とある昼下がり、カルデアの食堂は需要の過渡期を終え、利用者が居なくなっていた。
エミヤはオーブンの前に立ち、時が来るのを待っている。辺りには香ばしい香りが漂っていた。
数分もすれば、無機質な金属音が鳴った。それを合図に、ミトンを両手にはめ、オーブンから型を取り出す。
「エミヤ、お願いしたものはできたかしら?」
絶好のタイミングで顔を出したのは、神々しさを感じさせる少女だった。かのフランス王妃、マリー・アントワネット本人から直々に頼まれていた。
「待たせて申し訳ない。丁度焼きあがったところだ、王妃殿」
「まあ! 王妃殿ですって! もう……マリーと呼んでくださるってお願いしたのに。王妃殿だなんて……ぜんぜん可愛くないわ」
小間使いかつ下っ端の英霊であると自虐し、己の評価が低いことに定評のあるエミヤ。しかし、へりくだった言い方はマリーの望むところではないらしく、可愛げのある態度で駄々をこねる。それすらも愛嬌を感じさせるのは、マリーの人柄ゆえだろう。なるべく敬語を使わないようにしているあたり、エミヤも努力はしているのだが、それがなかなか実らない。
「……分かった、善処しよう。マ、マリー」
「ちょっとだけぎこちないけど……まあいいわ。さあ、お茶にしましょう」
マリーの気迫に押されて、エミヤの方が折れる。返事をしながらも、同時に焼きあがったモノをバスケットに容れ、誘われるがままに食堂を出た。
残念なことに、カルデアにはお茶会用のテラスはないし、庭もない。まして今、外に出ても景観がよくない。しかし、マリーにとってはお茶とお菓子があれば、場所など関係ない。彼女がお茶を嗜む場所こそが、お茶会の会場となるのだ。
王妃の案内で辿り着いた先は──、エミヤの部屋だった。部屋の主も、場所はそこだろうとすでに分かっていた。
「エミヤ、紅茶を入れてほしいわ。貴方の淹れる紅茶はおいしいって、ジャンヌが言っていたもの」
「そこまで期待されれば、存分に腕を振るわなくてはな。万一などあってはならない」
マリーから向けられる期待の眼差しを背に、エミヤは茶器を用意する。ここでバスケットから取り出したのは、フランス出身のオペレーターに譲ってもらった、由緒正しい紅茶ブランドの茶葉である。厨房に保管していたため、事前にバスケットにしまっておいた。件の彼女は紅茶に目がないらしく、話の流れで生前培った腕前を見せたところ、大層喜ばれてそのお礼として譲ってもらった一品だ。
奇しくもその来歴と名前は、質素な椅子に上品に腰かけ、紅茶の出来に心躍らせているマリーに相応しいと言える。彼女だからこそ、これを選んだと言っても過言ではない。
紅茶は淹れ方ひとつで風味が百八十度変わる。正義の味方を目指し世界を旅する中で、イギリス式だけではなく、フランス式の紅茶の淹れ方も修めた。その生前の経験を活かしつつ、温めておいたカップに注ぐ。立ち昇ってきた湯気と共に、その茶葉特有の香りと仄かなバラの香りが鼻腔をくすぐる。
紅茶を注ぎ終えたカップをソーサーに乗せ、執事さながらの足取りと手つきでマリーの前に置く。
「砂糖とミルクは不要だったな」
「……! この香りは……これを選ぶなんて流石ね。期待以上で胸がいっぱいだわ」
エミヤの腕前と選んだ茶葉は、見事マリーのお眼鏡にかなったらしい。彼女は嘘偽りのない感想を述べ、満足気な表情で再び紅茶に口をつける。その所作の一つ一つをとっても気品に溢れ、エミヤも思わず見惚れてしまうほどだった。
「喜んでもらえて何よりだな。……では、そろそろこれを出すとしよう」
気を取り直したエミヤは、バゲットから例のお茶請けを取り出した。一緒に入れておいた皿に乗せ、マリーの前に差し出す。
一見すると至って普通のパンに見えるが、マリーの所望したこれはただのパンではない。原料となる小麦の量を抑えた、現代で言うところの菓子パン『ブリオッシュ』──マリーの好物である。
「このときを待っていたわ、エミヤお手製のブリオッシュ」
「本当にこれだけでよいのかね?」
「ええ。いいの……これ以上の贅沢はできないわ」
物憂げな表情を見せるマリーに、エミヤは二の句を継ぐことができない。カルデアの台所事情を察しただけの発言ではない。常日頃から明るく振る舞う彼女の胸中は察するに余りある。本来であれば後ろめたさのない好物も、言葉尻を捕らえられた経験があるために引け目を感じてしまうのだろう。
「それより、エミヤも一緒にお茶をしましょう。あなたともっとお話ししたいわ」
先程までの心の暗さを押し隠し、いつもの明るい笑顔に戻るマリー。エミヤは、民を守ったことを後悔していない彼女に尊崇の念がある。ならば、望むままに話を聞くことがマリーにとって最大限の癒しになるだろう。
このあとの話の中で押し切られ、マリーにもシロウと呼ばれるようになってしまうエミヤであった。
カルデアのマスターさんたちが逃げるまでの時間は稼いだから、迫りくる止めの一撃を躱そうとは思わなかった。生きることを諦めた。
でも、間に割って入る影があったの。印象的な赤い外套が最初に映った。
『マスターの頼みでね、君が民を守るなら、私は君を守ろう』
振り向かず、背中越しに語り掛けてきたのは、シロウだった。
鍔迫り合いの後、黒白の双剣と体術で竜の魔女を押し返した。後退してわたしを抱き上ると戦場を辞したの。最初からそのつもりだったみたい。
立香は助けてほしいとしか頼んでいなかった。守ろうと言ったのは、彼の本心だったみたい。死によってではなく、生きて民を守ってほしいってことかしら。生前で恋をすることは何度かあったけど、サーヴァントになってから初めて恋をした、それもジャンヌと同じ相手に……。
ジャンヌの恋心について茶化してしまった罰かしら。でも、たとえどんな結果になっても後悔しないわ。
────ヴィヴ・ラ・フランス!