今もなお、忘れる事は無い。
とある先輩との大切な時間を。
隣に立っていた羨ましい立場の存在を。
世界の運命を左右する重大な出来事が一つあった。
それは、立香が死の運命から逃れたことだ。しかし、その忘却された出来事を覚えている者は数少ない。
間一髪で危機を逃れたカルデアは、いつも通りに特異点という歪みを発見して、修正することの繰り返しだった。変わったことといえば、ひと月ほど前に転勤してきた職員の歓迎会を開いたことくらいだ。
電脳世界へレイシフトして早々に保護され、そんな大事件に関わることのなかったエミヤは、今日も食堂でカップを磨いていた。
凛には皮肉な態度を取ってはいたが、家事をすると心が落ち着くのは死んでも変わらない性分だ。
「アーチャーさ~ん!」
そんな穏やかな時間は、儚く終わった。
聞き覚えのある声に、エミヤは眉を顰めながら答える。
「もはや驚くまいと思っていたが、私の予想を上回る存在を失念していた。
──なぜ君がここに居る、B B」
顔だけで判断すれば、かつての後輩の姿が重なる。全貌は黒コートを羽織った生徒に見えるし、なぜか教師にも見える。
SE.RA.PHのAIにして、月の裏側に岸波白野達を引きずり込んだ黒幕、サクラ迷宮の主である少女がそこにいた。最後の最後に改心したような様子で、立香を救うために消えたはずだった。
そんなB Bは、面白そうな玩具を見つけた子供のようにはしゃいでいる。
「えぇ~……まさかの塩対応にB Bちゃんも苦笑いを浮かべちゃいますよ。折角センパイに居場所を聞いてわざわざ足を運んだんだから光栄に思ってください。
それ以前に、アナタがそれを言いいますか
少女はエミヤの警戒など、どこ吹く風と言わんばかりに振る舞っている。気を悪くする必要すらないのだろう。
「希望に添えないようで残念だが、異常事態に応対した経験はそれなりにあってね。端的に結論付けるならば、慣れだ。
それで、質問の答えを聞かせてもらおうか」
「……その様子だと、アレは覚えていないみたいですね」
一瞬だけ観察するような視線をエミヤに向けると、B Bは小さく呟いた。
「それはそれとして……黒幕系後輩兼観測者たるB Bちゃんに不可能はないので~す」
その直後に、飄々とした態度で胸を張る。切り替えの早さは、彼女の特徴だ。
エミヤは訝しげな表情を見せるだけで、追及はしてこなかった。最初の方は聞かれていないようだったが、仮に聞かれていても意味が理解できない以上、問題は無い。
一方のエミヤは、B Bの怪しい態度に疑わしい視線を未だに送りながら、厄介な人物に目を付けられたものだと、立香の運の無さに同情していた。
これまでの経験から、B Bは敵としても味方としても恐ろしい女であると理解している。だが、そんな相手に一定の友好関係を築ける立香は、白野と同様に大したものだと感心もしている。
「結果はおおよそ分かってはいたが、正直に答えるつもりは無いという事か。今はそれで妥協しよう。
しかし、マスターを先輩と呼ぶとは、何か心境の変化でもあったのか」
「何を言ってるんですか。先輩とセンパイは全然違いますよ。これだから素人さんは困るんです。要するに体の良いおも────遊び相手ですよ」
エミヤの疑問にB Bはキョトンとした顔で即答した。要するに、発音の違いは彼女なりの信念があるらしい。エミヤはそう理解した。──一瞬だけ赤く染まった瞳に、不穏さを感じながらも。
「隠し事は苦手らしいな、欲望が溢れているぞ」
「そういう弓兵さんも隠し事は苦手のようですね」
「……何の話だ?」
「知ってますよ~。相変わらず女の人には見境なく粉をかけているそうですね。どこかのメルトリリスはともかくとして、つい先日転勤してきた……トラパインさんでしたっけ? その人にも心当たりがあるんじゃないですか。まったく手が早いんですから」
B Bは蠱惑めいた顔で追及してくる。乾いた笑いにため息を一つ吐くと、エミヤは呆れた表情を浮かべた。
「何を言うかと思えば、その結論に至った見当はつくが他意はない。友人を歓迎しただけだ。邪推にも程がある」
エミヤがトラパインと面識を得たのは、新宿から帰還した直後のことだった。今は解体されている
英霊の召喚は秘匿されるべきかもしれないが、そもそも現在のカルデアで矢面に立っているのは、同じく英霊のダヴィンチだった。加えて、カルデアからの通信は全て秘匿回線のため、誰が会話していたかは分からないし、存在の露出に問題は無いと彼本人が語っていた。
それ以降、これも何かの縁であると考えたエミヤは、定期連絡の度に立ち会って必ず会話をしていた。慣れない環境で臆病になってしまった彼女も、少しずつ自信を取り戻していった。
そんなマメさもあってか、好感を抱かれるのは時間の問題だった。冗談めかしてだったが、「何かあったら助けてほしいです」と言われるほどの信頼を得ていた。
浮いた話どころか、飾り気のないエミヤの回答に、B Bは乾いた笑いを零す。
「はあ、なんとも皮肉なものですね。人生最大の功績を成し遂げても、世界を救った遠因には絶対に気付かれないなんて。報われないにもほどがありますよ」
「何か問題でも?」
「さぁて何のことでしょう。気のせいじゃないですか?」
B Bは、真面目な態度をとったかと思えば、いつも通りの愉しそうな笑みを浮かべて話題を打ち切った。
「それは丁度良かった、私はこれから忙しいものでな。気を付けて帰るといい」
言うが早いか背中を向けて、エミヤは食器類を棚に戻していく。
「本当にいじり甲斐がないですね。ま、その程度でへこたれるB Bちゃんではありません」
彼女は胸を張りつつ、笑いながら自慢顔を披露する。そんな光景が見なくても分かった。
その後立ち去る雰囲気でもなく、両肘で頬杖をついたB Bは、カウンター越しに弓兵の様子を窺っていた。その顔はニヤついている。
反応すれば相手の思う壺だと理解しているエミヤは、作業する手を止めなかった。
「いじわるですね~」
「────
不意を突かれる一言だった。
反応しまいと決めていたエミヤを振り向かせる言葉が、平行世界のAIから放たれた。
「……知っているのか?」
傍から見れば険しい顔をしているが、エミヤは内心それどころではない。しかし、極めて冷静に問い質す。目の前の少女がどこまで知っているのかと。
「え? 呼んでみただけですよ? 何のお話しですか。詳しく聞かせてもらいますよ」
「……断る」
先程までの思わせぶりな態度は何だったのだろうか。そんなエミヤの苦労など知ったことではないと言わんばかりに、B Bは素知らぬ顔で返してくる。
勘違いも甚だしかった。会話の最初の方でも言っていたはずだ、真面目に取り合った己の未熟さを恥じるしかない。
「いい暇つぶしになりましたし、この辺で切り上げましょうか。またお会いしましょう弓兵さん」
エミヤの反応に満足したのか、B Bは嵐のように去って行った。
「……知らないならばそれで構わない。ただ付け加えるなら、私はその名で呼ばれるに値しない」
「多少なりとも検討してあげますよ、採用するかは私の匙加減ですから」
その前に去り行く背中へ届いた言葉は、彼らしからぬ感傷的な声色だった。
「一言で表すなら、異常と言う他ありませんね」
一人で通路を歩くB Bは、これまでの情報を総括していた。
「召喚されている英霊の偏り具合は原因不明ですが、それ以上にこの状況に微塵も影響されていないなんて、本当に元人間なんでしょうか」
カルデアの男女比は9対1でも足りないほどの比率だった。エミヤを除けば、ホームズくらいしか人員が居ない。
そんな女の園に身を置けば、英霊と言えど何らかのストレスがかかるはず。だが、現代人に近い価値観の彼にはそれが無い。
単純に異性への興味がないか。あるいは、それを当然のように受け止められる環境に居たか。いずれにせよ、人間味をあまり感じられない。人間とロボットの中間が近いだろう。
人間嫌いのB Bだが、好きにも嫌いにもならないのは珍しい。
「ま、そんなの関係ないんですけどね。
これからも、おはようからおやすみまで、じっくりと観察してあげますよ……無銘の英雄さん」
彼女の両目は、妖しく、赤く染まっていた。
おも──遊び相手が増えてB Bちゃんはご機嫌なのでした。
さて……次は誰が召喚されるんでしょうね、センパイ?