リーファと違って神話の類にはたいした知識のない俺でも、聞き覚えがある。
北欧神話において、主神オーディンや道化神ロキと並んで有名な──雷神トール。
これは後にリーファに聞かされて知る話なのだが、北欧神話には《巨人の王スリュムに盗まれたハンマーをトールが取り戻しに行く》という話が存在するらしい。恐らくカーディナルもその話をモチーフにしてアレンジし、今回のクエストのサブルートに取り入れたのだろう。
あの檻の前で、直感と武士道によってフレイヤを助けてくれたクラインには感謝するが──こうしてフレイヤの《正体》が明かされた今、その言葉は無意味だと悟る。よくよく思い出してみれば、フレイヤは1度たりとも、自分は女だと言っていない。だからユーマも、その正体に気づかなかったんだろう。
「ヌウゥーン……卑劣な巨人めが、我が宝《ミョルニル》を盗んだ報い、今こそ贖ってもらおうぞ!」
雷神トールは、右手に握った巨大な黄金のハンマーを振りかざし、地響きを轟かせながら突進する。
対する霜の王スリュムは、右手にハァっと息を吹きかけると、そこに氷の斧を造り出した。それを握り締めて振り回すと、叫び返す。
「小汚い神め、よくも儂をたばかってくれたな! そのひげ面切り離して、アースガルズに送り返してくれようぞ!」
考えてみれば、スリュムもフレイヤに変装したトールの被害者だよな。しかも結婚までしようとしていたのに、その正体がヒゲのおじさんだったのだから、敵ながら少し同情してしまう。
広間の中央で金ヒゲと青ヒゲの巨人たちは、黄金の鉄槌と氷の戦斧を激しく衝突させる。生み出された衝撃が、スリュムヘイム全体を揺るがす。そんな中で俺たちは、この期に及んでもなおフレイヤのオッサン化のショックが抜け切らずに呆然としていたが、やがて後方から、HPMPの回復を終えたカイトとシノンが叫んだ。
「ぼさっとしてんじゃねえぞキリト! 今がチャンスだろ!」
「トールがタゲ取ってる間に全員で攻撃しよう!」
その通りだ。俺も鋭く剣を振り、2人に続くように叫んだ。
「みんな、全力攻撃! ソードスキルも遠慮なく使ってくれ!」
そして9人は一斉に床を蹴り、スリュムに四方から肉薄した。
「フレイヤさぁーん! ぬうおおおおーーーッ!」
ひときわ強烈な気合を放ちながら、刀を大上段に振りかぶって突進するクライン。その眼からきらりと光るものが零れたような気がしたが、それは俺の胸の内で留めておいた。スキルディレイも気にせず、俺たちは3連撃以上のソードスキルを次々スリュムの両脚に叩き込む。
ワンドからレイピアに持ち替えたアスナが、神速の連続突きをアキレス腱に見舞う。
リズベットが雷撃を帯びたメイスを、右脚の小指の先に叩き込む。
左脚の外側にある踝部分を、ユーマの黒鉄の拳が穿つように打ち込まれる。
壁を伝って大きく跳躍したシリカが、短剣で脳天から股下まで縦一線に切り裂く。
「ぐ……ぬむゥ……」
堪らず唸り声を上げたスリュムが、ゆっくりと崩れ落ち、ついに左膝をついた。
「ここだっ……!」
俺の声に合わせ、全員が最大の連続攻撃を放った。まばゆいライトエフェクトの嵐が、青い巨体に叩き込まれる。更に上空から、オレンジに輝く矢と魔法が豪雨の如く降り注ぐ。スリュムは断末魔を上げながら、今度は床に両手両膝をついて崩れ落ちる。
「地の底に還るがよい、巨人の王!」
そしてトドメとばかりに、トールが右手のハンマーを平伏すスリュムの後頭部に叩きつけた。王冠が砕けて消滅し、地響きを立てて額を床に減り込ませた。空となったHPゲージも消失すると、スリュムの巨体がピシピシと氷に覆われていく。その時、苦しげな呻きを上げていたスリュムの声が、不気味な低い笑いへと変わった。
「ぬっ、ふっふっふっ……。今は勝ち誇るがよい、小虫どもよ。だがな……アース神族に気を許すと痛い目を見るぞ……彼奴らこそが真の、しん」
ズドン! とトールの強烈な踏み付けが炸裂し、氷に覆われていたスリュムの巨体を踏み砕いた。同時に凄まじい規模のエンドフレイムが巻き起こり、数歩下がった俺たちを、雷神トールは遥かな高みから見下ろした。
「………やれやれ、礼を言うぞ、妖精の剣士たちよ。これで余も、宝を奪われた恥辱をそそぐことができた。──どれ、褒美をやらねばな」
持ち上げた黄金のハンマーに、そっと左手をかざした。すると嵌っていた宝石の1つがころりと外れ、それは光を放ちながら、普通の人間サイズのハンマーへと変形する。
トールが持つ黄金のハンマーの縮小版とも言えるそれは、クラインに投げ落とされた。
「《雷槌ミョルニル》、正しき戦のために使うがよい。では──さらばだ」
トールが右手のハンマーを高々とかざした瞬間、思わず眼を覆うほどの光が広間に満ちる。そして光が消え、再び瞼を開けた時には、すでにトールの姿はなく、視界の左端に映っていたトールのHPMPバーも消滅した。ついでに言えば、その広間に積み上げられていた黄金の山も消えてしまっていた。
スリュムを倒したことで発生したドロップアイテム群がパーティの
「
「…………オレ、ハンマー系スキルびたいち上げてねェし」
俺が後ろから肩に手を置いて言うと、腕で目元を覆って男泣きする刀使い。そしてそれに同情した男性陣が、彼のもとに集まって慰めの言葉をかける。
「あー、えーっと、クラインさん、俺はクラインさんの武士道カッケェって思いましたよ。少なくとも、ウチのヒゲ隊長よりかはいい男ですから、そのうちいい人見つかりますって」
「泣くなクライン先輩。悲しみをのりこえてこそ男は強くなれる、ってようたろうが言ってたぞ」
「うるせー! ヘタな慰めなんざいらねーよ! てか誰だよヒゲ隊長とヨウタロウって!」
どうやらお気に召さなかったらしく、涙目で喚くに、周囲から笑いが起こった──その瞬間。
体全体に響くような重低音と共に、氷の床が激しく震えて波打った。
「きゃああっ!」
「おっと」
三角耳を伏せてシリカが悲鳴を上げて倒れそうになる。それを隣でユーマが受け止めながら、囁くように言う。
「なんだ……? 動いてる……いや、浮いてる……?」
それを聞いてから、俺も気づいた。巨城スリュムヘイムが、生き物のように身震いしながら、上昇するように浮いているのだ。何故? と考えた次の瞬間、その答えに行き着いた。
同時に首から下げたメダリオンを覗き込んだリーファが、甲高い声で叫んだ。
「お……お兄ちゃん! クエスト、まだ続いてるみたい!!」
「な……なにィ!?」
喚くクライン。気持ちは俺も同じだ。この城のラスボスであるスリュムを倒せば、このクエストも終わる者だと思っていた。だが思い出してみると、依頼主である《湖の女王ウルズ》は、『スリュムヘイムに侵入し、聖剣エクスキャリバーを台座から抜いてほしい』と言っていた。スリュムを倒せとは一言も言っていない。つまり、スリュムとの戦いもクエストの過程でしかなかったということだ。
「さ、最後の光が点滅してるよ!」
「パパ、玉座の後ろに下り階段が生成されています!」
「……………ッ!」
返事をする間も惜しんで、ちょっとした小屋のような大きさの玉座の裏に回り込む。そこにはユイの言う通り、氷の床に下へと降るための小さな階段が口を開けていた。
両隣に仲間たちが揃って並ぶのを確認してから、俺は強い口調で言った。
「──行こう!」
それを合図に、俺たちは薄暗い階段の入り口に、躊躇わず突っ込んで行った。
◆◇◆◇◆◇◆◇
階段を降り切ると、そこは氷を正八面体の形にくり抜いたような空間。《玄室》とも言えそうな部屋だった。壁はかなり薄く、透き通ったその向こう側にはヨツンヘイムのフィールド全体が一望できるようにもなっている。
そして目の前には──深く清らかな黄金の剣が存在していた。
黄金の輝きを纏ったそれは垂直に伸び、刀身の半ばで氷の台座から露出している。微細なルーン文字が刻まれた薄く鋭利な刃。精緻な形状のナックルガードと、細い黒革を編み込んだ
──ついに、ここまで来た。
かつて俺は、これと同じ剣を握ったことがある。あの時俺は、世界最強の剣をたった一言のコマンドで作り出した──いや、作り出せてしまったことに、強い嫌悪感を感じていた。だけど今度は、偶然の成り行きではあるが、正当な手段でこの剣を手にする時が来たんだ。
「……待たせたな」
ポツリとそう囁きかけると、俺は右手で長剣──《聖剣エクスキャリバー》の柄を握った。
「っ………!!」
台座から引き抜こうと、出来る限りの力を込めて持ち上げようとする。
しかし剣は動かない。まるで台座と一体化したオブジェクトのようにビクともしなかった。負けじと左手も使って、両足と腰で思いっきり踏ん張って剣を引く。
「ぬ……お………!!」
しかし結果は変わらない。今この場にいる9人の中で、俺が一番の筋力値を持っている。つまり俺が抜けなければ、他の誰がやっても意味はない。全員それを理解しているらしく、手を出そうとしない。
だけどその代わりに、背後から声が聞こえた。
「がんばれ、キリト君!」
アスナの声だ。それに続いて、他のみんなも声援を上げる。
「ほら、もうちょっと!」
「根性見せて!」
「パパ、がんばって!」
リズが声を張り上げ、シノンが叫び、ユイが精一杯の大声を出す。
「ここまで来てヘタってんじゃねーぞ!」
「ファイトだぞ、キリト先輩」
「がんばれお兄ちゃん!」
カイトの激励が飛び、ユーマがいつも通りの口調で言い、リーファが強くエールを送る。
「キリトさん、がんばってください!」
「きゅるるぅ」
「しっかりやれよ!」
シリカの声援に、頭の上のピナも鳴き、クラインもそれに続いて言い放つ。
みんながそれぞれの声援を送ってくれる。このパーティを招集した者としては、これに応えないわけにはいかない。
「うぅぅ……あぁぁぁあああああ!!」
ここまで来たらもう気合と根性だ。咆哮を上げ、あらん限りの筋力と意志力を振り絞る。もうこれ以上続けたら脳波異常で強制ログアウトさせられるんじゃないかという所まできたその時──
「あっ………!」
ピキっ、という音が耳に届いた。次の瞬間、足元の台座からまばゆい光が溢れ出し、俺の視界を金色に染めた。そしてまたその直後、重厚かつ爽快な破砕音のサウンド・エフェクトが耳に轟いた。俺の体がいっぱいに伸び、四方に飛び散る氷塊の中で、右手に握られた長剣が宙に鮮やかな金色の軌跡を描いた。
剣を引き抜いた反動で後ろに大きくふっ飛んだ俺の体を、8人の仲間が支えてくれる。抱いた剣のとんでもない重量を感じながら真上を向くと、見下ろす仲間たちと視線が合う。全員の顔が綻び、笑顔に変わり、そして盛大な喝采が放たれる──と思われたが、その瞬間には次の現象が引き起こされた。
氷の台座の中に閉じ込められ、エクスキャリバーの刃によって断ち切られていた、直径5センチほどの小さな木の根。空中に浮きあがったそれが、一気に成長を始めた。極細の毛細管が、みるみる下方に向かって広がっていく。
上からも、凄まじい轟音が響く。見上げてみると、俺たちが駆け抜けてきた螺旋階段を粉砕しながら、巨大な根っこが駆け下りてくる。それは、スリュムを取り巻いていた、世界樹の根だった。
正八角形の空間を貫いてくる世界樹の根と、台座から解放された根が、1つに交わって融合した。
その直後──これまでの揺れとは比較にならないほどの衝撃波が、スリュムヘイムの城を襲った。
「おわっ……こ……壊れっ……!」
「やべーなこれ……」
クラインの叫びとカイトの呟きのほぼ同時に、周囲の壁に無数のヒビ割れが走った。耳をつんざくような大音響が轟き、分厚い氷の壁が次々に分離し、遥か真下の《グレートボイド》へと崩落していく。
「スリュムヘイム全体が崩壊しています! パパ、脱出を!」
「って言っても、階段が!」
ユイはそう言うが、すでに俺たちが降りてきた螺旋階段は世界樹の根に吹き飛ばされてしまっている。
「根っこに掴まるのは……無理そうね」
シノンが冷静に真上を仰ぎながら、肩をすくめて呟いた。玄室の半ばまで伸びている世界樹の根は、俺たちがいる場所からではとてもジャンプして届くような距離ではない。
「こっから飛び降りて脱出したとして、飛行不能エリアだから飛べねえ上に、落下先は地面かグレートボイド。……どうなると思う?」
「死にますっ!」
「死ぬね」
「だよなぁ」
真円のフロアから顔を出して、真下の光景を覗き込むカイトの問い掛けに、シリカが涙目で叫び、ユーマが三の目で答える。
「よ、よォし……こうなりゃ、クライン様のオリンピック級垂直ハイジャンプを見せるっきゃねェな!」
意気揚々とそう言った刀使いが、直径僅か6メートルほどしかない円盤の上で助走し──
「ちょっ、クラインさ……!」
「バカ、やめ……」
俺とカイトが止める間もなく、華麗な背面飛びを見せた。が、根っこまで手が届くはずがなく、そのまま放物線を描きながら、フロアの中心にずしーんと墜落した。
次の瞬間、その衝撃のせいで──とみんなは後々まで信じ続けた──周囲の壁に一気に亀裂が入り、玄室の最下部、つまり俺たちがいる場所が、ついに本体から分離した。
「く……クラインさんの、ばかーっ!」
絶叫系が苦手なシリカの本気の罵倒が尾を引きながら、9人+1人+1匹を乗せた円盤は、果てしなき自由落下に突入した。
VRMMOにおける高高度からの落下は、それはもう超怖い。たとえ飛行が売りのALOでも、場所が飛行不能エリアならばそれは同じだ。ボーダーでトリオン体になって、民家やビルの上などを飛び降りしている俺でもかなりの恐怖を感じる。恐らく他のボーダー組も同じ気持ちだろう。いや、ユーマだけはやけにのんびりしているが、あいつは色々と例外だ。ともかく俺たちは、氷の円盤に四つん這いになって、いっせいに全力の悲鳴を上げざるを得なかった。
おそるおそる円盤の縁から真下を覗き込んでみると、黒々と《グレートボイド》が口を開けている。そして俺たちが乗る円盤は、その中央に向かって落下している。
「……あの下ってどうなってるの?」
隣で呟くシノンに、俺はどうにか答える。
「もしかしたら、ウルズさんが言ってたニブルヘイムに通じてるのかもな!」
「寒くないといいなぁ……」
「い、いやぁ、激寒いと思うよ! なんたって霜の巨人の故郷だから!」
そんな会話をしていると、円盤の上で器用に胡坐をかいで座り、身に着けたポンチョを垂直にたなびかせたユーマが、同じく金色のポニーテールを垂直にたなびかせているリーファに声をかけた。
「ふむ、そういえばリーファ先輩、クエストの残り時間はどうなってるんだ?」
すると、リーファはすぐに胸元にあるメダリオンを見た。
「あ……ま、間に合った! まだ光が1個だけ残ってるよ! よ、よかったぁ……」
顔全体で笑いながら、安堵の息を吐くリーファ。そんな妹を見ながら、両手にしぶとくエクスキャリバーを抱いた俺は内心で考える。
こうして世界樹が本来の姿に戻ったからには、《湖の女王》ウルズとその眷属の力も戻ることだろう。ならばこのまま俺たちが墜落死しようとも、その犠牲は無駄にはならないというわけだ。
唯一の気がかりは、俺が両手に抱く《聖剣エクスキャリバー》だ。俺はみんなが見てないところでこっそりウインドウを広げて、ストレージへの収納を試みたが、当然のように弾かれてしまった。
「間に合ったってことは、これでクエストは完了なのか?」
「いや、ちゃんとあの依頼主の女王様に報告しねえと完了したことにはなんねーだろ。現にさっきからキリトがエクスキャリバーを収納しようとして拒否られてっからな」
──前言撤回。ばっちり見られてた。みんなからの「おまえこんな時に何してんだ」的な視線が凄い痛い。
とにかく、カイトの言う通り、やはりきっちりクエスト終了フラグを立てなければ所有権を得ることは出来ないらしい。
まあいいさ、どうせこんな金ピカのレジェンダリィ武器なんて俺の趣味じゃないからな。などと自分に言い聞かせて、ムリヤリ納得しようとしていると。
「…………何か聞こえた」
「え……?」
ピクリと耳を動かして、リーファが辺りを見回した。俺も反射的に耳を澄ませるが、落下時に生じている風の轟音しか聞こえない。
「ほら、また!」
「お、おい、危ないぞ……」
再び叫んだリーファが円盤の上で立ち上がる。それを制しようと叫びかけたその時、俺の耳にも、くおおぉぉー……ん、という鳴き声が聞こえた、気がした。
ハッとして視線を巡らせると、落下する氷塊群の向こう、南の空に、小さな白い光。それは魚のような流線型の身体と、八枚四対の翼、そして長い鼻を持った────。
「トンキー!」
両手を口に当てたリーファが叫ぶと、くおぉーんと返事が返ってくる。間違いない、あれは俺たちをスリュムヘイムまで送り届けてくれた飛行邪神トンキーだ。
「助かったぁ」
「よし、トンキーに乗り移って脱出しようぜ!」
アスナが安堵し、カイトが叫ぶ。そして大の字になっていたクラインがようやく顔を上げて、ニヤリと笑って親指を立てた。
「へへっ……オリャ最初っから信じてたぜ……アイツが絶対助けに来てくれるってよォ……」
──嘘つけ!
と、恐らく俺を含めた8人全員の心が一つになった瞬間だった。
「クライン先輩、つまんないウソつくね」
俺たちの心を代弁して、ユーマが三の目でクラインを見つめながら、3の口から「ふぅー」と呆れたように息を吐いた。
まあ今の今まで俺たちもトンキーのことを忘れていたのだから、ユーマのように口に出すのは控えておいた。
それから滑るようなグラインドで近づいてきたトンキーだが、周囲に無数の氷塊が舞っているせいで、巨体をピッタリと円盤の横につけることができずに、五メートルほど間隔を空けた位置でホバリングした。これくらいの距離ならば、たとえ重量級プレイヤーだったとしても跳べないこともない。
まずはリーファが鼻歌混じりにひょいと跳び、トンキーの背に降り立つ。こちらに手を差し伸べて「シリカちゃん!」と叫ぶと、今度はシリカがややぎこちない助走ながらしっかりと跳ぶ。足りない飛距離は両手の小竜ピナがパタパタと羽ばたいて補いながら、そのまま無事にリーファに抱き止められる。
それに続いてユーマが「ほっ」という掛け声の軽いジャンプで難なく跳び移り、対照的にリズベットが「トリャアア!」と威勢の良い掛け声で跳ぶ。更にアスナが流麗なフォームでロングジャンプを決め、カイトも慣れた様子で助走をつけて跳んで着地する。シノンに至っては空中で二回転する余裕まで見せた。残ったのは、俺とクライン。
「お先どうぞ」
「わ、わかってらァ! うへー、高けェなァ……」
「早くしろ」
やや強張った顔で一向に飛ぼうとしないので、その背中を思いっきり押してやった。クラインは「うおおおぉぉぉ!!?」と尾を引く悲鳴を上げながら落ちていったが、トンキーが伸ばした鼻でキャッチしてくれた。
「おおトンキー、助かったよ」
トンキーの助けられながら、クラインもその背中に乗った。最後に残った俺も、短い助走をつけて跳ぼうとしたが──跳べなかった。
原因は両腕で抱えている《聖剣エクスキャリバー》だ。まるで重石のような重量を持つそれは、こうして抱えて立っているだけでも、ブーツが氷に減り込んでいた。このままでは5メートルすらも跳ぶことは叶わない。他のみんなも、それに気づいたようだった。
「キリト!」
「キリト君!」
「キリト先輩!」
切迫した声が届く。
──どうやら俺には、まだ重すぎるようだ。
俺は顔を伏せ、強烈すぎる葛藤に一瞬奥歯を強く嚙み締めた。
「パパ……」
頭上で心配そうに呼びかけてくるユイに、俺は小さく頷き返した。
「…………まったく……カーディナルってのは!」
低くそう叫んだ次の瞬間、俺は黄金の剣を、真横に放って投げ捨てた。
直後、嘘のように軽くなる体。そのまま軽く助走して踏み切り、俺はトンキーの背に飛び乗った。同時に、今まで円盤に同調落下していたトンキーがホバリングに移行して、落下が止まった。
ふと投げた剣を見ると、キラキラと輝きを放ちながら、重さのわりにゆっくりと、大穴目掛けて落ちていく。それを眺めていた俺の肩を、隣にやってきたアスナがポンっと叩いた。
「……また、いつか取りに行けるわよ」
「わたしがバッチリ座標固定します!」
すぐにユイもそう告げる。
「……ああ、そうだな。ニブルヘイムのどこかで、きっと待っててくれるさ」
そう呟いて俺は、落ちていく最強の剣に内心で別れを──告げようとしたのだが、それを妨げるように、シノンが俺の前に進み出た。
「……200メートルか」
呟きながら左手で肩から長大なロングボウを下ろし、右手で銀色の細い矢を構える。続けてスペルを詠唱し、白い光が矢を包む。
唖然として見守る俺たちを他所に、
矢は銀色のラインを引きながら飛翔する。弓使い専用の
距離はリズが作った弓の射程の2倍。加えて、揺れる足場に落ちてくる氷塊、目標物も落下中の悪条件。
──無理だろう、幾ら何でも。
俺は内心でそう呟く。だが……彼方を落下する黄金の光と、飛翔する銀色の矢は、まるで引かれ合うかのように近づき……そして──たぁん! と軽やかな音を立てて衝突した。
「よっ!」
シノンが、右手に握った魔法の糸を引っ張る。それに繋がれた黄金の剣もまたぐいっと引き寄せられて、次の瞬間には、俺が別れを告げたはずの剣が、すぽっとシノンの手の中に収まった。
「うわ、重……」
呟きながら両手でそれをなんとか抱え、振り向いた猫妖精様に。
「「「し……し……し……」」」
8人とユイの声が、完全に同期して言い放たれた。
「「「シノンさん、マジかっけぇーーーー!」」」
全員からの称賛に、三角耳をピコピコと動かして応えたシノンは、俺のほうを見る。
「あげるわよ、そんな顔しなくても」
呆れたように投げかけられる言葉。どうやら俺の顔は雄弁に「欲しい!」と語っていたらしい。
「ん」
「あ……ありがとう」
差し出された剣を、礼を言いながら受け取ろうとすると、途端にひょいっと剣を引き戻された。
「その前に、1つだけ約束」
そして水色の髪の
「──今度2人っきりで、ボーダーの訓練に付き合ってね」
ピキリと凍りつく空気。じとーっと突き刺さる女性陣の冷たい視線に、シノンから手渡された《聖剣エクスキャリバー》の途轍もない重さを感じる余裕もなかった。
「おーお、つらいナ、モテるおと──がふっ!」
空気読む気ゼロな発言をしようとしたクラインの顎を思いっきり蹴り上げて黙らせてから、俺は出来るだけ平静を装って、一度咳払いをしてから声を出す。
「……うん、俺で良ければ、いくらでも訓練に付き合うよ。ありがとう、さっきは見事な射撃だった」
「どういたしまして」
最後に軽いウインクを決めると、シノンはトンキーの尻尾方向に移動する。矢筒から取り出したハッカ草の茎を咥え、すぱぁーっと一服。一見とてもクールな仕草だが、水色の尻尾が小刻みに震えているのを俺は見逃さない。あれは爆笑を堪えている証拠だ。やられた、と内心で呻くが、今更どうしようもなかった。
「ふむ、なるほど。今のがキリト先輩の、たらしというものだな」
なんてことを考えていると、ユーマの口から聞き捨てならない台詞が吐かれた。顎に手を添えて、三の目3の口の表情でうんうんと頷いている後輩に、俺は即座に詰め寄った。
「ユーマ、その言葉は誰に教わった?」
「ん? とりまる先輩が言ってたぞ。きりがや先輩は、てんねんのたらしだから、いつも周りに女の人が絶えないって」
──京介ェ!!
俺は脳裏に浮かんだ、もさもさ頭のイケメン後輩に対して力の限り怒鳴る。小南ならともかく、純粋なユーマになんてこと教えるんだアイツは。
「別に京介は間違っちゃいね──ごふっ」
俺の心を見透かしたように余計なことを言おうとしたカイトの腹に、膝蹴りを1発叩き込んで黙らせる。とりあえず、あとでユーマの誤解は解いておこう、と俺は内心で決意した。
「くおぉーん……」
とここで、長く尾を引く鳴き声を放つトンキー。8枚の翼をはためかせて上昇に転じる。釣られるように上空を見ると、ヨツンヘイムの天蓋に深々と突き刺さっていたスリュムヘイム城が、ついにまるごと墜落し始めた。
「……あのダンジョン、あたしたちが1回冒険しただけで無くなっちゃうんだね……」
「ちょっと、もったいないですよね。行ってない部屋とかいっぱいあったのに……」
「もしかしたら、エクスキャリバーの他にもレアアイテムがあったかもな」
「マップの踏破率は、37.2パーセントでした」
実に残念そうな声でリズとシリカとカイトが言うと、ユイも同様に残念そうにしながら補足する。
そんな中で、ついに完全崩壊したスリュムヘイム城の断末魔のような轟音が響き渡る。巨大な氷塊群が崩れ落ちていき、それらは真下の《グレードボイド》に吞み込まれていく。
だがその直後、無限の暗闇と思われた大穴の奥深くから、先ほどとは別種の轟きを生みながら、大量の水が迫り上がってきた。更に天蓋からは、スリュムヘイムが無くなったことで解放された世界樹の根が、大きく揺れ動きながら真下へと伸びていく。そして世界樹の根は、大穴を満たす清らかな水面に吸い込まれ、たちまち広大な水面を網目のように覆って、先端は岸にまで達する。
そして四方八方に広がったその根からは、若芽が立ち上がり、黄緑色の葉が次々に広げた。更に今までのヨツンヘイムに吹き荒れていた冷たい木枯らしとは打って変わって、暖かな春のそよ風が吹き抜ける。ずっとおぼろげに灯っていた天蓋の水晶群は、まるで小さな太陽のように白い光を振りまいている。
大地を覆っていた分厚い氷や氷雪は、暖かな陽気と風を浴びてみるみるうちに溶けていく。その下からは、新たな新緑が次々よ芽吹き始める。
「くおおぉぉーーーーん………」
突然、トンキーが8枚の翼と大きな鼻を力いっぱい持ち上げて、高らかな遠吠えを響かせる。
数秒後、同じような遠吠えが、世界のあちこちから返ってくる。泉や川の水面、そして巨大な湖から次々と現れたのは、トンキーと同じ象水母を筆頭にした、多種多様な動物型邪神たちだった。
フィールドを闊歩する彼らの姿を眺めていると、不意にリーファがぺたりとその場に座り込み、トンキーの背に生える白い毛並みを撫でながら囁きかける。
「……よかった。よかったね、トンキー。ほら、友達がいっぱいいるよ。あそこも……あそこにも、あんなに沢山……」
ポロポロと涙を零す姿を見て、俺も胸に込み上げてくるものがあった。すぐにシリカがリーファに寄り添いながら、同じように涙を流す。アスナとリズも目元を拭い、腕組みしたクラインが顔を隠すようにソッポを向き、シノンですら何度も瞬きを繰り返す。カイトは涙こそ流していないが、満足そうにニッと口角を吊り上げ、同じように笑顔を浮かべたユーマと笑い合っている。最後に、俺の頭から飛び立ったユイが、アスナの肩に着地して髪に顔を埋めた。最近のユイは何故か俺に涙を見せるのを嫌がる。まったくどこでそんなことを覚えてきたのか、と思っていると……
「見事に、成し遂げてくれましたね」
その時、聞こえてきた声にハッと顔を向ける。トンキーの大きな頭の向こうに佇んでいたのは、今回のクエストの依頼主である《湖の女王ウルズ》だった。
不思議な青緑色の瞳を穏やかに細め、ウルズは再び口を開いた。
「《全ての鉄と木を斬る剣》エクスキャリバーが取り除かれたことにより、ヨツンヘイムはかつての姿を取り戻しました。これも全て、そなたたちのおかげです。──私の妹たちからも、そなたらに礼があるそうです」
そんな言葉とともに、ウルズの右側が水面のように揺れ、人影が現れた。少し短めの金髪に、深い青色の長衣、そして優美な顔立ち。身長は俺たちからすれば見上げるほどだが、ウルズと比べればやや小さいくらいだった。
「私の名は《ベルザンディ》。ありがとう、妖精の剣士たち。もう一度、緑のヨツンヘイムが見られるなんて、ああ、夢のよう」
甘い声でそう囁きかけると、ウルズの左側につむじ風が巻き起こり、3つ目の人影が出現した。
鎧兜を身に纏い、ヘルメットとブーツの側面から長い翼が伸びている。金髪は細く束ねられて、美しくも勇ましい顔の左右で揺れている。そして身長は他の2人と違い、俺たちと背丈をしていた。その姿を見て、クラインがムグっと変な声を出していた。
「我が名は《スクルド》! 礼を言おう、戦士たちよ!」
凛と張った声で短く叫ぶ。すると、ベルザンディとスクルドが揃って右手をかざした。その瞬間、俺たちの|テンポラリ・ストレージにアイテムやユルドが、滝のように一気に流れ込んでくる。9人パーティのストレージはかなり余裕があったはずだが、もうすでに溢れ返りそうになっていた。
「──私からは、その剣を授けましょう。しかし、ゆめゆめ《ウルズの湖》に投げ込まぬように」
「は、はい、しません」
ウルズの警告とも取れる言葉に頷くと、今まで俺がしっかりと抱えていた黄金の長剣、伝説級武器《聖剣エクスキャリバー》は、すっとその姿を消して、俺のストレージの中に収まった。それを確認し、思わず「よしっ」と呟いて右拳を握ったのは仕方ないだろう。
「ありがとう、妖精たち。また会いましょう」
3人の乙女たちが声を揃えて言うと同時に、俺たちの眼前にクエストクリアを知らせるシステムメッセージが表示される。すると、3人は身を翻し、空に向かって飛んで行く。
だがその時、トンキーの頭に飛び乗ると、高らかに叫んだ。
「すっ、すすスクルドさん! 連絡先をぉぉ!」
そんな間の抜けた叫びに、どうツッコミを入れていいかわからず、俺たちはついフリーズしてしまった。
すると、驚いたことに、スクルドさんはこちらに振り向き、気のせいか面白がるような表情でもう一度小さく手を振った。その手からは、何やらキラキラしたものが発せられ、クラインの手に飛び込んだ。そしてクラインも、それを抱き締めるように両手を自分の胸に当てた。
そして今度こそ、スクルドさんは飛び去っていってしまい、彼女の姿が見えなくなるのと同時に──リズベットとカイトが呟くように言った。
「クライン。あたし今、あんたのこと、心の底から尊敬してる」
「やっぱ、色々と男だよな、クラインさん」
俺も、まったくの同感だった。
「……あのさ、この後、打ち上げ兼忘年会でもどう?」
俺の提案に、さすがに少し疲れた様子のアスナがほんわかと笑い、言った。
「賛成」
「賛成です!」
その隣で、ユイが元気よく右手を上げた。
ともあれ──2025年12月28日の朝に突発的に始まった俺たちの大冒険は、こうしてお昼を少し過ぎたところで終了したのだった。
つづく
次回はエピローグになります。