その時、ザッザッと雪を踏み鳴らしながら何者かが近付いてきた。
「相変わらず辛気臭い顔をしてるな」
それは以前墓地で出会った、ガキ大将風の体の大きな男の子だった。今日も友達を手下のように引き連れている。
少女は表情を隠すようにごしごしと腕で顔を拭い、すくっと立ち上がった。
「……何か用」
目元は赤くなっていたものの、その表情はいつもの冷たくて無感動な顔付きに戻っていた。
少年は側を浮遊しているムウマに気付き、にやりと笑った。
「なんだ、この間のムウマも一緒じゃないか。こいつはちょうどいい。探す手間が省けたぜ」
「…………?」
「この間は恥をかかされたからな。その時の借りを返してやるぜ!」
どうやら水死体の幻を見せられてコケにされたのを根に持ち、復讐の機会をうかがっていたらしい。
少女は少年から目をそらし、ぼそりと小声で呟いた。
「……馬鹿みたい」
その声が届いてしまったのか、少年は赤くなってポケットからモンスターボールを取り出し、ずいっと突きつけてきた。
「こ、この間は丸腰だったからやられただけだ! 今日は兄ちゃんのポケモンをパクって……じゃない、借りてきたからな。ボコボコにしてやる!」
少年はそう言い直し、ボールを前方に放り投げた。
「行けっ、ヘルガー!」
中から出てきたのは"ダークポケモン"と称されるポケモン、ヘルガーだった。頭に二本の角を持ち、まるで肋骨が背中から体外に飛び出したかのような外見をしている犬型のポケモンだ。
雪の積もった地面に華麗に着地し、ガルルと低く呻った。白い雪上に黒い体がよく映える。牙の隙間からボッと明るい炎を吹き出させ、ちらつかせる。
ヘルガーはとても引き締まったいい肉体をしており、すごく好戦的な瞳をしていた。ガッガッと前足で地面をひっかき、今にも飛びかからんと体をウズウズさせている。
多分あいつは、墓守りのサンドパンなどと違って最初からバトル用に育てられているポケモンだ。一見してレベルが高いと見て取れる。
しかもヘルガーのタイプは、悪・炎だった。ゴーストタイプのムウマとしてはかなり相性が悪い。
ヘルガーが大きく雄叫びを上げ、威嚇するように空中にごぉっと火炎を吐いた。舞っていた雪は瞬間的に溶かされて霧散し、辺りが炎で照らされた。
熱気に気圧され、ムウマは思わず後ずさる。
不安げな表情を浮かべて後退するムウマを眺め、少年は楽しげに笑った。
「へへっ、ざまあないな。いい気味だぜ」
しかし少年の視線を遮るように、少女がムウマの前に立ちはだかった。庇うように一歩前に出て、後ろのムウマにぼそっと囁く。
「……あなたは逃げなさい。元々、あなたには関係のないことなのだから」
だが少女はポケモンを持っていないようだし、自分だけ逃げ出してしまっては、この後少女がどんな目に合わされるかも分からなかった。
ムウマは背中に背負っていた袋からトゲトゲした木の実を取り出し、こっそり口の中に放り込んだ。むしゃむしゃ噛み砕いて嚥下する。
そして怖気を押し殺し、ずいっと少女の前に出た。少年とヘルガーのことを睨みつける。
「おっ? なんだ、やる気か?」
「凄んでも全然怖くないぞ」
ヘルガーという秘密兵器がいるせいか、少年の後ろに控えている男の子たちが余裕ぶって野次を飛ばしてきた。ガキ大将風の少年も、へへっと鼻を鳴らしてあざ笑う。
「いいぜ、だったらバトルで決着をつけてやるよ。行くぜヘルガー、"かえんほうしゃ"!」
期せずしてバトルが始まってしまった。
ヘルガーが四肢を突っ張り、ガバッと大口を開いた。その口元に高熱源が集まっていく。
ムウマはちらりと背後を盗み見た。
すぐ後ろに少女がいる以上、避けるわけにはいかない……!
木の実が詰まった袋を雪上に放り出し、"まもる"の技を発動した。ムウマの正面に透明な盾のようなものが出現し、攻撃に備える。
その直後、ヘルガーの火炎放射が放出された。地面や周囲に積もっていた雪をすごい勢いで溶かしながら、ごぉっと呻って炎の壁が迫ってくる。まるで夜が昼になったかのように周囲が明るくなった。
炎が守りの盾に直撃する。
『くっ……!』
それはすごい威力の火炎だった。踏ん張っていないと後方に吹っ飛ばされてしまいそうになるほどである。
盾に阻まれ、炎が左右に別れてそれていく。
やった、防ぎきったと思ったのもつかの間、ヘルガーが口元から火炎を撒き散らしながら"ほのおのきば"攻撃を仕掛けてきた。
『なっ……!?』
素早過ぎる。
反応が間に合わず、思いっきり胴体に鋭い牙を突き立てられてしまった。
肉に牙が食い込み、皮膚が焼ける。
「ムウマっ……!」
少女が緊迫した声で短く叫んだ。
ヘルガーはそのまま乱暴に頭を振り、ムウマを塀の方に叩きつけた。
「まだ俺達の攻撃は終わってないぜ! ヘルガー、"スモッグ"攻撃だ!」
彼らの連撃は終わらない。
少年の指示を受け、ヘルガーは火炎放射を吐いたのと同じ口から毒ガスを吹き出し、浴びせかけてきた。視界が紫色の煙で覆い尽くされる。
ムウマはゴホゴホと激しく咳き込んでむせた。
(しまった……!)
毒ガスを吸い込み、毒状態になってしまったようだ。
息がうまく出来なくなり、胸がつかえたように苦しくなる。なんとか浮き上がろうとするのだが、体に力が入らず、雪の上にへたり込んでしまった。
それでもヘルガーは追撃の手を休めず、牙を向いてトドメの一撃を加えようとしてきた。
その時、少女が雪を蹴り上げながらダッと駆け出し、庇うようにムウマに覆いかぶさった。
「もう止めて! この子は関係ないわ!」
しかしヘルガーは、まるでにやりと笑うように大きく口元を歪ませた。
そして姿勢を低くして大きく口を開き、"あくのはどう"攻撃を放った。
倒れているムウマにではなく、少女目掛けて。
「きゃっ……!」
衝撃を受け、少女の体は吹っ飛ばされた。
まるで暴風に弄ばれる紙くずのようにごろごろと地面を転がり、雪まみれになって向こうの方でようやく止まった。ぐったりとそのまま横になって動かなくなる。
命令以外の行動を取られ、少年は慌てたようにヘルガーに待ったをかけた。
「ま、待てヘルガー! 誰が人間の方に攻撃をしろって言った! そんな命令はしてないぞ!」
ヘルガーはちらりと少年の方を見たが、そんなの知るかという風に鼻を鳴らしてそっぽを向いた。まだまだ暴れたりないという風に空に向かって遠吠えをし、ごぉっと火炎を放つ。周囲の雪が熱で溶かされびしょびしょになっていく。
「よせ、止めろっ!」
少年は叫んだが、ヘルガーはお構いなしだった。正規のトレーナーじゃないから、言うことを聞かないのだ。
制御出来ず、好き勝手に暴れようとしている。
ムウマはなんとか体を起こし、少女の方を見やった。
まともに悪の波動を食らってしまったのか、少女はお腹を押さえて地面に転がったまま立てないでいた。苦しげに顔をしかめながら、ムウマに何かを伝えようと必死に口を動かしている。
何と言っているかは聞こえなかったが、その口の形は「に、げ、て……」とムウマに伝えていた。
……それを見て、ムウマは覚悟を決めた。
毒に侵された体にムチを打って立ち上がり、フワリと空中に浮かび上がる。
『…………』
ヘルガーのことを睨みつけたまま、無言のままに"トリックルーム"を発動した。
周囲に半透明な壁のようなものが出現し、二匹を囲うように箱が形成される。
「な、なんだこれ……?」
初めて見る技なのか、後ろの少年は目を見張って驚き、戸惑っていた。
トリックルーム。これは中にいるポケモンの素早さを逆転させるエスパー技だが、自分たちをルームの中に閉じ込めるという効果もあった。
これでもう、トリックルームの壁に阻まれて少女がヘルガーの攻撃を受けることもないだろう。ちらりと背後を盗み見て、少女がトリックルームの外側にいることを確認する。
ムウマはヘルガーの方に向き直り、キッと鋭い瞳で睨みつけた。
……習得はしたものの、この技は生涯使うことはないだろうと思っていた。
なぜならこの技は、自分の命すら危険に晒すものだからだ。
元々正面切ったガチンコのバトルは苦手だし、そもそも自分は少女の手持ちのポケモンではない。だから少女のために意固地になって戦う必要はないのだが……それでも、立ち上がらずにはいられなかった。
ここで戦わなければ、いつ戦うというのだ。
ムウマは大きくを息を吸い込み、その技を発動した。
"ほろびのうた"
それは全身に鳥肌が立つような、聞いている者に死と絶望を感じさせるような甲高い歌だった。
反射的に三人の少年たちは耳を塞ぎ、ヘルガーも顔をしかめて低く呻った。
歌声が響き終わるのと同時に、ムウマとヘルガーの頭上に時計の文字盤のようなものが浮かび上がった。その表面には数字の"3"の文字が刻まれている。チッチッチッと時計の秒針が進み始める。
少年は度肝を抜かれたように素っ頓狂な声を上げた。
「ほ、滅びの歌だって……!?」
滅びの歌。それは一定時間後に、この歌を聞いた全ポケモンが瀕死状態になるという、まさに必殺の技だった。
体力が満タンだろうが、どんなに頑丈な防御力を持っていようが関係ない。伝説のポケモンだろうが幻のポケモンだろうが、場にいるすべての者を滅びへと導く歌である。
もちろん技の使用者であるムウマ自身も例外ではない。
文字盤の数字が"0"になれば、自分も倒れる。
ヘルガーは突如自分の頭上に出現した文字盤に驚き、辺りを駆け回ってそれから逃れようとした。しかし、文字盤はどこまでもぴったりとついて来る。
ムウマはにやりと不敵な笑みを浮かべて宣言した。
『どうする、ヘルガー? このままだと後数分で、君も幽霊の仲間入りだよ?』
もちろん瀕死状態になるだけで実際に死んで幽霊化するわけではないのだが、そこはそれ、人やポケモンの恐怖心を喰らうことで生きてきた”よなきポケモン”の本領発揮である。ヘルガーの恐怖心を煽り、焦燥させる。"おどろかす"攻撃だ。
効果は充分なようで、ヘルガーはビクッと怯えてひるんでいた。
先程までは尻尾をぴんと立てて自信満々という感じだったのに、今は若干、尻尾が垂れ下がり気味になっていた。気圧されたようにジリジリと後退する。
格下のムウマのことをひどく警戒し始めたのだ。
だがこいつは、無抵抗なあの子を傷付けた。ただで帰すつもりはない。
ムウマの瞳が妖しくギロリと輝き、"くろいまなざし"が発動した。
これで勝負の決着がつくまで、ヘルガーはバトルから逃げられなくなる。
『…………!?』
後ずさりをしていたヘルガーの体が、金縛りにあったかのように硬直した。それ以上後ろに下がれなくなる。
さらにムウマはしゃにむに突っ込み、"からげんき"攻撃を放った。
毒などの状態異常にかかっている時に発動すると、威力がニ倍になるというトリッキーな技である。
ふいをつかれ、吹っ飛ばされるヘルガー。
物理系の攻撃はあまり得意ではないので大したダメージは与えられていなかったが、それでも牽制には十分役に立ったようだ。思わぬ反撃を喰らい、ヘルガーが動揺している。
そうこうしている間に、二匹の頭上の数字が"2"にカウントダウンした。
『ほらほら、どうするヘルガー? 時間がなくなってきたよ?』
挑発を続けるムウマ。
「お、おい。大丈夫か、ヘルガー?」
トリックルームの外側の少年が不安そうに声をかけた。
怒ったヘルガーはグルルと牙を剥いて呻り、猛然と火炎放射を吐いてきた。
ムウマは"かげぶんしん"を使ってそれを回避しようとした。雪の舞い散る空に、大量のムウマの分身が出現する。
ヘルガーは躍起になって全ての分身を撃ち落とそうと火炎を吐き続けた。周囲が真昼のように明るくなる。
後方で少年が焦ったように叫んだ。
「ま、待て、落ち着くんだヘルガー! ……そ、そうだ、"だましうち"攻撃を使うんだ!」
騙し討ち攻撃。それは繰り出せば攻撃が必ず命中するという技だった。いくら分身を作っていようが相手に必中してしまう。
だがテンパっていたためか、あるいは正規のトレーナーの命令ではないので指示に従うか否か一瞬迷ったのか、ヘルガーの動きが出遅れていた。
その隙にムウマは体当たりをするようにヘルガーに突っ込み、その胴体にガブっと噛み付いて"いたみわけ"攻撃を発動した。
自分が受けたダメージや疲労度を相手に押し付け、代わりに新鮮なエネルギーを吸収してお互いの体力を半々にする。
その直後、ヘルガーの騙し討ち攻撃が炸裂した。
長い尻尾を使って体から引っ剥がされ、フェイント気味に繰り出された鋭い爪で体を切り裂かれ、吹っ飛ばされる。
『うぐっ……!』
騙し討ちは悪タイプの攻撃技なので、ゴーストタイプのムウマにはよく効いた。
それでも先に痛み分けを使って体力を回復していたおかげで……戦闘が始まる前に食べておいた木の実の効果もあって、なんとか耐え切ることが出来た。
先程ムウマが食べたのは、"ナモの実"という木の実だった。効果が抜群の悪タイプの攻撃を受けた時、その威力を一度だけ弱めてくれるという不思議な木の実である。相手はきっと悪タイプの技を使ってくるだろうと考え、予め口の中に放り込んでおいたのだ。
体を蝕む毒ダメージが苦しいが、大丈夫、まだやれる。
その瞬間、いよいよ二匹の頭上のカウントが残り"1"になった。
後1カウント耐え切れば、ヘルガーを共倒れに出来る。
ムウマは痛みをこらえながら体勢を立て直し、ヘルガーに問いかけた。
『さあ、残り1だよ。どうするヘルガー?』
『ぐぅ…………』
『聞こえるだろう? 滅びの歌の最終楽章が。死神の足音が』
プレッシャーをかけ続ける。
ヘルガーはバトルに集中できず、ちらちらと頭上の文字盤ばかり気にしていた。
チッチッチと絶え間なく動き続ける秒針。
それが死神の宣告のようにヘルガーの精神を追い詰めていた。今やヘルガーの尻尾は怯えたように丸くなり、足の間に挟まっていた。
レベルや相性ではヘルガーの方が圧倒的に有利だったが……場は完全にムウマが支配していた。
ムウマとは、人間やポケモンの恐怖心を糧にすることで生きるポケモンである。
ヘルガーが焦りや恐怖心を覚えて気弱になるごとに、対するムウマは強気になっていった。
口先の言葉で相手を惑わせ、計算高く"わるだくみ"をする。ヘルガーや少年たちの気付かぬうちに、今やムウマの特殊攻撃力はぐーんと上がっていた。
「え、ええと、次の技は……! 次は何の技を……!」
自分の持ちポケモンではないせいか、少年は次にどんな指示を出せばいいか迷っていた。焦れば焦るほど頭が真っ白になって技名が出てこない。
黒いまなざしのせいで逃げられないし、滅びの歌のタイムリミットは目前まで迫っているし、おまけに後ろにいるトレーナーは本物のご主人様じゃないし、頼りない。
精神的に追いつめられたヘルガーの呼吸は乱れ、鼓動は早鐘のように早くなり……冷静な判断が取れなくなっていた。少年の指示も待たずに勝手に攻撃を開始する。
大きく牙を剥き出しにし、よだれを撒き散らしながら闇雲に"かみつく"攻撃や、あるいは"かみくだく"攻撃をしかけてきた。
ムウマは守るや影分身を使ってそれらの攻撃を紙一重でかわし続けた。トリックルームの効果のおかげで素早さが逆転しているので、どうにかその猛攻を捌ききることが出来る。
(いける……!)
ムウマは隙を突いて"おにび"攻撃を放った。
人魂のような青い炎が空中に出現し、ヘルガーを襲う。
鬼火は相手に直撃し、ヘルガーの体をぼおっと炎上させた。周囲の雪を溶かしながら燃え上がる。
だがしかし、すぐに炎の勢いは弱まり、まるでヘルガーの体に吸収されるように馴染んでかき消えてしまった。
「…………?」
バトルの成り行きを見守ることしか出来ていなかった少年はその光景を見て眉をひそめていたが、ハッと何かに気付いたように歓声を上げた。
「そ、そうだ! 兄ちゃんのヘルガーの特性は"もらいび"だったんだ!」
特性、もらい火。
それは炎系の攻撃を受けてもダメージを受けず、代わりに自分の繰り出す炎系の技の威力がアップするという特性だった。究極の反炎系体質である。
少年は嬉々として叫んだ。
「ヘルガーのことを火傷状態にしたかったようだけど、失敗だったな! ヘルガー、パワーアップした力で"オーバーヒート"をぶちかましてやれ!」
ヘルガーが動きを止めて四肢を突っ張り、すぅっと息を吸い込み始めた。命令通りにオーバーヒートを放つつもりだ。
しかし、ムウマの狙いは最初から別のところにあった。
先程の鬼火攻撃はヘルガーを火傷状態にしたかったのではなく、ヘルガーの足元の雪を溶かしたかったのだ。
雪は溶けると水になる。
そして、水は電気をよく通す。
(ロトムと友達になっていてよかったよ……)
ムウマは森の洋館に住んでいる友達に心の中で感謝しながら、渾身の力を込めてその技を放った。
"10まんボルト"の技を。
トリックルームを発動していたおかげで、現在、ムウマの方が素早さが上だった。
ヘルガーがオーバーヒートを放つよりも先にムウマの体が激しく発光し、バチバチバチと音を立てて凄まじい電撃を放った。
電撃がヘルガーの体を穿ち、感電させる。
『…………!?』
ヘルガーの体は引きつけを起こしたように激しくのたうった。足元が濡れていたおかげで電気は更に通りやすくなり、全身を痺れさせる。
十万ボルトの攻撃が終わった時、ヘルガーの体からは白い煙が立ち上っていた。オーバーヒートを放とうと大きく口を開けたまま、白目をむいて銅像のように硬直している。少し焦げくさい臭いがする。
そしてゆっくりと地面に突っ伏すように倒れ、そのまま動かなくなってしまった。
しばらくの間、誰も、何も喋らなかった。
長いようで短い、短いようで長い沈黙が続く。
少年がガクリと地面に膝をつき、呆然としながら呟いた。
「そ、そんな……兄ちゃんのヘルガーが……」
ヘルガーは完全に戦闘不能に陥っていた。
滅びの歌のカウントダウンが"0"になる寸前、バトルの決着がついたのだ。
バトルが終了したことによりトリックルームや滅びの歌の効果も消えた。二匹を囲んでいた半透明な壁が消え、ムウマの頭上に浮かんでいた文字盤も霞のように消滅する。
「ヘルガーがムウマ相手に負けるなんて……」
レベル的にも相性的にも有利だったので、まさか負けるなんて思っても見なかったのだろう。信じられないという顔をして、ボロボロになりながらも勝者となったムウマのことを見詰めている。
『ああん?』
ムウマがまだやるのかという風に睨みつけると、少年たちはひっと短く悲鳴を上げた。
脅すようにぼっと空中に鬼火の炎を出現させると、少年たちはヘルガーをモンスターボールに回収し、泡を食ったように逃げ出した。
「す、す、すみませんでしたー!」
夜の闇の中へと消えていく。
後に残されたのは満身創痍のムウマと、少女だけ。
何だが急に世界が静かになったようだった。辺りに静寂が戻り、外灯の明かりが一匹と一人の姿を照らしている。
ムウマは全身の力が抜け、へなへなとその場に座り込んでしまった。
あ、危なかった……。
ずっと虚勢を張って強がっていたが、正直、負けるかと思った。
もう少しで滅びの歌のカウントダウンが0になり、相打ちになるところだった。ヘルガーがちゃんとビビってくれたおかげで助かった。もしかしたらあいつは、あれで案外臆病な性格だったのかもしれない。
後一発でもヘルガーの攻撃がヒットしていたら、多分ムウマはやられていただろう。
というか、後一歩でも身動きを取れば、スモッグによる毒ダメージのせいで死にそうだ。
ムウマは地面に寝転がり、雪が振り続ける灰色の空を見上げながらロトムのことを思い浮かべた。
古い洋館に住んでいるロトムと知り合って友達になった時、『人を驚かすのに使えるかもしれない』と思って、電気・ゴーストタイプの彼に"10まんボルト"や"チャージビーム"といった電気タイプの技の使い方を教わっていたのだ。
あれがなければ決定力に欠け、ヘルガーを倒しきれなかっただろう。今度良質な磁石でも持って行ってやろう、などと考える。
向こうで倒れ伏せていた少女がお腹を押さえながら起き上がり、ムウマが投げ捨てた木の実や袋を拾い集めて駆け寄ってきた。
毒で苦しんでいるのを見て取り、急いでモモンの実を探しだして食べさせてくれた。解毒効果のある木の実である。
体から毒が抜け、すぅっと体が軽くなるのが分かった。
『あ、ありがとう……。君は大丈夫だったかい?』
ムウマは心配そうに少女に話しかけた。
「…………」
しかし少女は無言のままガサゴソと袋の中をあさり、オボンの実やらオレンの実、その他体力が回復する系の木の実を見つけてはムウマの口に無理矢理ねじ込もうとした。ぐいぐいと押し付けてくる。
『ちょ、多い多い……!』
カビゴンでもあるまいし、一度にそんなに大量に食べられるはずもない。木の実が喉につまり、けほけほとむせ返ってしまう。
ふいに、ぎゅっと体を抱きしめられた。
「まったく、無茶をするんだから……」
ポタポタと頬に冷たいものが当たる。
最初は振り続ける雪の粒が当たったのかと思ったが、それは少女が流した涙だった。
『えっ……?』
今までずっと笑顔も涙も見せなかった少女が、涙を流して泣いていたのだ。赤くなった頬につぅと涙のしずくが伝っていく。
「本当に、私なんかのために無茶ばかりして……」
腕に力を込めて、さらに強く強く抱きしめられる。
「怖かった……。私のせいで、あなたまで死んでしまうのかと思って、本当に怖かった……」
よなきポケモンのムウマは、人間やポケモンの恐怖心を糧に生きるポケモンである。
今までたくさんの人間やポケモンを驚かせ、恐怖させ、その『怖い』と感じた心を食べてきた。
ムウマの首元にある数珠のような赤い珠が淡く輝き、少女が感じた恐怖心を吸収しだした。
……それは、始めた味わう感じの恐怖心だった。
何だか胸のうちにぽっと小さく明かりが点ったような、心が暖かくなるような味だった。
抱きしめられた腕を通して少女の温もりが伝わってくる。
少女は未だに泣き続けている。
少女の泣き顔を見上げながら、ムウマはしばらくの間なすがままにされていた。
目をつむりながら考える。
人を怖がらせるのが本分の自分だが……たまにはこんなのも悪く無い。