木曾さんからまるゆさんがいなくなったと相談されたのが四日前のことです。
「離してください!」
汚れた洋服を着たまるゆさんが繁華街の雑居ビルの非常階段で発見されたのが昨日のことです。
「まるゆと一緒に死ぬ気ですか!」
そして、まるゆさんっぽい人が雑居ビルの八階のへりに立っている。そう連絡を受けたのが今日の昼過ぎです。
「いい加減はなしてください!」
今は太陽が地平線に沈もうとしています。とても綺麗な景色です。こんな景色を都会から見れるとは思ってもいませんでした。
「もう飛び降りますよ!」
「うるさいです。それより見てください。都会からでもこんな綺麗な夕焼けを見ることができるのですね。いえ、都会だからこそでしょうか。人工物と自然の融合と言いましょうか……」
野分は今、50センチ程度しかないビルのへりに立っています。左手が重たいのでバランスを取るので精一杯です。
「うるさいって……離してくれれば静かになりますよ!」
「離しません。怖いですから」
野分自身、どうしてここにいるのかわかりません。気が付いたらこんなところに立っていました。まるゆさんが飛び降りようとしているところまでは覚えています。
「怖いならなんで来たんですか?!」
「体が勝手に……それより戻りましょう。ほら行きますよ」
左手で掴んだ重りを引っ張ろうとすると、逆に引っ張られました。突然のことで対処できず。右足が宙に浮きました。
「のわっち!!」
近くの窓。恐らく野分が飛び出したであろう窓から足柄さんの手が伸び、野分の右足を掴みました。左手の重り、左足、足柄さんに捕まれた右足でへんてこなY字バランスをしていることでしょう。
「出てこないでください!」
まるゆさんが足柄さんに怒鳴ります。野分としては、怒鳴るより先に助けて頂きたいです。
「のわっち! ゆっくり降ろすわよ。下見ちゃ駄目だからね!」
「余計なこと言わないで!早くゆっくりしてください!」
下。落ちる。そんな言葉は知りません。
「大丈夫か……?」
足柄さんの奥から日向さんの心配してそうで呆れた声が聞こえます。
「はい! 野分は大丈夫です!」
必死に自分を奮い立たせました。大丈夫です。だって50センチもあるんですもの。野分の足の二つ分以上ですよ。大丈夫。大丈夫。足柄さんが野分の右足をゆっくり降ろしていく。ほら、ついた。
「まるゆさん。次やったら本気で怒りますからね」
野分の意思に反して、口が勝手に動きます。冷静なふりをして、すごく腹がたっているのが野分にもわかります。
「うぅ……野分さんまでまるゆを……」
まるゆさんは下を向いてしまいました。泣きそう。かわいそう。そんなことを思うより先に、怒りたい。そう思っています。
「野分。冷静になれ。とりあえず座ったらどうだ?」
先程の窓から今度は日向さんが顔を出しました。
「だ、そうです。まるゆさん。一回座って落ち着きましょう」
抵抗するかと思いましたが、まるゆさんは素直に座ってくれました。
「腹は減らないか? お前ら昼から何も食べてないだろ。何か買ってこようか?」
日向さんが遅いお昼、早い夜ご飯の提案をしています。この人は状況がわかっているのでしょうか。それともわかっていて言っているのでしょうか。
「そんなことより、早く助けて頂けないでしょうか?」
「下を見てみろ。飛び降りてもいいようにマットを敷いておいた」
飛び降りてもいいように。下すら見れない野分にこの人は何を言い出すのでしょう。
「邪魔しないでください! まるゆはいらない子なんです!」
「何があったんですか?」
説得するしかない。野分は深いため息をついてしまいました。どうやらそれがまるゆさんを傷付けたようです。
「そのため息は何度も聞いてきました。勝手にまるゆに期待して、期待を裏切られたって」
「適当なおにぎりとお茶でいいか? 買ってくるから」
日向さんがまるゆさんの話を無視して自分の話を押し通そうとしています。野分は黙って頷くと、日向さんは頭を引っ込めました。窓から日向さんと足柄さんが何かを話しているのが聞こえます。内容までは聞き取れません。
しばらくすると、今度は足柄さんが頭を出しました。
「近くのコンビニまで行くから20分ぐらいかかるって」
「そうですか。ありがとうございます」
「私もやることが出来たから少し離れるわね。のわっち。しっかりやりなさいよ」
薄情者がまた一人消えました。いえ、増えたのでしょうか。
「そうやって野分を一人にするんですね」
「野分さんも一人なの?」
先ほどまで泣きそうだったまるゆさんが同情の眼差しでこちらを見ています。
「そうですね。今は一人です」
「でも野分さんはすごいじゃないですか。さっきも急に飛び出してきて、まるゆの腕をあっという間に掴んだんですから」
「覚えていません」
本当に覚えていません。助けなきゃいけない。そう思い、気がついた時にはこうなっていました。
「それに、本当に凄いのなら今頃は無理矢理にでもまるゆさんを室内に引きずりこんでます」
「まるゆは何をやっても駄目でした。失敗する度に木曾さんに怒られて、あきつ丸さんにも呆れられてきました」
「どんな感じで怒られて、どんな感じで呆れられたんですか?」
きっと嫌なことを思い出させてしまう。そう思いました。ですが話してもらわない事には本当の意味での説得にはならないでしょう。まるゆさんの右手をしっかり握ると、まるゆさんも握り返してきました。
「そんなうじうじしてるから駄目なんだって。あきつ丸さんも、また駄目でありましたか……といつも」
「うじうじ?以前はもっと自信を持っていた様な気がしますが……」
「艦娘の時は一所懸命でした。戦わなくちゃいけないという使命感がありましたから。でも退役した今、誰の役に立てない自分が情けないんです」
まるゆさんはそう言うと再びうつ向いてしまいました。野分はここからどう声をかけていいかわかりませんでした。しばらく何を言うべきか考えていると、日向さんが窓から顔を出しました。
「買ってきたぞ。受け取ってくれ」
コンビニのビニール袋ではなく、少しお洒落な紙袋を渡されました。中身を覗くと、パックに入った少し高そうなおにぎりとお茶のペットボトルが二つずつ入っていました。気のせいか、これだけにしては少し重い気がします。
「まるゆさん。これ」
おにぎりとお茶のセットをまるゆさんに渡し、自分の分を取り、空の紙袋を脇に置きました。
「「いただきます」」
もう日は沈んでいます。夜空の中にはオフィスビルの窓から漏れる光と赤く点滅する光が散りばめられ、都会の夜景を彩っています。落下への恐怖心はまだありますが、座ったことで落ち着けました。
「コンビニのものより美味しいですね」
まるゆさんはおにぎりを大事そうに食べていました。それで気がついたのですが、まるゆさんは以前よりも小さくなっているような気がしました。
「まるゆさん。ご飯はちゃんと食べていますか?」
「食べたいんですけど、食べられません」
「食べられない?」
「食欲がわかないんです」
まるゆさんはもともと食べる方ではありません。それが食べなくなったのなら、洋服の下は前以上に細身になっているでしょう。
「……食べ物を食べられなくなるほど悩んでいたんですか」
「まるゆは誰の役にもたちませんから。ご飯食べる資格なんてありません」
「もう誰かの役にたつ必要なんてないんじゃないですか?」
野分がそう言うと、まるゆさんは目を見開いてこちらを見ました。ふと、背中をつけている壁からドンッという振動が伝わった気がします。
「野分さん。やっぱりまるゆは……」
少し言葉を選ぶべきでした。おにぎりを口に詰め込み、空いた手でまるゆさんの手をしっかり握りました。しばらく飲み込むのに時間がかかりましたが、まるゆさんは待っていてくれました。
「まるゆさんはもう艦娘じゃないんです。自分の為に生きるべきでしょう?」
「でも、木曾さんやあきつ丸さんにはお世話になりっぱなしで……」
「野分も日向さんと足柄さんには迷惑をかけ続けています。最初は期待に応えようと頑張りました。けど、ある時気がついたんです。人の為に頑張るなら自分の為に頑張らなきゃいけないって」
まるゆさんはよくわからないと言いたげな顔をしていました。正直、野分にも自分が何を言っているのかよくわかっていません。
「足柄さんはいつも書類仕事を溜め込みます。結局、期限が迫ると野分に泣きついてきます。けど足柄さんが普段他のことをやってくれているから野分の仕事がやり易いんだと思います。それに野分が悩んでいるとさりげなく助けてくれます。あの人は自分が出来ないふりをして、野分に仕事をやらせてくれているんです」
「それって野分さんに押し付けてるんじゃないですか?」
「そうかもしれません。けど、きっと野分がやるよりも足柄さんがやった方が早く終わると思います。野分が所属する前はお二人で仕事を回していたそうですから」
まるゆさんから手を離し、お茶のペットボトルに口をつけました。足の下から聞き覚えのある排気音が聞こえてきました。きっと足柄さんでしょう。
「日向さんはいつも仏頂面です。指示を出すときは、やれ、の一言で理由を教えてくれません。何度も意味があるとは思えないことをやらされてきました。けれど、最後に意味があるとわかりました。なぜこれをやらなくちゃいけないのか。自分で考えろってことだったんだと思います」
「冷たいですね」
「そんなことはありません。日向さんには日向さんの考え方があります。野分は野分の考え方をしなくちゃいけない。結論が同じでも、そこに至るまでの過程の違いが大事なんだと思います」
「まるゆには難しくてよくわかりませんね」
まるゆさんは理解しようと悩んでいましたが、しばらく悩むとやめてしまいました。
「自分の意思で、自分の為に動くことが大事なんだと思います。きっと木曾さんの言うウジウジって言うのもそうだと思います。あきつ丸さんもまるゆさんにその事に気が付いて欲しいんだと思います」
「それならそうと言って欲しいですね」
「じゃあ聞きに行きましょうか」
「えっ?」
野分は下を指差しました。怖くて見てはいませんが、野分の勘は正しいはずです。
「木曾さん……それにあきつ丸さんも……」
やっぱり。足柄さんは二人を探して連れてきていました。
「行きましょう」
まるゆさんのおにぎりのごみを紙袋に入れ、立ち上がろうとした時でした。
「「……えっ?」」
右手で紙袋を持ち上げようとしたら予想以上に重たく、バランスを崩しました。自分の声にまるゆさんの声が重なります。
落ちる。紙袋に引っ張られる様に頭から。紙袋を離そうと思っても手が動かない。駄目だと思いました。落ちてもマットがある。多少の怪我は仕方ない。そう思い、目を瞑ってしまいました。
体が浮いています。でも落ちている実感はありませんでした。ゆっくり目を開けると、見たくない地面が見えました。頭に何かをつけた足柄さんが驚いた様な間抜けな顔をしているのが見えました。
「さすがに頭から落ちたら怪我じゃすまんぞ」
足元から声が聞こえたと思うと、右足をすごい力で引っ張られました。逆さになった日向さんの顔が見えます。
「あれ?なんで日向さん、ヘッドセットなんかつけているんですか?」
「話は後だ」
日向さんはそのまま野分を室内に下ろしました。頭から受け身を取るように着地し、久しぶりの広い地面に感動します。日向さんに連れられまるゆさんが入ってきました。
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まるゆさんは日向さんに連れられ下まで降りました。野分はその後ろを着いていきます。
ビルの外に出ると、腕を組み、明らかに怒っている木曾さんとあきつ丸さんがいました。まるゆさんはそれに怯え、日向さんの陰に隠れました。
「木曾とあきつ丸に話を聞くんだろ?」
日向さんはそう言うと、まるゆさんの腕を取り、強引に二人の前に差し出しました。
木曾さんは何も言わずにまるゆさんを殴りました。
「この馬鹿が! どれだけ心配したと思ってるんだ?」
「まったくであります! 金輪際、こんな馬鹿げたことはやらないでいただきたい!」
殴られたまるゆさんは起き上がろうとはしませんでした。それに業を煮やした木曾さんがまた拳をあげました。
「それぐらいにしておきなさい」
足柄さんが木曾さんの拳を掴みました。木曾さんは睨むように足柄さんを見ました。
「まるゆだってあんた達の期待に応えようと頑張ったのよ。それをあなた達がうちの仏頂面みたいにちゃんと説明もせずに怒ったからこんなことになったのよ。少し冷静に話し合いなさい」
木曾さんは拳を下げました。あきつ丸さんはまるゆさんを立たせるとこちらに会釈をしました。
「今は三人でゆっくり話し合え。後の処理はこちらでやっておく」
日向さんはそう言い、三人を帰しました。これだけ大騒ぎしておいて、最後は呆気ない。また野分の知らないところで二人が動いていたのでしょうか。
「そう言えば、なんで木曾さんとあきつ丸さんに話を聞くことがわかったのですか?」
あの話は野分とまるゆさんしか聞こえないはずだ。それをどうして日向さんが知っているのだろうか。
「気付いていると思ったのだが……いつも仏頂面で悪かったな。足柄は出来ないふりをしているんじゃなくて、出来ないんだ」
「ちょっと! 自分が悪く言われたからって八つ当たりはやめてもらえる?」
「まさか……」
手に持っていたやけに重たい紙袋。底の厚紙を取ると中には立派な無線機がありました。
「全部聞いてたんですか……」
「まぁ、そうなるな」
「ち、違うんです! 高いところが怖くて気が気じゃなくて! あれも全部まるゆさんを説得しようと!」
「わかったわかった」
日向さんは野分の頭を撫でました。怒っているわけではなさそうです。
「さて。まるゆはあの二人に任せるとしてだ。野分。今回の勝手な行動について言いたいことがある。だがあえて言わん。なぜ説教をされるのか。お前なりに考えてみろ」
「大丈夫。どうしても駄目そうなら私が助けてあげるから」
結局この日、何も言わない日向さんとよく喋る足柄さんにお説教が鳳翔さんのお店で行われました。