摩耶さんの同僚の方から不審者の情報を得たのは張り込みを始めて四日目のことでした。野分と足柄さん、そして長門さんの三人が今日の当番でした。当番というよりは、野分と足柄さん以外は手が空いている人に手伝って貰っていると言った方が正しいですが……
「明らかに挙動不審の赤髪の女の子がこちらに向かっているそうよ」
報告を受けた足柄さんが野分達に内容を伝えます。赤髪の女の子、江風さんで間違いないでしょう。
「どするんだ?ここに姿を現わしたら確保するのか?」
長門さんが準備運動をしながら野分に尋ねます。足柄さんと長門さんがいるので、ほぼ確実に江風さんは拘束できるでしょう。問題はその後、江風さんから話を聞き出せるかどうかです。
「江風さんが扉を強引に開けたら現行犯で確保します。それまではただの不審者でしかないですから」
野分は携帯の画面を見ました。数件のメールマガジンが届いていましたがそれ以外に留意すべき情報は入ってきてはいません。時刻はもうすぐ深夜の二時になろうとしています。
「のわっちによってはタイミングが悪いわね……」
足柄さんのいう通り、24時間体制で張り込んでいる野分と足柄さんは交代で休憩を取っていました。今の時間は野分が仮眠をとる時間なのですが、呑気に寝ているわけにはいきません。欠伸をかみ殺すと、目から涙が溢れます。
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江風さんはそれからすぐに現れました。咥え煙草でお店の前まで来ると、周りを警戒することもなく、一気に扉を開け放ちました。まるで最初から鍵などかかっていない様に開けると、江風さんは躊躇なくお店の中に入りました。
「派手にやったわね……」
足柄さんがそうぼやくと、足音を立てずにゆっくりとお店の入り口に近づきました。長門さんは裏口に回っています。野分は足柄さんの後に続きました。手にはライトが付いた9ミリを握っています。足柄さんにアイコンタクトを送ると、足柄さんは顎で中に入る様に指示を出しました。
「特捜です!両手を上にあげて膝をついてください!」
拳銃を構え、ライトを人影に照らしてそう叫ぶと、赤髪の女性はゆっくりとこちらを向きました。
「野分かい……こんな早くきたところを見ると張り込んでたんだろ?」
赤髪の女性、江風さんは眩しそうにこちらを見ました。その目は血走っていて、あの攻撃的な伊勢さんと重なりました。
「そうです。江風さん、少し痩せましたね」
痩せた。と言うよりやつれたと言った方が正しいでしょう。江風さんはゆっくりとこちらに歩み寄って来ました。野分の背後で、何かが動く気配がしましたが、今はそれに気にかける余裕はありません。
「動かないでください!両手を上げて膝をその場につけて!」
野分がそう叫ぶと、江風さんはニヒルな笑みを浮かべながら両手を上にあげました。
「よく見てみ。凶器なんて持ってないじゃないか?」
「その全身が凶器だと言うことはわかっています!膝をついて!」
「野分、この江風はもう仲間じゃないのかい?」
江風さんは悲しそうな顔をすると、一瞬のうちに近くにあった椅子を野分に放り投げて来ました。暗闇の中でライトが照らす視界のみが頼りだった野分はそれに気をとられ、江風さんを見失ってしまいました。その直後、野分の脇を足柄さんがすり抜けました。その直後、厨房の奥の方で何かが倒れる音がしました。
「大人しくしろ!」
長門さんの怒鳴り声が聞こえて来ました。裏口に長門さんを配置しておいてよかった。そう考えてながら裏口に向かうと、長門さんが頭から血を流し、江風さんと睨み合っていました。
「長門さん!大丈夫ですか⁈」
「大丈夫だ。そのフライパンで頭を殴られただけだ」
よく見ると、江風さんの足元にベッコリと凹んだフライパンが転がっていました。あんなになる程の力で殴られて立っている長門さんは一体何者ですか……
足柄さんが後ろからゆっくりと近づくと、江風さんは物凄い形相で足柄さんを睨みました。
「気をつけろ!包丁を持っている!」
長門さんがそう叫ぶと、江風さんは足柄さんに襲いかかりました。足柄さんは大振りな一太刀を避けると、その腕を取ろうとしましたが、上手くいきませんでした。手を伸ばして、包丁の持つ右手を取りにいった足柄さんの踏み込みにあわせて、江風さんはもう片方の手で足柄さんの顎を殴りました。殴られた足柄さんは野分方に飛んできました。元駆逐艦の力とは思えません。
「カウンターか、見事なものだな」
いつの間にか後ろから距離を詰めていた長門さんが江風さんを背後から拘束しました。しかし、少し甘かったのか、まだ腕をがむしゃらに振り回しています。持っていた包丁が長門さんの顔の前をかすめ、長門さんは拘束をといてしまいました。再び自由になった江風さんは長門さんを睨みました。その直後、野分の服の裾を何かが引っ張りました。
「油断したわ……」
足柄さんを引っ張り起こすと、足柄さんは大きく煙を吐きました。足柄さんの顔を見ると、これまでに見たことの怖い顔でタバコを咥えていました。煙草をなんて吸わないはずなのですが。江風さんが野分と足柄さんを見ると、まるで蔑むような目でこちらを見ていました。
「舐められたものね……」
足柄さんは野分の前に出ると、ゆっくりと構えました。
「今度は仕留めるぜ?」
江風さんが包丁を足柄さんに向けました。その直後、足柄さんは一気に距離を詰め、江風さんの包丁を持つ手を捻りを入れて殴り飛ばしました。咄嗟の事に、江風さんは反応できず、そのまま包丁を手放してしまいました。
「私を殴り飛ばした力があるんですもの。それとも武器がないと怖くて何も出来ないのかしら?」
足柄さんが挑発するように言うと、江風さんは憎悪を剥き出しにしたような顔で足柄さんを見ました。
「舐めた事を……言うな!」
江風さんが足柄さんに殴りかかりました。足柄さんはそれを避けると、先ほどのお返しだと言わんばかりのカウンターを決めました。江風さんがよろけるのを見て、野分が確保しようと動くと長門さんに手を引っ張られました。
「やめておけ。殺されるかもしれんぞ」
「しかし……」
「足柄の顔を見ろ!止めたら殺すと言わんばかりの顔じゃないか」
長門さんにそう言われ、足柄さんを見ると、野分のことを睨んでいました。
「どうして……」
「あの煙のせいだ」
長門さんはそう言うと、足柄さんが咥えている煙草を指差しました。
「あんなものいつの間に……まさか、江風さんが最初に咥えていた……」
「それは知らんが恐らくそうだろう。足柄が殴り飛ばされた所の近くに転がっていたからな」
足柄さんは短くなった煙草を乱暴に靴で踏み消すと、江風さんの方に歩み寄りました。
「立ちなさい。効いてないのはわかってるわ」
「流石は重巡だねぇ……」
江風さんはゆっくりと立ち上がりました。顔には余裕が伺えますが、膝が震えています。
「効いていないわけがない。だが、痛みは感じないのだろう」
「どうしてわかるんですか?」
「私が拘束した時、関節がありえない角度に曲がったからだ。それに驚いて拘束を解いてしまったが……普通なら激痛であんなに動かせるわけがない」
長門さんの拘束が甘かったのかわけじゃない。江風さんが異常でした。
「野分は……最悪あの二人を撃たなくてはいけないのですね……」
「足柄の意志が強いことを祈るしかない。今の江風が足柄に勝てる見込みはゼロに近い」
江風さんはフラフラと足柄さんに近寄ると再び構えました。足柄さんが構えると、江風さんは腕を振りかぶりました。腕を振り抜くと、その反動でをつけて立て続けに足柄さんに拳を下ろしましたが、足柄さんはただそれを受けていました。
「もう戦える力は無いようね」
足柄さんは江風さんの拳を弾くと、そのまま顔に二発ほど打ち込みました。江風さんはそのまま音もなく崩れました。
「足柄さんを任せてもいいですか?」
「わかった」
長門さんは足柄さんに近づくと、そのまま腕を拘束しました。足柄さんは素直にそれを受け入れましたがどこか辛そうでした。
「長門……お願い、私を止めて……」
「そうか……痛いと思うが我慢しろよ」
長門さんはそう言うと、足柄さんの腹部を渾身の力で殴りました。足柄さんは呻き声をあげると、そのまま倒れました。
「もう足柄は大丈夫だ。しばらく起きないだろう」
「ありがとうございます」
倒れている江風さんを抱え起すと、煙草の臭いとは違う、鼻につく臭いがしました。伊勢さんの部屋で嗅いだものと同じ臭いです。
「また暴れ出したら厄介だ。私が江風を運ぼう。野分は足柄を頼む」
「なにからなにまですいません……」
「気にするな……んなっ⁈」
外に出ると、長門さんの表情が急に険しくなりました。
「感あり……これは……」
長門さんは何かを呟くと空を見上げました。野分も吊られて見上げると、鳥のような黒い点が野分達の頭の上を旋回していました。よく、耳をすませると、エンジン音の様なものが聞こえます。
「……艦載機だと?」
長門さんはそう言うと、忌々しそうに空を見上げました。しかし、野分達の前に現れたのは艦載機だけではありませんでした。
「あの子も久々に空を飛べて張り切っているんじゃない?」
「川内さん、伊勢さん……」
日本刀だけ持った伊勢さんと川内さんが待っていたと言わんばかりに壁に寄りかかって立っていました。その刹那、伸びていたはずの江風さんが急に暴れ出し、長門さんの腕から離れました。長門さんは何度目かわからない舌打ちをしました。