聞き込みを終え、駐在所に戻り、先程取ったメモをノートにまとめていると、事故の処理を終えた足柄さんが戻って来ました。
「お疲れ様です。どうでした?」
野分がそう声をかけると、足柄さんは疲れた様に首を横に振りました。
「収穫は無かったわ。単なるハンドル操作を誤った単独事故。何かを避けようとして操作を誤ったらしいのだけど、ガードレールもある大通りで、人がガードレールを乗り越えない限り何かを避ける動作なんて必要ないと思うわ」
足柄さんが鞄の中から事故処理の報告書を取り出しました。
「一応、交通課に許可を取ってコピーをもらって来たわ。随分素直にくれた事に驚きだけど」
報告書を受け取り、目を通すと、人影の様な何かを避けようとしてガードレールに衝突と書いてありました。
「飲酒運転でしょうか?」
「お酒も麻薬も無し。更に睡眠時間も充分。至って正常な状態だったわ」
「他に何か言ってませんでした?例えば、この男性が女性関係でもめていたとか……とか」
野分がそう言うと、足柄さんは不思議そうに野分を見ていました。
「変な事を聞くわね。何か掴んだのかしら?」
足柄さんは野分のまとめ途中のノートを覗き込みました。
「女神様?何これ?」
足柄さんはノートに書かれた単語を一つ取り上げると、眉間に皺をよせました。
「ここ最近、ここら辺で噂になっているそうです。何でも女性の味方で、女性に悪事を働いた男性には罰を与えるそうで……」
「ふぅ〜ん……それだけで女神様なんて、男か女かもわからないでしょうに」
「いえ……それに加えて、女神様は夜な夜な徘徊しているそうです。目撃証言もあるそうで……」
「夜の徘徊って……まさか……」
足柄さんが野分の顔をジッと見つめています。恐らく、自分では納得しきれない事を野分の口から言わせたいそうです。
「はい……筑摩さんからもお話を聞きましたが、噂が流れ始めた時期に川内さんが現れたそうです」
野分がそう言うと、足柄さんは疲れた様に溜息をつきました。
「まだ……確証があるわけじゃないでしょう?それに、さっきの事故時刻は正午過ぎ。まだ明るかったわ」
「はい。それにこれまでの事故も明るい時間に発生しているものもあります。それに噂が流れ始める前から事故は発生しています」
「まだ納得はしていのだけど……」
足柄さんは渋い顔をしていました。
「噂が出る前から川内はこの街にいた……とも考えられるわね」
「……野分もその点は気になっています。いずれ川内さんからも話を聞く必要があると思っています」
二人しかいない駐在所に重たい空気が流れました。
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野分と足柄さんの待ち人は、その日の太陽が沈んだと同時に現れました。
「おはよ〜」
川内さんは眠たそうに駐在所に現れました。まだ夜の巡回までは時間があり、夜に備えて、足柄さんは上で仮眠を取り、一時間後に野分が交代で巡回までの仮眠を取るつもりでした。
「早起きしたから眠いよ……それでいつパトロールに行くの?」
川内は空いていた椅子に座るとそう言いました。
「早起きって……いつもこれぐらいなんですか?」
「最近はそうだよ〜。神通が寝るぐらいに起きてる」
野分は思わず言葉を失っていると、川内さんは不満そうに野分を見ていました。
「それで、いつ行くの?」
「あっ……十時過ぎに行こうと思っています。今が七時前なので、あと3時間後ですかね」
「そうなの……足柄は?」
「上で仮眠を取っています」
「そうなの。じゃあ私も上で寝てるから時間になったら起こしてね」
「えっ……?あの、ちょっと?!」
野分の制止も届かず、川内さん足早に二階に上がって行きました。しばらくすると、上から足柄さんの驚いた様な声が聞こえてきました。本来であれば様子を見に行くべきなのですが……野分に川内さんを止めるだけの力は無く、気付かないフリをすることにしました。
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枕元に置いた携帯が十時前を告げるアラームが鳴らし、目を覚ますと、全身の身動きが取れないことに気がつきました。何事かと思い、まだはっきりとしない視界を自分の体に向けると、川内さんががっちり野分を抱き抱えていました。
「なるほど、何も知らなかったらこれは驚きますね……」
先程の足柄さんの声の原因を知ったところで、強引に腕を引き抜き、アラームを止めて、川内さんの体を揺すって見ると、川内さんはやめてと言わんばかりに野分を拘束する腕と足に力を込めました。
「川内さん、起きてください!」
少し大声で言うと、川内さんは少しだけ覚醒し、野明の方をはっきりとしない目で見ていました。
「もう時間?」
「そうです。起きてください」
「わかった……」
川内さんは野分の拘束を解くと、シュタッと立ち上がって大きく伸びをしました。
「野分も早く起きて、準備して」
先程まで野分に抱きついて寝ていたのに……そんな事を思いながら、身支度を整え、一階に降りると、足柄さんが人数分の缶珈琲を買ってきてくれていました。
「二人ともおはよう。それで、なんで川内がここにいるの?」
足柄さんが怪訝な顔で川内さんを見ると、川内さんはしれっとした表情で答えました。
「一緒にパトロールするって約束したじゃない。なんか面白そうだし」
「全く……それはいいとして、あなた、普段はどんな寝方をしているのよ……起きた時に身動きが取れなくてびっくりしたじゃない……」
「いやぁ……近くに何かあるとついつい抱きついちゃうのよね……」
川内さんは照れ臭そうにそう言うと、時計を見ると、珈琲を一気に飲み干しました。
「十時だよ。早く行こう」
「それよりも聞きたいことがあるのですが……」
野分がそう言うと、川内さんは待ちきれないといった様子で野分の手を引っ張りました。危うく持っていた珈琲を零しそうになりましたが、中身が少ないことが幸いし、缶から溢れることはありませんでした。
「それは巡回しながら答えてあげるから。早く」
「全く……何聞かれても逃げるんじゃないわよ?」
足柄さんは呆れた様な顔をすると、空になった缶を机の上に置きました。もう二人とも出掛ける様だったので、野分も一気に飲み干そうとすると、川内さんが手をグイグイ引っ張るのでなかなか飲めず、仕方なく机の上に起き、以前オマケで貰ったキャップを被せておくことにしました。
「賑やかになりそう……」
小さく呟いたつもりでしたが、二人には聞こえていたようでした。
「大丈夫、外では静かにしてるよ」
川内さんはそう言うと、さっさと外に出て行きました。
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つい先程まではしゃいでいた川内さんも、巡回中は黙って野分達と歩いていいました。野分も足柄さんも聞きたことがあってもなかなかそれを口に出せずにいました。
「ここら辺も随分静かになったね」
夜の繁華街、居酒屋さんが多い通りを歩いていると、川内さんがおもむろに口を開きました。
「随分詳しいじゃない。夜歩きはずっとしてるの?」
足柄さんが探るように言うと、川内さんは真面目な顔で足柄さんを見ました。
「さっきから二人が私に聞きたい事に答えるとね、私がここら辺を歩くようになったのは五ヶ月ぐらい前ぐらいからかな?前はよく男の人に声をかけられてうざったく思っていたよ」
川内さんはそう言うと、再び黙って歩き始めました。
「じゃあ、あなたが女神様だっていうわけ?」
川内さんが喋り始めたことで、遠慮することをやめた足柄さんがそう言いました。
「女神様……最近噂になってるね。でもそんなのはいないと思うな」
川内さんはそう言うと、少し離れた位置でこちらを振り向きました。
「先に言っておいてあげる。私じゃない。そして、筑摩でも無い。三人ともそれだけは知っていてほしいかな」
「三人?!」
野分と足柄さんが慌てて振り向くと、そこには筑摩さんが驚いた様子で曲がり角の物陰からこちらを見ていました。
「いつから気がついて……」
野分が振り返ると、川内さんはいなくなっていました。
「なんなのよ……一体……」
足柄さんはそう呟くと、筑摩さんの方へ歩いて行きました。
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「すいません。邪魔をするつもりはなかったのですが……」
筑摩さんは申し訳なさそうに言いました。
「声をかけてくれればよかったのに……」
足柄さんがそう言うと、筑摩さんは悔しそうに言いました。
「川内ちゃんが何をしているのか知りたくて……」
「川内さんは事故について、何か知ってそうでしたね」
野分がそう言うと、二人は黙って頷きました。
「もし悪いことをしているのなら止めたい。そう思っているのだけど、はっきりと自分は違うって言ってたわね」
筑摩さんは顎に手を当てて考え込みました。
「川内さんはここら辺で男性に声をかけられていて……確か利根さんも絡まれたって言ってましたね」
野分がそう言うと、筑摩さんは黙って頷きました。
「足柄さん、少し危険を覚悟でお願いしたいことがあるのですが……」
そう言うと、足柄さんは少し嬉しそうな顔をしました。
「久しぶりにのわっちに頼られた気がするわ……それで、何かしら?」
「今日の巡回はここまでにして、一回駐在所に戻りましょう。申し訳ないのですけど、筑摩さんにもお願いがあるのでついては来てくれませんか?」
「えぇ、私に出来ることがあれば協力するわよ」
川内さんがどこに消えたかは気になりますが、野分達は駐在所に引き返しました。
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翌日の日没間近、筑摩さんと利根さんが駐在所にやってきました。
「野分!久しいの!」
利根さんは嬉しそうに野分の方を見ました。
「利根さん、お久しぶりです。すいません。危険を承知で手伝って貰って……」
「筑摩から大体話は聞いておる。なに、深海棲艦と戦うことと比べたらなんてことはないじゃろ」
自信たっぷりの利根さんに筑摩さんは困ったような顔をしていました。
「今日の朝、昨日のことを話したら、夜に備えて寝るって言い出して……けれど、興奮してなかなか寝付けなかったらしいの」
「うむ。久しぶりの荒事に血が騒いでの!」
「荒事にはしないで欲しいのですが……」
「肝心の足柄はどうしたのじゃ?」
利根さんは興奮した様子で駐在所の中を見渡しました。
「足柄さんは少しでも寝ておかないと、肌に悪いだとかで、今はお休みになられてます」
「ほぅ……野分は寝なくていいのか?」
「足柄さんが寝る前に寝ていましたので……昼過ぎまで寝ていましたから」
「夜は長い。休めるうちに休んでおいた方がよいぞ」
利根さんは心配そうに野分を見ました。それを見ていた筑摩さんは溜息をこぼしました。
「姉さんも今から張り切っていたら夜には眠たくなっちゃいますよ……野分ちゃんも、人が来たら起こしてあげるから少しでも休んでおいて」
「いえ、勤務中ですから……お二人も上でお休みになられていいですよ」
野分がそう言うと、筑摩さんは困った様な顔をしましたが、何かいいことを思いついたのか明るい表情になりました。
「じゃあお言葉に甘えて……野分ちゃん、姉さんを寝かしつけてあげてくれる?」
「どういうことじゃ、筑摩?」
利根さんが不満そうに筑摩さんを見ていました。
「姉さんを寝かしつけるのは大変なんですよ……私がそれをしたら逆に疲れちゃうわ。だから野分ちゃん、お願い」
「そういうことじゃな……野分よ、吾輩は寝付きが悪いのじゃ。悪いが付き合ってくれんかの?」
利根さんはそう言うと、強引に野分を二階に連れていきました。
「えっ、あのっ、利根さんッ?!」
「大丈夫、人が来たら起こしにいくから〜」
階段の下の方から筑摩さんはそう言うと手を振っていました。
結局、利根さんにがっしりと抱きつかれた野分はそのまま眠ってしまい、夜の巡回まで起きることはありませんでした。