それはね、大切な人にチョコレートをあげる日なのよ。
かつて姉が生きていた頃、私に向けて言った台詞だった。
まだ幼かった私にとってよくわからなかったけど、姉は台所に立ってチョコレートなる物を作り、村の人達に配っていた。私も姉を倣って、同じように配り、頭を撫でてもらったりした。あの時は嬉しかったな……、手の平の熱がじんわり温かくてとても心地よかった。また撫でられたいな……。
その日がなんて呼ばれているのかも知らない。
けれど、姉は決まってこの二月十四日に、普段は立たない台所に立つ。
私が子供の頃から知っている、唯一の姉の味という奴だろうか。
毎年毎年、必ず私にも作ってくれるチョコレート。しかも私のやつはみんなのより大きかったりする。それが堪らなく嬉しかった。そして私も姉みたいに大切な人が出来るのかな、なんて思ったりもした。
だけど、今年は、いやあの日からずっと貰えていない。頭では理解しているが、やっぱり欲しいと思うし、頭も撫でられたい。けど、私はあの日…………。
思考がどんどん重い方向へと進んでいったので、頭を振り冷静になる。
今日も訓練がある。ちゃんと集中しないとナナシに失礼だ。
朝日が眩しいなと思いながら、目的地へと歩いていく。
◇
「なぁフキョウ、お前は誰かにチョコあげたりしないのか?」
いつもの訓練の休憩中、ナナシがいきなり聞いてきた。
「ナナシ……、お前つい先週くらいにも、彼氏できたか? って聞いてきたけど、こんな早くできると思ってるの?」
「んー、できるんじゃねぇの? だってお前なかなかに可愛いじゃん」
「かっ――!?」
私がナナシの突然の言葉にうろたえていると、彼は表情をニヤニヤと厭らしく歪めた。明日は今日の三倍辛い訓練にしてやる。
「おぉ? ふーん、照れてんだ? 顔真っ赤にしちゃってかーわいー! ――ってうぉい!?」
「死ね! キリンに蹴られて死ね!」
咄嗟に顔面にパンチを放ったが受け止められてしまった。
さっきの褒め言葉とは打って変わって本当にイラつく。こいつは人の恋心をもてあそぶ天才かもしれない。だからこれ以上被害が出る前に、私が縛り付けておかないと。
「お、落ち着けって! 悪かった! この通り!」
謝られても、私の怒りは収まらず、なんとかやり返してやりたい。
と、ここで今日という日付を有効活用しようという案が思いついた。
私は不本意ながらナナシに恋をしているわけだし丁度いい。
「じゃあね、ナナシ。後で鼻血出させてやるから」
笑みを浮かべ、私は家路を急ぐ。ナナシは何故か顔を青ざめていたけど、気にすることじゃないだろう。
◇
家へと帰った私はさっそく台所に立ち、オトモに教えてもらいながら必死にチョコを作った。
何度か失敗して挫けそうになったが、何とか完成させる事が出来た。
彼への恋心と日頃の感謝を詰めたチョコレート。受け取ってくれるかな……。
不安になる思考を何度振り払っただろう。そんなことを考えていると、ナナシがこっちに向かって歩いてくるのが見えた。
私は彼と向き合い、目を見つめる。相変わらず腐っているけど、引き込まれる。
「えっと、あまり強く殴らないでね?」
「え?」
「え?」
的外れな言葉に素っ頓狂な声が出た。
殴るって……? ああ、合点がいった。
こんな勘違いするなんてバカだなぁ、と笑っていると、彼は耐え切れずといった雰囲気で声をかけてきた。
「おい……、殴るなら早くしてくれよ、――ん?」
「チョコレート。バレンタインの」
怯えている彼に包装されたチョコレートを渡す。今私がどんな顔をしているか想像できないので、見られないように顔を逸らしながら。
数秒後に私の手から重みが消えたので彼はちゃんと受け取ってくれたようだ。そのことに嬉しさを感じ、自然頬が緩んでしまう。
熱くなる顔をパタパタと仰いでいると、不意に頭に重みと熱を感じた。
私の大好きだった温かさ。でも最近は味わうことのできなかった温かさ。
熱の正体を確かめるために上を見やると、ナナシが腐った目を細め私の頭を撫でていた。
――頭、撫でられちゃったな……
胸の奥から温かい感情があふれ出てくる。こんなにも好きな人に頭を撫でられる事が心地いいなんて。
優しい手つきを堪能していると、彼の手が離れてしまった。
「あ……」
「ありがとな、フキョウ。帰ってから食べるわ」
私は、さっきまでの自分を思い浮かべ途轍もなく恥ずかしくなった。
何をあんなデレデレしてるんだ!
この妙な空間に居辛くなり、ナナシの足を思い切り払って転ばせ、その場から逃げるように走り出した。
「チョコレート、ちゃんと食べてね! ナナシ! あと……、義理だから!!」
返事を聞かずに走り出す。照れ隠しの噓を混ぜてしまったのはちょっと反省。
とにかくナナシから逃げないと。
今日は月も出てない真っ暗な日、私の真っ赤に染まった顔は見られていない。
そう、信じて――