悲運の
横になってどれくらいの時間が過ぎただろうか、当の昔に日を跨いだのか不明だが、唐突に誰かが呼ぶ声がした。夢を見ないはずの英霊を、眠りから呼び覚ます誰かの声が。
「────おはようございます。起きて、
瞼を開いて頭を持ち上げる。そうして視界に捉えたのは、どこかの特異点で出会ったサーヴァント、昨日カルデアで再会した、贋作英霊ではない本来の姿だった。
一見すると穏やかな物腰の女性はベッドサイドに腰掛け、エミヤの方を見据えていた。
「君は……ブリュンヒルデ……か」
「初対面という訳では、ありませんね……愛しき
エミヤは体を起こしつつ、ブリュンヒルデを視界に捉えようとしたが、動きに反応して突き出された彼女の手に上体を押し留められる。
「身勝手なことだと……思われるかもしれません。どうか、どうかそのままで……お願いします」
発言といい、行動といい、彼女の反応に違和感を抱いたが、関係ないと判断して今は考えないことにする。
「…………ああ、分かった。格好のつかない体勢で申し訳ないがね。
────なにか話でもあるのかな?」
本当のことを言えば、今すぐにでもソファへ座らせて紅茶を振る舞う方が、エミヤとしては落ち着く形ではある。ただ、ここまで言うからにはブリュンヒルデにも考えがあるのだろう。
「ええ……そうです。この
「お願い? それは一体?」
「……私を……壊してほしいのです」
頭だけを動かしていたエミヤは、ブリュンヒルデの寂しげな表情を目の当たりにしていた。
「……まったく、穏やかな談笑とはいかないものだ、訳を聞かせてもらおうか。私にはなぜその結論に至ったのか、見当もつかないものでね」
「…………
────壊れてしまった私の中で鎮まらない
「──壊してほしい……か」
「……はい」
ブリュンヒルデがシグルドという英霊に並々ならぬ想いを持っていることは、贋作英霊の時点で分かっていた。だが、その想いが今現在の彼女の意識を蝕んでいるとは、本人に会うまで分からなかった。会って早々、暗い表情で『シグルド』と呼んできたブリュンヒルデは、その心の中で常に葛藤していたのかもしれない。
「だが、今の君にそのような兆候は見られないが?」
「今の私は……大丈夫です。記録を再生すれば……昂った心を冷やせます。胸の奥で燻る炎を抑えられます。でも、抑えられなくなったとき────私のお願いを叶えて頂けますか?」
「…………そうだな。それを君が望むなら、そうせざるを得ないだろう。
────だが、その心配は必要ない」
「なぜ……ですか?」
「君が優しい女性だからだ」
「私が……優しい? そんなこと……ありません。一目見ただけで、マスターを殺そうと考えています」
「そうかな。今の君が
「ですが……どうしても抑えられなくなって、突然マスターを傷つけることもあります」
「それも心配はいらない。マスターだけではなく、私を含めた周りの者が君を止めるからな。
────悪いことをしようとするなら、ちゃんと叱るさ。まあ、これは杞憂だと思うがね」
「……でも……」
「そこまで悩まなくてもよいのではないかな。それに、私以上にお人好しなマスターはその程度のことで君を見限るような性格ではない。
────なんにせよ、小さいことでも困ったことがあれば言ってくれ。できる範囲で力になる」
寝転びながら腕を頭の後ろに回す。どこまで届いたかは分からないが、思いつめた戦乙女が早まらなければそれでいい。
「ああ……見誤ってしまいました。私は
「────待て、なにをっ!?」
「そのままでは……困ってしまいます。ごめんなさい。今から少しだけ、ほんの少しだけ……あなたの唇に触ります。大丈夫です、ルーンに委ねてくださいませ」
エミヤが抵抗するよりも早く指が触れ、なぜか身動きが取れなくなった。ルーン魔術であろう刻印が浮かぶが、どのような効果があるのか、当然弓兵にはわからない。現在のエミヤに内包された宝具の影響により、実害のあるものであればその効力は霧散するはずだった。
「本当は、そう言ってもらえて嬉しいです。でも……私は……自分自身を信じられない。此度の邂逅は、無かったことにします。優しいあなたに、これ以上の迷惑はかけられません。大丈夫……です。最初からここは、夢の中ですから」
段々と意識が遠のいていく、ブリュンヒルデの言葉を聞き取ることで精一杯だった。
「…………はい。出来上がり、です。さようなら、我が英雄。
────助けてほしいなんて……言えませんから」
弓兵が最後に見た光景は、微笑むブリュンヒルデの顔だった。
エミヤがカルデアの廊下を歩いていると、彼は視線を感じることに気付く。毎度のことで多少は鍛えられたのか、視線の種類くらいは何となく分かるようになっていた。
だが、
その一方で、弓兵は背中へ視線を感じても特に驚かなくなってしまった。英霊にも適用される『慣れ』を恐ろしいと感じながら振り向けば、物憂げな表情を浮かべている昨日会ったばかりの戦乙女が立ち尽くしていた。
身の丈以上の大きな槍を携え、視線を向けていた対象に振り向かれても、微動だにしないことが弓兵にとって違和感を抱かせた。ただ、一つの可能性として、気付かれることを想定した上での行動なのかもしれない。
「さて、私に何か用かな……ブリュンヒルデ?」
「…………」
エミヤは左手を腰に当て、右手を遊ばせながら問いかけるが、なぜかブリュンヒルデは口を開かないため、いくら待っても質問の答えは返ってこなかった。
しばらく沈黙したまま見つめ合ったが、このままでは話が進まないと判断し、痺れを切らした弓兵が先に静寂を破る。
「そうだな……言いにくいことならば、また時間を改めても構わないが?」
「その悲しい背中……貴方は……シグルド?」
弓兵は気品ある通った声に反応が遅れる。そして、彼女が言葉を終えてから、ようやく目の前の女性が発したのだと気付く。だが、問題はその内容が突拍子のないものであることだ。
「昨日も言われたが、シグルド……彼の英雄と間違われるとは光栄な話だが、些か尻込みしてしまう。しかし、残念ながら人違いだ。
──まあ、困ったことがないのであれば、それに越したことはないな」
「…………」
相手が再び沈黙してしまい、会話を折り返すもすぐさま途切れてしまう。
流石に噛み合わない返事を訝しんだエミヤがブリュンヒルデを注視すると、穏やかな微笑とは裏腹に彼女は槍を強く握りしめ、震える手は何かを堪えているかのようだった。
「本当に大丈夫かね? まさかとは思うが、霊基の具合が悪いならマスターを呼んだ方が良いではないか? 念話ができないなら私が代わりに連絡しよう」
「…………優しくされると、困ります」
そう言い残したブリュンヒルデは、踵を返すとエミヤとは正反対の方向へ歩き始めた。彼女が振り返ることはなく、体調の方は問題ないようだった。エミヤなりに気を遣ったのだが、生憎とお気に召さなかったらしい。
呼び止めようか迷ったが、困らせている原因が自分にあるなら逆効果ではないか、そう判断した弓兵は、額に手を当て当惑しながら戦乙女の背中を見送った。
ああ、あなたを…………