もう一人のナナシ・前編
オレ、ハ、ヒトリ、ダ。
暗イ、闇ノ中デ。
ズット、這イズリ回ッテイタ。
デモ、見ツケタ。アノ、光ヲーー
暗い世界の中で意識が覚醒する。
どうやら、『俺』はようやく“依代”を見つけたらしい。
「ナナシ、か」
“この身体”のオリジナルはそういう名前らしい。なんともお粗末な名前だ。
だがそれ故に、そいつが辿る運命を知って驚愕した。
裏切り、虐殺、新世界。およそ平凡とは言い難いその運命はナナシとやらが辿る道の一つ、可能性の一つでしかなかった。が、同時に俺が依代として顕現する属性そのものともなった。
俺はドッペルゲンガーという悪魔だ。
一般に、人物Aと全く同じ姿形をした怪異の一種として認識される取るに足らない存在。
それだけにかつての俺は依代すら見つけられず、単なる影として現世をさまようだけの存在だった。
しかし、俺は今、ナナシを依代として生誕した。
どういうわけかこいつとは相性がよく、すんなりとドッペルゲンガーとしての存在を確立させることに成功した。
と、同時にナナシの感情や記憶や心も、全て写し取った。
その時初めて、俺は“オレ”から“俺”に生まれ変わった。
奇妙な感覚だ。あれだけ切望していた身体を手に入れたのに。湧いてくる感情は喜びよりも、怒りや憎しみが主であった。
「なるほど、そういうことか」
そこでようやく理解した。
つまり、俺はナナシの負の面を体現するために存在している、要は奴の汚い部分を押し付けられたわけか。
なるほど、なるほど。だからこそこんなにも怒りに打つ震えている。
だからこそ、奴が辿るかもしれない未来の一つがこんなにも鮮明に脳裏に浮かぶのか。
その未来ではナナシは仲間を裏切って新世界の神となった。
一人ぼっちで、傀儡と化したかつての仲間の一人を侍らせながら。神殺しとしたかつての救世主を召し抱えながら。
俺はそんな未来を歩んだナナシそのものと化していた。
どうやら俺はナナシの内部に存在しているらしい。ドッペルゲンガーであれば現実世界に顕現するはずが、ナナシという存在と強く結びつき過ぎてしまったために取り込まれたのだ。
出る力など俺にはないので大人しく奴の中にいることにする。
そうして奴の行く道を俺は観察し続けた。
ナナシは、錦糸公園で悪魔アドラメレクに殺され、ダグザの操り人形となることで復活した。
この時、俺ごと黄泉比良坂に連れていかれたので焦ったが、どうやらこれも運命の一つらしい。
ここで初めての分岐点を経験した。
ここでナナシがダグザの誘いを受けなければ、このまま黄泉の国へと連れて行かれて、もう一人の救世主たるフリンが世界をすくうことになる。その場合はクリシュナの復活もなく、多神連合という障害も生まれることなく、ルシファーとメルカバーを討伐したフリンが天蓋を破壊してハッピーエンドだ。
ともかく、最初の試練は乗り越えたらしい。俺はただ中から見ていただけなのでなんとも言えないが。
その後は、オーディンの策によってクリシュナが復活し、フリンは攫われナナシの物語が始まった。
ここまでは俺の持つ並行世界のナナシの記憶と同一だった。
しかし、段々と差異が生じ始めた。
第一に、俺の持つ記憶では仲間たちの信頼に応えるべくナナシは無理をして“優しい自分”を演じていた。
だが今回のナナシは心の底から他人を思って、本音で言っていた。
おかしい、と思った。ナナシはこんなにも殊勝な人間ではない。
彼は周囲が思うほどに高潔ではなく、強い精神も持たず、信念も、語るべき理想もなかったはずだ。
なのに。
『行こう、みんな』
なぜ、こんなにも明るい表情で皆を引っ張って行けるのか?
この頃から俺の感情はナナシへの疑念と怒りと憎しみで満ち始めていた。
そうしてナナシの行く末を見ているうちに、なぜ俺が生まれたのか、その理由に気が付いた。
「なるほど、とんだとばっちりだな」
おそらく、俺の記憶のナナシ。並行世界の虐殺を選んだナナシが、この世界で仲間と一緒に和気藹々と進む彼を妬んだのだ。
なぜ、そんなにも笑っていられるのか。なぜ、人間に失望しないのか。
なぜ、俺がこんなにも苦しんでいるのに。お前は笑っている?
ホント、とんだとばっちりだ。おかげで俺の想いはナナシへの憎しみに染まっている。これではドッペルゲンガーとして失格だ。
あくまで人格はドッペルゲンガーのものでなくてはならないというのに。
でも、不思議と平行世界のナナシの感情に同調してしまった。
確かに、このナナシは“幸せすぎる”。
「……いいだろう。そんなにも我が依代の苦しむ様が見たいというなら、俺が堕としてやる」
クリシュナとの決戦、その直前にナナシはダグザから決断を迫られていた。
『卵を破壊して仲間と歩むか、卵を手中に収め新世界の神となるか』
一般的に見れば前者だ。しかし、ナナシという存在を最もよく知る俺からすれば後者こそ嘘偽りない本心であると感じた。
「選べ小僧、お前はどちらの道を行く?」
ダグザの問いに、しかし我が依代は仲間を選んだ。
『ダグザと一緒には行けない』
まあ、俺としては予想していた展開だった。これまでのナナシを見ていれば仲間を選ぶだろうことは理解していた。
それでも、僅かな期待をかけていたのだが。
「とんだ、期待はずれだな」
愚かしくも我が依代は、これからも“友達ごっこ”を続けるらしい。
くだらない。理解できているはずなのに。ダグザの誘いこそが真実だと、答えだと。
「俺が、教えてやらないとなぁ」
ほくそ笑む俺をよそに、ナナシはダグザを撃破していた。
俺としてもここが最後のチャンスだと思った。
だからこそ、俺はここで初めて仕掛けることにした。
「ぐっ!? がはっ!」
突然、体の内側から何かがせり上がって来た。
同時に全身の激痛と共に俺は吐血して膝をついた。
「ナナシっ!?」
アサヒが真っ先に駆け寄り体を支えてくれる。遅れて仲間たちが集まってーー
「ぐ、ぐぁぁぁぁあああぁぁ!?」
俺の身体から、“奴”が現れた。
「御機嫌よう、諸君。ダグザとの激戦の後で疲弊している君達には恐縮だが。
これから“俺”の見せる
歪んだ笑顔、歪んだ欲望を体現するように。邪悪なる“俺”が現れた。