたが、その顔は晴れ晴れとしていました。 

 アリスはイトーヨーカドーに入りました。で、倒れました。

 

                  ▼

 

 原因はまあ、熱中症が多くを占めている。あとは疲れていたからか、急な温度変化に体がついていかず、意識をぶつりと途絶えさせたのである。仮にOKの店内に入っていた場合その場で倒れていただろう。ああ、これは非常に運が良い。(うん)

 

 運命。アリス(ではない)は暗い意識の中で白兎の言葉を思い出す。今日起こったことすべて運命で決められていたとしたら…。どんなに奇妙なことも、もしかしたら起こるのかも知らぬとアリスは思う。例えばリンゴを落としてみる。これは重力が働いているためと思われるが、実際にそれを観測するすべはない。少なくともアリスは知らない。リンゴを落とした。地面でつぶれた。これが過程であり結果であり…その中途にどのような理論が働いているかは誰にもわからない。確かめてみないことには何もかもわかりはしないが、確かめられることは存外に少ないのだ。人の感情などは、その最たるものか。明確な理論づけはされておらず、それらしい意見が正しくないところを多く見てしまう。不安定仕方なく、不条理仕方ない。しかもその不条理さを本人は把握できないから、改善がひどく難しい。少なくとも一人で意識改革なんぞやれる奴は一握の砂である。

 運命とは不条理極まりない。そこにあると設定してみても誰も観測できず、しかし誰もがその内容を知っている。これほど感情に左右されるものもないだろう。(感情それ自身を除いて)しかしということは、運命なんてものがあっても関係はないということである。我々は自由なのだ。何に縛られていようとそれには気づかない。気づかないということは、そんなものないということと主観的に見れば変わりはないのである。

                             ≪アリス(ではない)≫

 

                  ▼

 

 規則的な機械の音で目を覚ましたのだろうか、とアリス(ではないが)は思った。そんなはずはないがそう思った。そこにはそれ以外の音がなかったから。アリスは身を起こした。薄暗い、病室であることが分かった。「うおー頭いてぇー」ぐわんぐわんする。拡大と縮小を繰り返しまくった後のようだ。脳がシェイクされたような気もする。

 身を起こしてみると、ベッドの横の衣装掛けにアリスワンピースがぶら下がっている。自分が今着ているのは病衣だった。そして隣に男が座っていた。パイプ椅子に。いつからかは知らないが、手帳をこちらに向けて提げている。よく見ると警察手帳だった。

「やあ。起きたね、体調はどうだい」手帳をしまい警官は言った。ジュード・ロウの吹き替えみたいな声だった。「頭はなんか変なんですけどそれよりもなんか…」「なんか?」「いえなんでもありません」もしかして未成年淫行でしょっぴこうとしてますかとは聞けなかった。

「君は重度の日射病と風邪で運ばれたんだよ。ここに運ばれた時には水分が致死量近くまで減っていた。いやほんと、危なかったよ」「はあ…」君死ぬかもしれなかったんだよと言われてもアリスはいかんせん実感がわかなかった。頭痛以外にその残滓はなかったし、警官のいい口はとても軽いかったから。

「なにか気になることは?」

「えー、あーっと、なんで警察のかたが私のところに?」

「覚えてない?」警官は不思議そうな顔をして言った。「夢遊病患者みたいな感じだったけど受け答えはちゃんとしてたみたいだし、一応記憶はあると思うんだけど」

「え?まああるにはありますけど何かピンク…アクション映画みたいな感じで」

「へえ、どんな?」

 アリスは差しさわりない部分だけ答えた。公衆トイレ以外はほとんど話した。

 話し終えると警官は顔に愉快そうな表情を張り付けている。なるほど、あの人は毒々モンスターか。と呟いた。

「あはは、極度の日射病になるとそんな幻覚を見るのかぁ。まあ概ね間違ってないよ。僕が君に聞きたいのは一応、OKでの件だったんだけど、これじゃ証言は取れそうにないね」

「はあ…すいません。…あのどっから現実なんですか?」

「概ねね、あのOKは近くにイトーヨーカドーやイオンがあったせいで経営不振に陥っていたんだ。そこでオーナー…君がおじさんと言っていた人だね、彼は中国産の安い麻薬を仕入れて商品に混入させていた。軽い中毒にしてしまえば客足は遠のかないと考えたんだね。我々はずいぶん前から疑って……ああ、勘違いしないで上げてくれよ?レイモンド・ハリス捜査官…毒々モンスター、彼は休暇中のフェデラル・ビューロー・インテリジェンスなんだ。今回のことは全然知らなかったんだよ。君が病院に搬送されたとき死にそうな顔をしていたな。責任感が強いから」警官は低く笑い声をあげた。「だから彼がOKの店員相手に大乱闘を繰り広げたのは本当。中毒が行き過ぎて暴走する人がいたのも本当だ。違うのは、君が見てないところかな。ヴァルキリーという麻薬は高いからね。たぶん、ゲームが想像に混じったんだろう」

「は~」ほんとにアクション映画みたいだったよとアリスは思った。あれ?「あの、小さい女の子がいませんでしたか?」アリスはベッドの横の空中に手を水平において小さいを表現した。警官はそれを見て言った。「ああ、白兎ね。もう終わるころだと思うけど、彼女はカウンセリングを受けているよ。頭に拳銃を突き付けられたんだ。僕ならちびってる」

「あの…白兎にはもう話を聞いたんですか?」

「聞いたよ」警官は真顔になった。アリスはヤバいと思う。「日射病で曖昧だったとはいえあんな小さな子を連れまわしたんだ、ちゃんと謝らないとね」警官はまた笑顔になった。

「あ、あれ?それだけですか?」「それだけとは?」

 いやなんかもっとなんかなかったのかとはもちろん言い出せない。アリスは口をぱくぱくさせた後なんでもないです…と縮こまった。「まあ、彼女もそれについては気にしてないみたいだし君も……」そのとき、ノックの音がした。警官は首だけ振り向いて、立ち上がる。客の応対をした。アリスはぼんやりと誰だろうと思って、いやもしかしたら幻覚だったんじゃないかあれはと考えた。少なくとも過剰にはなってるはずだ。せめて、ほんとせめてキスどまりであってほしい。

「君にお客だ。噂をすれば影ってやつだね」警官が笑った。手の先に、真っ白い女の子がいた。アリスは思わず震えた。「じゃあ僕は出てるから、二人仲良く、ね」アリスは出ていく警官を見送った。隠語にしか聞こえなかった。

 扉が閉められると、いよいよ病室には二人しかいない。なぜ個室なんだとアリスは思った。幻覚だったのだと信じたいとアリスは思ったが、記憶は生々しい。

「あの――」白兎が口を開いた。可愛い声だとアリスは思った。「お姉さん、倒れたとき凄く驚いて、心配して…」うん。「わたし、最初から体調悪そうだなって思ってたんです。あの時ちゃんと言ってれば……すいません」「い、いやいや。君が謝ることじゃないよ~私のほうこそ、もうどう謝って許されるか…」アリスは頭をかいて俯いた。

「じゃあ、慰めてください」白兎の体が俯いたアリスの視界に入った。アリスは焦燥感や罪悪感に苛まれていた。

「慰める…とは?」アリスは聞いた。神に質問する心持だった。

「撫でる…とか」白兎は言った。存外に普通でアリスは拍子抜けした。

 ともあれアリスは白兎の頭を撫でた。高級なシルクでも撫でているような感触で、撫でてるうち色んな悩み事が消える気がする。楽しくなった。

 撫でていると、白兎がアリスに寄りかかる。少し驚きはしたものの、そのまま撫でる。

 病室に二人の時間が流れていた。長い無言はあらかじめそうと決められた時間のようで気にならず、アリスは優しく白兎の頭を撫でた。白兎は気持ちよさそうに目を細めている。いつまでも撫でていいとすら思った。

 やはりあれは幻覚だったのだ。

 こんな清純で純粋でピュアでイノセントな子と致したりなんてしてないのだ。アリスは目をつむった。

「お姉さん、退院したら遊んでくれますか?」

「うん、いいよ」アリスはすっかり安心していた。「メレンゲも買ってないしね」

「メレンゲ…」

 メレンゲ。いやに乾いた声が聞こえた。

「お姉さん、覚えていたんですね…。やっぱり幻覚じゃなかった」「え?え?」「わたし、お姉さんとのこと話したんです。でもわたしの体にはどこにも跡がなかったから信じてもらえなくて…。ずっと話して、それは日射病で見た幻だ、夏は魔物だからって…」白兎は涙ぐんでいた。アリスは何が何だかわからなかった。(いやほんとはわかっていたけれど)

 白兎の顔が近づいた。アリスは目をぎゅっと閉じてベッドに横たわって逃げた。アリスは布団をかぶった。ほんとは逃げ出したかったが足は未だ疲労から回復しておらず、うまく動かなかった。暗い布団の中、アリスの耳にごそごそと白兎の入り込む音。

 パニック状態の中、アリスはしかし思い出している。

 病衣が捲られていた。捲られた先から湿ったものがアリスの肌を通っていた。くすぐったいような、くすぐったいで止めておきたい。胸の下のあたりを舐められたときは少し声が出た。そのすぐ先に双房があったが白兎はそこにはいかない。白兎がアリスと同じ目線まで登ると、互いの吐息が感ぜられる。

アリスは叫びたくなったが、そうもいかなかった。

数秒すると、叫ぶ気もなくなった。

 

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 主観的に見れば、あらゆる出来事は現実であり間違っているのは周囲である。これは一種言葉遊び的なエッセンスを持っているが、信じようと思えば信じられないことはないし、そっちのほうがいいならそっちを信じたほうがいい。結局のところ、あらゆることは主観的であるから、幸せと思えば幸せなんだろうし不幸と思えば不幸なのだ。例えそれがそうと見えなくても、他人がそれを指摘するのはマナー違反というもので、それにそうした指摘は真実味に欠ける。真実ではないからだ。

 それぐらい信じられれば、気が楽でいいのだが。

 


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