「問題は次の場所……」
足柄さんが去ったオフィスで、野分は伊勢さんから渡された電話帳を眺めていました。安い紙で出来たそれには、日向さんと伊勢さんの血がついて一部のページがめくり難くなっています。何気なく開いて眺めていても、そこから得られる情報は多すぎました。
「元艦娘の人が標的だとすれば……天龍さんのところも青葉さんのところも狙われる。軍には手を出さないと考えるべきか……」
独り言を呟きながら情報を整理しますが、どうしてもまとまりません。一旦考えを纏めようと電話帳を閉じると、生々しい血の跡がやはり目立ちます。なんとなく、それを眺めていると二箇所に不自然についた血の跡がありました。他の血の跡は流れ出た血が川を作り、それが内部に流れ込んでいましたが、それだけはまるで池の様でした。その跡がついた部分をパラパラとめくっていると、少しずつそれが指の形をしている事に気がつきました。その跡は捲るにつれてどんどん濃くなっていきます。
「もう少し……」
めくり進めると、自然に開かない一頁にたどり着きました。血糊でくっついたのでしょう。その頁を丁寧に開くと、くっきりとした指の跡が二つ残っていました。
「日向さん……?」
野分はこれを受け取った時の事を思い出しました。伊勢さんはこれを日向さんに乱暴に手渡し、日向さんはそれを素直に受け取りました。その時についた跡でしょうか。指の跡が二つということは、もう一つは恐らく伊勢さんのものでしょう。
『私もあなたみたいな子に慕われたかったわ』
そう言った伊勢さんはどこか悲しげな顔をしていた様な気もします。もしあの二人がこの頁に印をつけたとすれば、何か意味があるはず。そう考え、注意深く読み込みますがこれといって有力な情報らしきものは見つかりませんでした。
「もしかしたら、伊勢さんが撹乱するために付けた……?」
そう考えましたが、だとすれば跡なんか付けなくても良かったはずです。
「何か……何かあるはず……」
もう思い切ってこの頁に記載されている全ての場所に張り込むべきなんじゃないか。暴走した江風さんを止められる人員を関係各所からかき集めた方が早い気がします。
「お腹すきましたね……」
考えを巡らしていると急にお腹が空きました。お腹が空いた、というより糖分が足りなくなった気もします。給湯室に向かい、何か食べられるものを探していると、端に置かれた大きめの段ボール箱が目にとまりました。中を覗くと、インスタント食品が乱雑に入っていました。その一つを手に取ると、賞味期限はだいぶ先で最近買われたものだという事がわかります。
「いったい誰が……」
普段、お昼は外に出てしまう事が多い野分達はあまりこういったものを食べません。明石さんはよく食べている様ですが、それをここに置いておくとも思えません。だとしたらよく残っている日向さんや夜型の川内さんの夜食という事でしょうか。
「こんなのばっかり食べてるなんてわかったら、鳳翔さんや間宮さんに怒られますよ……」
その一つを取って、お湯を注いでいるとある事に気がつきました。
「間宮さん……?」
野分はお湯の入ったそれを持って駆け足で自分のデスクに戻りました。途中お湯が漏れそうになったり、お箸がない事に気がつきましたがそれどころじゃありません。デスクに戻るなり、慌てて電話を取ると、そのまま陸奥さんに電話をかけました。陸奥さんは数コールのうちに出ました。
「もしもし?足柄なら目の前にいるわよ?」
「なら都合がいいです。間宮さんが、今、何処にいるか知っていますか?」
「間宮さん……?確か何処かの料理屋にいるはずだけど、それがどうしたの?」
「そのお店の電話番号でも名前でも住所でもなんでもいいので教えてください?お酒を飲まれる二人なら知っているかと思いまして!」
野分が早口で言うと、陸奥さんは電話を離し、足柄さんに何かを聞いている様でした。しばらくスピーカーから二人の話し声が聞こえてくると、陸奥さんの声がはっきりと聞こえてきました。
「わかったわ、今は穏七っていう料亭にいるみたいよ。足柄が妙高に電話して聞いた情報だから確かだと思うわ」
「わかりました。ありがとうございます……あった」
先程から開かれている電話帳を探すと、その名前は確かにありました。
「日向さんも伊勢さんも、もう少しわかりやすく教えてですね……」
「それをわかるあなたも日向に似てきたってことじゃないかしら?それで、私達はどうすればいいの?」
電話をが繋がったままであることを忘れていた野分は、慌てて電話を持ち直しました。
「足柄さんに伝えてください。人が集め終わったら、そのお店に来てください、と。野分は先に向かいます」
「わかったわ……ちょっと待って、足柄に変わ……」
陸奥さんが言い切る前に足柄さんが電話に出ました。足柄さんの声の奥から、陸奥さんが不満を漏らすのが聞こえます。
「のわっち、私のデスクの一番上の引き出しにバイクの鍵が入っているから使って。乗り方はわかるわよね?」
「前に講習を受けましたけど、それ以来乗っていないので自信がありません……車で行きます」
「車は私が使ってるのよ。壊さなければ傷付けてもいいから」
「……わかりました。ついでにもう一ついいですか?」
「何?」
「割り箸とか入ってたりしません?」
「割り箸?一番下の大きな引き出しにつまみと一緒に入ってる気がするけど……何に使うの?」
「緊急で要り用なんです。もう手遅れかもしれませんけど……」
野分は机の上で控えめに湯気をたてる容器を見て悲しくなりました。
ーーーー
慣れないバイクを必死に運転して間宮さんのいる料亭の近くの駐車場に着くと、ラフな私服姿の摩耶さんがいました。
「よっ、早かったな」
摩耶さんが片手を上げてこちらに挨拶をしました。
「お待たせしました……一人ですか?」
「そう、非番だったけど急に陸奥に呼び出されてな。偶々家にいたからよかったけどよ」
摩耶さんはそう言うと、野分が乗って来たバイクをマジマジと眺めました。
「足柄のお古か?」
「足柄さんのです。バイクはよくわかりません」
「てっきり野分も乗り始めたのかと思ったのに残念。最近、川内からも足柄からも誘われなくてな〜。一人寂しくツーリングしてんだよ。野分もバイク乗ろうぜ。楽しいぞ〜」
摩耶さんは屈託のない笑顔を浮かべましたが、野分は川内さんの名前を聞いて少し憂鬱になりました。摩耶さんはそれを察してくれたのか、頰を掻くと真面目な顔になりました。
「それで、私は何をすればいいんだ?陸奥からはここで野分の指示に従う様に言われたんだが……」
「張り込みます。恐らく、近いうちに江風さんがここにくると思われます」
「張り込みかよ……」
摩耶さんは心底めんどくさそうな顔をしました。そういえば摩耶さんは白バイ隊員でした。
「取り締まりで馴れているでしょう?」
「馴れるってのは好きになる事じゃない」
摩耶さんはそう言うと、青いバイクに跨り、肘をついて前のめりになりました。
「ここで美味しいご飯が食べられると思ったのによ……」
「それはまた今度でお願いします。その時は野分が出しますから……」
「んにゃ、陸奥に出してもらおうぜ。管轄違うのに私をこき使い過ぎだ」
摩耶さんはそう言うと携帯を取り出しました。どこかに連絡を取っている様です。
「なんとなく私が駆り出された理由がわかった。一応機動隊に連絡してここらの見回りを頼んでおいたから取り逃がすことはないと思うぜ」
「ありがとうございます……けれど……」
「わかってる。危険だから手を出すなとも伝えた。何かあればすぐに私か陸奥に連絡が行く手筈になるはずだ」
「本当にご迷惑をおかけします」
本来であれば野分達特捜がこういった手配をしなくてはいけないはずですが、日向さんがいない今、自分のところを動かすわけには行きません。それに、いくら艦娘が関与しているからとはいえ、海軍の人間が事件を起こしたわけじゃないでしょうから、すぐには動いてくれないでしょう。それに嫌われてますし。
「公には動かないさ。偶然ここらを取り締まるだけで、陸奥も上からちょっかい出されることもないだろうさ」
摩耶さんがそう言うと、野分達のいる駐車場に迷彩に塗られた大きな軍用車が現れました。
「すいません、遅れました」
運転席側から不知火姉さんが降りてくると、助手席側からは長門さんが降りて来ました。摩耶さんは呆れた様にバイクのエンジンを切ると、再び肘を付いて前のめりになりました。
「不知火が運転して来たのか……」
「急いで車を用意したのに、長門に運転させたらここに来るまで倍の時間がかかります」
不知火姉さんの言葉を受けて、長門さんは納得のいかないといった表情をしていました。
「急いで事故を起こしたらもっと時間がかかるじゃないか」
「長門の運転は逆に危ないです。ゆっくり走ればいいってものじゃありません」
「そうそう。流れを止めると、逆に追い越そうとか無茶な運転をする車が増えて事故に巻き込まれる可能性も上がるんだぞ。自分が事故を起こさない、じゃなくて周りにも事故を起こさせないって運転をしないと」
「しかしだな……」
「まぁ、言っていることは長門が正しいし、交通違反をするよりは全然マシだ」
三人で盛り上がっていますが、本来の目的を忘れているのではないでしょうか。
「急いで来ていただいた事には感謝します。けれど、目立つ様な事は謹んで欲しいのですが……」
野分がそう言うと、不知火姉さんと長門さんは申し訳なさそうな顔をしました。少し言い過ぎたでしょうか……
「急いで来たものですから……すいません。こういった事には不慣れで……」
「不知火を責めないでくれ。私が車両を用意したんだ」
二人が謝るのを聞いて少し後ろめたく感じていると、うるさい排気音を轟かせた車が入って来ました。見間違うはずもない、野分達の使う捜査車両でした。
「私達が一番遅かったみたいね」
足柄さんと陸奥さんが降りて来るのを、野分は呆然と眺めることしか出来ませんでした。いつもは自分が乗っていた車がこれほどうるさいとは……摩耶さんがニヤついた表情で野分を見ています。
「いい車乗ってんじゃないか」
摩耶さんが足柄さんに声をかけると、足柄さんは胸を張って答えました。
「さすがによく知ってるわね。この子ならイタ車でもドイツ車でも追いかけ回せると信じているわ」
「野分はこんな車を乗り回していたのですか……」
野分が落ち込んでいると、陸奥さんが優しく声をかけてくれました。
「大丈夫、足柄の運転が雑なだけだから」