19世紀のロンドンを恐怖に陥れた殺人鬼。
霧の中に潜むその人物は男なのか女なのか、それさえ不明だった。
かろうじてただ一つ分かっていることは、その人物が『かえりたい』と願っていることだけである。
最近のエミヤの趣味は裁縫である。
彼は先日の特異点でヴラド三世に出会った折に、裁縫に関して意見交換を行っていた。さしものエミヤでも、やはり裁縫の技術は串刺公に軍配が上がるらしく、
熱量の伴う話し合いだったこともあり、ある時ふと思い立ったエミヤは、有意義だった時間を形として残すため裁縫を始めることにした。
というのも、カルデアの倉庫を整理がてらに漁っていたところ、大量の布切れを発見することができたのである。
おそらく爆破が起きていなければ、本来のマスター候補生達の息抜きなど、何かしらに使うことを先代所長は想定していたのだろう。しかし、現実は立香一人であるため、これらを使う機会は激減している。
このまま倉庫の肥やしにするのも忍びないと考えたエミヤは、所長代理のロマニに話を通すと、布切れを裁縫に使うことにした。
手探りながらに立香の旅を支えてくれるスタッフへ、ささやかではあるが日頃の感謝を伝えたい。投影魔術を使えば完成品を簡単に用意できるが、万が一破損した場合には消えてしまうし、己の手で作った真作を渡したい。
その思いの下、錬鉄の英雄は針と糸を投影し、様々な布製品を作り始めた。
完成した布製品は、召喚された当初から行っているスタッフとのお茶の時間に手渡していた。無論、ラッピングを欠かす事は無い。
エミヤからの思わぬサプライズにスタッフ達は当然驚き、それが口コミとして広がるには十分すぎた。
立香を含めた女性サーヴァント達が、作成依頼や指導を申し入れてきたのである。断る理由もないエミヤは快諾し、週に一度の講座を開設した。
今日も今日とて依頼の消化を行うエミヤは、マリー用のハンカチを完成させると針を置き休憩を入れようとしたが。
「────おかあさん」
横から自分の名前を呼ぶ声に気付く。
顔を声の出所に向ければ、肌の露出が多い銀髪の少女──ジャック・ザ・リッパーが居た。
「どうしたのかな? ジャック」
いつから居たのかはさておき、エミヤはにこやかに微笑むとジャックに問いかける。
「……」
エミヤの問いにジャックは答えることなく椅子に座る弓兵に近づくと、彼の膝を目指してよじ登り始めた。
再び微笑ましさを感じるエミヤは、沈黙した少女の意図を察すると、彼女を優しく抱え上げて膝の上に載せる。
当の本人であるジャックは目的を達したからか、機嫌よくエミヤに寄りかかると力を抜いて身を委ねる。
そんな少女の頭を、エミヤは自然な流れで撫で始めていた。
撫でながらも、ジャックは甘えたくなったのだろうかと推察して苦笑するエミヤは、彼女と会った初めの頃を思い出す。
ジャックの召喚直後は、平穏と言えるものではなかった。
それもそのはずであり、ロンドンではスコットランドヤードを壊滅させ、最終的に敵対せざるを得なかったサーヴァントだからだ。
当のジャックには特異点での記憶は無いらしかったが、先を不安視する声──特にジャンヌとアタランテがマスターの安全について意見で対立し、最終判断を立香に仰いだ。
立香の答えは、『召喚されたのは何か意味があるはずだし、ジャックの未来を信じたい』であり、その場を収めることとなった。
エミヤが関わることになったのは、アタランテが一緒に見守ってほしいとお願いしてきたことにあり、頭を下げられて断るはずもない。以前の彼女との問答で、意見していたことも理由にあるが。
見守ると言っても、エミヤがやることはほぼ変わらなかった。
ジャックに仕事の手伝いをお願いし、それができたら頭を撫でて褒める。
解体してもいいかと発言すれば、ジャックに会えなくなるから悲しいなと諭す。
ただそれだけである。
効果があったのかは定かではないが、ジャックのエミヤへの呼び方が変化していた。
最初の頃は、『エミヤおじさん』だったが、次は『エミヤおかあさん』、そして最近では『おかあさん』にまで短縮された。
立香の呼び方は、おかあさんとマスターの両方に聞こえるが、エミヤの場合は、おかあさんだけに聞こえるため、呼ばれる本人は複雑な心境である。しかし、訂正はしなかった。
そんなこんなで、気配だけを消してエミヤの後ろをトコトコと付いていくジャックの姿を一部のサーヴァントが見かけるようになり、それを見たジャンヌとアタランテが歴史的和解をしていたのはまた別の話である。
回想しながらも、しばらくジャックの頭を撫でていたエミヤだったが、撫でられていた彼女はおもむろに身じろぎすると、動きに反応して撫でることを止めた弓兵と向き合うように体の向きを変える。
「おかあさん」
「なんだね? ジャック」
「おかあさんは……どうしてこんなに……愛してくれるの?」
不安そうな顔をしたジャックを見たエミヤは、ようやく彼女の不思議な行動を理解した。
ようするに、ジャックは幸せすぎて逆に不安になったのだろう。
不安を煽らないよう、エミヤは優しい声色で話す。
「難しい質問だが、そうだな……ジャックを愛したいから、だろうな」
「……どういうこと?」
「マスターも言っていたが、私たちはジャックのことが好きなのさ。だからみんなはジャックを愛する。理由なんてそれだけだよ」
「……」
「かえって難しくしすぎてしまったな。だがオレは────、
こうして頼ってくれるジャックのことが好きだよ」
その言葉を受けたジャックは、さらに強くエミヤに抱き着いていた。
そして彼女に抱き着かれている当事者は、周りに支えられてきたことを思い出していた。
「生きていてくれて、ありがとう」、「ああ、安心した」と言った、英霊になってなお忘れることのない顔がエミヤの脳裏に浮かぶ。
────
エミヤシロウが衛宮士郎だった頃、無くしていた人並みの感受性が戻ってきたのは、義父だった衛宮切嗣と姉代わりの藤村大河を始めとした心優しい人間に出会い、愛されたからこそだろう。
特異点で敵対したパラケルススは、ジャックに慈悲の心は"ない"と称していた。
ならば、慈悲の心ができるまで何度でも愛して見せよう。マスターである立香がそう胸に抱いているように、エミヤもまた同じ思いだった。
思いにふけっていたためにエミヤは気付くのが遅れたが、安心したジャックはいつの間にか眠っていた。
なぜかジャックを動かす気が起きなかったエミヤは、彼女を優しく抱きしめた。
後日、私服を欲しがったジャックへワンピースを仕立てたエミヤだったが、立香達にあらぬ疑いを掛けられ、尋問されることになる。
わたしたちも、おかあさんが大好き。
おかあさんの中にかえりたいと思っているけど……またおかあさんに撫でてもらいたい。
もっと愛してほしい……おかあさん。