“解す少女”のプロローグ
その日は、妙に冷え込む日だったことを覚えている。
日が沈みかけた夕方あたりのこと。急に光は遮られ、空が暗く――否、
騒ぎ始める民衆。倒れる女子供達。突如村を、幻想郷を覆った紅の霧は、間違いなく人間を蝕んでいた。
――そう、異変だった。思えばこれが始まりで最初だった。
「……夜風が気持ちいいわね」
夜の境内裏を飛んでいく、紅白の巫女。紅い霧の中を飛んでいくその姿は、非常事態だということを感じさせないくらいにマイペースで、いつも通り。
「お前なら、そう言うだろうと思ったぜ」
そして『私』は、いかにもお見通しの風に言ってみせる。
それが私たちのいつも。あいつが言って、私がそれを「らしいな」と言って聞き流す。……自分のことながら、おかしな会話だと思うけれど。
――そうして始まった、私たちの『初めての異変解決』。結果から言うならば大成功だった。
こちら側の要求である紅の霧払いをさせて、あちら側の要求である幻想郷への受け入れを認めて解決。互いに譲歩し、メリットとデメリットを分け合う両者円満で模範的な、正しい解決法。
これを機に、幻想郷に新たな決闘法、『
弾幕の美しさを競い合うその決闘法は、暇潰しにはもってこい。そしてその決闘法がメジャーになったことで多少力のある人間ならば、妖怪達とも互角に渡り合えるようになった。
しかし、大きな異変が起きれば人間たちの手には負えない。そこでようやく、私たちの出番だ。
ところで、異変が起これば解決しに行く。それが異変解決屋である私のスタンスなのだが……博麗の巫女はちょっと違う。
あいつはわがまま――いや、ちょっと違うな。とにかくマイペースな奴で、異変解決だって積極的にやろうとしない。五月になって冬が終わらなくても、宴会が三日に一回のハイペースで開かれていたとしても、しばらくは「まぁそんなこともあるのかもね」と言って異変を放置してしまうような奴。それが博麗の巫女、博麗霊夢である。
そんな異変解決という使命を忘れた生活っぷりが、個人的に非常に不安なので。
「おい霊夢、いい加減にしろよ」
こうやって座布団を枕がわりにして居間に寝転びだらけているポンコツ巫女に、今日は苦言を申しに来たわけである。
「そうは言っても魔理沙。異変も無ければ妖怪もいない。あぁ……何もすることはないのよ」
「お、お前なぁ」
少しは鍛錬ぐらいしたらどうだよ。
そう言おうとしたけど辞めた。こいつはいわゆる天才型。鍛錬なんて必要なし、と言うか、むしろそんなことしたら弱体化までありえるのではなかろうか。
「まぁいいや。そういやそんな奴だったよ、お前はさ」
ため息まじりにそう言ってやる。当の本人はどこ吹く風と完全スルーだったが。
「……あそうだ、面白い話してやるよ」
「面白い話? 何よ急に」
食いついたな霊夢。こういう何もすることのない暇な時、こいつは目先の娯楽を真っ直ぐに求めてくる。この点は、非常に扱いやすくて助かる。
まあ、単に私も暇だっただけだけど。
「一昨日くらいのことだけどさ、魔法の森近くで男を見かけたんだよ」
「なんでまたそんな辺鄙なところで。霖之助さん?」
「違うぜ。――だってあいつは魔法使いだったんだ」
「魔法使い? ほんとに誰よそれ」
「正体不明さ。ついでに驚くなよ? そいつ、私と同じミニ八卦炉にマスタースパークまで撃ったんだぜ!?」
「……あんた、疲れてんじゃないの?」
「なんでだよ」と聞いたら、「ドッペルゲンガーね、それ」と平気な顔であっさりとそう答えられた。この辺、霊夢はいつもシビアだ。今ある情報から『これ以外はあり得ない』と思われるくらいの最適解を導き出す。――だけど、あくまで勘だ。合ってることの方が多いけれど、間違ってる時だってある。いまだってそうさ。
「それが本当なら私もう死んでるし」
「ま、それもそうね」
こういう点、霊夢はあっさりしすぎだ。
人の生死を、結構さっぱりと割り切れる。……そう、こいつはそういう奴だ。
「じゃなくて、そいつ男だったんだ」
「そんなのどうでもいいでしょ。男神だと思ったら女神だった……
「そういやそうだったな」
「だから性別なんて関係ないわ」
「……別に性別なんてどうでもいいけどさ。とにかく変な奴だったんだよ、そいつは」
――つい先日の出来事は、私にとって衝撃的なことだった。
突如、名前も顔も知らない人間が目の前に現れだと思ったら、私の魔法をぶっ放して、消えた。
超常現象、異常怪奇。わけがわからない。これじゃ衝撃的と言うよりは恐怖的体験だ。
「……あんたも大変ねぇ」
私が結構長々と話し終えたところで、霊夢は他人事のような態度――実際他人事なのだが――で、素っ気なくそう言った。
気怠げで、退屈そうで無表情に不機嫌そうな顔。あぁ、うん。これがいつもの表情。機嫌いいときはもうちょっとなんかこう、口角がちょっとだけ上がるだけだけど、今よりはマシなんだが。
「なんだよ? まさか心配でもしてくれてるのかよ?」
「別に。ただ強いて言うなら……」
「?」
霊夢が起き上がり、身体をうーんと伸ばしながら、あくびでも噛み締めたような声でこう言った。
「……そいつ、
「――へぇ? じゃあつまりそれは……」
霊夢はその発言に根拠など持ってないのだろう。男がもしかしたら、極度の人間嫌いで、長い間森の奥に居ただけという可能性も十分にある。
だが、こういう時霊夢の勘は滅法当たる。100%。そのくらいの精度で。
ゆえに私は、その男の出現をこう判断した。
「――異変の始まりってことか」
七月、蝉の鳴き声がうるさくなる初夏の昼下がりのことだった。
◇◇◇
美しい芸術品に触れた時、人はこれまでの一切を――悩み事も、煩悩すらも――忘れてしまえるらしい。言わば解脱。非想非非想天の領域である。でもそれは刹那の一瞬。醒めれば最後、もう二度と味合うことができない感覚だ。本当に口惜しく、また届かない。
しかし、その領域を体感するのには必ずしも至高の芸術品でなければいけないと言うわけではないそうだ。
例えば、人生を変えるような出会いでも、価値観を揺らがせる衝撃でもいい。要は自分さえ変えてしまう何かだ。
霧雨夜霧の場合、それは――。
「……………んっ」
目が醒める。頭の中が混沌としているあの寝起きの感覚だ。ふかふかのベッドに、もう見慣れた赤だけの紅い天井。
……なるほどここは紅魔館だ。と、俺は何度自分に言い聞かせただろうか。
未来から過去へ来て数週間。ざっと数えて二、三ヶ月か。とにかくそのくらいの期間、俺は紅魔館の食客――のはずだが、処遇は明らかに雑務担当だ――としてこの客間の一室でぬくぬくと暮らしている。
「……いーんだろうかね。このままで」
無論良くはないだろう。そうは分かっていても、自分がやるべきことすらわからないのだ。
「……とにかく、部屋から出ようかな」
難しいことを寝起きで考えるのは非常に頭が痛いので、まずは朝食を食べることにした。
コツコツコツと靴音が館に響く。幻想郷は日本にある。だから必然的に幻想郷も古き日本そのままの風景となる。となるとその中にドンと建つ紅い洋館が目立つ……と言うより異物感を醸し出すのは至極当然。むしろなぜ目立たないのか。
とにかく、紅魔館は洋館だ。だから館の中でも靴を履くのが普通なのだが……この感覚が分からない。靴は室内では脱ぐものという当然の感覚が染み付いて離れないのだ。
だからこうやって寝起きだと、たまに自分が靴を履いていることに驚いてしまうことがある。さすがに慣れないとマズイと思う今日この頃である。
そうこう思っているうちに食堂へ着いた。無駄に装飾の施された、無駄にデカくてこれまた紅い扉を開けると、そこには先客がいた。
「あら、ひよっこじゃない。随分と遅いお目覚めね」
「ああ、パチュリーさんか」
紫色の生きる大図書館、パチュリー・ノーレッジ。普段は地下の大図書館に閉じこもって出てこない彼女だが、ごくたまに部屋から出ては食堂で紅茶を啜っている。
「丁度研究がひと段落ついたのよ。だから息抜きを兼ねてわざわざ階段を登って来たわ」
「わざわざ、ですか。飛べばいいのに」
「こういう時こそ歩かなきゃいけないわ。本当に地面に根を生やしてしまいそう」
「冗談ですよね?」
「冗談よ」
そんなつかみどころのないふんわりとした会話をしていると、突然パチュリーの左手にあった空のカップが消え、そして中身がいっぱいのカップが、いつの間にかまた左手に現れた。それを見ている本当に一瞬の間、机の上には
「相変わらず仕事が早いですね、咲夜さん」
そう言うと咲夜は現れた。まるでそこに先程からいたかのように、一瞬で。
「そりゃあね。私も私で慣れてるのよ。だから早いのも当然なの」
「さすがメイド長。ところでお嬢様は?」
「お嬢様なら就寝中よ。最近は本来の生活リズムを遵守してるわね。珍しく」
なるほど、最近お嬢様を見かけなかったのはそのためか。と一人合点。
「じゃあ、妹様――と言うか、フランドールも?」
「ああ、妹様なら……」
咲夜が何か言いかけたその時。思いっきりバンと、音を立てて開かれたドア。
「………ヨギリー!!」
「ぶっ――はっ」
その勢いで突っ込まれたら、ひとたまりもないに決まってるじゃないか。そんなことを一人語りながら、俺は床へと突っ伏した。
「もうすぐこちらにいらっしゃるわ……ちょっとというか、だいぶ言うのが遅れたわね」
……とりあえず、口の中の料理を吐かなかったことは、褒めて欲しいなぁ。
◇◇◇
あの朝食フランドール、略して朝フラから半日くらい経ったくらいか。お嬢様が寝起き早々俺を呼び出したと言うことを、咲夜が忙しそうに伝えてくれた。
「そう言えばさぁ」
「んー?」
「フランドールは眠くないのか?」
お嬢様の部屋へと向かう途中、俺は隣で歩いているフランドールに聞いた。朝食の時に元気いっぱいに飛び込んできてくれやがったこの少女だって吸血鬼だ。だから本来の生活リズムは姉のレミリアと同じはず。となると、夜更かししたのだろうという予想くらいはつくわけで。
「別に? 眠くないわよ私」
「夜更かししてそうなのに?」
「一日くらい寝なくても平気よ平気。それにほら、ずっと地下暮らしだったから。あんまり時間感覚がわからないのよ」
そんなものなのだろうか。いくら時間がわからないと言っても一日中起きていたら眠くなりそうなものなのに。
……なんだかあまりこの話題に意義を感じないな。よし、話題を変えよう。
「じゃあそうだ、フランドールはどこに行きたい?」
「唐突ね。今は外に出れればなんだっていいわ。どこに何があるかなんて、まだわからないし」
それもそうだった。今でこそ普通に館内を歩き回れる様にはなったが、未だ外には出ていない。となると一刻も早く、フランドールには外の世界を知ってもらわなければ。
……と、考えているうち。そこには紅くて厳かしい扉があった。どうやら話しているうちについていた様だ。
「失礼します」
そう一言言うと、扉の向こうから声。
「入りなさい」
ギィと扉が開き、目の前には玉座に座したお嬢様――レミリア・スカーレットがいた。
「よく来たわね。まぁ呼び出したのだから当然なのだけれど……よし、フランも連れて来たのね。上出来じゃない」
「それでお嬢様、今日は何用ですか?」
なぜだか上機嫌なレミリア。寝起きの彼女はいつもどこか気難しくて扱いが難しかった様な木がするのだが……何かあったのか。
そんな疑問を持ちつつも、とりあえずレミリアに次の言葉を促す。
「まずは、フラン」
「なに、お姉様」
ぶっきらぼうにレミリアが呼ぶと、フランドールが素っ気なく返事する。どこか乱暴な会話――。
しかし、短期間の付き合いながらこの姉妹のことも分かってきたつもりである。レミリアはまだフランドールの名前を呼ぶことに慣れていないし、今のフランドールの態度はただ突然呼ばれてテンパっただけ。やはり何百年も距離を置いていたせいか、互いにどこか距離感を測りながら話している感じがする。
「まーまー。二人ともそんな硬くならずに、ね?」
「……コホン。そ、そうだな」
「……うん」
やっぱり妹がらみのことに関しては、レミリアの普段のワガママぶりも少しはなりを潜めるようだ。
「では早速本題だ、簡潔に言おう。フランドール・スカーレット。お前に外出許可を出そう」
「――本当!?」
途端、目を輝かせ嬉しそうにはしゃぐフランドール。
「良かったな、フランドール」
「うん! ありがとヨギリ!」
「いやいや。俺は何もしてないでしょ」
そう、俺はまだ何もしてない。――むしろこれからだ。
「しかし、だ。……その様子だと、もう分かってるみたいだな。夜霧」
「はい。まぁ、そのためにここにいるようなものでしたから」
「じゃあもう遠慮なく言えるわ。――夜霧、今すぐ紅魔館から出てきなさい」
「!? ちょ、ちょっと待ってよお姉様」
嬉し顔が一転、急に驚き顔となるフランドール。
「どうした? フランは外に出れるようになったし夜霧をここに置いておくうまみはもう無い……妥当な判断だと私は思うわよ?」
「で、でもっ」
「――それにもう、
レミリアが一息間を空け、なんでもないように言う。
「………あ、あぁ。そう言うことね? お姉様」
どうやら、完全にレミリアの意図を読めた様子のフランドール。その上で、俺は訊く。
「さて、どうする? フランドール」
「……私を、連れてって」
小さな少女が踏み出した大きな一歩。広すぎる大地を渡る狭い歩幅。
「私を、外に連れてきなさい。ヨギリ」
「御意」
ならば俺は、それを見守り助けよう。それがいまできること。いまやりたいことだから。
――少女は歩みを始めた。今はその旅路が、ひたすらに遠いことを祈るのみ。
Episode.2『異変解決屋、霧雨魔理沙』
この物語の主人公は夜霧くんてす。が、この章に限ってはそうではないかもしれませんね。
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