『地下室の妹に会ってくれ』
その条件を聞いて湧き上がったそれは、恐怖ではない。だけど絶望でもない。恐怖でも絶望でもない、たった二文字で表現できてしまうような瑣末で雑な感情では無かった。
記憶がフラッシュバックする。二人だけがそこにいた、暗く寂しい地下室の光景。血だらけで必死に何かを語りかける男と、それに向き合ったままただひたすらに笑う女。
「……それって、無駄ではないのですか?」
「なぜそう思う? フランは
「それは、今の話です。未来では……」
運命を見ることによる限定的な未来予知。私の見た未来が間違っているはずがない、レミリアはそう言いたいのだろう。
「お前に会ったフランは既に手遅れだった……だったな、確か」
「はい。それを一番悔いていたのは……やっぱりお嬢様でした」
正確に言えば、そう見えたが正しいのだが。もっと言うと、レミリアは手遅れだと自覚していたのだろう。もう狂っていて手がつけられないけど、もしかしたらという可能性にかけてみたかったのだろう。
――それこそ、盲目的に。
「そう、ならそれは私ではないわ」
「な………!?」
と、レミリアはあっさりと未来の自分を否定する。
「だってそう思わない? この運命を操る私が、運命に半ば屈しながらも儚い可能性に縋っているのよ。惨めで虚しい。それが私だと、他ならぬ私が認めるわけにはいかないわ」
プライドの権現。そんなものは虚勢でしかないと誰が言えるか。そう語ったレミリアの目は確かに先を見据えている。口では否定しつつ、しかし心のどこかでそうなっているのかもしれないといった、小さな身体を簡単に押しつぶしてしまいそうな不安を背に抱えている。だからこそ、夜霧に契約を持ちかけたのだ。
「とにかく、そんな吐きそうなくらいに気持ち悪い私にならないための契約なのよ。咲夜」
「はい、お嬢様」
レミリアの玉座の隣、あらゆる仕事を言葉通り一瞬で終わらせる従者の鏡のような銀色のメイド長、十六夜咲夜が返事を返す。
「そこの契約相手を地下室に案内してくれ……あ、いや、ちょっと待って、咲夜。一旦ストップ」
「なんです、お嬢様」
扉が開き、夜霧が部屋を出ようとするその時丁度レミリアが呼び止める。
「なあ霧雨夜霧。お前には私の見た運命を覆す力があるんだろう? ――ならば、その不安も覆してしまばいいのよ。こういう言い方はおかしいけれど、
「…………」
そんなことは夜霧自身が一番わかっていたことだった。しかし、怖いのだ。不安なのだ。あの日の失敗が今になって鮮明に蘇る。――彼女を救いたい。あの思いが、偽善から成ったものだったと思うたび、吐き気がした。
自分の思いが、汚いものだったと自覚するたび自分が嫌になった。トラウマになっていた。本気で救えると思っていた。どんなに狂っていても、助けられると思っていた。
――でも、現実は違った。彼女は狂い過ぎていた。
『アハ、ハハハハハ!!!』
『……、え?』
血飛沫。どこからそれが出てきたか。
痛みを感じた。右手の感覚を確かめる。
そこで違和感に気づく。そこに右手は無かったから。
――自分を客観視して、あの日の自分は虐げられた弱者に見えると思った。救世主気取りの哀れな弱者。それがあの日の霧雨夜霧。
そしてまた、繰り返そうとしている。
そしてまた、自分を客観視する瞬間が訪れる、かもしれない。
「だからお前は恐れるな」
レミリアは、その考えを一蹴するように。
夜霧のイメージをかき消すように。
強く、強く言い放つ。
「お前が私との契約を果たすため、どのような手段を取るかは知らない。知らないが……きっとお前は
「いや、それは……」
「くく。お前の話を聞いて、それでお前の顔つきを見れば、お前の考えていることなんて何となくでもわかるものはあるわ。あなた、だいぶ
霧雨夜霧の顔つき。その表情を知っているレミリアは知っている。あれは覚悟を決めた表情だ。高名な
そしてレミリアは笑う。あの顔つきをした奴は大抵ロクな死に方をしないから。しかし、大抵の奴は私の記憶に深く、深く爪痕を残して死んでいった。
『このっ………可愛げな顔して………こいつ。ハハッ、参った参った』とか。
『許さん、許さんぞ醜き蝙蝠めがぁ……!!
私の死を記憶しよ、忘るるな、永遠に呪ってやるからな……!!』とか。
去り際の言葉は兎にも角にも。
その死に様は忘れられるモノではないのだ。良くも悪くも。
目の前の男、夜霧はそれらと同種なんだろうが、しかし覚悟が足りていない。所謂成りかけだ。
「私に出来ないからお前に頼む。でもお前はそれをなぜか私以上に深く考えている。結局は他人事なのにな。……どうしてなのかしらね?」
「……それは、」
夜霧だって、考えも無しにここに来たわけでは無かった。必ず、出会うだろうと思っていた。そして、向き合うのだろうと思っていた。
過去の過ち、過去の慢心は今、夜霧の目の前にカタチとなって現れている。
――でももしも、その過ちも、慢心も、全てひっくるめたこの気持ちを、もし許されるとしたなら。
「フランドールを、助けたいと思ったからです」
――俺は勇気と呼びたい。
「く、くくく……そう、それだよ人間」
レミリアは笑う。高らかに。吸血鬼
「咲夜、今度こそだ。地下室に案内してあげなさい」
「はい、お嬢様」
主の命に従うメイド長に連れられ、今度こそ夜霧は部屋から退出する。
この部屋に残った者は、幼き姿の吸血鬼のみ。後ろを振り返る。ステンドグラスの向こう側、満月が見える。
レミリアはあの日の紅霧異変を思い出していた。そういえばあの日は月が紅かっただとか、でもあれは紅い霧のせいだったなと、か。しかし今日の満月は、淡く仄かな輝きを灯す黄金色。
「こんなに綺麗な月なのに」
レミリアは目を瞑る。運命を見て、条件次第ではその先の物事や過去の事象までを見通すことの出来る、自分の望まない万能の目。
その目が見た運命は、――悲劇だった。
『ねえ、お姉様。なにも、なにもなにもなにも。考えたくないの。全てが消えてく。全てが壊れてく。なんで、なんでなんでなんで? ああ、私のせい? 私の例の能力のせい? ああ、なんてこと! 大変よお姉様! 我が家が壊れていく! こんなことをしたのは一体誰なのよ!
――ええ、私ですとも! アハハハハ!!!』
それを見つめて沸き起こる感情は、同情でも憐憫でも寂寥でもなくて。『ああ、手遅れなんだな』というわかりきった、受け止めきれない事実をゆっくりと咀嚼しなくてはならないという義務感だ。
咲夜も、レミリアも、パチェも、小悪魔も、美鈴も、みんなみんな噛みしめる。嘘みたいな現実を、咀嚼する。――そんな運命。
それが明日なのか、一年後なのか、十年後なのかどうなのかまではわからないけれど、いずれそう運命は収束してしまう。
その収束を回避するのは簡単だ。私の目に見えた運命からバカみたいに外れてしまえばいい。
レミリアにはそれが出来ない。だから霊夢や魔理沙を介入させて、フランドールの価値観に刺激を与えて見た。結果、フランドールの狂気ら少しだけ改善の兆しを見せたが、まだ足りない。運命は変わっていない。
外に出すことも考え無かったわけではない。
しかし外出によって周りに与える損害と、それによって受けるフランドールの精神ストレスを考えると、それが良案とは呼べなかった。
地下室への幽閉だって、結局のところ苦肉の策だ。紅魔館内部なら自由に動き回ることも最近は許している。……一度たりとも出て来たことは無いが。
レミリアは思う。
最近は
霊夢と魔理沙に会っていい影響を受けたと思っていたが……もしかすると違うのかもしれない。
最悪の可能性は、いくらでもあった。だから、使いたくもなかった運命操作を惜しげもなく使って、あいつと霊夢と魔理沙の邂逅を上手くいくようにしたのに。
……でも、しかし。或いは
それを私が知ることは叶わない。私がわかることは、運命のみ。その人物の内面を知るには、やはり対話が必要だ。結局のところ、運命を見れるところで万能になれるわけでは無いのだから、当たり前といえば当たり前だが。
それでも私はフランの悩みを知ることは叶わない。
――なぜなら私は、結局忌み嫌った自分の能力とでしか、妹と向き合ってこなかったからだ。
だから私に運命は変えられない。変えられるとすれば、夜霧。私の契約相手、そして心の内面にわずかな英雄性を秘めた、新たな友人。
自分じゃ出来ないから、彼に頼んだ。
自分じゃ救えないから、彼に救ってもらおうとした。
――でもそれでも、許されるとしたなら。
「欲しいものは手に入らないものね」
――私はこの手で、妹を助けたかった。
◇◇◇
夜霧は咲夜の先導で、紅魔館の廊下を歩く。
歩き姿さえ優雅なそのメイド長は、一言も発することなく淡々と歩みを続ける。
一歩、二歩、三歩、四歩――、月明かりがスポットライトのように照らし、その姿が実に映える。
しかし長い。外見からは想像も出来ないほどの長さのそれは、歩けば歩くたびに先が遠くなる錯覚にとらわれる。要はそれくらい長い廊下だ。そう、そうでしかないはずなのに。
「――なんで、さっきからずっと
「……あら、よく気づいたわね」
立ち止まり、振り返る瀟洒な従者。
一つ一つの挙動さえ、洗練された彼女の目は、明らかな敵対の目。
「悪いけど、あなたは気づいてしまった。無限に続くこの無限回廊。その事実に。……気づいた理由が知りたいわね」
「簡単ですよ。こんなにこの廊下は長くなかった、それだけ」
「そう、でも私はそれを信じることが出来ない」
「どうして? レミリアお嬢様を信用できないなんて、咲夜さんらしくないと思いますけど」
その問いに咲夜が答える。
「ええそうね。お嬢様はあなたを信じた。……でもその判断を、全て鵜呑みにするほど私は利口な犬でも愚鈍な従僕でも無くてね。
それはつまり、この無限回廊が咲夜の独断で行われていること、そして咲夜が夜霧に対して不信感を持っていることのほかでも無い証明。
「俺の何が信用できないか、聞いても?」
「未来から来たこと、私の未来の姿、妹様の状態、たったそれだけよ」
「それほとんど全部だし……」
思った以上に単純明快だった。信用できない、だから止める。それまでのこと。
「でも悪いけど、俺だって信用どうこうで止まるわけにはいかないんですよ」
その夜霧の言葉に、咲夜は答える。
……スペルカードと、自慢の銀のナイフを取り出して。
「なら押し通りなさい。
もちろん、
「言わずもがなですよ」
それに夜霧も応じる。
言葉数は少なく、しかし確かに戦意を示すように、ミニ八卦炉と魔道書を取り出して。
「三枚、降参と言った方の負けだ、咲夜さん。無論勝てば押し通る」
「ええいいわよ。誇りに誓って」
――紅魔の館において、二人は衝突す。
なんてことは無い、ただの意見の食い違いだ。しかしそれは重要なこと。信用を得ずして全てに成功したものなど一人としていないのだ。
夜霧は戦う意思を示す。押し通り、信用を勝ち取るための戦いの意思を。
咲夜は抗う意思を示す。ナイフの切っ先を向け、この先に認めぬ者は通さないという、ある意味盲信的で熱狂的な、主への忠誠のカタチ。
黄金色の綺麗な月の下、自分の意思こそ絶対だと主張する二人が、交錯す――。