翌日、僕は二日連続で横浜港北病院にいた。
「あら、大蓮君、今日も来たの? 珍しいわね」
「はい、ちょっと説教に」
「――貴方達ってまるで……いや、何でもないわ」
「?」
昨日と同じ受付の女性によく分からないことを言われた――言われかけた――が、気を取り直してメディキュボイドの部屋へと向かう。
すると今日は扉の前で、中から出て来た倉橋医師に出会った。
「翔君――。君は木綿季君が何で塞ぎ込んでいるか知っているんだろう?」
「はい。……教えてもらえてないんですか?」
「はは、まだね。でも君が来たなら心配ないかな。病は気からとも言うしね。木綿季君のこと、頼むよ?」
「はい。――それと、数日中に『結城明日奈』さんという人が木綿季に面会に来ると思います。彼女が木綿季と面会できるように取り計らってもらえますか?」
「ああ、そのくらいなら。いつもお世話になっているしね」
それだけ言うと倉橋医師は歩き去っていった。
僕はしばらくその後ろ姿を見送ってから、扉のロックを解除して中に入った。
「おはよう、木綿季」
『……おはよう、レント』
スピーカーからはどこか覚悟を決めたような声が聞こえてきた。
「顔を見て話したいからダイブするね」
『う、うん。今日は準備出来てるから……』
すぐに隣室に入り、アミュスフィアを着け仮想空間へと移る。
「いらっしゃい、レント」
「うん、木綿季」
昨日と同じように座卓に着いて僕らは向かい合う。僕は胡坐を組んでいるが、木綿季は正座だ。心なしか顔色も悪そうだ。
「さて、何が言いたいか分かるね?」
僕は木綿季の眼を覗き込みながら口火を切る。
「うん。……昨日の、アスナのこと、だよね」
「分かってるなら言い訳をどうぞ」
木綿季は少し逡巡した後に、渋々といった様子で口を開いた。
「昨日、レントはああ言ってくれたけど……、他の人もみんなそうとは限らないよね。もちろんアスナがそういう人じゃない、むしろレントみたいに知らせてくれなかったことを怒って、信頼されてなかったんだって自分を責めちゃうような人だってのはボクだって分かる……! 分かるけど……、怖いんだ」
「怖い?」
「うん。もし、もしだよ? ボクの事情を知って、アスナがそれを重く感じたり、関わらなければ良かったって思ったりしたら、そう思うと……。アスナに限ってそんなことないだろうけど! けどっ!」
木綿季は入院するまでは普通に学校に通っていたと聞く。そこでHIVキャリアとして虐めにあっていたとも。全て倉橋医師の話だが、そんな木綿季が他人の感情に敏感になってしまうのは仕方ないことなのかもしれない。
「だから、いっそ何のマイナス感情も相手に抱かせる前に、抱いても気づく前に相手の前から姿を消そう、そういうことかい?」
「……うん。プラスに動くこともないけど、マイナスになることもないから……」
そう言う木綿季の顔はひたすらに憂いを貯め込んでいた。
「はぁ。『時にはぶつからなくちゃ伝わらないときだってある』。誰の言葉だったんだか」
「……」
「いいかい、木綿季? 確かにぶつかり続けてたら、向き合い続けてたら心が疲れてしまう。辛い思いだってするだろう。だけどね、ずっと逃げ続けることよりは余程マシだと思うよ。たまには逃げても構わないかもしれない。だけどね、ずっとそれじゃ絶対に後悔する。――木綿季は本当に今のままでいいの? 明日奈ちゃんにお別れも言えず、中途半端なままで本当に後悔しないのかい?」
「――ううん。…………でもっ」
木綿季の言葉を遮るように僕は木綿季の両頬を両手で挟み込んだ。俯きかけていたその瞳をしっかりと見据える。
「明日奈ちゃんは数日中にここに来ると思う。それまでは休んでいいよ。だけど、明日奈ちゃんが来たらしっかりと向き合って、本当の気持ちをぶつけ合うこと。分かった?」
「…………」
「返事は?」
「は、はい!」
その言葉を聞き、僕は微笑みながら手を離す。
―――こっちは大丈夫かな。
この部屋に入って感じたこと、それは木綿季の気持ちが齎す雰囲気の暗さだった。それが霧散した。それだけで今日はもう十分だろう。後は明日奈がどれだけ木綿季の気持ちを引き出してくれるかに懸かっている。
僕はユウキとアスナが並んで剣を振るう姿を脳裏に浮かべた。
******
~side:アスナ~
横浜港北病院。翔君のアドバイスを聞いて、和人君に相談してみた。そしたらここの名前を教えられたのだ。
カウンターまで行き、用件を告げる。
「すみません」
「ああ、面会ですね。お名前は?」
「結城明日奈です」
ガタッと音がした。見えないが、恐らく受付の女性が膝を机にぶつけたのだろう。
「あの、大丈夫ですか……?」
「は、はい。面会のお相手は?」
「ユウキ――多分ユウキという名前で、十五歳くらいの女の子なんですけど……」
我ながら随分と不確定な情報である。しかし女性はそれを聞くと、即座にどこかに内線をかけた。
「椅子に座ってお待ちください」
******
しばらく待っていると、優しそうな表情の白衣を着た眼鏡の男性がやって来た。その男性は倉橋と名乗った。
ユウキはこの病院でAIDSの終末期医療を受けている。メディキュボイドという医療用VR機器を用いており、そこからALOにもダイブしていたらしい。
倉橋医師からは様々なことを聞いた。ユウキの病気について。彼女の家族を襲った悲劇について。
それから、私はユウキに会うために病室の隣の小部屋でALOへとダイブした。
そこにはあの日と変わらないようで、すっかり変わってしまったような背中がぽつんとあった。
「ユウキ!」
******
~side:翔~
木綿季に会いに行ってから数日後、僕がALOにログインすると、いきなり胸に
「なっ――……って、ユウキ、どうしたんだい?」
「んん、あのね、アスナと仲直りできたんだ!」
アスナもどうやら上手くやってくれたようだ。少し不安だった部分もあるが、今のユウキの笑顔を見れば全て良かったと思えてくる。
適当にユウキの頭を撫でていると、「むふふ」という笑い声をユウキが上げ始めた。
「え、……どうしたの? ユウキ、大丈夫? 壊れた?」
「ううん! ただ嬉しいだけ!」
そう言うとユウキは僕から体を離し、くるりと回った。
「レント! 明日、絶対驚くことになるから!」
「――危険なことはしないでね」
「もちろん!」
それで気が済んだのか、ユウキは上機嫌に鼻唄を歌いながら飛び去っていった。
―――嵐のようだったな……。
明日は一体何があるのだろうか。
大体の予想はついているが、少し楽しみが増えた。そう思って僕は微笑んだ。
******
そして翌日、学校にて。
『レント!!』
「こ、こんにちは。翔君」
「こんにちは、明日奈ちゃん、木綿季」
肩に白い拳ほどの機械を乗せた明日奈――機械越しに恐らく木綿季――に廊下で声をかけられた僕は、何も驚くことなく冷静に挨拶を返した。
―――予想はついてたからね。
機械――以前のオフ会でユイ用に準備した双方向通信視聴覚プローブだ――の向こう側で落胆した様子の木綿季に心の中で言い訳をしておく。
「それにしてもよく許可が取れたね」
「うん、これも普段の行いかな」
明日奈はかなり上機嫌のようだ。
「翔君、迷惑かけてごめんね。それと、ありがとう。木綿季のこと黙っててくれて」
『え? 何かあったの?』
「いや、ただ明日奈ちゃんから話を聞いたときに木綿季について聞かれてね。明日奈ちゃんには自分で知ってほしかったから黙ってたけど」
『へぇ~』
本当に今日の木綿季は機嫌が良いようだ。声が常に跳ねている。
「それにしても木綿季が勉強得意なのはびっくりしたな」
『アスナ! その言い方はちょっと失礼じゃないかな! ボクだってレントに教えてもらって頑張ってたんだから!』
これには僕も驚いた。
双方向通信プローブを使ってくることは予想していたが、まさか授業まで受けていたとは。
「へぇ、それなら僕も頑張った甲斐があるね」
僕が木綿季に勉強を教え始めたのは、出会ってしばらくしてからだった。
僕らが出会ったのはとあるVRワールド、僕がコンバートを繰り返していた頃だった。スリーピング・ナイツもコンバートを繰り返していて、互いに――気に入ったワールドで定住し、飽きたら新データに移行する者が多い現在のVRMMO業界では――珍しい存在だった。まあ、知り合ったのはそんなことが理由ではなく、本当に偶然出会って互いの力量に感心したからなのだが。その後、ユウキやスリーピング・ナイツの秘密に半ば気づき、明日奈と同じようにして横浜港北病院に辿り着いて木綿季達の現実を知ったのだ。
当時の木綿季は
自分で言うのは恥ずかしいが、僕という存在が彼女に良い刺激になったのは間違いないだろう。スリーピング・ナイツのメンバーは皆現実に新しいニュースを持たない人だ。僕だけが彼女に広い外を伝えられる人間だったのかもしれない――倉橋達は木綿季にとって
『――ト! レント!』
「……ん? ああ、ごめん。ぼうっとしてた」
「珍しいね、翔君っていつもピシッとしてるのに」
「いや、木綿季が学校で勉強したって聞いて、軽く感動して回想に耽ってた」
『ボクってそんなに心配されてたの!?』
―――倉橋さんなんてそろそろ髪が白くなりそうだよ。
そう心の中で零して、視線で明日奈に本題を求める。流石に挨拶するためだけに声をかけたのではないだろう、ない……よね? ないと信じよう。
「あ、そうだったね、えっと、今日いっ」
『一緒に帰ろう!』
本題はあったようだ。木綿季が一緒に帰りたい、と。そう
―――いやいやいやいや!! 無理でしょ!?」
『無理って酷くない!?』
どうやら途中から声に出てしまっていたようだ。
「いや、だって明日奈ちゃんとも帰るってことでしょ!?」
『う、うん。一緒に帰りたかったんだけど、ダメ?」
思わず「いいよ」と言いかけた口を閉ざしてしばし黙考する。
―――いや、明日奈ちゃんと帰るとか、和人君が怖い。
―――見合いの話もまだ――怖くて――できてないのに……。
―――でも木綿季の頼みだよ!?
―――しかし、あの
「翔君? もしかしてキリト君のこと気にしているの?」
「え、まあ、そうだね。結局まだ正月のことも話せてないし……」
「なんだ、それなら大丈夫だよ。もうキリト君にはユウキと翔君と帰るって言ってあるから」
流石は明日奈、僕が逡巡している理由などお見通しのようだ。そしてその条件なら僕にこの誘いを断る理由はない。
こうして僕らは肩を並べて学校を出た。
******
帰るとは言ったが、真っすぐにとは言っていない。
駅で笑い声と共に伝えられたその言葉は僕の苦笑を誘った。
ユウキには訪れたい場所があるそうで、そこへ向かう。
乗ったことのない路線を乗り継ぎ、閑静な住宅街の坂を上る。
「そういえば明日奈ちゃん、帰る時間かなり遅くなっちゃうけど大丈夫なの?」
ふと疑問に思い会話の切れ間に挟み込む。それに明日奈はやや罰の悪そうな顔をしながら答える。
「あー、うん。一応メッセージは入れといたけど……。帰ったら怒られるかも……」
『えっ。そうだったの……ゴメンね、アスナ。ボクの我が儘につき合わせちゃって』
「……そんなとこだと思ったよ。でも僕が家まで送るし、そこで多少話せば大丈夫だと思うよ」
「ありがとう」
街灯の下、僕らは言葉を交わさずに歩いた。息苦しい詰まった沈黙ではなく、心地の良い静寂。
空に浮かぶ明星を見つめていると、木綿季が静寂を破って声を上げた。
『ここ』
そこで足を止める。左側には周囲からやや浮いた空き家があった。庭は荒れており、セメントの隙間からは雑草がその生命力を思いのままに爆発させている。それでも元は手入れのされた小綺麗な住宅だったのだろう。そんな印象を与える家だった。
僕はその家の前の公園の入り口にあるポールに腰かけた。
『ここが、ボクの家。って言っても、実際にこの家に住んでたのは一年くらいなんだけどね』
「ここが……」
『うん、もう一回だけ見たいって思ってたんだ。つき合ってくれてありがとね』
「――もう少し遅くなっても大丈夫だから少し話そっか」
三人で話をした。
木綿季が家を見つめ、ぽつりぽつりと想い出を溢す。僕と明日奈は静かにそれを聞いていた。
庭で姉と遊んだこと、父親と日曜大工で棚を作ったこと、家族でバーベキューをしたこと。
木綿季の語る思い出は温かく愛情に満ちていて、とても儚かった。
『……でも、この家ももうなくなっちゃうんだ』
「えっ?」
明日奈が困惑した声を出す。しかし僕はある程度それを悟っていた。
木綿季の一家の家。家族で生きているのは木綿季だけ。そしてその木綿季も病室から出られない入院生活。誰も住んでおらず、管理する者もいない。だからこその荒れた様子。そんな家を、土地を放置しておくほど木綿季の親戚は、世間は甘くないだろう。
「……だったら、ユウキは来年十六才でしょ? 大事な人を見つけて結婚しちゃえばいいんだよ。そしたらその人がこの家をずっと守ってくれるよ」
明日奈らしい、夢のある話だ。
木綿季も驚いたように息を呑んだが、すぐに笑いだした。
『はははは、そうだね。でも相手がいないかな~』
「え~、ジュンとか良い雰囲気じゃない」
―――それじゃ、駄目じゃないかなぁ。
スリーピング・ナイツの面々ではずっと守るのは無理なのではないか。
まあ、ただのもしもの話。そんな細かいところにけちをつける気はない。
『あんな子供じゃ駄目だって』
「ふ~ん、そっかぁ。……じゃあ、翔君は?」
「……ぇっ」
『――ぇぇえええ!? ない、ない、それはないって!』
何もそこまで拒否することはないじゃないかと一瞬憤然としたが、落ち着いて考えてみる。
木綿季と結婚する。どうしてだろうか、別に木綿季のことを嫌っているわけではないのに、僕らがその位置にいることに途轍もない違和感を覚えた。
『レントは、その、何というか、――そう! 兄! いたことないけど兄ちゃんみたいな存在で、結婚とかありえないから!』
兄、その言葉がストンと胸に落ちてきた。
―――ああ、そういうことか。
僕は今まで木綿季を妹のように思っていたのか。友でも、仲間でもなく、ましてや恋愛対象になど成りえない。抱いていたのは親愛。存在しなかった兄弟姉妹、そこに木綿季を当て嵌めていたんだ。
不思議とそこに罪悪感はなかった。それよりも、今まで謎だった自分の感情に名前をつけられて僕は満足だった。
プローブのレンズ越しに、僕ははにかむユウキを視た。
明日奈にとっても主人公にとっても妹のような存在。
……ユイは明日奈の娘的な存在で、主人公の妹的存在。複雑な家族関係ですね。