1999年3月9日 〇五二一 東シナ海
払暁、東シナ海。
薄い霧に覆われた海上で、うごめく影たちがあった。
醜怪な海洋哺乳類の出来損ないのような形のモノから、ヒトに近い姿をしたものまで。
少なく見積もっても10個艦隊以上の深海棲艦達が、この海域に集結していた。
彼らは巨大な輪形陣を形成し、時おり思い出したように身じろぎするのみで、まるで体を休めているかのように海上に静止していた。
東の空から、朝日が昇り、霧のただよう海上に陽光をさしかける。
数体の深海棲艦が、ピクリと何かの音に反応した。
刹那、10数機の艦載機が、直上から霧を割って急降下してきた。
彗星、とかつて名づけられた艦上爆撃機のミニチュアが、一斉に爆弾を投下。海面に盛大な水柱が立ち上り、数体の軽空母級が巻き込まれる。ほぼ同時に東の方向から海面ぎりぎりを水平に接近してきた艦上攻撃機流星の編隊が、航空魚雷を投下。航跡の尾を引いて殺到した魚雷が、艦隊外縁部にいた駆逐級に突き刺さり、周囲の艦を巻き込んで爆発した。
爆風でかきまわされた霧の向こう、海上。弓を構える正規空母飛龍を先頭に、数人の航空母艦娘が、仁王立ちしていた。
「第二次攻撃、開始!」
矢が、符が、次々と天に向かって放たれ、艦爆や艦攻へと姿を変えて深海棲艦隊へ突進。ふたたび、爆発が霧をかき乱す。
しかし、そのころには深海棲艦隊たちも動き出していた。
形容しがたいうなり声とともに一斉に対空射撃が火を噴き、数機の彗星が急降下爆撃を断念して回避する。
雷撃体勢に入ろうとした一機の天山が、発艦した敵艦載機に追い立てられ、慌てて身をひるがえした。
「さすがに、そう簡単にはやらせてはくれないわね」
鉢巻を巻いた顔を上げ、飛龍がつぶやく。その視線は深海棲艦の集団の中心、空母棲姫の姿を捉えていた。
飛龍は口を引き結ぶと、さっと弓を上げて仲間に合図を送る。
「直掩機は全機発艦! さあ、
飛龍が声を張り上げた海上より東に50km。
指揮護衛艦『かいりゅう』艦橋内、熊本警備府艦隊司令部にオペレーターの声が響き渡る。
「特編機動部隊、第3次攻撃を中止。後退を開始しました!」
「敵艦隊、動き出しました。特編機動部隊を追撃してきます」
警備府長官原口大佐は、無言で戦況画面に目をやっている。周囲の司令部要員たちも、食い入るように画面を見つめていた。
「かいりゅうも後退開始。作戦通り、戦闘海域からの距離を保て」
幕僚の一人が指示を出した。
『かいりゅう』は熊本警備府艦隊の総旗艦である。
かいりゅう型は提督が座乗し艦隊司令部として運用されることを前提に設計された指揮護衛艦であり、護衛艦としては比較的小型だが、艦隊司令部にふさわしい高度な情報処理能力を有している。また、艦対『艦』ミサイルやバルカンファランクスなどの武装が搭載されており、深海棲艦隊相手でもある程度対抗できる戦闘力を持つほか、遠洋における艦娘たちの拠点としての機能も有するなど、様々な能力をコンパクトにまとめた高性能艦だった。
今回の作戦においても警備府艦隊総司令部となり、原口長官自らが座乗して総指揮を執っていた。
「作戦参加各艦隊に伝達。各艦隊は所定の作戦計画に従って行動せよ」
「了解! 各艦隊は、所定の作戦計画に従って行動せよ!」
原口が重々しく言い、オペレーターが復唱する。
「ここからだな……頼むぞ……」
幕僚の一人が、祈るようにつぶやいた。
夜明けの空を、艦載機が目まぐるしく飛び交う。
零式艦上戦闘機やその後継機たる烈風、紫電改。対するは駆逐イ級を小型化したような異形の深海機。互いに複雑な軌道を交えながら、追い、追われ、銃火を煌めかせる。
その眼下の海上では、熊本警備府所属の航空母艦娘たちが、全速で東を目指していた。
時折、熾烈な航空戦の隙間を抜けて突っ込んでくる深海機の爆撃や雷撃にさらされながらも、決してその足を緩めない。
少しでも速度を緩めれば、追撃してきている圧倒的多数の深海棲艦隊にたちまち追いつかれ、袋叩きにされることがわかりきっているからだ。
「うひゃー、すごい空だ。本日の天気は敵機ときどき爆弾。ところによっては魚雷が降るでしょうってね!」
今しも雷撃を回避した軽空母娘隼鷹が、陽気に叫んだ。
「隼鷹!大丈夫!?」
「あっはっは、だいじょうぶだいじょうぶ! こんな速度で航行する機会なんて滅多にないからね。ごっ機嫌だよ!」
隼鷹は自らの艤装に外付けで接続された新型タービンと高温高圧缶を指し、高笑いしてみせる。増設された缶とタービンにより、彼女の航行速度は通常時に比べて大幅に上がっていた。
だが、頭上を敵機が飛び交い、爆弾が降り注ぐこの状況下である。平然と笑う彼女の姿は、僚艦の眼には頼もしく映っていた。
「ったく、能天気なこと言っとる暇があったら対空射撃をせやっ! ま~た飲んどるんか!」
「りゅ、龍驤さん、いくら隼鷹でもさすがに飲んではいないと思うけど」
……一部、例外もいるようだが。
軽空母龍驤が怒鳴りながら高角砲を連射。あとに続く祥鳳が思わず口元を押さえて笑いをこらえた。
正規空母である飛龍、そして軽空母である龍驤、隼鷹、祥鳳。
彼女達4隻が、現在熊本警備府が保有する空母戦力のすべてだった。
「護衛部隊に損害は?」
「現在まで全艦無事じゃ! この程度ならまだまだいけるぞ」
護衛部隊の指揮を取る重巡利根が叫び返す。高速の駆逐艦、巡洋艦からなる護衛艦隊は、空母の周囲をとりまく輪形陣を形成しつつ、襲来する敵機に対して対空砲火の網を張っていた。
「全艦、進路速度このまま!」
飛龍は声を張り上げ、弓を引く。立て続けに放たれた矢は艦上戦闘機烈風へと姿を変え、押し寄せる敵艦載機を迎え撃つ。
圧倒的多数の敵艦載機に対抗するため、4人とも艦上戦闘機をとにかく積めるだけ積んでいる。後退を開始してから艦戦はすべて艦隊の直掩に回しており、護衛艦隊の艦娘たちの対空砲火もあって、ここまでのところ何とか持ちこたえていた。
海面に薄く立ち込めている霧も、逃げる側に味方していた。霧というよりはむしろ靄と呼ぶべき濃度だったが、上空の敵艦載機に対する目くらましの役目には十分だった。
「敵艦隊、なおも追撃してきます。敵艦隊の艦列も伸びてきているわ」
二式艦上偵察機を運用する祥鳳が報告する。
特編機動部隊は、熊本警備府旗下15個艦隊の中から選抜された空母4隻とその随伴艦で構成された特別編成の機動部隊だ。
とにかく艦隊の速力を重視して編成されており、隼鷹のように本来速度に不安のある艦娘も、外付けの缶とタービンで速力を補っている。
結果として、これを追撃している深海棲艦隊は、低速艦が速度についてこられず徐々に後方に置いていかれており、その艦列は長く伸びていた。
上空から見れば、巨大な蛇が転がる卵を追いかけているようにも見えるかもしれない。
このままなら、十分逃げ切れるかな、という考えが一瞬飛龍の頭をよぎる。
「飛龍、前だっ!」
隼鷹の声に、飛龍はとっさに急減速。次の瞬間、飛龍のすぐ前に敵機から投下された爆弾が落下、爆発した。
衝撃の大部分は装甲力場が防いだものの、正面から盛大に波をかぶり、飛龍は顔をしかめる。
「隼鷹、ありが――1時方向っ!」
お礼を言いかけて、迫る魚雷に気付き、警告。隼鷹は「わっ」と声を上げながらも回頭、雷撃を回避した。
「飛龍、どーも敵機の動きが妙や。敵さん、やり口を変えてきたんちゃうか?」
龍驤は最前線である五島列島泊地に所属している歴戦の艦娘で、頼りになる空母仲間だ。
彼女の言葉に、飛龍は改めて周囲の状況を観察する。
確かに、先ほどまでに比べて敵機が攻撃を仕掛けてくる頻度が増している。しかし、そのぶんその狙いは不正確であり、爆撃も雷撃もずいぶん手前から大雑把に放り込んできているように見えた。
いましも、敵艦爆が味方の烈風に追いたてられながらも、祥鳳めがけて爆弾を投下。しかし、やはり狙いは甘く、爆弾は祥鳳の前方の海面で爆発し、祥鳳は右に大きく舵を切り、衝撃をかわした。
数的有利に物を言わせて、数撃ちゃ当たる作戦に出てきたってこと? でも、この程度なら、減速や回頭で簡単に回避できるけど……
そこまで考えて、飛龍はハッと顔を上げた。
「祥鳳っ! 敵艦隊との距離は!?」
叫んだ視界の端で、あちゃー、そういうことかいな、と額に手をやる龍驤が見えた。
「彼我の距離……縮まっています! 敵機の攻撃により、こちらの艦隊の速度が、低下しているわ」
「うげっ、足止めがあっちの狙いってか?」
敵艦載機の動きは、味方艦への直接攻撃よりも、艦隊の航行の妨害を目的としたものだったのだ。
狙いは甘くとも、とにかくこちらの進路に魚雷や爆弾を放り込み、逃走を妨害。少しでもこちらの足が鈍れば、そのぶん後方から追撃してくる敵艦隊との距離が縮まることになる。
厄介なことに航空戦力で劣るこの状況下では、相手の意図に気付いてもそれを覆すのは難しかった。
「敵先頭集団が二手に分かれました! このままだと包囲されるわ!」
敵艦隊の先陣が左右に分かれ、一気に加速する。まさに蛇が大口を開けて卵を飲み込もうとするかのようだった。護衛部隊が砲撃で牽制するが、もとより対空砲火に手いっぱいで、有効な牽制にはならない。
このまま包囲されてしまえば、一巻の終わりだ。圧倒的な数の敵艦隊に袋叩きにされて全滅するだろう。
「深海棲艦のわりに、頭が回るじゃない……」
飛龍が肩越しに振り返る。その視線が、敵艦隊の中心でこちらを睥睨する空母棲姫の視線と咬み合った
白い姫は薄い笑みを浮かべ、ゆっくりと飛龍の方を指す。
「シズメ……ヒノ……カタマリトナッテ……」
その唇が謳うように、言葉をつむいだ。
とどめとばかりに凄まじい数の艦載機が飛び立ち、こちらに向かって殺到する。
飛龍は迫る艦載機の大群をまっすぐに見つめ、呟いた。
「けど、ちょっと遅かったわね」
瞬間、東の空から零式艦上戦闘機21型の大編隊が姿を現わし、敵艦載機群に襲い掛かった。
今しも機動部隊に攻撃を加えようとしていた敵艦載機群は不意を突かれ、混乱する。
そして、予期せぬ奇襲に慌てて艦戦を発進させようとした軽空母ヌ級が、不意に爆発した。遅れて、砲声がとどろく。
次の瞬間、多数の砲弾が轟音と共に深海棲艦隊に降りそそぎ、空母棲姫を取り巻いていた随伴艦が次々と爆発、炎上する。
霧の向こう、北の方角、伊勢型航空戦艦日向が白刃を高々と振り上げた。
「ワレ、敵機動部隊ト遭遇ス、だ。第一特編打撃部隊、攻撃を開始するぞ。続けっ!」
南の海上、金剛型高速戦艦霧島が、眼鏡を指で押し上げる。
「計算通りのタイミングね。第二特編打撃部隊、突撃開始! さあ、いくわよ!」
南北から水上打撃部隊が敵艦隊に向けて突入する。包囲する者とされる者の立場が、一瞬にしてひっくり返った。
「基地航空隊、敵機動部隊へ攻撃開始しました!」
「第一および第二特編水上打撃部隊、接敵に成功、攻撃を開始!」
オペレーターの報告に、おお、と、どよめきが上がる。
熊本警備府総旗艦『かいりゅう』艦橋。艦隊司令部内は興奮にわき立っていた。
警備府所属の各艦隊より空母をかき集めて高速の機動部隊を編制。停泊中の敵艦隊に一撃を加えて離脱し、敵艦隊の追撃を誘う。
追撃する敵艦隊の艦列がのびきったところで、待ち伏せていた水上打撃部隊と基地航空隊により、一気に敵艦隊に大打撃を与える。
3つの連合艦隊による一大作戦が、見事に的中していた。
「お見事です、長官! 敵は混乱しています。この分なら敵機動部隊に相当な打撃を与えられます」
「このまま空母棲姫を沈めることができれば、あとは烏合の衆です!」
口々に幕僚たちが賞賛する。
敵艦隊に突入した水上打撃部隊は、二隻の戦艦を中心に縦横に暴れまわっている。機動部隊も反撃に転じ、基地航空隊と連携して航空攻撃を仕掛けていた。
「第一打撃部隊、正面の敵集団を突破! なおも前進中!」
「第二打撃部隊、敵本隊へ砲撃を開始!」
「鳳翔より入電。基地航空隊、第2次攻撃の準備が完了。ただちに出撃す!」
矢継ぎ早に報告が入る。いずれも、味方の奮闘を伝えるものだ。数だけならまだまだ深海棲艦隊の方が多いのだが、流れは完全にこちら側に傾いていた。
敵の艦列は各所で寸断され、ろくに反撃もできずに一方的に叩かれ、引き裂かれていく。
「やりましたね、長官! 水上打撃部隊の突入のタイミングが完璧でした! 霧も味方してくれました」
若手の司令部付参謀が頬を紅潮させて言う。だが、原口は厳しい表情を崩さなかった。
「確かに前線部隊は奮闘してくれているが、総戦力で劣っている状況は変わらん。空母棲姫を沈めるまでは、安堵していい段階ではない」
「……はっ、失礼しました」
慌てて姿勢を正す参謀に、原口は頷いてみせた。
「戦場の霧による優位は、同じ戦場の霧によって容易にひっくり返るものだ。最後まで油断はできん。これよりかいりゅうは前進。護衛艦隊も含め予備戦力を投入する。貴官は戦闘に参加していない警戒艦隊に警戒を強化するように伝達してくれ」
「はっ」
参謀は敬礼すると、オペレーター席に歩み寄った。
「後方警戒の各艦隊に通達。警戒を強化せよ」
「復唱します。後方警戒の各艦隊は警戒を強化せよ。これでよろしいでしょうか」
「む……少し待ってくれ」
少々抽象的な命令である気がして、参謀は考え込んだ。具体的な指示もなくただやみくもに警戒を強化しろと言われても、命令された側は対応に困るかもしれない。
ちらりと原口の方を振り返るが、原口は他の幕僚たちとともには前線の指揮を執るのに集中しているところだった。
参謀は元は横須賀鎮守府に所属しており、中央の意により警備府司令部に送り込まれた。理論派の若手エリートではあるが、実戦経験は決して多いとは言えない。
本人は誠実に勤務に
参謀はちょっと考え、ごく常識的な思考に従って口を開いた。
「乱戦のどさくさで潜水艦の一隻でも近海に侵入されると厄介だ。各艦隊は警戒を強化し、潜水艦を含む敵艦の侵入に備えよ。この内容で頼む」
通常であればごく無難なはずのこの命令が、後日、大きな論議をよぶことになる。
戦場から南東に約10kmの海上。
レシプロエンジンの音が響き、かつて零式水上偵察機と呼ばれた水上機のミニチュアが霧の中から飛びだした。そのすぐ後ろを、異形の深海機が追いすがる。深海機の発射した機銃を、水偵はぎりぎりで回避した。速度は深海機の方が勝っているようで、水偵は敵の猛攻をなんとしのぎながら逃げている状況だった。
何度目かの交錯で機銃がかすめたか、煙の尾を引いて水偵が高度を下げ、ちょうど霧が濃くなった一帯に突っ込んだ。すかさず深海機が後を追って高度を下げる。
が、霧の中から現れたのは波打つ海面のみで、先ほどまで追っていた水偵の姿は影も形もなかった。
深海機は何度か周囲を旋回したが、やがてもと来た方角へと引き換えしていった。
「……行ったかな?」
深海機の唸り声のような独特の駆動音が遠ざかったのを確認し、伊号潜水艦娘伊26は海中から、ひょこりと顔をのぞかせた。
「ごくろうさま。ありがとーね」
霧の彼方から、砲火の響きが遠雷のように聞こえてくる。
「みんな、がんばってるな~」
麦穂の色の豊かな髪を揺らし、伊26は霧の向こうを見やった。
伊26は熊本警備府艦隊に所属する唯一の潜水艦娘だった。
彼女は、ほんの1年前に佐世保鎮守府に配置された。当時の佐世保には他の伊号潜水艦をはじめ、先任の潜水艦娘たちが複数所属しており、建造間もない伊26は彼女たちの指導の下、日々訓練に励んでいた。
しかし、間もなく勃発した対馬海戦に出撃した彼女たちは還らず、残ったのは後方待機だった伊26のみだった。
そして、他の生き残りの艦娘達とともに佐世保鎮守府から熊本警備府に転属となった今も、伊26はたった一人の潜水艦娘として、索敵連絡その他数多くの任務に従事していた。
今も、戦場の外縁で、水偵による敵艦隊の監視と索敵補助をおこなっていたところである。
「うーん、やっぱりこの霧じゃ水偵をとばしてもいまいち成果が挙がらないなあ……敵機も多いからあんまり無理はさせたくないし……」
一人での出撃が多いと、ついつい独り言が増える。気をつけようと思っていても、なかなか治らない癖だった。
「電探があればいいんだけどなあ」
潜水艦搭載用の電探は開発されたばかりで数が少なく、配備されているのは横須賀、呉などの大規模鎮守府に限られている。急造の熊本警備府ではなかなか望めない最新装備だ。
「とりあえず、もう少し戦闘海域に近づいてみようかな。そうすれば少しは……」
言いかけたところで、伊26は不意に、首筋にちりりとした感触を感じた。
とっさに海中に身を躍らせる。
―――戦場での直感には従うべきなの。
―――特に嫌な予感にはね。
かつて教えてもらった言葉に、自然に体が従っていた。
結果として、それは正解だった。
(うそ……なんで……)
海中に潜った伊26の聴音機は背後から接近する複数の深海棲艦の音を捉えていた。
(なんで、あんな方角から……)
その数、10隻以上。2個艦隊相当だ。
潜行があとほんの数秒遅かったら、発見されていただろう。
(この霧のせいだ……霧のせいで、こっちの索敵をすり抜けちゃったんだ……)
深海棲艦隊は伊26の潜行地点から50mと離れていないところを航行していく。
とっさに、かいりゅうに敵発見の情報を送信しようと思ったが、寸前で思いとどまる。通信を探知された場合、この距離では間違いなく発見されてしまう。
発見されたら、最後だ。たった一隻の潜水艦など、間違いなくなぶり殺しにされる。
伊26は両手で口を押さえ、鳴りそうになる歯を必死に喰いしばった。
(大丈夫……伊号潜水艦は、隠れるのは得意なんだから)
必死に自分に言い聞かせ、体を丸め、身を縮める。
恐怖をこらえながら、横目で海上を通過していく影を確認し、敵艦の数をかぞえていく。
敵重巡級の燐光を放つ目が海面越しにこちらを見たような気がして、伊26は悲鳴を押し殺した。
永遠とも思える時間の後、敵艦隊が遠ざかってからも、伊26はしばらくの間動けなかった。
恐る恐る海面に上がり、周囲を確認。あたりに敵艦の姿がないことを確認してから、息を吐き出し、激しく喘いだ。
極度の緊張から解放され、全身が酸素を求めていた。今さらながらに体が震え、のどの奥から酸っぱいものがこみあげてくる。
何とか息を鎮めながら、敵艦隊が去った方角を確認し、地図情報と照合する。
「……う、うそ。やばい!」
伊26は呟き、慌ててかいりゅうに敵発見の情報を送信した。
後に五島沖海戦と呼ばれる一連の海戦の終盤において、この情報は極めて重要な意味を持つことになる。しかし、
「警備府司令部より入電。『各艦隊は警戒を強化し、潜水艦を含む敵艦の侵入に備えよ』……潜水艦?」
第816艦隊隊舎、指揮司令室。816艦隊司令田村一乃臨時少佐は、モニターに表示された命令内容を確認し、ちょっと首をかしげた。
『なんだ、敵潜水艦発見の情報でも入ったか?』
木曾から通信。
「……ううん、そういうわけでもないみたい」
情報を確認し、一乃は答えた。
『なんだか中途半端な命令ね……』
叢雲の呟き。
「なにか、対応した方がよさそう?」
一乃は通信を個別通信に切り替え、叢雲に通信を送った。
『必要ないと思うわ。所定の作戦計画の通りで問題ないわよ』
「うん、わかった」
通信を再度艦隊通信に切り替える。
「816は引き続き、担当区域の警戒を継続。索敵に努めてください」
816艦隊は現在、第815艦隊とともに天草灘沖の約20kmの海上で後方警戒にあたっていた。
約100km西方の海上では、警備府艦隊が深海棲艦隊と激闘を繰り広げている。この方面の他の艦隊はすべて戦闘に投入されており、他に警備府の水上戦力は存在しない。
815,816の両艦隊はある意味では最終防衛ラインと言ってもよかった。
『どうやら、前線の方は今のところ上手くいってるみたいだな』
木曾からの通信。
816にも、戦況はデータリンクによりリアルタイムに伝達されていた。
「水上打撃部隊が敵機動部隊への突入に成功したみたい。長官の作戦通りね」
『警備府艦隊の日向や飛龍に、八代の霧島たちもいるんだろ? あの脳筋どもが相手じゃ、深海棲艦のやつらが気の毒になるな』
『脳筋……いや、腕利きなのは確かだが……』
『しかし、霧が濃くなってきたね』
響がふと、つぶやいた。
確かに、彼女たちの周囲の霧の濃度はやや増しているようだった。一乃は多目的結晶を介して指令機器を操作し、気象情報を確認する。
「気象情報によると霧はしばらくしたら晴れるみたい。電探に影響が出る濃度じゃなさそうだけど、海域によって多少ムラがあるみたいだから、みんな索敵には注意して」
『一乃、815艦隊との距離がだいぶ離れてるわ。向こうから連絡はあった?』
電探を確認したらしい叢雲から通信が入る。
「……あれ、ほんとだ」
816艦隊は作戦計画の警戒区域内から移動していない。815艦隊が10kmほど北西に前進していた。作戦計画の警戒区域より少し前に出ているようにも見える。
『……まずいわね。一乃、815の提督に、すぐに艦隊を戻すように連絡しなさい』
「え、でも……」
叢雲の言葉に、一乃はちょっと首をかしげる。
確かに所定の警戒区域から少し外れてはいるが、815艦隊司令である
『これ以上お互いの距離が離れると、いざという時に連携が取れなくなるわ』
「それなら、816がもう少し前進すればいいんじゃ……」
『わたし達だってこれ以上前に出ると作戦計画の警戒区域から外れるわ。それに、距離的にあんたの艦隊運用にも支障が出るでしょ』
叢雲の言うとおりだった。816の警戒区域は、隊舎の指揮司令室から指揮を執る一乃の艦隊運用に支障が出ない距離ぎりぎりに設定されている。提督用の指揮艦艇を持たない816では、これ以上前進すると戦闘で提督の支援を受けられなくなる。
「わかったわ。とりあえず連絡してみる」
一乃はそう言うと、815艦隊指揮艇、『はちくま』に通信を入れた。
『どうした。田村少佐』
通信画面に箕尾少佐が現われる。
「あの、箕尾少佐、815艦隊がだいぶ前に出ていらっしゃるみたいですが」
『ああ、先ほど艦隊司令部からの命令に従い、対潜警戒のために前進させている』
815艦隊は軽巡と駆逐艦からなる水雷編成である。確か対潜能力もなかなか高かったはずだ。
「作戦計画の警戒区域からはやや外れていますけど……」
『当初の警戒区域だけでは潜水艦を見逃す恐れがあるからな。司令部からの指示に対応するためにはやむをえまい』
「ですが、あの、距離が離れすぎますと、いざという時の連携が……」
『田村少佐、2個艦隊で当たらねばならんほどの数の潜水艦が忍びこんでくるとは、いくらなんでも考えにくいと思うが』
何を当たり前のことを、という調子を含んだ答えに、一乃は言葉に詰まった。
確かに箕尾の言うとおりに思える。速成教育を終えて1か月も経っていないひよっこの自分が先達に意見するなど、という遠慮もあった。
そんな一乃の思いを察したか、箕尾少佐はやや口調をやわらげた。
『なに、貴官の艦隊には距離の問題があることは承知している。816は当初計画の警戒区域を警戒していてもらえればそれでいい。不足分はこちらで警戒する』
「はい、失礼しました」
一乃はそういって通信を切る。
「815は潜水艦捜索のために前進中みたい。816は計画の警戒区域を担当していればいいって言ってくれたわ」
『……一乃、私は815艦隊司令に、すぐに所定の警戒区域に戻るよう伝えるように言ったんだけど』
心なしか、叢雲の声のトーンが下がった。
「伝えたわ。でも、対潜警戒には所定の警戒区域だと不十分だって……」
『あのね一乃、私達の任務は後方警戒。そして後ろには味方艦隊は存在しない。そうでしょ?』
一乃の言葉を遮り、叢雲が強い口調で言う。
『とにかく敵艦隊を絶対に熊本に通さないのが最優先事項よ。たとえ潜水艦が1隻や2隻いたって、後ろにさえ通さなければいいの。箕尾少佐がなんて言ったか知らないけど、中途半端が一番危ないわ。―――今すぐ、もう一度、815に後退を強く打診しなさい』
「で、でも……」
木曾も、真面目な口調で言った。
『提督、叢雲の言うとおりだ。ホントに大事な時は新米少佐だの学兵だのなんてのは関係ねぇ。言うべきことは言うべきだ。それで何もなかったら俺や叢雲がマヌケだっただけの話だ。だが、マヌケになるのを恐れて味方を死なせる奴はクズだ』
『どうしても考え直さないようだったら、いっそ816の指揮を一時的に箕尾提督に預けて、私達の方が前に出るのもやむを得ないわ。とにかく、合流を急ぐべきよ』
「う、うん……わかった……」
いつになく真剣な二人の声音に気圧され、一乃も渋々ながら再度『はちくま』と通信をつなげようとする。
が、その瞬間、警備府司令部からの緊急コールの甲高い電子音が耳を打った。
「313秒前に有力な敵2個艦隊を確認?……位置が…西北西約20km!?」
一乃は思わず目を疑った。
次の瞬間、再度の緊急コール。
味方が敵艦隊と遭遇したことを示す、緊急コールだ。
815艦隊からだった。
戦況画面の情報が更新される。
815艦隊に、2個艦隊の敵が襲いかかっていた。
完全な、奇襲だった。
鳴り響く警報音のなか、一乃は、呆然と立ちすくんだ。