ALOからログアウトすると、時刻は午後九時を少し回ったところだった。
この後は菊岡にデータを渡せば良いだけだ。受け渡し場所はこちらで指示するようになっている。だが、
「何か、嫌な予感がする」
妙に胸がざわついた。いつもの、仮定に仮定を塗り重ねた推論ですらない。人には説明ができないものだ。強いて原因を上げるとするのならば、キリトが対峙していた緑のローブの男だろう。あれはアバターなのでリアルの顔は分からないが。
ひとまず胸騒ぎの原因をキリトと仮定し、取りあえずキリトが行きそうな場所、つまりはアスナが入院している病院に向かうこととする。
「もしもし、菊岡さん。データの確保に成功しました。受け渡し場所は結城明日奈が入院している病院でお願いします」
『……ああ、分かった。ありがとうね、レント君』
菊岡に連絡をしながら玄関の外に出て、雪の中愛用の自転車に跨った。指定場所が予想外だったのだろう、菊岡が戸惑った雰囲気を電話越しに感じた。僕の知り合いの未帰還者は明日奈だけであるから、それで納得したのだろうが。
「さて、と」
******
アスナが入院している病院は所沢市にある。今の家からだと十五kmと少しのところだ。四十分ほどで目的の病院に辿り着く。
以前来たときに作ったカードで守衛に通してもらい中に入る。簡単に入れたのはキリトが直前に通ったからだろう。門の脇に停まっていた黒い自転車――恐らくはキリトのものだ――の横に自分の自転車を止め、走り出す。
この病院には結局一度しか来なかったが、雪道に刻まれている足跡を追っていけば迷うことはなかった。
街路樹を過ぎ去り、病院の玄関前の駐車場に出る。
僕はそこで、予感が現実となったことを知った。
まず僕の目に映ったのは手を大きく振り上げるコートを着た男だ。続いて、その人物に腹部を蹴られているだろう黒い服を着た倒れた人が目に入る。距離が近くなるにつれ、男の手にナイフが光るのが見える。倒れているのは状況から見てキリトだ。
思考を挟む暇もなく僕は飛び出していた。男がナイフを振り下ろすタイミングで、僕の飛び蹴りが男の横腹にめり込んだ。
「ぐぅはぁっっ!!」
雪の上に落ちるも、すぐに体勢を立て直す。男もよろけたもののナイフを落とさなかった。
「レント……?」
「キリト君、大丈夫? こいつは……須郷伸之か」
「お前、知ってるのか?」
「ALOのGMで、今回の主犯と思われる人物。合ってるよね?」
「ああ」
「キリト君は早く、アスナちゃんのとこに!」
「あ、ああ! すまない、レント!」
キリトはその体を起こし、右腕を抑えながら病院の方へと駆けていった。
「あ、ぁあキリト君。君に復讐するのは、この邪魔者を消してからになりそうだ」
「妖精王オベイロン、偽りの王者か。その顔はキリト君に斬られた影響かな?」
「ああ、そうだよ。彼も酷いことするよね。お陰で狙いが上手くつかないよ――。く、屑が! お前らがぁ!!! お前らなんか!! 本当の力は何も持っちゃいないんだよ!!!!」
実に情緒不安定だ。眼鏡をかけ直したかと思えば、逆上して斬りかかってくる。正面から来る上に単純な動きなので避けるのは難しくない。しかし、現実なのだという意識が次第に僕に掣肘を加えていく。
当たれば、痛い。皮膚が切れる。血管が切れる。あんなちっぽけなナイフでも、人は死ぬ。こちらは徒手空拳で、あちらは小振りといえど刃物を持っている。
その考えが体に纏わりつき、動きに精彩が欠ける。その緊張感が足を滑らせた。何度も上を動く間に雪が踏み固められ、夜中ということもあって凍り始めていたのだ。足を取られ無様に転倒してしまう。
「死ね! 屑ゥゥゥゥゥ!!!」
須郷がナイフを振り翳し、転んだ僕へと振り下ろす! 眼を見開き、打開策はないか模索する。
世界が停滞した。
雪が止まったように降ってくる。街路樹が雪の重みで僅かに撓る。遠くからはエンジンの音が聞こえる。風が吹く気配がした。
須郷に目を移す。ゆっくりとその腕は下がってくる。体全体を見てその動きを観察する。僕にはVRのように筋肉が視えていた。
顔を左に捻る。須郷のナイフは右頬を掠る。僕は右足を曲げ、膝で前屈みになった須郷の腹を突き上げる。
「かはっ」
須郷の腰が更に曲がって上半身が下りてくる。そこに額を合わせて頭突き。今度は反対に上半身が浮き上がる。強くぶつけすぎたのか耳鳴りがするが気にせず、浮き上がるのと同時に上がっていこうとする須郷の右手首を叩く。反動で奴は遂にナイフを取り落とした。それを掴み、左足に力を籠めて跳ね飛び距離を取る。軽く立ち上がると、すーっと一陣の風が吹いた。
時間の流れが元に戻る。そこには尻餅をついた須郷と、ナイフを構えた僕という先程までとは逆の構図が出来ていた。
「……これで形勢逆転。こんな刃物であっても、貴方が言う通り人の命を奪うには十分過ぎる」
「ひっ、ひぃぃぃい」
須郷は這って逃げようとする。その襟首を捕まえ、マウントポジションを取る。その首にナイフを押しつけ、食い込ませ、数秒待機。
「ヒィッ――」
軽い引きつけのような声を出した後、須郷は気絶した。
上に乗っていたので見えていなかったが、気絶した須郷を引っ繰り返すと、その顔は涙と鼻水でグショグショになっていた。
そのタイミングで駐車場に高級車が入ってくる。
「やあレント君。って、それは?」
「菊岡さん、こんばんは。それって人に対しては酷くないですか? ……これは須郷伸之、今回の主犯です」
「君だって言っているじゃないか。犯人の逮捕お疲れ様……って君! 怪我してるじゃないか」
「掠っただけですから。それにここは病院ですし」
「ああ、そういえばそうだね」
高級車から降りたのは、やはり菊岡だった。
「……して、データは?」
「これです。良かったですね、バレないようにデータを収集して削除する手間が省けて。キリト君を人払いしたことにも感謝していただきたいです」
「――ああ、本当に君には感謝しているんだ」
菊岡に渡されていた記録媒体を返す。受け取ったときとの違いはその中にデータが入っていることだ。
「まさかデータの削除までしてくれるとは思っていなかったよ」
「管理が下手そうな日本政府に渡すよりはマシですからね。あれはSAOのプレイヤー達を犠牲にされて出来た、血の結晶です。使い道は間違わないでください」
「ああ、もちろんだとも。さて、では僕は須郷を連れてお暇するよ。君たちの再会に僕は不要だろうからね。彼女への事情聴取はまた今度というわけだ」
「ええ、そうしていただけるとありがたいですね」
それだけの意思疎通をすると、僕らは違う方へと歩み出す。菊岡は高級車の中にいた屈強な男達に指示を出し、須郷を車の中に押し込んだ。そしてこちらに手を挙げてから、車は発進した。
「鎌かけたってのに反応一つ見せやしない。本当に厄介な」
******
病院の中は空調が効いていた。ずっと寒空の下にいたせいで感覚が狂っていたようだ。
ナースが駆け寄ってきて頬の傷の手当てに案内しようとするが、それを遮り結城明日奈の病室の場所を尋ねる。
そのナースは先程キリトが通ったことも知っているので、快く通してくれた。守衛と言い、このナースと言い、人が良すぎやしないか心配になるが、そのお陰で中に簡単に入れるのだから良しとしよう。
アスナの病室のある階層まで上がり、病室の扉の前に立つ。少し悩んでから、僕はいつかのログハウスのときと同じ、トントントンと三回ノックした。すると中からキリトの声がした。
「レントか? 入ってきていいぞ」
お邪魔しますと呟きながらドアを開ける。簡単な仕切りになっていたカーテンは開いており、その先にはベッドが一つあった。
その上ではナーブギアを外したアスナが起き上がっており、ベッドの上に座ったキリトと手を繋いでいた。
「初めまして、明日奈ちゃん。時間はおかしいけど、おはよう」
「初めまして、レントさん。えっと、おはよう?」
「耳、聞こえる?」
「うん、少しは」
「ちゃんと喋れてるみたいで良かったよ。僕のときは音は聞こえないし、声は出ないしだったからね」
「そうだったのか、レント」
「うん」
リアルで会うのは初めてだが、あの平和だった二十二層の頃を思い出す会話だった。
「そういえば、レントとリアルで会うのは初めてだな」
「うん、そうだね。まあ、今更言うのもあれだけどこれからもよろしくね、和人君」
「ああ、よろしく、って何で俺の名前知ってんだ?」
「え、菊岡さんから聞いたんだよ? 和人君は聞かなかったの?」
「あんの、クソメガネ。……ああ、でレントは何て名前なんだ?」
「僕は大蓮翔。大きい蓮に、羊偏に羽でかける。よろしくね」
「ああ」
「……! なるほど、蓮と名前の読み方を変えてレントね!」
「うん、一応名前を捻ってあるんだよ。明日奈ちゃん」
「……一応聞くけど、私の名前は知ってるの?」
「もちろん。結城明日奈、レクトのCEOの結城彰三さんの愛娘」
「そこまでかぁ、じゃあ実名で登録しちゃってたのは知ってるのね?」
「まぁでも明日奈ちゃんはアスナちゃんのままでいいんじゃないかな」
「そう? ありがとう」
僕と会話している間も、二人はずっと手を繋いでいた。入る前にノックしたのは一応人に見られても良いようにしろということだったのだが、二人にとっては今の状態で十分な譲歩なのだろう。これ以上この部屋にいては中てられそうだ。
「じゃあ、僕はここら辺でお暇するよ。二人ともそろそろ看護師さんが来ると思うから気をつけてね」
「ああ」
「うん、じゃあまたね、レn……翔さん」
「あーと、その。僕は和人君と同い年だからね。それじゃ」
実名にさんとつけられて呼ばれることに慣れず、逃げるようにその場を抜け出した。ちなみに和人の年齢は本人からの情報だ。菊岡由来ではない。
「えっ、年下……」
僕は何も聞いていない。
外に出ると、雪の中に黒い背中と白い背中が手を繋いで歩いていくのが見えた気がした。
******
その後、須郷は菊岡によって警察へと連行された。
当初は全てに黙秘を貫いていたが、部下も逮捕されていると知ると呆気なく全てを自白したそうだ。
未帰還者の三百人は、幸いにも実験中の記憶もなく、脳や精神に異常を来した人はおらず全員が社会復帰可能だとされている。ある一人を除いて。
しかし、今回の事件でVR業界は多大なダメージを受けた。初代のSAOに続き、ALOでも大事件が起きたのだ。当然だろう。
最終的に運営のレクトプログレスは解散、レクト本社もCEOの結城氏が辞任することとなった。もちろんALOも運営中止。他に展開していたいくつかのVRゲームもその風呂敷を畳んでいくことだろう。
そう、思われていたのだ。あるプログラムがネット上に公開されるまでは。
そのプログラムの名前は《ザ・シード》。茅場が最後にキリトに渡したプログラムだ。
信頼できる相手としてエギルと共に解析を行った結果、あのプログラムは茅場の作ったVR環境を動かすプログラムパッケージだと分かった。要するに、そのプログラムがあれば誰でもVR世界を創れるということだ。
僕らはそのプログラムを全世界の大規模ネットワークに、無料でダウンロードできるようにアップロードした。
その種は見事に芽吹き、死に絶えるはずだったVRMMOは復活を果たした。
ALOも、別の新興ベンチャー企業に全データがほぼ無償のような値段で譲渡され、その下で運営されることとなったのだった。
******
~五月十六日~
四月から、僕は西東京市にあるSAO帰還者学校に通い始めた。帰還者学校は都立高の統廃合で空いた校舎を使用した物だ。教師陣は全員が志願者で、次世代モデルの学校の試験運用も兼ねているそうだ。
生徒全員に定期的なカウンセリングが義務づけられており、SAOで精神に何か異常が起こっていないか確認される。悪く言えば、社会に適合できないかもしれない危険分子を監視する施設というわけだ。
そこで僕らは二年間の遅れを取り戻そうとしている。
当初は心配されていた三百人のALOの虜囚達も、リハビリが間に合い、SAOに囚われた学生のほぼ全員が通学している。とはいえ流石に他地方から通うことは大変なため、同様の学校が全国に数箇所設置されているそうだ。その関係で東京校の生徒数は数百人程度だ。
この学校ではゲームの頃の事情を持ち込まないためにキャラネームで呼び合うことが禁止されている。僕もそれに従うつもりだったのだが、SAOのときにかなり多くの人に顔を見られていたので僕の素性は一方的に割れてしまっているようだった。学生はその多くが中層以下にいたため、当初は中層付近で活動していたのが仇となった。
しかし最前線の攻略組であっても、アスナは実名が同じで、更に美少女として顔が広まっていたためバレてしまっている。その隣にいつもつき添っているキリトも半ば知られてしまっているようだ。
今日の放課後にはSAOクリアの打ち上げのようなものがあった。今夜、その二次会がある。VRMMO、ALOの中で。
それに参加するため、僕は二つのリングが重なったようなヘッドギアを装着した。
「リンク・スタート」
******
《イグシティ》上空、そこには大量のプレイヤーが集まってきていた。
運営が変わったALOでは、大きな変化がいくつかあった。一つ目はこのイグシティの出現だ。世界樹の上に、伝説と同じ立派な都市が出来たのだ。二つ目は飛行制限時間の消滅。長時間は飛び続けられないという今までのルールをなくしたのだ。高度限界は未だ存在するが、片方の制限がないだけでも自由度は格段にアップする。他には運営中止になった前ALOのプレイヤーデータだけでなく、SAOでのプレイヤーデータを使用できる――能力はある程度調整が入るが――ことだったり、染髪等が可能になったりだ。
そして最後の超大型アップデートが、今夜行われる。
ゴォォォォォォォォォン、ゴォォォォォォォォォォォォン
時を告げる鐘の音が鳴り響く。空を、月を見上げる。
ゆったりと降りてくる一つの巨大な
世界樹と並んでも遜色なく見える、驚異の
それは、一人の男の夢と執念の
かつて電子の海に溶けた
そう、それは
「茅場さん、貴方の夢は引き継がれています。より多くの人にその姿を現します。話し継がれていきます。実際にあった、本物の英雄伝として」
僕らは
ある者はそこで何かを断ち切ろうと。
ある者はそこで何かを掴もうと。
ある者は思い出に浸るために。
ある者は追いつき、横に立つために。
ある者は伝説を見に、感じに。
ある者は伝説を創りに、成りに。
僕らは今度こそ百層を目指す。茅場の夢であり、阻むべきものであった攻略を成し遂げる。
―――そこで自分の城が攻略されるのを指を咥えて待っていてくださいね。
その場にいた全ての妖精が闇夜に煌々と光る鉄の城を目指し、得物を抜き、飛び立つ。
その様は、まるで妖精達の空中舞踊のようであった。
僕も舞踏会へと混ざりに向かう。
「さあ、今度もこの城のLAは僕が取ってみせましょう!」
第二部、完。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。次は何かを挟んでからファントム・バレット編です。よろしくお願いします。
ラストシーンで「筆者って中二病?」って思った人、大正解です。筆者はああいうのが好きな中二病です。え? 知ってる?
……一話でも似たようなことしましたもんね! うん、……そうだよね?
これからも頑張っていきます!