すべてを救いたかったんだ   作:ソウブ

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11話 魔竜

 

 

 夕食の匂いが鼻孔に届いて、食欲が刺激される。

 料理をするアイラの後姿は可愛らしく、主婦、若妻というよりも、子供が頑張っているみたいだ。

 ひよこの絵が描かれたエプロンを付けて、ひょこひょこと動く。

 その度にスカートが、金髪が、揺れて踊る。

 視覚良好。目の保養。

 毎日できるリラックス法だ。

 

「できましたっ」

 くるっと振り返って笑顔のアイラ。

 その手には、湯気を上げるオムライスの乗った皿。

 今日も我が家の夕食は、美味そうだ。

 

 

 美味かったオムライスを完食後。

 アイラが紅茶を淹れてくれた。

「はい、どうぞ和希さん」

 素人の俺が見てもいい感じの色合いだと思われる紅茶が俺の前、テーブルに置かれる。

 アイラも対面に座って飲み始める。

 落ち着く時間。

 ラノベを読みながら飲もう。

 続きを最近読めていない気がする。

 まあ、その前に一口飲んでから。

 カップを傾けて口内に注ぐ。

 芳醇。

 その一言に尽きる。

 可愛い妹の淹れてくれた紅茶ってのが、一番の美味さ要因かもしれないけれど。

 ラノベを取りに行く前に、やっぱりもう一口だけ飲もう。

 カップに口を付ける。

 香りを直に感じながら、淡い色の液体を楽しもうと傾ける。

 

 

 ドクンッ。

 

 

 奥の奥からの、全てを震わす鼓動。

 手元が狂い、カップを取り落とす。

 カップがテーブルと衝突する、嫌な鈍い音が響く。

 紅茶が撒き散らされ、テーブルに広がっていく。

 

「わっ、和希さん大丈夫ですか? タオルタオルっ」

 アイラは慌てて立ち上がって、タオルを取りに行った。

 視界が歪む。

 まるで立ち眩みのよう。

 だが違う。

 それを俺は解っている。

 感覚で理解する。

 今の鼓動は何か。

 心臓でもない、脈打った異常は何か。

 大罪戦争やら、得体の知れない情報を得た時と似たような感覚。

 その時と同じように、完全に、確実に、結実に、理解する。 

 

 今、先に鼓動を感じ取った瞬間。

 どこかで、俺以外の大罪者が罪科異別(ざいかいべつ)を使った。 

 つまり、この町で今、戦闘が起こっている可能性が高い。

 

 それを知ったなら、俺は何をするか。

 決まっている。

 

 アイラがタオルを持って戻ってきた。

「アイラ、俺今から出かけてくる。急用だ」

 アイラの、藍色の瞳をしっかりと見つめながら言った。

「はい……気を付けてくださいね。絶対に、帰って来てください」

 アイラも真剣な表情に変わる。

「わかってる、約束したしな」

「はい、いってらっしゃい」

 送り出す言葉と共に、微笑みを見せてくれた。

「いってきます」

 俺はそう返すと、すぐに走り出した。

 

 リビングを出、短い廊下を駆け、靴を履く時間も惜しいと急いで履き、玄関を乱暴に開けて外に出る。

 外は暗い夜。

 星が瞬き、月が照らす。

 走る、走る。

 アスファルトを踏み締め、街灯が寂しく光る夜道を()く。

 目指すは、鼓動を感じ取った方向。

 北東方面だ。

 絶対に、救う。

 待ってろ巨悪。

 走りながら、俺は携帯を取り出した。

 掛ける人は、この状況では一人しかいない。

 登録されている番号へと掛けて、コール音が鳴る中待つ。

 数コール後、繋がった。

『どうもどうも、真白だよ。なに、カズくん?』

「大罪者が罪科異別を使用した。俺の家から北東方面だ」

『え!? ほんと!?』

「冗談でこんなこと言うか」

『そうだね。じゃあわたしも今すぐ行くよ。まずは学校で合流しよう』

「いや、今でも戦闘が起こってるかもしれないんだ。直行したい。目的地にそのまま向かって合流だ」

『それは危険だよ。学校で合流、それ以外は駄目。譲らないからね。それにわたし、カズくんの家どこか知らないし』

 別に俺の家からで例える必要はなかったと後から気づいた。

 お互いが知っている場所からどっちだと伝えれば良かっただろう。

 だがどっちにしろ、真白の声音は頑として譲らなさそうだ。

 今は時間が一秒でも惜しい。揉めている時間が在ったら迅速に行動したい。

「ちっ、分かった。学校に行く」

『うんうん、そうして。わたしも今すぐ行くから』

「切るぞ」

『あまり気負いすぎな――』

 ピッ。

 最後に何か言っていたが聞く前に切ってしまった。

 まあ、いいか。

 そんなことより急がなければ。

 走る、走る。

 ただひた走る。

 

 

 

 校門前に着いた。

 真白はまだ来ていない。

 俺から家を出て走りながら電話したのだ。当然といえば当然。

 しかし、焦燥感が募る。

 まだ来ないのか。

 早く来い。

 今にも誰かが死んでしまうかもしれないんだぞ。

 無意識に貧乏揺すりをしていた。

 駄目だ。クールになれ。

 冷静さを失わずに対処するべきなんだ。

 真白が来る前に、落ちつけよう。

 深呼吸。吸って、吐く。

 繰り返す。

 次第に少しだけだが落ち着きを取り戻してくる。

 外に意識を向けてみた。

 目の前の建物を見上げる。

 夜の学校は、闇を讃えて不気味さを放っている。

 今の心境からそう思えてしまうだけなのだろうが。

 本当は、ただの建物だ。

 学び舎だ。

 俺たちがいつも通っている。時にめんどくさく、時にかったるく、時に楽しい。

 そんな場所だ。

 間違っても、俺たちに害を及ぼすような場所ではないのだ。

 今日も、四人で遊ぶのは楽しかった。

 それが連綿と続く空間なんだ。

 

 足音が聞こえてくる。

 走っている音だ。

 振り返る。

「カズくん、おまたせっ。ごめん遅くなって」

 真白だ。

 急いで来ただろうに、あまり息を切らせていない。

 意外と体力があるのか。

 いや、意外でもなんでもないか。

 どっかの組織に属しているんだもんな。

「本当だ。遅いぞ」

「だからごめんって」

「そんなことより急ぐぞ」

「うん、そうだね」

 二人して即座に走り出す。

 目指すは、北東。

 具体的な場所は分からないが、そっち方面に向かっていれば戦闘音とか、とにかく普通じゃない異音が聞こえるだろう。

 日常には相応しくない、音が。

 

 

 しばらく走った。

 角を何度か曲がり、家の、店の、前を通り。

 住宅路の一角。

 そこに不審な人影を見つけた。

「あ! あそこの人!」

 真白も気づいたようで、指差す。

 俺と真白は走っていた足を止めた。

 視線の先、数メートル。

 見止めた人影は、スーツを着た中年男性。

 恐らくサラリーマンか何かだろう。

 それだけを見れば、何も不審な点などない。

 しかし、明らかに一般人ではありえない異質を、その男は持っていた。

 

 超然と濃いピンク色に光る、輝く、煌めく、左眼。

 魔眼だ。

 俺の魔眼が訴える。

 こいつは、大罪者だと。

 あの魔眼は、罪科異別だと。

 ならば。

 倒さなければならない相手だ。

 誰も殺させない。

 もうすでに殺しているかもしれなくとも、今からは一人たりとも殺させない。

 ふん縛って、終わらせる。

  

「『総ての救済を望む傲慢な愚者よ、殺戮し、終わりの(ことわり)へと導け』」

 俺は戦闘態勢を整えておいた方が良いと判断し、詠唱する。

 左眼が、翡翠色に煌めきながら輝きを宿した。

 柄、鍔、刀身、全てが翡翠色の短剣が右手に握られる。

 

 そんな俺を視界に入れた後。

 懐に手を入れる男。

 取り出したのは、出刃包丁。

 料理にしか使ってはいけない筈の、人を殺すことが容易の刃物。

 間違っても、こんな路上で取り出していい物ではない。

 それを言ったら、今の俺も大概か。

 包丁と短剣だったら、短剣の方が武器らしい。

 それでも俺は、殺す為にこの武器を使ったりなんてしない。

 したくない。

 してたまるか。

 短剣を構える。

 真白も純白の翼を背に出現させた。

 いつでも戦闘を開始できるように。対応できるように。

 来いよ。人を殺すなんて考え、叩き折ってやるから。

 こっちは二人だ。優位なのはこちらの方のはずだ。

 大丈夫、いける。

 マンイーターは能力が強力だっただけだ。

 このぐらいの相手なら。

 いや、油断するな。

 何か隠してる手があるかもしれない。

 最初から全ての手を表にさらけ出してるなんて、寧ろあり得ないと思え。

 そう、あの魔眼の能力が判っていない。

 包丁は能力とは無関係の物だろう。

 どこの家庭にもある物なのだから。

 ならば最大限の警戒を。

 意識を鋭敏に。

 どんなことが起きても対処できるように。

 汗が頬を伝っていく。

 身体を強張らせてはいけない。

 それは動きを阻害する。

 息を整えろ。

 だが息継ぎの隙を突かれるな。

 慎重に。ある程度リラックスして。

 相手の出方を窺う。

 突っ込んだ方が良いだろうか。

 先手必勝という言葉がある。

 まずは相手に動かせて対処しようと立ち止まったが、そのまま走り寄って攻撃に移った方が良かっただろうか。

 しかしもう手遅れだ。

 今さら別の戦法に変えることができる時間などない。

 一度立ち止まってしまったのだから。

 武器を出す余裕を与えてしまったのだから。

 このまま出方を窺う戦法にするしかない。

 さあ、どう動く。

 

 待て。

 俺はまだ、一言も話し掛けていない。

 包丁なんて持っている相手だが、話してみたら仕舞ってくれるかもしれない。

 可能性は低いが、無くはない。

 話してみれば意外とわかるやつだったなんて事例はこの世にごまんとあるだろうから。

 とにかく、戦闘を避けられるのならそれに越したことはない。

「わたしたちは、攻撃しません。あなたが攻撃してこない限り。ちゃんと話し合わせてください。何か問題を抱えているなら相談に乗りますから。あなたがそれを捨てて、ハッピーハッピー大団円だと嬉しいな」

 俺が何か言う前に、真白が先陣を切った。

 純白の翼を消して、笑顔を浮かべている。

 ならば俺も、それに乗っからせてもらう。

 異別炉(いべつろ)という力の供給源を絶つ感覚を脳内に描き、短剣を消す。魔眼と成っていた左眼も元の黒い瞳へと戻る。

「俺たちは戦いたくてここに居るんじゃない。誰も死なせたくないからここに居る。だからそっちが話をしてくれるのなら無駄な争いはしなくて済むんだ」

「――っ!?」

 サラリーマン風の男が、息を呑んだような気がした。

 

 話し終えると、待った。

 俺たちは、待った。

 俺も真白も迂闊に動かず、待ちの姿勢だった。 

 けれど、数秒もの間、男は呆然とこちらを見て立ち止まっているだけだった。

 何故だ?

 見ているだけの理由は?

 動かない意図は?

 思考でも巡らせているのか?

 迷ってくれているのだろうか?

 それとも、俺達が攻撃するのを待っているのか?

 何か言ってくれなければ、こちらも動くに動けない。

 応えてくれ。

 ただ立って相対しているだけだというのに、精神が削られる。

 これが狙いなのか?

 考えてくれてるのではなく、精神に負担を掛けるため?

 わからない。

 くそっ。

 されど、変化は訪れる。

 変わらないものなど、この世に無いように。

 

 目の前の、濃いピンクに輝く魔眼を持つ男は、反転した。

 後ろに、体の向きをぐるりと変えて。

 振り返って、俺たちとは反対方向に、走り出したのだ。

 つまり。

 逃げた。

 逃げ出した。

 

「ま、待って!」

 真白が叫ぶ。

 俺は動揺が全身に奔り、一瞬動くのが遅れた。

 その間にも距離は離されていく。

 交渉は決裂なのか?

 その上で、戦ったら二人相手だと分が悪いとでも思ったのか?

 それとも何かの罠か。

 どうして。戦わずに済むなら、そっちの方が圧倒的にいいはずだろ。

 なんで、応えてくれないんだ。

 どちらにしろ、結局追いかける以外にないか。

 罠を警戒しつつ、追う。

 これで行く。

 そうと決まれば、距離を放され過ぎる前に行動しなければ。

 即座に走り出す。

 まだ追いつけない距離じゃない。

 真白も俺に並んで走る。

 走る。

 

「『総ての救済を望む傲慢な愚者よ、殺戮し、終わりの理へと導け』」

 左目が翡翠色の魔眼と化し、右手に翡翠の短剣が握られる。

 交渉が決裂したのなら、攻撃を加えてでも止める。

 人を殺させるわけにはいかないのだから。

『貫きを為す攻性の羽』(ティアティス)

 真白も同じ結論を持ったのか、走りながら白く煌めく羽を放つ。

 足を狙ったのか、低い位置。

 しかし。

 コンクリートに刺さる。

 外した。

 俺も男の足に向けて翡翠色の短剣を投擲する。

 されど二の舞。

 外す。

 短剣は地に落ち、金属音を鳴らす。

 距離は、まだまだ縮まらない。

 真白が再度、羽を放とうとする呼吸を感じた。

 

 刹那。 

「『狂い狂う地獄の獣よ、その強靭無比の砕く顎を、矮小なる腕へと貸し与え賜え』」

 

 声、後。

 風切り音。

 聞こえたような。

 いや。

 風を押し潰す音。

 前者より、こちらの方が近い。

 そう思った直ぐ後に。

 (ごう)と、脅威がやってくる。

  

 逃走する男の横合い。

 その道から現れる。黒。

 高速で暴れ狂い突撃してきた、黒き獣。

 突然の事態に、俺は一瞬動揺した。

 もし動揺していなくて、何が出来ていたのかと考えても。

 結局、何も出来なかったのだろう。そんな風に、思う。

 瞬時の出来事だったのだから。        

 

 蛇のような、目も鼻もない口だけの黒き狂獣が、男に喰らい付き。

 捕食者に捉えられた憐れな大罪者は、深淵の闇へと引っ張り込まれるように横の道へと姿を消した。

「あ……」

 喉からヒューと、変な息が漏れた。

 焦りか恐怖か、汗が肌に浮かんでくる。

 あの容姿は、一目見て何か理解した。

 わかってる。

 助けなければ。

 救わなければ。

 まだ生きているはずだ。

 

 どうせもう助からない。

 すぐに死ぬ。

 黙れ!!

 

 横の道に飛び出す。

 そこにはやはり、マンイーター。

 右の眼をオレンジ色に光らせた、飢えた痩せぎすの捕食者。

 そいつが右腕の怪物に、先程の男を咀嚼させていた。

 男の悲鳴が、夜の静寂を切り裂いて響く。

 致命傷だ。

 内臓は既にぐちゃぐちゃであろう。

 助かる見込みは、ない。

 違う。

 可能性はゼロなどではない。

 真白はあの夜、回復する天使術を使っていた。

 それを使ってもらえばあるいは。

 回復できる度合いは知らないが、それでも賭けたい。

 まだ、わからない。

 

「『総ての救済を望む傲慢な愚者よ、殺戮し、終わりの理へと導け』」

 右手へと短剣が握られる。 

 これが、投げたら武器を失うと分かっていながら投擲した理由だ。

 詠唱すれば手元に出現するならば、詠唱の時間を考慮しなければ何度でも投擲できる。

 

「また、君たちか」

 マンイーターが呟いた。

『貫きを為す攻性の羽』(ティアティス)

 だがそれに、俺たちは応えない。

 真白が白き鋭利な羽を飛ばす。

 俺は翡翠色の超常を握り締め、マンイーターへ接近する。

 奴は右腕の獣を盾にしながら、後ろに跳び下がり(ざま)に咀嚼していた男を放り捨てた。

 白き羽が何本か右腕に刺さるが、あまり効いている様子はない。

 やはり右腕以外に命中させなければ効果は期待できない。

 着地後即座に、マンイーターは詠唱。

「『喰らえ』」

 右腕の黒き獣が、蠢動。加速。伸びる。

 横に跳び転がって避けた。

 前回と同じ(てつ)は踏みたくない。

 その為には長期戦は危険だ。

 殺さずに、直ぐに決める。

 足でも何でも、切り裂いてしまえ。

 殺しさえしなければ、御の字だ。

 人を殺した相手に、容赦など必要ない。

 体の部位欠損ぐらい、我慢してもらう。

 立ち上がりの動作に続けて走り出す。

「カズくんしゃがんで!」

 即座にしゃがんだ。

 俺の頭上を、獣の大口が後ろから通過する。

 俺が最初に避けた後に、蛇の様にUターンして二撃目を放ってきていたのか。

 以前にもやられた手だが、焦って失念していた。

 真白のおかげで、助かった。

 

『貫きを為す攻性の羽』(ティアティス)

 連続攻撃を回避されて隙が大きいマンイーターに、白く鋭利な羽が殺到する。

 左腕、左足に、命中。刺さった。

 怯み、体勢を崩す。

 それで、さらに隙が出来る。

 ここが、好機。

 畳みかける。

 走る。接近する。

 肉薄する。

 後は。

 ここで。

 この短剣の柄で。

 顎を殴り付ければ。

 脳震盪を起こし気絶させ。

 終わる。

 

 

『――――――――――――――――ッッ!!!!』

 

 

 咆哮。

 獣の、いや、ただの獣とは思えない、闇から届くような咆哮が、聞こえた。

 直ぐ近く。

 ありえないほど直ぐ近くから、聞こえた気がした。

 目の前のマンイーターも、突然の事態に驚いたような表情をしている。

 ならば、これにマンイーターは関与していない?

 

 ――何故か。

 今は、暗い夜だ。

 月明かりと星の煌めき以外では、街灯ぐらいしか照らすものなどない暗い夜。

 それは解っているが、先程までよりも、自分の周りが。

 より――暗い気がした。

 

 それを感じると同時。

 咄嗟。反射。

 目の前のマンイーターを、突き飛ばす。

 その反動で、自分も後ろに跳んだ。

 一瞬後。

 

 数秒も経たないほど前に、俺とマンイーターのいた場所が。

 その地面、コンクリートが、弾け飛んだ。

 ただ、地面が砕けたなんて、生易しいものではない。

 爆砕だ。

 凄まじい大音が響き、視界がコンクリート片、土埃で塞がれる。

 衝撃が襲う。

 爆弾でも投下されたかのよう。

 衝撃波、風圧で後方に吹き飛ばされる。

 

「カズくんっ!」

 真白の叫ぶ声が聞こえた。

 硬い地面に打ち付けられた痛みが奔り、転がる。

 地鳴りが、辺りに響いた。

 巨大な生物の足音のような響き。

 違う。

 そのまんまだ。

 

 俺の視界に映るのは、巨大な竜としか言えないものだった。

 二階建ての屋根を優に超える、羽のない黒き竜。

 四肢を持ち、二本足で立つ姿は、まさにドラゴン。

 想像上でしか存在しない筈の、脅威。

 生物の頂点に君臨する絶対暴力が、そこにいた。

 

「こんなところで、ラスボス級くんなよな……」

 今までにない脅威。

 身体能力、生物としての力量差は圧倒的。

 普通なら、抗えずに蹂躙され、死ぬ。

 遭遇したこと事態が間違い。

 標的にされたら、終わり。

 

 でも。

 人じゃない。

 なら、殺していい。

 こんな化け物、存在していいはずがないのだから。

 

魔竜(まりゅう)……なんでこんなところに……」

 真白が愕然と呟いた。

 魔竜。

「ハハハ……」

 見た目通りの、そのまんまの名前じゃないか。

 故に、力の権化。

 

「『喰らい尽くせ』」

 マンイーターは、状況の悪さを理解したのか逃げの一手を打った。

 やつの後方にある電柱に、伸ばしに伸ばした右腕の獣を巻き付け、後ろに跳んでいく。

 竜の尾。

 長く鞭のように(しな)るそれが、袈裟切りのように振り下ろされた。

 標的は、マンイーター。

 

 だが俺は、その隙に魔竜へと接近する。

 殺していい相手なら、容赦なく、一片の躊躇なく、やってやる。

「む、無茶だよカズくん! だめ! 逃げるよ!」

 真白が後ろで叫んだが、無視する。

 これは無謀でも蛮勇でもないのだから。

 

 しかし、真白の声でなのか、それとも既に気づいていたのか。

 魔竜の左手。

 強靭で凶悪な鋭い鉄塊のような黒爪を宿した手が。

 俺に向かって振り下ろされた。

 同時。

 魔竜のマンイーターを狙った尾の狙いが、逸れる。

 

 俺は、前に跳んだ。

『護り為す白き羽』(ティアティス)!」

 超常の羽の集合体。真白の生成した楯が黒爪と一瞬ぶつかり合う。

 が、数秒と持たず楯は、破砕音を立てながら粉々に砕かれた。

 それでもその少しの時間が、生死を分ける。

 俺の直ぐ後ろの地を砕く魔竜の左手。

 コンクリートの道は瓦礫と化し、粉砕された欠片が体を打つ。

 鈍い痛みが背中側からいくつも奔る。

 衝撃で前に跳んでいた勢いをさらに後押しされ吹き飛ぶ。

 

 魔竜の尾の狙いが逸れたおかげでマンイーターは間一髪のところ回避し、電柱に巻き付けていた右腕を解き、さらに後方の電柱へと巻き付け、遠くへと跳んで行った。

 俺は吹き飛ばされた後、転がって受け身を取り、即座に膝立ちになる。

 魔竜の黒い視線は、俺を捉えていた。

 標的が俺に移った。

 俺も、魔竜のその目に、睨み返す。

【ロックオン】

 死の概念、対象指定。

 カチリと、楔が填め込まれる感覚が広がる。

 

 マンイーターは、逃げおおせてしまうだろう。

 また取り逃がすことになるが、今はそんなこと言ってられない。

 この化け物を殺すことが、最優先事項だ。

 人を殺すしか能のない怪物など、存在してはいけない。

 

 魔竜が、両腕を振り上げた。

 この化け物は、決して遅くはない。

 この図体で、かなりの速さだ。

 何とかギリギリ避けてはいるが、それもいつまでもつか分からない。

 そもそも二度目は真白のおかげだ。

 体力を消耗して来た時が、最後。

 だから、スピード勝負だ。

 俺の体力が今の動きを維持できなくなる前に、魔竜を殺す。

 簡単なことだ。

 

 俺に向けて振り下ろされる魔竜の両手。

 その大爪に掠りでもしたら、肉は千切れ弾け飛ぶであろう。

 魔竜に向けて、跳ぶ。

 多分、それでも避ける事は叶わなかったのだろう。

 さっきと同じだ。

『護り為す白き羽』(ティアティス)

 後ろで、楯の割れる音。

 地が砕かれる音。

 これは先よりも早く聞こえた。

 両手になった分、すぐに楯が破壊されたのか。

 衝撃が襲う。

 石礫が背に何個か激突し、呻きそうになる痛みが奔る。苦鳴は無理矢理呑み込んだ。

 前に、吹き飛ばされる。

 魔竜の方へ。

 地に再び打ち付けられて転がった先。

 目の前には、魔竜の足。

 

 この怪物の身体は、触れずとも強靭だと分かる。

 コンクリートを爆砕して見せる膂力と身体強度は、動物を優に超えている。

 だからこのちっぽけな短剣を、目の前にある鉱石のような爪を生やした足に刺したところで、魔竜にとって大した傷ではないだろう。

 そうして攻撃後の俺は、為す術なく殺されるだろう。

 圧倒的な化け物。

 ただの人間には、逃げ惑うことしかできない怪物。

 

 されど。

 殺してもいい相手なら、簡単だ。

 

 目の前に鎮座する足に、数瞬後には蹴り上げられて殺されるだろう。

 されど、それまでには僅かな時間が存在する。

 その時間に、動く。

 

 魔竜の足に、翡翠の短剣を思い切り突き刺す。

 刀身が、刃が、ほんの少し食い込む。

 ほんの少しでも、刃が刺さっていればいい。

 そうすれば、絶対の能力は発動する。

 

「『殺害せよ』」

 詠唱と共に、翡翠色をさらに輝かせて発光する短剣と左眼。

 そうして成す力。

 カチリ、と変わる法則。

 キイン、と世界に響き渡る。

 死という概念を、存在の全てに叩き付ける。

 世界の絶対法則として、書き換える。

 

 殺戮終理(さつりくついり)の魔眼。

 この罪科異別は、死の顕現。

 一度でも目を合わせた相手を【ロックオン】し、その対象に前段階の概念、死の(くさび)()め込む。その後、自らの手に握られている翡翠の短剣を僅かでも刺した状態で詠唱することで、対象に死の概念を確立させる能力。

 生存を許さない、殺す為の力。

 如何(いか)な力量差が在ろうと、覆してしまえる力。

 

 詠唱から一瞬後。

 魔竜の巨体は、黒い霧のように霧散し、消滅した。

 

 俺はしばらく、茫然と敵の消えた宙を見つめていた。

 

 

「カズくん! 大丈夫?」

 純白の翼を消して走り寄ってくる真白。

 俺も短剣を消し、魔眼は普通の瞳へと戻る。

「無謀ではなかっただろ?」

「いや得意満面に言われても。すごく無茶なのは変わらないよ!」

「俺の能力は教えてあっただろうが」

「知ってても無茶だと思ったんだよっ。実際わたしが防いでなかったら危なかったでしょ?」

「真白なら何とかしてくれるって思ったんだよ」

「本当に?」

 訝しげ。

「本当だ」

 何とかしてくれなくても何とかなるだろとは思っていたが。

「まあ、今はそれはいいや。傷、治療するからじっとしてて」

 そう言って、座り込んだ俺の前に膝立ちになる。

 ふわりと白色のスカートが揺れ、甘くいい匂いが届く。

 白色のパーカーには、血が一滴も付いていない。

 

 あっ。

 なんか、張り詰めたものが抜け落ちていくような感覚がした。

 心が、少し暖かくなる。

『包み癒す擁の翼』(ティアティス)

 真白の背に生えた白き翼が、俺を包む。

 最もひどかった背の痛みが、癒えていく。

 擦り傷も、癒えていく。

 白く綺麗な髪に、白き翼、白のパーカー、白のスカートで、白尽くし。

 本当に、天使のよう。

 そういやこいつ、天使だった。

 今日は、もう終わりか。

 やれることは――  

 

「きゃっ!」

 俺が無理矢理立ち上がったことで、突き飛ばされたみたいに尻餅を突く真白。

 一瞬の罪悪感を握り潰し、走り出す。

 どうして忘れていたんだ。

 一時でも失念していたことに憤死しそうなほど自身を嫌悪した。

 倒れている人影に近づく。

 マンイーターに大怪我を負わせられた大罪者だ。

 大怪我なんだ。致命傷なんかじゃない。

 そのはずだ。はずだ。

 そうであってくれ。

 

 その人の前に着くと、膝を突き体に触れてみる。

 首、手首、触れる。

 脈は、ない。

「――っ」

 いや、わかってた。

 わかってたんだ。

 見ただけで、この出血量はどうあがいても助からないって、わかってたんだ。

 瞳を閉じたその顔は、苦悶なのか安らぎなのか、わかりもしない。

 待て。まだ諦めるな。

 助ける方法は。

 

「真白! この人を回復することは出来ないのか!?」

 最後の頼みの綱だった。

 今から救急車を呼んだところで絶対に助からない怪我。

 しかし、超常の力を持つ天使の真白になら、二度俺の傷を癒したように治してくれるかもしれない。

 頼むよ。

 もうこれしかないんだ。

 

「カズくん……わたしの力は、そんなに強くないんだよ。天使の中でも、一番弱い方なの。だから無理。ごめん。それにここまでの傷だと、たとえわたしよりもずっと強い天使でも難しいと思う」

 沈痛な表情を俯かせる真白。

「どうして俺なんかの軽傷の方を優先させた? 俺よりも一早く助けなきゃいけなかっただろうが」

 自分でも、わかっている。

 俺は、最低なことを言っている。

「さっき診た時、もう、手遅れだって解ってたからだよ。そうでなきゃ重傷者の方を優先させるよ」

 俺が茫然としていたときに、既に診ていたのだ。

 知ってた。

 薄々知ってた。

 だって、綺麗に死体が仰向けにされて、目が閉じられていた。

 わかってたよ。

 でも理解したくないんだ。

 納得したくないんだ。

 その感情の発散を、真白にぶちまけるのは間違っている。

 冷静な思考はわかってたはずなのに、止まらなかった。

 

「くそっ! だったらお前は、どれぐらいの怪我なら治せるんだよ。それでも天使かよ」

「重傷は無理かな……軽傷なら大丈夫。軽傷異常だと、厳しい。カズくんの手当てをした時の怪我くらいで、わたしの回復天使術の力60%ぐらいの強さかな。あと、わたしは一応天使だよ」

 穏やかな声音で、寂しい微笑を浮かべながら答えてくる。

「……」

 そんな顔で言われたら、何も言えなくなった。

 最低の感情放出は、あっけなく途切れた。

 

 まただ。また助けられなかった。どうしてだよ。どうしてこんなんばっかりなんだよ。

 心の中では、理性的でない自分がそう叫ぶ。

 でも理性的な自分は、もう黙って、真白への罪悪感に耐えるように目を瞑っていた。

「すまん。ごめん。酷いことを言った。さっきも突き飛ばしたみたいになって悪かった」

「ううん。いいよ。わたしもそんな時があったから」

 首を振って微笑みを向けてくる。

 それに少し、救われた気持ちで、死体に振り返る。

 死者蘇生なんて禁忌でもなければ目を覚まさない、ただの骸だ。

 もうこの人は、死んでいる。

 事情も何も、聴けないまま。 

 

「これで、大罪者は一人減ったのか……?」

 魔眼を所有していたということは、そういうことなんだと思った。

「多分……でも、何か違う気がする」

 しかし真白は、歯切れ悪くそう答えた。

「違う?」

「うん。魔眼を発光させていたのに罪科異別を使っている様子が無かったから、そんな気がしたんだけど。今はまだ断定は出来ないかな」

「そうか……」

 俺も、違和感はあった。

 でも、今はわからない。

 だから、考えたところで適当な憶測しか出来ない。

 いろんな可能性を推測しておくことは、大事かもしれないけれど。

 

「なら、今日はもう終わりか」

「そうだね。帰ろう。疲れたもんね」

「ああ……」

 本当に。

 手を差し伸べてくれた真白の手を掴み、立ち上がる。

 そうして俺たちは、帰路に就いた。 

 

 


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