二月も早中盤。本土なら粉雪の一つや二つくらいちらついてもいいだろう時分。
はあ。ため息の一つでも吐きたくなるような快晴だ。遠くに見える山々は緑が青々と生い茂り、雪化粧の一つすらする気配がない。
高緯度地帯。タイの最南端に位置するこの飛行場に雪の影はない。それどころかみぞれすらもない。
俺は荒れ放題になった滑走路の草抜きをしながら呆然とそう考えていた。
「……なんで俺が草抜きなんか」
ぽつりと漏らして、雑草を力任せに引っこ抜く。根元で千切れて残ったしぶとい根を、小円匙で土ごと引っぺがしてはひとまとめに束ねて投げ捨てる。
はあ。本日通算10数回目のため息。長かった雨季の影響か泥だらけになった半長靴にもうひとつ続けて吐き出し、小隊長のくそったれと心の中で毒づいた。
「何でこんな時勢に……だれが磨くと思ってんだこの半長靴」
確かに、酒保で乱闘騒ぎを起こしたのはまずかった。しかも相手が航士上がりの少尉殿だったのもまずかった。
しかし今回の件はひとえに飛行中隊の奴らが俺たち挺進隊のことを歩兵以下の雑兵だとの穀潰しだのとほざきやがったのが悪い。そう上官に向かって口答えしたのもさらに悪かった。
本来なら上官への反抗や軍旗を乱した罪で最悪除隊や軍法会議送りになったかもしれないことなども考えると、独房送りではなくて草むしり程度で勘弁してくれているのはある意味温情たっぷりの措置なのかもしれない。
とりあえず一区画を真っ平らに仕上げた後、隣の区画のまだ雑草の多いところを選んで仰向けに寝っ転がった。
ずっと折り曲げられたままだった腰が引き伸ばされていくのが解る。軍服の上からでもちくちくと刺さる雑草の濃密な土の匂いが鼻腔をくすぐる。
「あー……空が青いな」
太陽がだいぶ高いところまで昇っている。丁度お昼時と言っても良いくらいだが、まだ自分に課したノルマが終わっていないので酒保に足を進めることすらもできない。
「とりあえず、早く片付けるか」
数十秒ばかり腰を休めた俺は、また草をむしる作業に戻るべく立ち上がる。
「……ラッカさん!」
丁度そのときに投げかけられた高い声。元気良くはきはきとした声色が空に響く。一瞬なんのことかと思い辺りを見渡したところで、ふと思い当たった。
そんな呼び方をするのは彼女しかいない。
「ロムちゃん! どうかしたか!?」
声の主にむかって手をふりながらよびかけると、向こうも気付いたようで大きく腕を振り返してくる。
しばらくすると、褐色の肌をした尋常小学校くらいの年齢の女児がとてとてと走り寄ってきた。
「ラッカさん。くさむしり?」
「おう、あとそのあだ名は止めてって何回も言ってるじゃないか」
「ラッカさんは
俺が落下傘部隊――挺進第二連隊所属だから、ラッカさん。なんとも単純なあだ名だなと俺は思う。
「ラッカさん、イマいそがしい?」
「丁度休憩してたところだよ。ところでなぜここに……?」
「ラッカさんのおテツダいにきた……じゃ、ダメ?」
ロムちゃんは上目遣いにそう言うと、有無を言わすことなくそっと近くにあった木鎌を掻っ攫っていった。
手伝いに来てくれたのは嬉しいけど、一応ここは軍事基地だ。そうやすやすと民間人が立ち入って良いところじゃない。そんな複雑な感情を抱えたまま俺は雑草へむけて小円匙を突き刺した。
「……ラッカさん。チカいうちにせんそうがおこるって、ほんと?」
「ん、ああ。そのための俺たち兵隊だからな」
ぶちぶちと音を立ててちぎれた雑草に舌打ちしながら、仕方なく小円匙で根っこを掘り返す。ロムちゃんのほうも
「せんそうはコワいって、ブンミーじいちゃんもいってた。ラッカさん、コワいのへいき?」
「そりゃ勿論平気さ」
「でも、ラッカさんいつもしかられてる。しかられるのコワくない?」
そりゃ勿論恐いにきまってる。だが恐いの部類がちがうのだ。そういっても、彼女は納得してくれないだろう。だから俺は小さく苦笑した。
「まあ……戦争が起こったらここも焼け野原になるし、平和が一番かな」
「そっか。ラッカさん、じつはけっこうコワいひとかともオモってた」
そういうとえへとはにかむ。俺は小円匙を地面に置いて、ぽつりと呟いた。
「まあ、初めての実戦が近いうちにあるからさ」
そう笑いながら、前日の作戦説明を思い出した。
南方の都市、パレンバンに敵中降下してコレを占領せよ。
作戦決行は2月の14日。本日が2月13日であることを加味すると、あと18時間ほど後の早朝にこの飛行場を出立する予定である。
「……じっせん、しゅっせいスルの?」
「え?」
俺の目には、ロムちゃんが一拍の間を開けて息を大きく吸い込んだのが見えた。
「…………ワタシ、ラッカさんにコワいとこいってほしくナイ! ファランなんかとタタかってほしくなんてナイ! ラッカさんしぬの、イヤだ!」
息つく暇もなく、ロムちゃんは叫んだ。
ロムちゃんの豹変に対応できず、あわあわと右往左往するしかない。
「タイのひと、みんなヤサしい。ニホンかえらなくたって、イきてける。ラッカさんだって、こわいコンジープンきにしなくてスム……」
「ダカラ、にげよ? ラッカさんなら、むらのミンナかんげいする。もっとトオくにニげることだって、オサたちならできる! そしたら、ラッカさん、しなない。だったら――」
そこまで言い放ったところで、小さな口に手のひらを持っていって優しく塞いでやる。ロムちゃんはぱちくりと目を点にした後、俺の手を払いのけるようにして口を自由にした。
「それ以上は、駄目だ。恐いおじさんが来るから」
「…………となりのアナンおじさんヨリも?」
「そうだ」
「ファランたちヨリも?」
「まあ、そうだ」
白人を表す単語。構わずロムちゃんは続ける。
「『
「……そうだ」
静かに、そう答えた。
特高警察といわれる奴らがこんな外地まで管轄にしているとは思えないが、軍事基地の周辺で反戦的な事を唱えればどうなるか。想像に難くない。
その後はどちらともしゃべることなく、黙々と草を刈る時間が続いた。
その間中、やけに力が入って雑草の根が残っていくように感じた。
翌日、0214早朝。
ついに作戦決行の日がやってきた。
日頃の訓練の成果を発揮して穀潰しと言われないようになるための、初戦だ。そう考えるだけでゲートルを巻く腕が軽やかになる。
小銃を受領したのち眠気覚ましに外の空気を吸ってくることに決め、木造の兵舎から昨日ちょうど罰則の草むしりを完了させた飛行場へと向かった。
…………すると、そこの木陰にはすでにロムちゃんが立っていた。
心臓が胸からとびでそうなほどの驚愕が襲ってきたが、逆に深呼吸をして精神の統一を図る。
「なんで、ここに」
「わたしたいモノがある、から」
いつになく真剣な顔立ちのロムちゃん。俺もつられるようにして真面目に向き合う。
「ラッカさん」
トーンをいつもより下げて、口を開く。
後ろ手にまわしたその小さな腕に、何かビニールに包まれたものを隠し持っているのが見えた。
「コレ、ラッカさんにあげます。『せんにんばり』ナンカじゃないけど……」
そう言って、俺に向かってその包みをまっすぐ差し出した。緊張で小刻みに震えるロムちゃんに皮膚が当たった瞬間、びくりと日に焼けた腕が跳ねる。
俺の掌の上に落とした包みを見る。茶色い不格好な長方形の塊が、ビニールに密封されるかたちで入っていた。
「ファラン、きまってこのひにおくりものする。そういったらグンイさんがそっとワタしてくれた」
何でも、医療用の代用チョコレートのようだ。そんな嗜好品を俺のためにもらってきてくれたロムちゃんに頭が上がらない。
「ラッカさん。弾、当たらナイで」
「ぐんしんトカ、しんぺいナンカならなくてイイ。ワタシ、ずっとまってるから」
ぐずりと鼻をすする声が耳を刺す。彼女は彼女なりに俺の身を案じているのだと解って、胸が張り裂けるほど痛くなった。
「第一中隊集合! 分隊ごとに集まったら機内に乗り込め!!」
少し遠くで聞こえた、中隊長の大声。はっと我に返って駐機場のほうへ足を向ける。
それはロムちゃんとの最後の会話を打ち切る事と同義であって。
「それじゃ、落下傘部隊の名に恥じぬ戦果を上げてくる。じゃあなロムちゃん。チョコレート、ありがとう」
歩き出そうとした瞬間に、右腕に違和感があった。何かに後ろから引っ張られているような。
振り返ってみてみると、ぎゅっと、ロムちゃんが軍服の袖口を指先で力いっぱい握っていた。
俺が少しでも腕を振るうだけで振りほどけそうな拘束。
それでも力尽くでふりほどく気にはなれなかった。
「ロムちゃん。帰ってきたらタイ語を死ぬほど勉強するからさ。その時は教えてほしい」
彼女がこくりと頷いたと同時に、指先だけの拘束がとかれる。
目の前でじっと唇をかんで涙を堪えるロムちゃんに背を向けて、ひらひらと手を振りながら戦場へと向かった。
吊り紐のついた小銃がずしりと重い。折りたたまれた落下傘が胸を圧迫して、なにやら息苦しく感じる。
今日涙をこぼした滑走路を征く。昨日草むしりした地面を踏みしめる。一昨日話した大地を踏みにじる。
――Dichan rak khun ka!
後ろから聞こえてきた、なんて言ったのか解らない。聴いたことのないはずの言葉の羅列。
でもなぜか、言わんとする意味はよく解ってしまった。