利根さんの声に起こされて起き上がると、足柄さんが念入りに化粧をしていました。
「元から美人なのだからそんな粧しこまなくても……」
野分がそう言うと、足柄さんは鏡から視線を外しませんでしたが、嬉しそうでした。
「そういう訳にもいかないのよ。少しでも顔を変えないと……足柄じゃなくて、美人のお姉さんにならないといけないからね」
青葉さんが以前、取材をする際に同じ様なことを言っていたのを思い出しました。化粧は人を変えるとかなんとかと……舞風に言われて最低限の化粧しかしない野分にはよくわかりませんが……
「のわっちも昔、変装して捜査をしたでしょ?それと一緒よ」
足柄さんは野分がよくわかっていないのを察して、そう言ってくれました。そう言えばそんなこともありましたね……
「野分!お主も寝ぼけてないで早く用意をするのじゃ。そろそろ向かわないと間に合わないぞ」
利根さんにそう言われ、ハッとした野分は慌てて用意しておいた洋服に袖を通しました。今回は制服では無く、私服なので、制服を着るよりもずっと楽ですが、拳銃や、警棒を隠さなくてはいけないため、それに手間取ってしまい結局用意が一番遅かったのは野分でした。
「すいません、遅くなりました」
準備を整え、一階に降りると、粧し込んだ足柄さんと、動きやすい服装の利根さんと筑摩さんがいました。
「じゃあ行きましょうか……」
足柄さんはそう言うと、先に駐在所を出て行きました。野分は残った二人の顔を見ると、二人は黙って頷きました。
昨日、川内さんを見失った居酒屋さんの並ぶ通りの近くに車を停め、その通りに向かうと会計を終えた集団がお店からゾロゾロと出て来ました。
「足柄は声をかけられるじゃろうかの……」
利根さんが心配そうに言いました
「大丈夫ですよ。野分は今の足柄さん、すっごい綺麗だと思いますよ?」
「少し気合い入れすぎじゃ。ここらの若い連中が声をかけられるとは思えん……」
「姉さんはもう少ししっかりして欲しいですけどね……」
「筑摩!どういう意味じゃ?!」
筑摩さんの棘がある一言に、利根さんが噛みつくと、ちょうど出て来た男性の集団に足柄さんが声をかけられていました。少し離れた位置にいるので会話は聞こえませんが、足柄さんは愛想よく応対をしている様でした。
「……なんか足柄さんっぽくない……」
野分がそう言うと、利根さんが面白そうに見ていました。
「あの連中も、脱いだら自分たちより鍛えてる足柄に後でガッカリするんじゃないかの?」
「姉さんッ!そういう下品なことを言っちゃいけません!」
筑摩さんと利根さんの親子漫才を聞いているうちに、足柄さんはそのグループと一緒に次の居酒屋さんへ向かう様でした。とても皆さん楽しそうに歩いています。
「利根さん、筑摩さん。後を追いますよ」
未だにお説教をしていた筑摩さんの手を引っ張ると、利根さんはホッとした様子でした。
「しかし、うまくいくかの……あの連中からうまいこと話を聞き出せればいいが……」
「そうしたら、次の機会にかけます。幸いにも時間がありますし……けれど、今回で決めるつもりです」
「大した自信じゃの……何か確証でもあるのか?」
「これだけ、噂が拡がっているのに、それでも女性に声をかけるグループはそう多くない筈ですから……それに、これが正解なんですよね、川内さん」
最後に大きく名前呼び、自信満々に振り向きましたが、そこには誰もいませんでした。
「……どうしたのじゃ?野分よ?」
利根さんが驚いた様子で野分を見ていました。筑摩さんも目を丸くしています。
「川内ちゃん、いないわよ?」
筑摩さんも振り向きましたが、そこには誰もいませんでした。おかしい……こんなはずじゃなかったのに……カッコよく決めるつもりだったのに……
「……ほれ、足柄を見失うぞ。いつまでも惚けてないでいくぞ」
先程とは打って変わり、今度は野分が手を引っ張られてしまいました。
「呼ばれているぞ」
「……流石にそこまで浅はかな尾行はしないよ」
「期待に応えてやればよかったのに」
「でも凄いね。私がついて来てることを確信してたなんて……」
「青葉のお墨付きだからな。推理力と行動力には私も驚かされる……」
「なんか嬉しそうじゃない。まるで子供の成長を見守る親みたいだよ」
「まぁ、そうなるな」
足柄さん達を追いかけて、少し高級そうな居酒屋さんに入ると、店員さんにお願いして足柄さんたちの座る席の隣の席に案内してもらいました。隣から楽しそうな声が聞こえる反面、野分達はメニューを見ながらどうしようかと悩んでいました。
「飲むわけにはいかないのぅ……」
「姉さん、ほとんど飲めないでしょ?」
「そうなのじゃ。でもシュワシュワが飲みたいのじゃ」
「ビール一杯が八百円……?炒飯も一皿千円以上するんですか……ただ炒めたご飯が」
「野分ちゃん!お店の人に聞こえたらどうするの?!」
メニューを見て、その金額の高さに驚きを隠せないでいると、筑摩さんのお説教がこちらに飛んで来ました。
「なんじゃ、お腹空いとるのか?」
利根さんにそう言われ、黙って頷くと、利根さんはメニューを野分から取り上げ、店員さんを呼びました。
「あぁ、これとこれと…あとこれ、あとこれじゃ。あとは……」
「あと、ジンジャエールを三つください」
利根さんと筑摩さんが注文をすると、店員さんはお酒を頼まない野分達を不思議そうに見ていましたが、筑摩さんがそれに気がつきました。
「先にお腹に入れておかないと、美味しく飲めないから……」
筑摩さんが機転を利かせてくれたおかげ、なんとかその場を凌ぐことが出来ました。
「二人はよく飲まれるのですか?」
野分がそう言うと、利根さんは手を横に振りました。
「姉さん、飲まないけどおつまみは好きなんですよ」
「大丈夫じゃ。ちゃんとしたご飯も頼んでおいたぞ」
「ありがとうございます……すいません。どこまで経費で落ちるのか不安になっちゃって……」
後で青葉さんに渡す領収書の但し書きはどうしよう……飲食代か……調査費用か……
「公務員は厳しそうじゃのぅ……まぁ、そうでなくては困るのじゃが……」
そうでした、お二人には身分を明かしていなかったですね……
「腹が減ってはなんとやらじゃ。お金の心配はせんでいいから」
利根さんにそう言われましたが、出てくる料理の少なさに驚きが隠せず、鳳翔さんのところだったらこれの三分の一ぐらいの金額で三倍ぐらい出てくるのに……そんなことを考えながら、箸を動かしていました。
席について、二時間も経たない内に、横の席から一本締めが聞こえて来ました。どうやら今日はこれで終わりのようです。そのグループよりも先に会計に並び、外で待ち伏せることになりました。結局、食べ物ばかりを頼んで、お酒の類は頼まなかったので予想していた金額には届きませんでした。(野分はそれでも納得していません)
野分は元駆逐艦だからと、利根さんと筑摩さんに多めに出してもらってお礼を言っていると、足柄さんが、二人の男性と出て来ました。
「ほぅ……どうやらうまく捕まったみたいじゃの」
利根さんが物陰から覗き込むと、筑摩さんも覗き込みました。
「捕まったのか、捕まえたのかわからないわね」
お酒を飲んでいないはずの筑摩さんでしたが、お店の雰囲気に酔ったのか、少し寛容になっていました。
野分は携帯を取り出し、足柄さんに連絡をいれると返信はすぐに帰って来ました。
「足柄さんが上手くやりました……後は泳がせて、捕まえるだけですね」
「このまま吾輩たちは野分とご飯を食べたということで終わりたいもんじゃの」
利根さんが真面目な表情で言いました。
足柄さんと二人の男性が通りを元に来た方に歩いていったのでそれを追いかけると、足柄さん達が向かったのは野分達の車を停めた駐車場でした。
「野分は駐車場の精算をしてきます。お二人は車に向かってください」
二人は静かに頷くと、さり気なく足柄さんの方を見ながら車に乗り込みました。精算を終え、無賃駐車を防止する鉄板が下がったのを確認すると、車に乗り込みました。
「足柄は大丈夫かの……かなり飲んでる様子じゃったが……」
利根さんが心配そうに足柄さん達が乗る車を見ていました。
「大丈夫です。まだ素面ですよ」
野分は昔の記憶を呼び起こし、よくオフィスに誰もいなくなると引き出しから一升瓶を取り出していた足柄さんの姿を思い浮かべました。
「さて、行きましょうか……」
覆面のエンジンをかけると、普通の車には搭載されていないインジゲーターが光り始めました。普段はこんな大きい車は運転したくないのだけど……今は頼り強く思えました。
足柄さんが乗るミニバンの後をつけると、車は住宅街と繁華街を隔てる通りを走っていました。
「事故はどこでも起きるのじゃろ?本当にこのままでよいのか?」
「ダメならこのまましょっぴきます。でも野分の勘が正しければ、一回は女神様が現れます」
「本当にいるのかしら……川内ちゃんはいないって言ってたけど……」
筑摩さんが不安そうにそう言いました。
「女神様は……実はそんな大したものじゃないかもしれませんよ」
野分がそう言うと、二人は不思議そうにこちらを見ていました。
しばらく走っていると、前の車が急停車をしました。そこは奇しくも、昨日事故が起きた場所でした。
「やっぱり……!」
野分は車のヘッドライトを消し無灯火にして、道路の端に停めて慌てて降りると、お酒に酔った集団が道路を渡ろうと飛び出していました。
前の車を運転していた男性がその集団に怒鳴っているのを横目に、野分はその集団の一人に声をかけました。
「大丈夫ですか?」
声をかけられた男性は少し驚いていましたが、すぐに大丈夫だというジェスチャーをしました。
「すいません。酔っ払ってて……」
男性はそう答えると、未だに怒鳴られている仲間の方を見ました。
「お姉さん、ここは素通りした方がいいですよ。最近事故が多いからあの運転手も苛立ってるみたいですし」
「女神様ですか?」
野分がそう言うと、男性はビクッと肩を震わせました。
「そんな物騒な噂もありますね。俺たちも気をつけてはいますけど……」
「一つだけ聞いても?」
「なんですか?」
「ここら辺の学生さんですか?」
「そうですけど……」
「そうですか……それともう一つ、信号以外のところで横断する学生さんは多いですか?」
「……まぁ、めんどくさい時は渡りますね」
「わかりました」
野分が溜息をつくと、その男性は不思議そうに野分を見ていました。流石にこのままじゃいけない。そう思うと、男性の方へ向き直りました。
「警察のものです。多くは聞きませんが、以後、こういうことの無いようお気をつけください」
野分がそう言うと、男性は言葉を失っていた様ですが、半信半疑でしょう。振り返って停めておいた車に向かうと、怒鳴っていた男性も気が済んだのか、車を再び発進させようとしていました。車に乗り込むと、筑摩さんが心配そうに野分をみていました。
「大丈夫だった?」
「はい。女神様の正体は彼らでしたよ」
「どういうことじゃ?」
車を発進させ、再び前の車を尾行しながら、今回の事故が多い経緯を二人に話しました。
「単純に言えば、運転に不慣れな人たちがここら辺に増えた。それに加えて、交通ルールを守らない人たちも増えたってだけですよ」
「どういうことじゃ?」
利根さんが不思議そうにこちらを見ていました。
「学校ができたからね」
筑摩さんが答えを言い当てました。
「そういうことです。それに加えて、整備された道も思いの外交通量が少なかったのでしょう。それを渡ろうとする若者が多いそうです。学生で車を乗っている人なんて少ないでしょうから」
「でもそれと女性恐怖症とはどう結びつくのじゃ?」
「これは推測にしか過ぎませんが……車を乗り回してナンパする人が多いのでしょう。ここらは女学生も多いですし。それで揉め事になった人たち過剰反応しているだけでしょう。今の御時世で、歩いている女性に声をかける男性なんてそうそういませんよ」
「よくわからないのじゃ」
利根さんが難解な顔をしていました。筑摩さんもよくわかっていない様でしたが、なんとなくはわかっていた様でした。
「つまり……最初の女神様は悪い人に捕まった女の人で、その後の女神様は交通ルールを守らない学生さん達で……でもそれだったら事故を起こした人はそう言いませんか?」
「最初に事故を起こした人は女の子を誑かして、その子にやられました……とは言えませんよ。それにその後も人を跳ねそうになったから……なんていったら心象悪いですからね。何かを避けようとした。それでここ最近噂になってる女神様のせいにすれば……という具合ですかね」
「なんじゃ、つまらん……」
利根さんはつまらなそうに言いました。
「姉さん!そういうこと言わないの!」
筑摩さんも大体わかった様子で、ぼやく利根さんを叱責しました。