その日は悪夢で目が覚めました。
野分の目の前で仲間の誰かが轟沈し沈んで行く。その光景を何も出来ずに見ている自分自身を後ろから見ている。そんな夢でした。
「野分…?」
横で寝ていた舞風が眠たそうな目を擦りながらこちらを見ていました。野分が飛び起きたことで起こしてしまったのでしょう。
「ごめん、起こした?」
そう言うと舞風は「大丈夫」と言い、枕元に置いてある目覚まし時計に手を伸ばしました。
「うぅ〜ん…」
時間を確認するや否や、枕に顔をうずめました。舞風から時計を受け取り、時間を見ると、あと五分で六時。目覚ましは六時にセットしてあります。
「この五分の睡眠はきっと気持ちいい…けれど!」
枕に顔をうずめていた舞風は意を決した様に飛び起きました。
「野分が作ったこの五分はもっと有意義な五分にしよう!」
そう言って、野分の手を引っ張っりました。
「寝汗が凄いよ。先にシャワー浴びてきたら?」
そう言われて、髪の毛やパジャマがペッタリと肌にくっついていることに気がつきました。
「そうするよ。先に入るね」
着替えを持って浴室に向かいました。
シャワーを浴び終え、身支度を整え、リビングに向かうと舞風が朝食を机に並べているところでした。
「手伝えなくてごめんね」
いつもは二人で用意していたので罪悪感を感じ舞風に謝ると、舞風は首を横に振りました。
「うぅん。だって野分、ひどい顔してたもの。シャワー浴びてすっきりした?」
舞風はそう言って再びキッチンに戻りました。
「うん。もう大丈夫。何か手伝うことない?」
キッチンを覗くと、舞風はお茶のペットボトルを渡してきました。
「これ運んで。あと出る時にゴミお願いしてもいい?」
「了解」
いつもと変わらない朝の日常。いつもと違うのは五分早いだけ。それだけなのにいつもと違う様な、そんな感じがしました。
普段より少しだけゆっくりして、普段と同じ時間に出勤をしました。いつもと変わらず、先に日向さんが来ていて、あと二十分もすれば足柄さんが出勤をしてくるはずです。
「おはようございます」
野分が日向さんに挨拶をすると、日向さんは珍しく刀の手入れをしていました。
「おはよう」
刀には人をその気にさせる魔力がある。よくそう言いますが、手に持たずに、こうやって眺めているだけでも不思議な気持ちなるのは何故でしょうか。野分の視線に気がつき、日向さんは苦笑いをしながら野分に自分のデスクに座る様に促しました。
「そんな危ない顔してたら、舞風や長門に心配されるぞ」
日向さんがからかう様に言いましたが、もう慣れました。
「そんなに変な顔してました?」
野分がそう言うと日向さんは再び刀身を丹念に確認しながら答えてくれました。
「飲んでいない足柄がお酒を目の前した様な顔をしていたが…」
「どういう…わからないわけじゃないですけど…」
「そうだろう?」
「しかし、珍しいですね」
野分がそう言うと、日向さんの顔が少し曇りました。
「嫌な胸騒ぎがしてな…」
日向さんはそう言うと、手入れが終わったのか、刀を鞘に収めました。
「何かあったのんですか?」
野分は今朝見た夢のことを伏せ、日向さんに尋ねると、日向さんは首を横に振りました。
「いや…気のせいだと信じたいな…野分、すまないがお茶を淹れてきてくれないか?」
「了解しました」
席を立ち、日向さんに背を向け歩き出すと、後ろから大きなため息が聞こえてきました。
恐らく、足柄さんももうそろそろ出勤してくるだろう。そう考え、お茶を一つと珈琲を二つ用意しデスクに戻ると、難しい顔をした日向さんと足柄さん、それに青葉さんがいました。
「のわっち…おはよう」
「おはようございます」
足柄さんと青葉さんが難しい顔のまま挨拶をしてくれました。
「おはようございます…ごめんなさい、青葉さんの分までは用意してなくて。野分のでよければどうぞ…」
「いえ、青葉のことはお構いなく…」
「いや…淹れてきてやってくれ…」
日向さんが先ほど手入れをしていた刀を握り締めながらそう言いました。野分は何も言えず、ただ首を縦に振り、再び給湯室へと足を向けました。
青葉さんに分の珈琲を持ち、デスクに戻ると三人は一言も言わずに座っていました。
「どうぞ」
「どうも…」
青葉さんにマグカップを渡し、自分の席に着くと、足柄さんが大きなため息をつきました。
「…何かあったのですか?」
沈黙に耐えられず、野分が口を開くと、日向さんが答えてくれました。
「私と足柄に懸賞金がかかったんだ」
「…懸賞金?指名手配とかのやつですか?」
「そっちのほうがまだよかったわよ」
足柄さんが腕と足を組み直し、天井を見上げながら答えました。
「どういうことですか?」
「お二方の命が狙われているということです」
青葉さんがそう言って、タブレット端末を渡してきました。それを受け取り、画面を見ると、そこには日向さんと足柄さんの写真、その下には一人当たり500万円と書かれていました。
「えっ…どういう…」
野分が言葉を失っていると、足柄さんが立ち上がりました。
「まだ日向と二人でやっていた時にしょっ引いた軍関係者と裏組織が逆恨みしてきたのよ!」
「いずれこういうことが起こるとは予測していたがな…正直侮っていた」
日向さんは険しい顔を崩さないままでした。
「どういうことですか…?なんでこんなものが…」
「すいません…」
青葉さんが悔しそうに言いました。
「青葉がもっと早く情報を手に入れることができれば、こんなことになる前に報告することが出来たのですが…」
「で、でも、イタズラとか…」
野分がそう言うと、青葉さんが首を横に振りました。
「イタズラでもデタラメでもいいんです。このページを見た人の誰かが行動を起こせばそれでいいんです」
「でも元艦娘相手に生身の人間が立ち向かってきたところで…そう考えたら、普通の人間はやらないですよね?」
恐る恐る言うと、足柄さんも悔しそうに手を握りしめました。それを見ていた日向さんが答えてくれました。
「それが百人、千人だったらどうしようもない。それにな…たった五百万、そう思うかもしれないが先の大戦で軍事費が拡大し、国民の負担は大きくなった。しかし、戦後、彼らの生活が豊かになったかといえばそんなことはない。貧しい人間の中には、戦争は終わらせた艦娘に対して快く思わない人間もいるはずだ」
「そんな…」
「現に天龍の件があっただろう?」
「そうですが…」
何も言えませんでした。野分が考えているものと現実が違いすぎて、どうすればいいのかわかりませんでした。
「別に自分の命が惜しいとは思わないわ…だけど、間違った連中に殺されるのだけは悔しくてたまらないのよ。こんなことなら、深海棲艦に殺された方がまだマシだわ」
「足柄!滅多な事を言うんじゃない!」
珍しく日向さんが怒鳴りましたが、足柄さんはそれに構わず続けました。
「こうなったら、向かってくる人間を全て殺してでも、黒幕を…」
その瞬間、パチンッと乾いた音が響きました。青葉さんが足柄さんを平手打ちしたのです。
「青葉は…艦娘はこの国の人間を守るために戦いました。もし足柄さんが守ってきたものを殺すと言うのなら、青葉、じっとしてられません」
「足柄…」
日向さんが青葉さんを睨む足柄さんの肩を掴みまっすぐ見合いました。
「お前の気持ちは痛いほどわかる。だが、青葉の言っていることがわからないお前ではあるまい」
日向さんの言葉を受けた足柄さんはその場で泣き崩れてしまいました。
「なら…私にどうしろって言うのよ…」
「何も打つ手がないわけじゃない…偶然にも、ここに標的にされなかった頼もしい仲間がいるじゃないか…」
「……野分?」
足柄さんと日向さんが野分の方に顔を向けました。
「駄目よ!のわっちを危険に晒すつもりなの?!」
足柄さんのその言葉を受けて、ただ見ていることしか出来なかった野分の頭がやっと再始動しました。
「野分はッ!」
やっとでた言葉は普通に言ったつもりでしたが強く出てしまいました。
「野分は大丈夫です」
少し落ち着いて、冷静に言えました。
「頼んでもいいか?」
日向さんがまっすぐこちらを見てそう言いました。
「はい。やらせてください」
野分も日向さんをまっすぐ見てそう言いました。
「私たちは表立って行動できないから大した支援は出来ない…それに加えて危険な任務になるがよろしく頼む」
日向さんはそう言い野分に頭を下げました。
「のわっち…」
まだ足に力が入らないのか、足柄さんが覚束ない足取りで歩み寄ってきて、野分を抱きしめてくれました。
「ごめんね。本当にごめんね」
「大丈夫です。まかせてください」
「…お願いね」
足柄さんはそう言うと野分を強く抱きしめました。
「だとしたら…野分の髪はそれは少し目立つな…」
冷静さを取り戻した日向さんと足柄さんは今後どうするかについて話し始めました。
「青葉にいい考えがあります!」
そう言うと青葉さんは自分の携帯を操作し、一人の女性が写った一枚の写真を見せてくれました。
「……誰?」
足柄さんが画面を見ながらそう言いました。野分も同じ意見です。
「青葉です!」
「えっ……これがですか?」
写真の女性と青葉さんと、交互に見ると、確かに顔のつくりが似ている部分がありますが、別人にしか見えませんでした。
「こういう仕事してると、こういう技術も必要なんですよ」
青葉さんが胸を張りながらそう言いました。
「へぇ…子供っぽいあんたでもこんなに大人びて見えるのねぇ…」
「足柄さん、どういう意味ですか?」
感心している足柄さんを青葉さんがムスッとした顔で睨みました。
「素直に感心してるのよ」
日向さんはそれを見て、まだ一言も喋っていないのが不気味でした。
「…これ、私たちでも行動できるんじゃ…」
足柄さんがそう言うと青葉さんが首を横に振りました。
「恐らく変装した後もプロ相手なら標的だとすぐにバレると思います」
日向さんは黙ってそれを聞いていました。
「お二人は大人しくしていた方がいいかと…」
青葉さんがそう言い切ると、やっと日向さんが口を開きました。
「私でもすぐにこれが青葉だとわかったんだ。恐らく私たちの変装は意味がないだろうな」
「さすが日向さんですね。すぐ見抜かれましたか」
青葉さんがそう言うと、一本取られたと言うようなジェスチャーをしました。
「だが変装はいい案だ。それにこういうのが得意そうなやつを、私はもう一人知っている」
そう言うと日向さんは青葉さんの携帯を取り上げ、自分の携帯を見ながらどこかに電話をかけました。
「陸奥か?日向だ。悪いがすぐこちらに来てくれないか?お前にやってもらいたいことがあってな」
日向さんが電話をかけた相手は陸奥さんでした。
詳細を聞かず、野分の変装を手伝って欲しいと頼まれた陸奥さんはそれから二時間後に来ました。
「先に断っておくけどね」
陸奥さんは少し不機嫌そうな雰囲気でした。
「私は別に厚化粧じゃないからね?」
手に持っていた二つの紙袋を乱暴に野分の机の上に置くと、ふて腐れたように野分の椅子に座りました。
「それで、なにがあったのよ?」
陸奥さんが日向さんに説明を求めました。
「あぁ。実はな…」
日向さんがこれまでにわかっていることを陸奥さんに話すと、ふて腐れていた陸奥さんがいつの間にか真面目に話を聞いていました。
「殺害依頼サイトなんて…馬鹿馬鹿しいわ」
話を聴き終えた陸奥さんが呆れたように溜息をつきました。
「でも私たちの落ち度でもあるわ。そういったサイトは私たちの管轄でもあるのに」
悔しそうな顔をする陸奥さんに青葉さんが声をかけました。
「これはまだ一部の人間や関係者しか知らない情報だと思います。ですが、誰でも閲覧できるので一部と言っても人数は多いですし、時間が経てば経つほど知る人は多くなると思います」
「時間との勝負。そういうことね」
陸奥さんが野分と青葉さんの方を見て手招きをしました。大人しく指示に従うと両手で野分の顔を掴み、吟味するようにあらゆる角度で野分の顔を見ました。
「あの…陸奥さん。恥ずかしい…」
顔が熱くなるのを感じながら陸奥さんにそう言いましたが、やめてくれる気配は一切ありませんでした。
「ねぇ、青葉。どう思う?」
あぁ、野分のことは無視するんですね…
「大人びた顔立ちをしているので、だいぶ化けると思います」
陸奥さんと同様に青葉さんまで野分の顔を覗き込みます。
「ここは野分のいいところを伸ばして、お姉さん系の化粧でいきましょう」
「青葉もそれが賛成です」
手を離してくれた陸奥さんが紙袋の中から大きなポーチを取り出し、青葉さんと相談を始めました。普段化粧をあまりしない野分にはちんぷんかんぷんでしたが、きっと真面目に弄られると覚悟を決めていると、話を聞いていた日向さんと足柄さんが、もう一つの紙袋から洋服を取り出し、何を着せるかで討論を始めました。
「もうどうにでもなれ…」
野分はそう呟くと、日向さんの席に座り、熱い討論を繰り広げる大人たちを眺めていました。