ある少女から解き放たれたもう一人の少女。彼女を現世に繋ぎ止めているカードに宿った英霊の正体は──
イリヤとルビーが去って行き、静まり返った部屋でエミヤは未だ感傷に浸っていた。記録と化していた後悔の蟠りが、綺麗に溶けていくようだった。
だが、静かな時間は長く続かなかった。何者かの接近を感知し、意識を扉に向ける。
「──こんばんは。……シロウさん」
開けると同時に声を掛けてきたのは褐色肌の少女、クロエ・フォン・アインツベルンだった。エミヤには見慣れた外套の意匠が、相変わらず彼自身との関与を匂わせる。
「その名を呼ぶということは成程……察するに盗み聞きをしていた訳か。行儀が悪いぞ?」
「そういうあなたは意地が悪いわ。今の今まで名前を黙っていたんだから」
座りながら腕を組むエミヤの苦言に、クロは口を尖らせる。彼女は不満げな表情をしていたが、流れるような動作で椅子に腰を下ろす。
「それはすまない、名乗る必要性がなかったものでね。この意地の悪さは盗み聞きの対価と思ってくれ」
「曖昧にして煙に巻くの? ずるい人ね」
「そういう男でな……この話はさて置くことにしよう。まさかとは思うが立ち聞きをするために来たわけではあるまい。何か用でもあったのかもしれないが、その前に私は君に聞きたいことがある」
「なになに? もしかしてわたしに興味があるの?」
クロは艶やかな唇を指でなぞった。凛が小悪魔的と言うならば、目の前の少女は蠱惑的と分類できるだろう。
「──君は何者だ?」
しかし、エミヤには効果が薄く、弓兵の鷹の瞳から送られる視線は冷静に少女を射貫いた。
「うーん……どうしようかしらね。言ってもいいんだけど、それじゃおもしろくないわ。
……そうだ、キスしてくれたら言ってもいいかなぁ?」
「そうか。では聞かなかったことにしよう。薄々だが、幸いにも見当はついているものでね」
エミヤは近くに置いてあった食料の帳簿を開く。その行動が自分をあしらうためのパフォーマンスだと悟ったクロは、不服そうにしながらテーブルに頬杖を突いた。
「えー……つれないわね、それじゃつまんないわよ。もう少し慌てるとかしてもいいんじゃない? 女の子と二人っきりなんだから」
「ノーコメントだ。それと別に君を楽しませるつもりはない。私から言うならば、淑やかさを身に着けてはどうだろうか。そうはしたないままでは折角の美人が台無しだ」
エミヤは頁を捲る手を止めないが、世間話をするように大した意図を持たずに発言する。如何に改善されようとも、迂闊な発言は治っていない。
不意打ちを受けたクロは、珍しく目を丸くしながら照れていた。
『やっぱりこういうところは同じなんだから』
内心でそう思ったため、エミヤには知られなかった。
「──話を戻そう」
パタンと帳簿を閉じ、それを合図としてエミヤは意識を切り替えた。
「君の力についてある程度の憶測は立てている。
そちらの世界にはサーヴァントの召喚以外で英霊に干渉できる方法があったな」
イリヤと行動を共にしていた時に、夢幻召喚《インストール》という変身法について聞いていた。クラスカードという英霊の力を行使できる魔術礼装によってそれが可能となる。
カルデアの召喚に応じる前のことだが、エミヤは一度だけ心当たりがあった。
座に鎮座していたエミヤは、何処かの世界から、己の全てを差し出してでもたった一人の
驚いたのは無理もない。それを抱いたのは、あろうことか衛宮士郎だった。『答え』を得た記録の追加によって、衛宮士郎への八つ当たりに近い恨みは薄れても、未熟者であればそう簡単に力を貸す事は無い。だからこそ、エミヤに出来なかった選択を下した少年の覚悟を、一笑に付すこともできなかった。
機運という歯車が噛み合わなければ成立しない、気紛れに近い施しだった。だが何の因果か、その時の縁が巡り巡って目の前に居る。
「とまあ大袈裟に言ってみたが、私に分かるのは文字通り
その問いかけの意味が読み取れないほど、クロは鈍くない。
観念したように一息つくと、口を開いた。
「わたしはもう一人のイリヤよ。正真正銘の本人。ただね、運の巡り合わせが悪かったの」
重い沈黙を破って語り始める少女は、あっけらかんとした様子でありながら影が差していた。
そこから堰を切ったように、クロはこれまでの経緯をつらつらと話した。かつてイリヤの中に封印されていたこと、イリヤと激突しその存在を認められたこと、生きたいと願ったこと。全ての話を終えると、一端言葉を切った。
「聖杯戦争の為に生きるはずだったイリヤ……か」
平和な世界で過ごすには、魔術の世界に身を置くイリヤの人格は表に出せない。アイリスフィールに、すれ違いで積もり積もった負の感情をぶつけたことも、ある程度は理解できる。
「まさか、カードを核にして受肉を果たすとはな」
ただ一番の驚きは、平和に近いイリヤの世界ですら、大聖杯が登場することだった。衛宮切嗣が『人間』になる道を選んでも、運命は、聖杯は、彼らを引き戻そうとするのかもしれない。しかし、その一件があったからこそ、クロは今ここに居る。
エミヤの真剣な顔を観察していたクロは、同じく真剣な顔で切り出した。
「それでこの力……投影魔術は、あなたのものなんでしょ?」
クロの問いに、エミヤは沈黙を以って返した。彼女にはそれだけでも充分だった。
「そっか……」
一言そう呟いて自分に向けた顔を、エミヤは忘れないだろう。
「ちゃんと因果は繋がってたんだ」
蠱惑的な表情が鳴りを潜め、聖母にも見えるほどに穏やかな顔で、胸に手を当てていたのだから。
「ありがとう。あなたのお蔭で、今わたしはここにいるの」
感慨深そうに言葉を紡ぐクロに対して、淑やかさについてとやかく言う必要などなかった。
「流石にそのことで礼を受け取る訳にはいかんな。たまたま力を望んだ者が居たから私は手を貸しただけで、君を救おうと思ってそうした訳ではない」
「もう……素直に受け取ってもいいでしょ。そもそも、あなたがいたから救えた命なのよ」
腰に手を当てながら、クロは言い切った。
「それがここに来た理由、わたしが言いたいのはそれだけだから。また来るわねシロウさん」
「……そうか。大したもてなしができなくてすまないな」
「気にしてないわ。どうしてもというなら、夕食のデザートでも楽しみにしているわ」
赤い外套を翻し、クロは背を向けた。
エミヤがサーヴァントとして直接救った命は、数える程度にはある。ただ、英霊になったからこそ救えた命は、おそらく初めてだろう。
「……皮肉というべきか」
一度は断ち切ろうとした、衛宮士郎という世界を越えても線で繋がれた宿命に、救えた命があった。
座が時系列に囚われない以上、それを知るエミヤも居れば、記憶を制限され自分殺しに向かうエミヤも居るだろう。
だがそれでも──
「時間を無駄にしては居られんな」
間違いではなかったという確証を得ることができた。
ならば、考える機会をくれたイリヤとクロには、細やかながらの感謝を示す必要がある。そう思って立ち上がる。
厨房へ向かう弓兵の背中は、憑き物が落ちたかのように晴れやかだった。
自分を大切にしなかったから、お兄ちゃんとは呼んであげないんだから。でも、好きなことに変わりはないわ。
迷っていたけど踏ん切りがついたもの。イリヤが悩んでいる隙に手に入れちゃうわよ。
まずはこの力の使い方を手取り足取り教えてもらわないとね。