目が覚めた。
そこはどう理屈づけようとも表しようのない異常な空間。辺りには、こちらをギョロリと睨みつけてくる目、目、目。気色悪い――というよりは自分の知らなかったモノは、こんなにもちっぽけだったのだと思えてしまうような。
「ここが……スキマ?」
そこにいる全てに正気を問いかけるように目玉蠢くこの世界こそが、八雲紫の心象世界、『スキマ』なのか。しかしこの空間も、妖怪の賢者の力の一片に過ぎないのだ。
「ふふ……元気そうね」
「あ、紫さ――って……それ、どうしたんですか!」
綺麗に調度されていた紫色の道士服はところどころ擦り切れて、夜霧がスキマに落ちた後に何かがあったことは容易に推察できる。
――つまり、何かあった。
「その傷、その様子……もしかして、ですけど」
「ええ、そのまさか。魔理沙と戦ったのよ」
「……! それで、どうなったんですか?」
ため息をつく紫。しかしそれは、疲れの色に染まり、悲観にくれる悲しいものだったが。
「見事に負けたわ。……彼女、強くなりすぎよ」
「ははは。一応、自慢の師匠なんですよ」
「笑ってる場合じゃないわよ……ほら、こっちに来なさい」
紫に連れられ、スキマの奥へと進んでいく。一際目を引くのは、辺りに漂う謎のオブジェクト。赤色の三角棒、棒状の通せんぼの様な形状をした、全く用途不明のそれらが漂っているのだ。そしてその夜霧の疑問に気づいたのか、紫が説明を始める。
「これは交通標識って言ってね。外の世界でよく使われるものよ」
「交通標識? 何ですかそれ、何かを整理したりするんですか?」
「まあ大体そんなものよ……。言わばこれは私の中の、外の世界への勝手なイメージの表れ。あちこちに見える目玉は
「………そうですか」
――随分、外の世界の事を知っている。妖怪の賢者だからそれくらい知っていてもおかしくない、なんて思ったりはしない。これほどまでに露骨に偏見を抱いているのだ。外の世界を深く知らなければここまで強いイメージもできないはず。
「さ、着いたわよ。――ここが、スキマの……私の世界の、最深部」
そこには、
「そう、ここには何もない。世界の終着点。この世界はここから広がっている。いわば、始まりであり終わりであるのがこの場所よ。そして新しく境界を作ることができるのも、ここのみ」
「作る? 何を言って……」
「霧雨夜霧。よく聞きなさい」
夜霧の質問を遮って、紫は続ける。その様子には、先程までは見られなかった焦りの色。
「……はい」
「うん、よろしい……。じゃあ、今から過去と現在の境界を越えて、あなたはタイムスリップをしてもらうことになる」
「――はい、わかってます」
「だからその過程で過去が変われば、この世界に辿り着く可能性は限りなくゼロとなる。本当に簡単に言うとね。――この世界は消えるの」
「は……? 消える、だって?」
「そう、だから賭けなのよ。私の独断でこの世界を賭ける。一世一代どころか巻き返しもできない
嘘だろう、と。そう思った。だってそうだろう。現在この世界に辿り着く可能性の消滅が意味するのは、今この時間には永遠に戻れなくなるという事。――それはつまり、永遠の孤独だ。
「でも、一度乗った賭けは降りられない……とでも?」
「まさか、私もそこで酷ではない。降りるのなら、今ここで決めなさい」
念の為だけど……本当に念の為、聞いておこうと思った。
「……あなたが過去に行くことは可能なのですか?」
「おそらく可能ね。でも、意味がない」
「どういうことですか?」
「確かに私が過去に行くことも可能。でもそれでは意味がないのよ。過去の私は――ううん。八雲 紫は、私を
なんなんだそれ。やる前から諦めてないか。
わずかにそう思ったが、よくよく考えてみれば当然だった。妖怪の賢者であり幻想郷を管理する彼女が、『未来から来た私』だなんて名乗る人物の事を信用するだろうか? 俺にはそんな場面が想像できない。きっと彼女は突っぱねる。未来の彼女の忠言を、偽物の戯言と扱うに違いないだろうし。――というか、自分のあまりの胡散臭さに腰を抜かすんじゃなかろうか。
「でもそういう事なら、俺が言ったところで変わらなくないですか?」
「いいえ、全く変わるわね。少なくとも私よりは可能性がある」
「いや、そうかもしれないですけど」
ああもう。この際だ。はっきり言ってしまおう。
――自信が無いんだ。今から過去に戻って、この状況を回避できる自信が無いんだ。
「大丈夫よ。そう、あなたなら……きっと」
「……なんでそう言えるんですか」
「ふふ、だってあなたは……この八雲紫の心を
「――え? それって、どう言う……?」
そう言い終わる前に、新たな境界が開く。今と昔、過去と現在、その境界が――目に見える形となって顕現する。
「さあ、行きなさい。この先には……過去の幻想郷が待っている。……あなたの、戦いが待っているのよ?」
「紫さん……俺は――」
「ほーら! 此の期に及んで、言わないのよそんな事。……さ、行きなさい」
紫は俺の口元に人差し指で触れると、子供をあやすかのようにして、夜霧へと語りかける。
「あなたに賭けた私の選択に間違いがなかった事……あなたを信じた私がいたこと、覚えていなさい」
そうして意識は断絶していく。
最後に見たものは――。
――あなたを、信じているわ。
妖怪の賢者が、笑顔で微笑む表情だった。
◇◇◇
現世に、ヒビが入っていくのが見える。
「やって、しまったわね」
私はその場に倒れこむ。……あの境界を開いた事で、紫の中の力は尽き果てた。式神を呼んでも来る気配が無い。契約が切れたか、もしくは――死んだか。しかしそんなことは些細なことだ。夜霧が過去に行ったことで、この場所はきっと矛盾の塊となって……消滅。
――つまり、世界は崩れ出す。
「あーあ、私としたことが……不確定要素に身を委ねすぎたかしらね」
魔理沙との戦闘中。避けようの無い一撃を前にして私は、一切の回避行動をとるようなそぶりも見せずに、一撃耐えて見せたのだ。全ては一人の人間を過去に送るための力を確保するため。そのためなら一撃程度、安いものだった。
人間を過去に送り、その未来を変えようとする……ありえないくらい不確定要素に溢れた賭けだ。普段の私なら絶対にそんなことはしない。 だが残念ながら夜霧を過去に送るという賭けに出た八雲紫は。幻想郷を愛し、自らのために行動する唯一の妖怪だったのだ。
幻想郷を救うためにどんな手でも使う――幻想郷の管理者としての八雲紫ならばどうしたのだろうか。そう自問自答する。
おそらくそれでも夜霧をタイムスリップさせることを私は選んだと思う。そこに微塵の後悔は無い。
――いいや、今のは嘘だ。たった一つだけなら、ある。
「私ももう一度、過去に戻れたらな……」
実は、嘘だったのだ。『八雲紫は時の境界を越えることができる』……嘘では無い。ただ自分も無事では済まないだけで。そうした瞬間紫は激しい妖力消費によって呼吸すら、生きている証を立てることすら、難しくなる。……そしてそれは他人の場合も同様。
誰だ。自分のことをなんでもできる万能少女などと揶揄したのは。そんな冗談じみたことを考えて、またどうでもよくなる。
「はぁ」
紫は自らが消えていくのを感じながら、考えてみる。
霧雨魔理沙――魔霧が幻想郷を破壊すること。
こういうのを運命だったと言うのだろうか。変えようのなく、私が間違えたその瞬間に定まってしまった運命か。だからと言って、その答えは間違いだったと言えるのか? 違う、全てはあの日、結界が揺らいだ日。その時下した幻想郷の管理者としての判断が紫をそうさせた。――彼女の運命を、自分が定めてしまったのだ。
悪いのは誰だろうか?
――他の誰でも無い、私だ。
こんな破滅の運命に導いた、他の誰でも無い私だ。
だから私は、全てを賭けて夜霧を送り出した。……何もかもを犠牲にさせて、何もかもを救う使命を彼に負わせた。
きっと苦労するだろう。きっと苦しむだろう。自分の時間と過去の時間との擦れに、気がついてしまうこともあるだろう。孤独に苛まれ、苦しむこともあるだろう。……私の本質を知り、失望するかもしれない。私が愚かで、ただ一つの幻想郷しか見えていないことに呆れ返るかもしれない。――それでもいいから。
私や、他の誰にも変えることが出来なかった霧雨魔理沙の運命を、変えることが出来るのは、あなたしかいないのだから。変えられないと決まった運命を変えるには、過去の運命を変えるしかないのだから。
「………………」
目を瞑る。 そこには、すでに限界も、カタチも、形跡も、何もかもを失った在りし日の楽園の姿。ついさっきまであった――けどどこか違った楽園。私が愛した楽園。みんなが笑った楽園。願わくば、次の目覚めは、そんな楽園の中で……。
「そうなれば、いいわね。そうは思わない?」
一息ついて、一言。
「ねえ、**」
それだけ呟いて八雲紫は眠る。
じきにこの世界は崩壊していく。夜霧が過去に渡ったことによって、世界の観測視点は夜霧のものとなった。故に、この時間は可能性――あるかもしれない一つの可能性の中の世界と化す。
次にこの時代が訪れた時、それは今とは全く違う世界なのか。……幻想が笑い、騒ぎ、ふざけあう楽園のような世界か。それとも何も変わらず、ただ物悲しいだけの失楽園のような世界か。その可能性の鍵は、夜霧の手の中にある。
――そう。全ては過去の幻想郷に、あの激動の時代に収束していく。
『prologue』
――End.