「……………」
夜霧が帰って数時間後、大図書館には、再び本のページをめくる音が響いていた。そして相変わらず、大図書館の中心に座したままの『動かない大図書館』。
そんな彼女の元に、何冊かの本を持った小悪魔がやってくる。
「パチュリー様、この本はどこに置くんでしたっけ?」
「………………」
「パチュリー様?」
「……ああ、ごめんなさい。なんですって?」
「あ、いや。この本はどこにしまおうかお伺いに来たのですが」
「それなら十一番と零二の棚ね。後それは……」
――パチュリーは、考えていた。
あの最近現れた、まだまだひよっこの魔法使いのことを。彼のことは、実のところよく知らない。急に大図書館に出入りするようになった、まだ人間の魔法使い。でもどこか、初対面のはずなのに見覚えがあった。
あの黒尽くめに所々白い装飾を施した特徴的な――というよりはちょっと変な白黒なローブを纏ったその男はどこか……あの金髪のコソ泥魔法使いに雰囲気が似ていたのだ。だから初めて会った時は本棚に保護魔法を何重にも厳重にかけた。
また本を盗まれる――!
そんな気がしたのだ。でも実際はその逆で、借りたものはちゃんと返す、良心の持ち主だった。
そう。あの『普通の魔法使い』とは大違い。なのになぜか、彼は似すぎているのだ。
その風貌も、その使う魔法も、その雰囲気も、その研究の切り口も――!
……何と無く気まぐれで、彼の師匠のことを聞いてみたことがある。彼曰く、「俺の知る人の中では最強で、――パチュリーさんでも勝てないんじゃないかな」だそうだ。
――そして曰く、金色の瞳に黒と白の服を着た魔法使い。
震える。
まさか、まさか、まさか?
夜霧が師匠と呼ぶ人物は、まさか――。
「……小悪魔」
「はい、なんでしょうか」
「ちょっと外に出るわ」
「はい、わかりました……って、え!? パチュリー様が!?」
「何よ。私だって動く時は動くわよ」
そう、まさに今がその時。パチュリーが動く時は、
――その時だった。
「……その重い腰をあげる必要は無いと思うぜ。パチュリー」
静寂が支配する大図書館に、声が響く。
――数百年ぶりの、彼女の声が。
ああまさか……本当に……。
「アナタ、だったのね」
◇◇◇
その時のことは、彼自身よく覚えてない。
ただ、空を全力で飛ばして飛んでいただけ。
早く、早く、早く……! そんな思いだけで、全力以上のスピードを出した。疲労と魔力を限界以上に放出したことによる痛みに顔を歪ませながら、そうしてたどり着いた、顔も見せたくなかった人里。
――変わり果てた、地獄の様な。
「なんだよ、これ」
ボロボロになった家々。火が上がった人里。そこに人の活気はなく、響くのは阿鼻叫喚。それも、誰も望まぬもの。誰も求めていない、恐怖以外の何物でもない感情が、埋め尽くしていた。逃げ惑う人々が降り立った俺を見る。怯える視線、忌む視線、期待する視線、憎しといった視線――様々な感情を梱包させた視線が、夜霧に向かって交差する。
師匠の服装みたく、白黒を基調にした服なんて着てるのがいけないのか。やけにこちらに向けられる視線が怖い。……どうやら、この里を燃やした犯人の仲間だと思われているようだ。確かにこんなナリでは疑われるかもしれないし、動機もあるのかも知れないけれど。そう思い、仕方のないことと割り切った。なぜなら夜霧の目的は、この火の手の奥にあるのだから。
「いるんでしょう? ――師匠」
「おう……意外と早かったな、夜霧」
燃え盛る炎の中から、白と黒の魔女が歩み寄ってくる。そして俺の視界に捉えられる確かなところまで来たところで、その姿をはっきりと見る。黒いドレス、白い装飾。いつもの彼女の服装。そのはずなのに。……どうしてこんなにも纏う気配が違うのだろう。金の瞳に見つめられただけの俺は、身震いが止まらない。彼女は果たして本当に俺の知る彼女なのか。
そう、夜霧は恐怖を感じていた。ヘビに睨まれるカエルみたく、ここで死ぬかもという臨死感。自分が死ぬことを悟った時と、全く同じ系統の感情。諦め、諦観と言えば体裁は守られるが、残念ながらそうではない。本当の恐怖を味わう時、人間はまともな思考をする気すら起こらなくなるものだ。
……夜霧はいま、恐怖していた。自分のよく知る……否、
「なんでこんな事をするんですか……師匠」
「なんでってお前、そりゃあさ。お前はスーツを着込んだサラリーマンに毎日欠かさず出勤する理由を聞くのかよ? ……聞かんだろうよ、そんな事。私も同じさ、夜霧。私は然るべきことしようとしてるんだ。邪魔しないでくれ」
「然るべきこと、だって? 師匠、あなたが何を言ってるのか、俺にはわからないですよ!」
「わからんだろうな、お前は。――この幻想郷は無くなるべきなんだ。それに気づくこともなく、ここで死んでいく命には申し訳ないが……仕方ないのさ」
「師匠……、いや――霧雨魔理沙ッ!」
――その名を呼んだ瞬間だった。
魔力で満ちた、ドッジボールほどの大きさの弾丸が、猛高速で抉るように夜霧の腹を吹き飛ばす。……穴は空いていない。
「あっ、ぐっ……!」
「知ってるんじゃないかよ、私の名前」
師匠――霧雨魔理沙が静かに歩み寄る。その足音は不気味なほど、喧騒に包まれて騒がしいはずの人里にカタカタと響いている。
「なあ、夜霧。聞きたいことがあるんだ」
「な、なんでっ……!?」
魔理沙は夜霧の襟を、――たぶん
「ぐっ……あっ……」
「お前、私と一緒に来ないか? もちろん、ここをぶっ壊してからだが」
「師匠が、ここを壊す理由が少しでもわかったら、考えますよッ……」
すると魔理沙は、明らかに呆れたようなため息を吐いてこう言い捨てる。
「アホか、お前。お前に質問権は無いんだ。――来るのか、来ないのか。その二択だ、それ以外は論外、即却下だ」
――どんな選択肢だよ、それ……!
強制的に答えさせたいわけでも無い。かとか言って質問も一切許さない。一体何がしたいのか、それすらもわからない。
「こんなことを思ってるとは思わんが、一応。助けは期待するなよ。……私の忠実な
ま、足止め程度にしかならんだろうが。
そう最後に付け足して。これで夜霧が多少なり期待していた救援の類は、一切期待できなくなったわけだが……。
「で。どっちなんだよ、夜霧。私は早く
その一巡りは、何のためにするのか……無論、壊すために決まってるだろうけれど。
「…………」
目を瞑って、考えて見る。いま思えば、ここには良いものが数え切れないくらいあった。魔法の森には不思議なものがいっぱいあった……何度通いつめてもその度に新しい発見があった。空から見た夕暮れの情景は感嘆の一言だったし、博麗神社から一望できる幻想郷の景色も素晴らしいものだった。
――あれ? 意外とすらすら言えるもんだな。そこまで幻想郷について考えたことは無かったんだけど。
つまり、どういうことなのか。それはまだわからないけれど……まあとにかく、俺は魔理沙にこう言ってやる。
「すみません師匠――俺、壊すのは正直勿体無いと思います」
「へぇ。あら、そう?」
その時、身体が嘘みたいな力で揺られて――思いっきり、近くの民家に投げつけられる。木片を幾多もぶち破り、人間が奏でてはならないような音を発しながら破壊音と衝撃が残響する。
「ぐっ……」
「あーそうだそうだ、やっぱりな。幻想郷なんだから、これで決めるべきだったな」
クククと笑いながら、そう言う魔理沙の手には――長方形の一枚のカード。
スペルカード。
「なあ夜霧……弾幕ごっこ、やろうぜ?」
――霧雨魔理沙は、狂っていた。少なくとも、自らの行動が矛盾だらけだと言うことに気づかないくらいには。
弾幕ごっことは、結局のところ幻想郷の実力ある者たちが決めたルールでしか無い。わざわざそれに則っとる理由なんて無いのだ。しかし幻想郷に住まう妖怪たちはルールに従う。それはもちろん守らなかった後のことが恐ろしいからというのもある。しかし結論から言うと、妖怪たちはそれを楽しんだのだ。人間を殺すことなく、ガチンコで戦うことのできる画期的なシステム。退屈が妖怪を殺す毒なら、その解毒薬となり得たのは弾幕ごっこという
――しかし霧雨魔理沙の目的は、幻想郷を壊すこと。そこには一切の娯楽も、楽しみも、ルールだった無い。霧雨魔理沙は、幻想郷を破壊するのみ。したがって、わざわざ弾幕ごっこという、非殺傷が前提の戦いをするメリットが魔理沙には皆無なのだ。
なのに魔理沙はスペルカードを提示――弾幕ごっこを夜霧に挑んだ。それはつまり、
――それが夜霧を生かすためなのか、はたまた気まぐれでしかないのかどうかは、わからないのだが。
「スペルカードは一枚。膝をついた方の負け、でどうだ?」
「は、ははは……」
しかしそんな事を思案する余裕もない夜霧は……儚い威勢を顔に貼り付けて、スペルカードを提示する。
「いいですよ師匠。……あなたが負けたら、大人しく引き下がってくださいよ」
「ほざけ、負けるのはお前だよ」
魔理沙が距離を置き、両手を前に挙げてスペルカードを提示する――間違いなく、必殺の合図。
「魔力の奔流で身も心も消し飛びな。――魔砲『ファイナルスパーク』」
それは、圧倒的すぎた。威圧を感じる間もないくらい、一瞬にして空気が
「――負けられないんだッ!!」
取り出したのは、一枚のスペルカードと――ミニ八卦炉。かつて目の前の師匠が教えてくれた、一撃必殺、高火力かつ超ロマンの大魔法。……いつか、普通の魔法使いが得意とした魔法を。
「秘伝!!」
八卦炉を構え、スペルを叫ぶ。目の前の圧倒的火力に対抗できるのは、同じく圧倒的火力のみだから。
――『マスタースパーク』!!
ミニ八卦炉から放たれた虹色の極太
「らぁぁぁ!!」
「やるじゃないか、でもな――」
夜霧が叫び、魔力がさらに加算されることでレーザーの威力がさらに増す。魔理沙がもし、軽い気持ちで戦っていたならあっさりと押し返せていただろう。――軽い気持ち、ならだが。
「……悪いけど、こっちも本気なんだ」
その瞬間。二対の光線の均衡が崩れ、一方の方へと容赦無く押し寄せてくる。――無情に、しかし当然のように、夜霧の方へと。
「…………………あ」
「チェックメイトだ。夜霧」
圧倒的すぎた。――威力も、質も、……何もかもが上位で、何もかもが優に上回っていた魔力が、夜霧を包む。焼け焦げるような痛みと、むせ返るような衝撃に意識を明転させながら。
「……あ、」
……夜霧は、
それをしっかりと見た魔理沙は、夜霧がもう立ち上がることができないと気づくと、こう言って立ち去った。
「さよならだぜ。――最後で最期の我が弟子よ」
そう、言い捨てるように言った後で。
「意外と……付いてきてくれると思ってたりもしてたのにな」
そんな虚しさばかりの瞳で告げたその言葉が、夜霧に届く前に。
……夜霧は、暗い暗い意識の底に沈んでいく。
◇◇◇
「ほら、いつまで寝てるつもり? いい加減起きなさいよ」
「……あー、っと……え?」
状況がうまく飲み込めない。俺はいま、師匠との弾幕ごっこに負けて、そこらの地べたに寝転がっている。それは自分自身、よくわかっているとして……。
「誰ですか?」
夜霧を見下ろすようにして、
「そんなところから出てきてる時点で人間じゃないのはわかるから、まずあんたは妖怪だ。そしてその変な――空間を操る力……とすると、妖怪の賢者様か?」
「御名答」
女性はおかしな空間の穴――と言うよりは、スキマとでも呼べそう穴を広げ、今度は完全に体を出してその場に立つ。
「私は八雲紫。妖怪の賢者と呼ばれたりしてますわね」
「なるほど……して、そんな人が俺に何の用ですか? もう、あまり動けない」
「……まずは自分の後ろを見なさい」
そう言われ、魔力の使いすぎでうまく動かない体を起こし、背後を確認する――。
「――ッ!!」
嗚呼、信じられない。しかもそれは、まぎれもない真実。――なんで、
燃えた焦げた家屋の跡も、人の姿も、何もかもがそこから消えていたのだ。
「な、なんだよコレ……おい賢者様……どういうことだよ!」
「安心なさい、里の人々は無事。今は私の空間の中で保護してる。里の建物は……どれも状態が酷くて、すぐに片付けるのが一番だったわ」
「なっ……そう、ですか」
――わかってる。わかってるんだ。これが仕方ないということも。でも……思わずにはいられない。俺が。俺が、師匠を止めれたのでは無いか――この人里を、壊すようなことにならなかったのでは、と。
「思いつめても無駄ですわよ。霧雨夜霧」
「……わかるんですか? 俺、そんなに顔に出てますかね?」
「ええ、それはそれはかなり」
「……あの、賢者様」
「――紫」
「え?」
「構わず紫とでもお呼びなさい。あまり堅苦しいのは好きじゃないのよ」
「そ、そうですか……なら紫さん。……霧雨魔理沙のこと、知ってるんですよね?」
そう聞くと、「やはりそう言うか」と言う表情で紫は頷く。
「なら教えてください……彼女が、霧雨魔理沙が――どうして幻想郷を壊そうと思うのかを」
「……いいでしょう。だけど、長くなるわよ?」
それくらい構いませんよ。――その夜霧の一言で紫は話し出す。
「じゃあ……始めましょうか。幻想郷の昔語りを」
――今は亡き博麗の巫女と、その友人の話を。
不思議な巫女は死に、普通の魔法使いも姿を消した。
――これは、来るかもしれないもしもの未来。