大王様からの褒美は、僕や父さんは追加で貰っていた。
現場の指揮官を務めていたからだ。
僕はその金を路銀に充てることにした。
そして、周囲に挨拶しに回った。
「えー 行っちゃうのかー!」
甘秋は僕に向かってそう言ってきた。
「ま、それが僕の見つけた道だからね。」
「仕方ないな 代わりに楚のお土産、期待してるから!」
「こいつ!」
「あはは……。じゃあ、行ってらっしゃい!」
「ああ。」
他にも友人や周りの人達に挨拶回りをした後、
馬を借り、食料を買って、出発した。
各国の人は皆、国民性が異なるという。
魏には真面目な人が多くいる。
その真面目さから、斉が大国となる前までは魏が有力であった。
かつて東に大国を形成した斉には、穏やかで学問を好む人が多い。
名宰相で知られた管仲、晏嬰、孟嘗君や、斉を復興した田単、呉の名将の孫武とその子孫の孫某(通名:孫臏)はそろいも揃って斉人で、
おおよそ天下の賢人の大半は王都の臨淄で学んだ経験を持つくらいだ。
趙人は仲間意識が強く、喧嘩っ早いそうだ。
もっとも、中原ではじめて騎馬隊を導入したのは趙の武霊王と聞いたことがある。
そして楚人は、誇り高い人ばかりで、大国がゆえの人口の多さを売りにしているという話をよく聞く。
楚の将軍:臨武君は、騰将軍に討たれる前に
「楚は、他国と人数が桁違いだ。 それだけ競争人数も多い
俺達にとって将軍とは、他国の大将軍と同等の認識だ。」
とか何とかいったらしい。
そんな楚に、旧都を落とされたり、懐王を武関で拉致されたりと幾たびも屈辱を味合わせている秦人であることは、それなりに不安だった。
不幸中の幸いは、廉頗が趙人ってことくらいかな
楚に行く道は、水路でいく。
最短経路は漢水と呼ばれる長江の支流から長江に至る。
そこから淮河を目指して陸路で北上するものだ。
漢水は秦国内に源流を持つ、大きな河だ。
昭王の時代、宰相が范雎だった時代に白起が謀殺され、秦と楚も蜜月関係だった時期がある。
丁度昌平君が生まれたくらいの時期だ。
その時期に確立された秦楚間の交通経路が、この漢水から長江に至る水路である。
それまで秦の咸陽に至る道筋は、楚の旧都・郢(秦名:南郡)を通る楚人にとって屈辱的な陸路、
或いは懐王が拉致された、南道にあるあの武関を通るという、楚人にとって同じくらい屈辱的な陸路しかなかったので、現時点ではこの水路が秦楚間の交通経路として主流になっているらしい。
南道を脇道に逸れて、5日ほど山道を南下し、3日ほど東に陸路を進むと漢水があった。
そこから舟に乗り込む。
人生初の舟は、あまり心地よいとは言えず、初日は吐きまくっていた。
「おいおい。 やはり坊主一人旅にゃまだ早かったんじゃねえのか?
加えて船旅ときてる訳だしな。」
「だ、大丈夫でっ うぷっ」
「あーあ まーた吐き寄ったわ。 このガキ。」
「す、すいません…………。」
そして、船旅が続いて7日ほど経ち、船酔いにも慣れてきたころ。
漢水の川岸は大分広くなっていた。
「さて、そろそろ合流すっぞ」
「え? ど、どこにですか?」
「な、何言ってんだお前。 長江に決まってんだろ」
「長江…………。 !! 長江ですかっ!!」
「ああ。 あの長江だ!」
「…………。」
長江の河岸と河岸の間はあまりにも広かった。
長江でさえこうなのだ。 海というのはどれくらい広い代物なのだろうか?
その長江のあまりにも雄大な広さに、声さえ出なかった。
そして、そんな長江に辿り着いたその日の夜
事件は起きた。
范雎…………「馬酒兵」の逸話で知られる穆公の時代の百里奚、孝公の時代の公孫鞅(商鞅)と並ぶ秦国三名宰相。
昭王の隆盛を支え、遠交近攻策による秦国優位を確立した。
後任には呂不韋四柱の蔡沢が就いた。
管仲…………斉の桓公を覇者にした名宰相。
「管鮑の交わり」等で知られる。
晏嬰………斉の名宰相。父は莱(山東半島)を平定した晏桓子。慎み深い人物であったが、儒学を役に立たないと一蹴して、孔子の斉仕官を阻んだ逸話も持つ。
孟嘗君………本名を田文という。斉の威王の甥であり、魏、秦、斉の丞相を歴任した人物。
戦国四君(薛の孟嘗君、趙の平原君、魏の信陵君、楚の春申君)の筆頭。
3000人の食客を有し、「鶏鳴狗盗」等の故事で知られる。
孫武………兵法のバイブル「孫子」の著者。
三国志の呉の皇帝:孫氏の祖先なのは言うまでもない。
子孫の孫某は、魏にいた時、龐涓の謀略により刑に処され足を切られた。彼はその刑の名より孫臏と呼ばれている。
後、彼は 斉へ行き、「囲魏救趙」などを実行し、戦国七雄最弱であった当時の斉兵を率いて当時の大国・魏を苦しめた。
馬陵の戦いでは龐涓を討ち、魏の太子を捕らえた。
馬陵の戦い以後、魏は衰え、斉が東の超大国となった。
臨淄…………斉の首都。威王の時代以後、その城門である稷門の周辺は、「稷下の師」と呼ばれる数多の賢者が集まる地となった。
呂不韋四柱・李斯の師:荀子や、春申君もここに遊学した経験を持つ。