百合ぐだ子 作:百合と百合と百合と
あれは嘘だ。
その女は毒酒だった。
若くしなやかな肢体は瑞々しく、均整のとれた胴は引き絞るようなか細さではち切れんばかりの美しさを放っていた。一度目にすれば追い立てる情欲に逆らえず、下劣な色情からは逃げられない。誰もがその腕に抱きたいと思わずにはいられなかった。
女の身体には生来の毒が染みこんでいた。鮮やかな紫はその末端に至るまで滴り、清水には最早清らかな部分などどこにも残されてはいない。
人は彼女に触れようと思う。彼女は人に触れられたいと願った。死毒は永久に別つもの。
不幸なことは、毒酒には人並みの感性があったことだ。
彼女の名はハサン・ザッバーハ。かつて暗殺集団を束ねた十九人がうち、静謐と呼ばれた毒の名手。
彼女は慣れた暗闇に忍び込み、寝入る己の主を見下ろしていた。
彼女の主、藤丸立香は快活な少女だった。強大な英霊が相手でも物怖じしない度胸と誰に対してでも分け隔てなく接する優しさを供えていた。それはハサン相手にも発せられていたが、当の本人は不器用さが故に上手く接せられずにいた。
寝室に忍び込んで、眠る立香を闇の中から垣間見るようになったのは 2週間ほど前からだった。日が出ている間は話せずとも、せめて夜は二人でありたいと思ったからだ。
温かな微笑みは浮かべずとも、健やかな寝息の音を聞いている。
溌剌とした歩みの隣にはいれなくても、ゆっくりと上下する胸の安らかさを見つめている。
それだけで満足だった。
触れることだけはすまいと気を張り詰めて数刻、それだけが主の傍に寄り添える時間だった。
「立香……」
普段は決して口にすることのない下の名前もこの時だけは呼べた。
それが特別な意味を持つことを自覚しながら、その先に紡がれる言葉だけはなんとか押し止めて部屋を去ろうとした。
その時だ。
「待って」
声がするのを背中で聞いた。
「やっぱり静謐ちゃんだったんだね」
パニックで沸騰しかけている頭だったが、立香がベッドから起き上がって近づいてくるのは分かった。
「待って!!」
逃げようとするハサンの手を引き止める。
「マス、ター……」
乾いた声が響く。
「嫌!!私に触れたら死んじゃ、死んじゃ……!?」
恐怖と絶望でハサンは目を見開いた。
そんな彼女に立香は微笑みかけて言った。
「大丈夫だよ」
頭を撫でながら、言い聞かせるように立香は話した。
「私、毒が効かないんだ。まぁ私が凄いわけじゃないんだけど……」
「それって……」
「だから大丈夫、死んだりしないから」
立香目の前にある黒い瞳だけを見つめ、その額をくっつけた。
「ほらね?」
そう言って少しだけ微笑んだ後、立香は酷く申し訳なさそうな様子で眉を寄せた。
「ごめんね、君が寂しい思いしてたの知ってた筈なのに何もしてあげられなくて」
立香はハサンをそっと抱き寄せた。その声は悔しさで震えていた。
「それは違いますよ」
ハサンは言った。
「謝罪が必要なのは私の方です。結果的に無事だったとは言え、マスターの命を危険に晒してしまいました」
───それに、
「こうして頂けるだけで私はもう十分幸せ者です」
生前あまり浮かべる事の無かった笑みを浮かべて、ハサンはその両手を立香の背に回した。
「私は毒の花。
この先、貴女を殺してしまうかもしれない。
それでも、私はマスターの傍にいたい。
こんな身勝手をあなたは許してくれるのですか?」
その答えは今まで感じたことのない強い抱擁で帰って来た。
ハサンは泣いた。
しかし、それが悲しみによるものではないことだけは知っていた。
何故ぐだ子が途中で起きたのか?
愛じゃよ、トム。
出来の悪さは自覚ある。