意識不明の重体から復帰した藤丸立香は、十分な休養を取ると五番目の特異点へ向かった。
そこは、別人と化したクー・フーリンと大統王に固執しているエジソンが争う北米大陸、ケルト神話が誇る歴戦の戦士に対するは、銃弾と砲弾を駆使するアメリカ兵士とエジソンが量産した機械化歩兵の軍勢。
これまで以上の出会いを別れを繰り返すことになった立香と共に、どちらの思惑に囚われることなく、確固たる信念で鋼鉄の白衣は大陸を駆け巡る。
そして、彼女の治療によって
カルデアの医務室、そこへ呼ばれていたエミヤは入室の許可と共に足を踏み入れていた。
彼の目の前にあるデスク、その前に座ってカルテを眺めていたのは、ロマニ・アーキマン──
「来ましたねエミヤ。約束通りの時間です」
ではなく、フローレンス・ナイチンゲールだった。
彼女が来て以来、ロマニは部屋を譲っていた。撤退の準備をしていた本人曰く、決しておやつの量を制限されたくなかったわけではないらしい。
レイシフト先の戦闘で運悪く両陣営に挟まれる形となり、サーヴァントの切り払いがあっても躱しきれない流れ弾で掠り傷を負った立香は、幸いにも友好的だったアメリカ兵士に謝罪と治療を提案され、状況の把握を兼ねてとある野営地へ赴いた。
そこで出会ったのが、立香には見覚えのある赤い軍服の女性──ナイチンゲールだった。簡易的な治療室を所狭しと移動する苛烈な性格の人物で、サーヴァントとして協力してもらうには一工夫が必要でもあった。
順番を待ち、ようやく手の空いた彼女の診察を受けたが、流石に立香の腕を切断される事は無かった。ただ、砲弾を受け重傷だった場合は分からない。
どんな状況でも臆さない行動優先な性格ではあったが、彼女が居なければアメリカを救うことはできなかった。
「さて、何か用かな婦長殿。生憎と怪我はしていない訳だが」
「いいえ、エミヤ。貴方は病んでいます」
椅子から腰を上げ、エミヤの前に立ったナイチンゲールは視線を一切逸らさず言い切った。怪我ではなく病気だ、と。そんな彼女の赤い瞳は一切の揺るぎがない。
「あちらに現界していた時から考察していましたが、貴方は精神的な病気です。
幸いにも憶えていましたので、こちらに召喚されてからあらゆる文献に目を通しました。そうしてようやく、納得のいく結論に辿り着きました」
さも当たり前のことをしているように聞こえるが、エミヤが彼女の背後に視線を向けると、資料室から本棚ごと運んだのか、多様な医療の書物が所狭しと並ぶ光景が飛び込んでくる。
以前ロマニが使っていたのか新品ではないようだが、目につくだけでも二十冊以上のそれらは決して薄くはなく、ゆうに百
見逃してはならないとそれら全てに目を通す、看護師の
「その病名は、心的外傷の一つである『サバイバー症候群』でしょう。……ですが、貴方の場合は常軌を逸している。
怪我をすることに恐怖を感じない人はいません。それでも貴方は、積極的に何度でも誰かの代わりに怪我をする。それは正常な人間の反応ではありません。故に病気です」
実際にその通りなのだから、間違えることなどないかのように、確信を持って話す彼女の慧眼は曇ってなどいない。
「まったく酷い言われようだ。まあ、その通りの愚か者が私だがな」
「そうでしょう。ですので貴方には治療が必要です。迅速に治療を受けなさい。貴方が嫌だと言っても、私との対話に付き合っていただきます」
エミヤとナイチンゲールはお互いに顔色一つ変えなかった。
「それは無理な相談というものだ、ナイチンゲール女史。貴女が人を救うように、私も人を救わねばならんのだよ。たとえ、誰かに止められようともな。
それに、残念ながらこれは難病どころか死んでも治らない不治の病でね。幾ら貴女でも、それでは治せないだろう」
クー・フーリン・オルタに対して病気だ、と宣言した婦長と言えど、治せないものはある。実際、狂王に不治の病だと返された時は言葉に詰まっていた。エミヤも因縁深い
いまいち不穏なのは、顔色一つ変えないナイチンゲールが沈黙を保っていることだろう。
そう考えていたエミヤの体感で一分が過ぎた時、ようやく口を開いた。
「────悔しい」
変わらぬ表情で発した言葉は、治療法が見つからなかった時と同じく単純な一言だった。
だが、その中に込められた幾つもの感情は、生前の葛藤と同じく複雑怪奇に絡み合っていた。珍しいことに、彼女は初めて視線を下に向けると語り始める。
「私の使命は全ての病と怪我を治療すること。たとえ全ての命を奪ってでも患者の命を救う。それなのに──またしても断念せざるを得ない。体の傷は治せても、深く刻まれた心の傷までは治せない。治せない病気など在ってはならないのに、私自身の無力さが腹立たしい」
「そこまで気にしなくても良いのだが、それでこそ貴女らしいともいえるか」
「治療した兵士を再び治療する、そのようなことは戦場では何度も経験しました。ですが、心を壊しては生きることができません。
────貴方は生きることを手段だと割り切っている」
「それはお互い様だ。貴女も私が居ない間は随分と無茶をしていたらしいな」
特異点で協力を仰いだ後、ナイチンゲールは重傷のラーマを背負うことになった。
無防備に近い二人を守るため、エミヤは「君の戦場はここではないだろう」と言って、二手に分かれるまでは守りながら戦っていた。
エミヤの行動に対し、カルデアへ帰還した後はアルトリア・オルタを筆頭としたサーヴァントに詰め寄られていたのはまた別の話だ。
「いいえ。私はこの世から病が根絶されない限り倒れる訳にはいきません。そのためならばあらゆる傷を受け入れます。その為に生きなければならないのですから。そして、例え幾万回死のうとも諦めません。
──言い方が悪ければ変えましょう。貴方はその先に自分の命を保証していない。方向性は違うかもしれませんが、貴方は私の同志であると感じています。己を捨て狂い堕ちなければならない環境だったのでしょう。それでも、病が命を脅かすのであれば、私は看過するわけにはいきません」
「勿体ないほどの評価だ。剣も知恵も尽くして戦ってきたが、私はやり方を間違えてしまってね。貴女のように患者の心に寄り添うことをしなかった。それだけに、自分を大切にしていない、ということは認めざるを得ないな。
────ただ、この生き方は変えられない」
どんなに矛盾していても、自覚しても、『エミヤ』である限り変わらない根幹。
決意を込めたエミヤの表情を見て、ナイチンゲールはこう答える。
「では、こうするべきです。貴方の治療法が見つかるまで、私の助手として働きなさい。基本的な知識や的確な治療法の提示など申し分ありませんでした。
盤石な体制でも綻びが無くなる訳ではありませんが、貴方だけが重荷を背負う必要はありません」
牢獄からの脱出後、道中で呪いに苦しんでいたラーマの呪いを緩和するため、経験のあったエミヤは、『
本来であれば死んでいるラーマの呪いを完全に解除することはできず、刺し続けなければ進行を遅延させる効果がない。ナイチンゲールを納得させるための策だったが、本物を加工し、あまつさえ茹でる訳にはいかなかった。
加えて、難民キャンプなどを渡り歩き、時たま医療関係の指導をしてきたエミヤの腕を買っているのだろう。
最後の言葉は、患者に寄り添う彼女の本質が表れていた。
「別に私は治さなくてもいいのだが──」
「──貴方は既に私の患者です。必ず治療法を見つけますので、大人しく指示に従いなさい」
「……了解した」
どれほどまでに譲歩しているのか、エミヤが分からない訳ではないものの、これ以上断れば目の前の婦長は拳銃に手を掛けるだろう。この時点で抜かれていないのは奇跡に等しい。選択肢など他にはなかった。
「話は以上です。退出して構いません。ただし、手洗いうがいの励行を」
そう告げた婦長は再びデスクの前に座るとカルテを手に取る。
弓兵はそれを見届けると、踵を返して退出した。
カルテを眺めるナイチンゲールの顔が心配そうに見えたのは、おそらく見間違いだろう。
一人の患者に執着するとはらしくありません。
無駄なこと、子供っぽいことは終わりにしたはずですが、抱えているこの感情が如何様なものか、断定するのは早計でしょう。