その日の私はとてもご機嫌だった。
「八海山…いや、久保田かしら…」
そんな独り言を呟きながら、デスクの上に積み上げられた書類をファイルごとに整理していく。今日は那智姉さんが久々に家に帰ってくる日であり、きっと何かしらの土産を持って帰ってくるだろうと予測していた。そして私も溜め込んだ書類に作成が終わり、久々に早く帰れる。私に禁酒令を出した日向も家で家族と飲むことまでは制限していない。流石に気分が高揚するわぁ…
「足柄さん、何かいいことでもあったんですか?」
私が頼んだ書類を持ってきたのわっちが訪ねてくる。この子にお酒の話題をすると、とても残念そうな顔をするのよね…
「久しぶりに那智姉さんが帰ってくるのよ」
「あぁ…羽黒さんが忙しくなる…ってことですね」
野分は何かを察した顔をしている。
「あなたも来る?羽黒が会いたがっていたわ」
「羽黒さんには申し訳ないのですが、遠慮します」
「そう、残念ね」
「あぁ、残念だな」
デスクを離れていた日向が足早に戻ってきた。この感じは何か凄く嫌な予感がする。
「お前の今夜の飲み物は珈琲になりそうだ。なに心配するな、それぐらいなら私が出してやる」
「事件ですか?」
のわっちが私が今一番聞きたくない言葉を口にする。
「そうだ、足柄、早く用意をしろ。美味しい珈琲が待ってるぞ」
「…了解」
私は渋々携帯を取り出し、メール画面を開く
『姉さん、私の分も残しておいてね?』
きっと残ってないんだろうなぁ…
何も話を聞かされずに、一人で日向に指示された場所へ車を運転すること20分、事件現場の交差点に到着する。何台ものパトカーが停車し、辺り一帯は封鎖されていた。身分証を見せ、中に入ると、陸奥が忙しそうに現場の指揮をしていた。
「事件?事故の間違いじゃないの?」
運転席側からぶつけられ、ひしゃげている乗用車を横目に、陸奥の方へと歩み寄る。向こうもこちらに気がついたのか、近くにいた警官をどこかに走らせ、人払いをした。
「こんばんは、今日のディナーはステーキかしら」
「えぇ、立派なTボーンよ。でも焼き加減が微妙だわ」
「素人が作ったのかしら?」
「そうね、プロが作ったとは思えないわ…けれども全くの素人ってわけでもなさそうなのよ」
陸奥に連れられ、進入してきたであろう車線の地面をライトで照らす。
「あそこまで凹む速度で突っ込んだ割には、ブレーキ痕がないわね」
「そうなのよ」
「居眠りか何かじゃないの?」
「その可能性もあるわ…こっちよ」
今度は交差点の中央付近に連れて来られる。
「もしあなただったら…」
陸奥は地面についたタイヤ痕をライトで追いながら話始めた。
「居眠りをしていたら、どういう角度で右折待ちをしている車にぶつけるかしらね」
「それは車線に対して平行になるわね。あれだけの速度が出ているのですもの、その前に角度がついていたら、ガードレールか、中央分離帯に擦っているはずだわ」
「そうよね。でもこれを見て」
陸奥が照らしたタイヤ痕は、ぶつけられて横滑りした車のものと、早い速度で右折していった車のものだった。
「しっかりとハンドルは切っているのよね。入り口からちゃんと」
「直前に目が覚めて、咄嗟に切ったんじゃないの?」
「だとしたら、ブレーキを踏んでいると思わない?」
「そんな余裕も無かった…とかね」
「まぁ…これだけじゃそうも言えるのだけどね。見て欲しいものがあるの」
そう言われると、大きなバンタイプの車両へと案内された。以前、青葉の事件の時に指揮を行なっていた車両だった。
「この映像を見て。事故車が通過したNシステムの映像よ」
スクリーンには四つの画面が表示され、それぞれに事故車両が走行している映像が写っている。そしてすぐに違和感に気がつく。
「ランクルとは…いい趣味してるわね」
「まったくね」
全ての映像には、同じSUVが事故車両の後ろを走っていた。割り込まれないように、ぴったりと。
「もうこのランクルは調べたの?」
「えぇ。予想通り盗難車よ。保有者は幸せな家庭のお父さん。今は家族旅行中よ」
「この子もついて行きたかっただろうに…」
凶行に使われたSUVを哀れんでいると、私の携帯が鳴った。
「もしもし、日向?」
「足柄、何かわかったか?」
陸奥から聞いた話を日向に話し、ずっと疑問に思っていたことを聞く。
「それで、なぜ私達がここにいるのかしら。陸奥がいるから何となく察しはつくのだけど…」
「その車両を運転していたのは海軍大佐だ。そして、横に乗っていたのは元艦娘の扶桑だ」
「何ですって…二人は無事なの?」
「大佐の方は意識不明の重体だが、扶桑の方は軽傷だ。今さっき会って話をしてきた」
「それで?」
「よくわからない。そうだ」
「そう…」
「私と野分はもう引き上げる。足柄もそのまま帰っていいぞ」
「わかったわ。また明日ね」
電話を切ると、陸奥が缶コーヒーを手渡してきた。
「まだ検証は終わってないのよね?」
「えぇ、明け方までかかりそうだわ。あなたはどうするの?」
「手伝うわ」
「わかり次第、そっちに報告が行くようになっているわ…それに日向からあなたをなるべく早く帰してくれって言われたけど」
「あなた達を信用してないわけじゃないけど、自分の目で見ておきたいのよ」
「あなたがそう言うなら止めないわ」
「ありがとう。あとあの車はこっちで預かるけど構わないかしら?」
「日向にも同じことを言われたわ。もう明石がこっちに向かってるはずよ」
陸奥が何かの紙を手渡してきた。
「これ、日向に渡しておいてね」
珈琲代と書かれた領収書には、缶珈琲の値段とは思えない金額が記されていた。
「高い珈琲ね…」
「私もね、久しぶりに長門と飲みに行く予定があったのよ。」
お互い悪戯な笑いを浮かべると、ちょうど2tトラックを運転してきた明石がやってきた。
「お疲れ様、明石。大変だったでしょう?珈琲飲む?」
強引に缶珈琲を押し付け、共犯者を増やしていくのだった。
現場検証が終わり、私はそのままオフィスに戻る。日向のデスクに殴り書きのメモと陸奥からの領収書を置き、仮眠室へと向かう。本当はシャワーを浴びたいけど、昨日までの残業続きと、徹夜で睡魔は限界まで押し寄せてきていた。私はベッドに倒れこむようにして眠り落ちていた。
「姉さん!姉さん!」
聞き覚えのある声の主に揺すられて目を覚ます。
「羽黒…?なんでここに…あれ、今何時?」
「昨日帰って来なかったから着替えを持ってきたよ。」
「今は11時過ぎですね。」
羽黒から着替えの入った袋を受け取ると、のわっちが二人分の珈琲を持って入ってきた。
「シャワーを浴びて、着替えたら明石さんのところに行ってください。日向さんもそこにいます」
二つ珈琲を受け取り、羽黒に一つ渡すと、のわっちは「タオル取ってきますね」と言い部屋から出ていこうとした。
「悪いわね…ありがとう」
「あぁ…それと…朝、日向さんが物凄く渋い顔で領収書を見てましたよ…」
私は内心してやったりと思ったが、隣の羽黒は何かを察したのか泣きそうな顔で「すいません、すいません」とのわっちに頭を下げていた。のわっちがタオルを持ってくるまでの数分、妹に人に迷惑をかけるなとお説教される私であった。
着替え終わり、身支度を済ませた私は明石の作業場へと足を運んだ。
「来たか…おはよう」
何らかの書類を読んでいた日向が私に気がついた。
「おはよう。明石は?」
日向が足元を示すと、寝板の上で熟睡する明石の姿あった。
「仮眠室を使えばよかったのに…」
「本人はそのつもりだったらしいが、身体が限界だったらしい」
日向が着替えや洗面用品がはいっている袋を指差し苦笑いをしていた。
「これが明石からの報告書だ。」
日向が読んでいた書類を手渡され、目を通す。手書きで箇条書きされたメモだった。
「意図的にぶつけた可能性が高い…ねぇ…」
最後の一文を読み、腕を組み、眉間にしわを寄せる日向に尋ねる。
「日向はどう考えるてるの?」
「海軍関係者を狙った事件だとは思うのだが…いかんせん情報が少ない」
「なぜ扶桑はこの車に乗っていたの?」
「大佐の秘書をしていたのが扶桑だ。関係は良好で、普段から彼女を家まで送り届けていたそうだ」
「あら…羨ましいわね」
口元を手で隠し、にやける顔を隠すと、日向は呆れた顔で答えた。
「残念ながら、大佐は既婚者で愛妻家だ。お前が考えている様な仲ではない」
日向がひとつ溜息をつくと、私の方を見て言った。
「さっきも言った通り、情報が少ない。足柄、お前と陸奥には珈琲代相応の仕事をしてもらうぞ」
「ちょっと、明石も共犯よ」
「どうせ強引に巻き込んだんだろ?それに、明石はこれからが本当の仕事だ」
足早に作業場を出て行こうとする日向の向こうから、のわっちが慌てた様子でやって来た。
「いま長門さんから連絡がありました。山城さんが今回の件で査問されるそうです!」
安い珈琲代になりそうだなぁ…そう思うとひとつ大きな溜息を付き、日向の指示を仰ぐ。
「足柄と野分はこのまま基地へ向かえ。私はもう一度扶桑のところへ行ってみる」
「了解」
「了解しました」
基地内部の取調室は、私たちの持つ取調室とは違い、隣の部屋から覗ける様にはなっていない。その為、内部で何が行われているのかをリアルタイムで知ることができない。そのことに苛立ちを感じながらも、案内された応接室で報告が来るのを待つ。しばらくすると、お茶を持った長門が部屋にはいって来た。
「待たせてすまない。これでも飲んでくれ」
机にお茶を並べると、長門は向かいの席に座った。
「それで、何かわかったのかしら?」
私がそう尋ねると、長門は申し訳なさそうに答えた。
「まだ査問は続いている。終わる目処は立っていない」
「野分達が直接お話を伺うことは出来ませんか?」
のわっちがそう言うと、長門は助けを求める様な眼差しを向けて来た。
「そのつもりで呼んだんだ。今は上層部が話をしているが、もう少しすれば不知火が監視で部屋に入る。その時ならお前達でも入ることができる」
「ちょっと…そんなことをしたら、あなたも不知火も…」
「私も不知火も覚悟の上だ」
決意のこもった顔をしている長門に対して、私も覚悟を決め、口を開いた。
「あなたもわかっているとは思うけど…私たちよりも軍関係者のほうが情報は多く持っている。もしかしたら、もう真相まで辿り着いているかもしれないわ。その上で山城が査問されていると考えると、冤罪とは考えにくいわ」
私の言葉に長門は俯いてしまったが、のわっちがそれに構わず続けた。
「野分もそう思います。ですが、通常であれば、元艦娘が関与していれば野分達に捜査依頼がくるはずなのですが今回はそれがありませんでした。それが不可解です」
のわっちの成長した考察力に先輩として嬉しさを覚える。私の言いたいことを全部言ってくれた。
「私は一介の軍人にしか過ぎない…けれども、共に戦った仲間として信じてやりたいし、困っているのであれば助けてやりたい」
そういう長門の手は強く握りしめられていた。陸奥も信念を持って捜査しているしやはり姉妹は似ていると感じると、私はあることを思い出した。
「そういえば、あなた、昨日陸奥と飲みに行く約束だったのよね?」
「あぁ、陸奥が仕事になったから結局流れてしまったが…」
「よく知ってるわ。私も一緒にいたから」
「そうか…すまないな」
「あなたが謝ることはないわ」
私が良からぬことを考えていることを察したのわっちが横から肘で小突いてきたけど、構わず続ける。
「でね、陸奥が私たちのボスに珈琲をご馳走になったのよ…何人分かのね」
長門がよくわからないという顔をしていたが、のわっちは全てを察した様だ。
「えぇと…つまり、陸奥さんが長門さんとのお酒代を日向さんに請求した…ってことですか…?」
長門も察したようだ。
「妹が迷惑をかけてすまない…」
深々と頭を下げる長門に対して、私は構わず続けた。
「日向がね、珈琲代相応の仕事をしろって言うのよ…」
「私にできることはやろう。元からそのつもりだ」
まっすぐ長門を見つめると、彼女も少したじろいだ。
「それ以上の仕事をして欲しいの。私たちだけじゃ解決できないから。お願い」
私が深々と頭をさげると、ちょうど不知火が入ってきた。
「…なんですか、これは…」
タイミングが悪かったと感じている不知火が珍しくオドオドしているのを少し面白く思ってしまった私がいた。