岐路 一
●岐路 一
泊地へと最後に帰投したのは卯月を連れた大井だった。
とはいえその表現は……間違ってはいないが、状況を正確に説明しているとも言い難い。
正しく表現するのであれば……
大井達の後に帰投した者はいなかった……という事だ。
無論、港の一画で彼女らを待っていた時の新城には、そのような事実を知るすべは無かった。
彼が知っていたのは、金剛の零式水上偵察機が齎した情報のみである。
哨戒の為にと彼女が発進させた艤装の水偵が、大井の姿を捉えたのだ。
恐らくは大破と思われる傷を負った大井が、同程度かそれ以上の負傷をした卯月と共に、此方を、港を目指して航行している。
卯月は独力での航行が困難な状態で、大井の手を借りている状態である。
それが、水偵が送ってきた情報だった。
司令部(といっても現状彼一人しかいない)に報告に訪れた金剛からそれを聞いた新城は、以前の三倍以上は掛かるのではという時間を費やして、司令部から港までの行程を踏破した。
帰還する者を労うという行為である事は間違いないが、実際のところは金剛から受けた報告を鑑みて、という処もある。
卯月の負傷は、既に消滅していてもおかしくない程……かも知れない。
そのような結論が出たが故、だった。
ならば可能な範囲で、自らが出向くべきだろう。
新城としてはそう考えたのである。
偽善的であるという嫌悪を感じない訳では無かったが、必要な行為であろうという想いも同時にあった。
部下に対する上官の責任として、という意味である。
労いという意味ではなく、感情的になる事を肯定する訳でも否定する訳でも無く、ただ……自身が上官として下した命令が現在の結果に繋がったという事実から目を逸らさない為に……という意味での行為だった。
体裁を整えてはいるが、つまる所は自己完結する為と言えるかも知れない。
上官として正しい行為ではあった。
だが、彼としては……そう考える事は、自己嫌悪に繋がるという想いもあるのだ。
結局の処、職責としてと自身の為という結論以外は出せない侭、彼は港へと向かう事になった。
応急処置を終え薬を使用した為か、痛みの方は殆んど無かった。
定期的に薬を使用し続ける限り、少なくとも任務の終了までは其方を気にする必要は無さそうである。
問題なのは器具を使用して完全に固定された右肩と左の足首だった。
松葉杖を使用しなければ満足に立ち上がれもしないという状況は、単純に何とも言えない情けなさのようなものを新城自身に感じさせていた。
もっとも、肩と足が逆だったお陰で一人でも何とか動く事が可能なのである。
同じ側の負傷であれば立ち上がる事すら介助を必要とした事だろう。
現状で良かったと自身に言い聞かせるしか無かった。
自身で移動する事で、自虐から逃れようとしているのかも知れない。
そんな益体(やくたい)も無い事を考えながら腕と足を動かしているうちに、いつの間にか艦船の接岸施設である係船岸壁へと到着していたのである。
風が弱いせいか寒さは外套で殆んど遮られていたが、陽が出ていない為か海は一面灰色めいていて、波と共に僅かな白をその中に生み出しながら騒めきを立てていた。
今のところ、大井達の姿は見えない。
もっとも、傍に控え周囲を警戒している弥生の視線が、度々海側の同じような方角に向けられている事を考えると、彼女には既に見えているのかも知れなかった。
金剛と長月も港付近の海上で警戒を行っている筈だったが、新城にはその姿さえ確認できていないのだ。
身体能力が優れているという点は、そういう箇所にも影響を与えるのかも知れない。
或いは何か特殊な感覚を有しているのか?
そんな事を考えている内に彼にも、海面に見え隠れするような形で何かが見えてきた。
新城は姿勢を正した。
とはいえ松葉杖を使わなければ立っていられない以上、気ヲ付ケの姿勢を取れる訳でも無い。
精々が背筋を伸ばすくらいである。
海上の違和感に過ぎなかった何かが、近付くにつれて輪郭を徐々に確りとさせ始めた。
大井と、その援護の為にと出撃させた初雪の姿が、朧気ではあるものの……新城にも確認できるようになる。
金剛から状況の報告を受け、待機させておいた中で練度の高い彼女を急ぎ出撃させたが、特に問題なく大井らと合流できたようだった。
警戒中の金剛と長月に逢って渡されたのか、大井の方は外套を羽織っていた。
大井の方が既に立つ事も困難になっている卯月を背負っているようで、初雪の方はいつでも手助けできるように位置を取りつつ、周囲を警戒している様子である。
一方で港の側には、同じく待機状態だった如月だけでなく、休息を命じた三日月、文月、磯波らも姿を現していた。
新城の視線を受けた三日月が駆け足で近付いてくると、彼の前に直立して敬礼する。
「……君らには休息を命じた筈だが?」
「はい、申し訳ありません。司令。ですが、どうか私達三名を帰還に立ち会わせて頂けないでしょうか?」
答礼後に前置きなく質問すると、三日月は即座に謝罪した後、そのまま、真っすぐな視線のまま新城に向かって要望を述べた。
「……許可する。だが要件が済み次第、速やかに休息を再開するように」
さして間を置かず新城がそう答えると、三日月は驚くような表情を浮かべた後、すぐに表情を引き締め直した。
「ご厚情、ありがとうございます! それでは、失礼します」
そう言って再び礼をし終えると、少女は回れ右をして文月と磯波の許に駆けていった。
傍らに控えたままの弥生は、後ろ姿を少しだけ目で追ってから、再び周囲を警戒する。
もっとも卯月の事は気になっているらしく、先程までと同じように視線は幾度も彼女らの方へと向けられていた。
新城は、それらから視線を外すと……再び海へと、視線を向けた。
三人はもう、すぐ傍まで近付いて来ている。
「……ま、戻って来れたみたいで何よりやな」
いつの間に来ていたのか、龍驤が直ぐ後ろから声を掛けてきた。
「……君にも一応、休息を命じておいたのだが?」
「いやまあ、そうやけど。けど、こういう時やし……勘弁してや?」
視線を向けると、片手で拝むような姿勢をしながら龍驤が苦笑いしてみせた。
「まあ……言うべき事は同じだ。要件が済んだら休息を再開してくれ」
わざとらしく溜息をついて見せてから、新城はそう口にした。
「ん、ありがとう。まあ、ウチは外野席の脇役やし、早めに退散するわ」
礼を言った龍驤が、自由な方の手をひらひらと振ってみせる。
その動きを視界の隅に留めた新城は、改めて彼女の格好を確認した。
龍驤の方も新城と同じで、松葉杖に寄り掛かっている。
失った足の方は、膝下辺りから脹脛(ふくらはぎ)辺りまでで固定されるような形の義足らしき物を付けていた。
「ああ、これ? 意外と動きやすいで? 水に浮けるかは知らないけど」
そう言って龍驤が、膝の辺りを軽く叩いてみせる。
そうは言っても、固定しているだけの自分よりは遙かに歩き難い筈だ。
それでも、見送りに来ずにはいられなかった……そういう事なのだろうか?
これで現在泊地に居る者達の内、3名を除いた全員がこの場に集った事になる。
その内の2人は沖で警戒を行っている金剛と長月なのだから、顔を見せていないのは船体と本人の両方が大破、重傷を負って休養している望月のみ……という事だ。
もっとも、それ以上の事を新城は考えなかった。
一人一人の内面や精神的な事まで考えてしまえば、司令官などという仕事は務まらない。
耐えられないと表現すべきかも知れない。
そんな事を考える内に、大井達は岸壁まで到着していた。
卯月に配慮してか小型船やボートの乗降用の段差を使って上陸した大井が、如月と三日月らに卯月を預けた後、新城の前で敬礼する。
「重雷装巡洋艦大井、駆逐艦卯月、ただいま帰還致しました」
「御苦労だった」
答礼し、新城は短く口にした。
「先に帰還した者達からある程度の話は聞いているが、君からも出来るだけ速やかに話を聞きたい」
「今すぐでも、問題ありません」
「分かった。君が出てくれるのであれば問題ない。卯月の方には休息を命じる。君の方も短い時間だが休息を取っていてくれ。改めて呼出しを掛ける」
「……一部を自由時間とさせて頂いて、構いませんか?」
「構わない」
それで大井とのやり取りは終わった。
新城は頷いてから卯月の方へと身体を向けた。
卯月は外套や毛布を敷いた上に寝かされ、三日月と文月、如月らに囲まれていた。
磯波は少し後ろに引いて見守るようにして、悲し気な表情を浮かべている。
新城は松葉杖を使いながら、ゆっくりとその集団に近付いた。
司令官が近付いてくるのに気付いた三日月が、立ち上がって身を引くように場を空ける。
新城は三日月の方へ顔だけ向けて頷くと、卯月の許へと歩を進めた。
弥生が新城の脇に立ち、先に膝を折る。
その肩を借りるようにして新城も膝を折った。
左の足首は動かしようが無いので、片膝の体勢で右の膝だけをコンクリへと付ける。
堅い感触は伝わってきたが、冷たさのようなものは然程は感じられなかった。
もっとも……もっともそれは、服の防寒機能か薬の作用のせいかも知れない。
新城に気付いた卯月が、首だけ彼の方へと向けて微笑んで見せた。
その笑い方に、新城は何とも言えない気分を味わった。
そういう笑い方をする艦娘では無かった。
そんな事を考える。
もっと真っすぐで確とした、裏表のない表情をするのが卯月という駆逐艦だった筈だ。
そんな事を考えた後、そんなにも自分は感傷的な人間だったのかと内心で嘲笑う。
それでも……抱いた印象というものは変わりはしなかった。
夏の空と雲のようにコントラストの利いた表情ばかり浮かべていた、かつての彼女を思い浮かべるのが……難しく感じられるほどに、今の卯月の表情は曖昧だった。
ある意味では、今、この泊地を見降ろしている空の色に相応しい表情と言えるかも知れない。
これ以上は明るくなる事なく、あとは日が暮れるのを待つばかり……つまりはそういう事なのだろうか?
「しれー……か、ん?」
その表情のまま、少女は弱々しく唇を震わせながら新城へと呼び掛けてくる。
「そのままで良い」
身体を起こそうとするのを制するように手を動かしてから、新城は穏やかな表情を作って語りかけた。
「話は全てではないが、聞いている。よくやった」
その言葉に、卯月は素直に嬉しそうな笑顔を見せる。
その表情は、かつてと同じ……とまでは言わないまでも、かつての卯月と重なる部分を多く含んでいた。
もっとも、それだけに……今と過去の違いを露わに感じさせる処もある。
「えへ、ん……これ、が……睦月型、真の……力、です♪ 次、も……」
「気持ちは分かる。が、今は休みたまえ」
努めて、陽気な調子を維持するようにと気を張りながら……新城は自由になる方の手を卯月の頭に乗せた。
髪を乱さぬようにと、そうっと手を動かし少女の頭を撫でる。
「駆逐艦卯月には、またしかるべき場所で役立ってもらう」
それまでは、休め。
そう言うと、卯月は目を閉じてから頷いた。
それから。
「……しれえ、かん……?」
呼びかけに頷きながら、新城は耳を澄ませた。
同じ声なのに、昨日までとは違う弱々しい……それでも、同じ調子を保とうとするかのような口調で、少女が呟く。
先程までと同じ気持ちで、新城は耳を傾けようとした。
だからこそ。
「うーちゃん……これで……お別れぴょん……」
司令、官……泣かないで、ね……?
その一言は、まるで隙間を擦り抜けるようにして。
心内の、防壁の間を……縫うようにして。
新城の奥底の何かを、貫いた。
実際、彼はその瞬間、鋭利な何かで心の臓を貫かれでもしたかのような衝撃を……心内で、確かに味わったのだった。
この瞬間、本人が全く意図しない形で。
卯月は新城に完全な不意打ちを喰わせる事に成功したのである。
本人に全くそのような想いが無かったからこそ、の奇襲であった。
新城は卯月の様子を見て、少女が自身の状態を理解していないと考えていた。
だからこそ、全くの無防備な状態で彼は卯月の言葉を受ける事になったのである。
彼の意識は、卯月に向けるべき言葉に殆ど全て集中させられていた。
これまでの新城は、結果として生き方がそうであった部分が全く無いとは言い切れなかった、が……少なくとも、哲学者でも真実の探求者でも無かった。
無論彼は、目前の卯月がそうであるとも思ってはいなかった。
ならば、わざわざ本人に自身の現実を、最後を伝える必要など無いのだ。
だからといって、嘘を付きたくも無かった。
真っ直ぐに、健気に自身に従った者に対して、偽りの言葉を向けたくなかったのである。
その結果が、先ほどの卯月に向けた言葉だったのだ。
無意味な拘りであるのかも知れなかった。
だが少なくとも、この瞬間の彼には必要な拘りではあったのだ。
それを呆気なくひっくり返された……とでも、表現すべきなのだろうか?
だからといって、不快には思わなかった。
どこか裏切られたような、驚かされた気持ちはあったが……それだけだった。
思考だけで感情が殆ど追い付いてこなかった、という事なのかも知れない。
或いは、激しく鮮烈な奔流に巻き込まれた……などと表すべきだろうか?
どうであれ、直後に彼の内に浮かんだのは……自分の為すべき行動への指針と、司令官としての態度を崩してはならないという意思だけだった。
自身の命令に従い、その結果として自身に訪れようとするものを……否定するでもなく肯定するでもなく、ただ……淡々と、普段通りにと迎えようとする者への、配慮。
彼の意識は、それに集約されていた。
もっとも、集約されていたからといって適切な行動を思い付き実行できるとは限らない。
実際、今の新城は、卯月の不意打ちで思った以上に乱れた心の内を露わにしないだけでも精一杯だった。
寧ろ、出来ていなかったという表現の方が適切だと言えるだろう。
出来ていないが故に、そのまま立ち去るという事が出来なくなったのだ。
その乱れを違う形に加工して誤魔化そうという思考で、かろうじて行う事ができたのは……結局の処、司令官とは如何にあるべきか? 今、如何あるべきか? という考え……つまりは見栄のようなもののお陰だった。
兎角、そういったものを拠り所に、彼は務めて平静を装った。
平静を装う為に、笑顔を作り、少し大袈裟に頷いてみせる。
伸ばされた手が……幾分か乱暴に、卯月の髪が少し乱れる程度に、頭を撫でた。
それらの一連の動きが……新城の内から滲んだ、動揺の発露の全てだった。
「……休め」
微笑むような表情で、それだけ言ってもう一度く。
卯月が同じく頷きで肯定を返すのを確認すると、彼は少女を囲んでいる姉妹らを順に見て再び頷き、弥生の肩を借りるようにして立ち上がった。
それで、新城と卯月の会話は終わりだった。
恐らくは僅かであろう残された時間に、自分が其処に存在する事は邪魔でしか無いだろう。
そんな事を考えながら、横になっている卯月に背を向ける。
少し離れた場所で外套を羽織って立っている大井が、睨むような形相で、歯を喰い縛るような表情で、卯月の方を眺めていた。
その隣で龍驤が、心配げに彼女に話しかけている。
「……そんな意地張らんでもエエんやで?」
「違いますよ? これ以上近付くと……頭に来て、ひっぱたいちゃいそうだから我慢してあげてるんです」
そんな話し声が聞こえてきて。
新城はそれ以上は聞かないようにと視線を外しながら顔を背けた。
大井の瞳に何かが滲みそうになっているように見えた、というのもある。
やはり自分は、此処にいない方が良いだろう。
改めてそんな事を実感しつつ、新城は傍らの弥生に呼びかけた。
「弥生、小休止だ」
「……でも」
「休息を取り体調を管理するのも任務だ。休息が必要ないなら自由に過ごせ」
そう続けても、弥生は同じ言葉を繰り返した。
世の中に万一というものが絶対に無い、とは言い切れない。
だが、弥生の警戒は現状においては過剰だった。
昨日の戦いで新城が負傷した事を余程に気にしているのだろう。
任務等で必要がある時以外、少女は頑なに新城の傍で過ごそうとする様になったのである。
本来の意味でも、実際に休止は必要だった。
「……最後を見守ってやるべきだろう」
少し考えて、新城は直接的な表現で傍らの少女を促した。
弥生は決して、迂遠な表現を理解できないという訳ではない。
言い回しや細やかな表現を正確に理解するという訳ではないが、息遣いや微かな表情等で察して出来る限りの心配りをする性格である。
だが今は、卯月の許に行くという事が『為すべき事より自分の気持ちを優先する』事になると考えているふしがあった。
そうではない、という意味で新城は彼女を促したのである。
勿論、実際に心配というのもあるだろうが。
それでも迷う様子だった弥生に……文字通りに、とでも言うべきか。
助け船を出したのは、磯波だった。
「……あの……」
二人に呼び掛け、視線を向けられ……怖じ気付くように暫し躊躇った後、彼女は視線を弥生と新城の間で彷徨わせてから、言葉を続けた。
「……その、宜しければ……私が護衛を、引き継ぎましょう、か?」
その言葉の意味を理解するのに、新城は不思議なほどに時間を浪費した。
自分は思った以上に動揺し、未だそこから立直っていないという事なのか?
情けない自分に内心で言葉を投げかけつつ溜息をつきそうになって。
それが磯波に対してのものと勘違いされないようにと、溜息にならないようにと、軽く息を吐いてから。
新城は視線を磯波に向け、ゆっくりと確認するように口を開いた。
「……三日月から、三人で味方の帰還に立ち会いたいとの申出は受けている、が?」
「は、はい……その通りです。です、が……」
緊張した様子で途切れ途切れに言葉を紡いできた少女は、そこで一旦深呼吸してから口を開いた。
「私の枠を、弥生さんに……譲らせて頂けないでしょうか?」
そう言葉を受け、新城は考え込むような仕草をした。
実際の処は既に結論は出ているが、即答すべきではないと考えたのである。
軍人としての上下関係ではないとはいえ、司令官と部下という立場の者達の意見が即座に変更されたり翻されたりというのは、決して良い事とは言えないだろう。
無論、意見が言えない環境など作るべきではない。
無駄な仰々しさや無意味な拘りなど論外である。
だが、言葉にはある程度の重みとでも呼ぶべき物は存在するべきだった。
それなりの形というものは必要なのだ。
少なくとも新城は、そう考えていた。
「……許可する」
少し間を置いて頷いてから、新城は弥生へと視線を転じた。
何とも芝居がかったものだという嘲りと自己嫌悪のようなものはあるが、無論それらは奥底へと納めたままである。
やはり正直であるという事は美徳なのだろうという納得があるだけだ。
「……ありがとう、ございます」
弥生はそう言って新城と磯波に礼を言うと身を翻した。
少女の後ろ姿を少しだけ目に留めると、新城も身を翻した。
その少し斜め後ろに、控えるように位置について。
生真面目に周囲を警戒しながら……磯波も、新城の後に続く。
松葉杖を手に歩を進める提督の姿に少し躊躇ってから、彼女は控えめに声をかけた。
「……何か御手伝いできる事は、ありますでしょうか?」
「今は特に無いな」
あっさりとした即答に項垂(うなだ)れそうになったものの、怖じ気付きそうな自分を叱咤して、磯波はさらに言葉を続けた。
「……その、何かありましたら仰って下さい。私は、その……弥生さんとは違って、必要な事を察する事とかできませんので……」
「了解した。特に今のところ、問題は無い」
「そ……そう、ですか……」
もしかしたら自分は余計な事をしてしまったのだろうかと落ち込みはしたものの、磯波は即座にそんな考えを否定し、自分自身に言い聞かせた。
とにかく、今は護衛に徹するのだ。
少なくとも提督は、指摘せずに放置して後で責める等という事はしない。
知っている筈の事を失敗したり忘れたりというなら兎角、今回はそうでは無いのだ。
彼はそういう人物なのだと磯波は考えていた。
それが間違っていないのであれば、今は本当に問題は無いという事なのだろう。
現状では自分に新たな指示は必要なく、護衛の仕方についても問題ないという事だ。
実際のところ、今の状態で突如として提督の身に危機が訪れるという可能性はそれこそ限りないほどに低い筈だった。
とはいえ万一何かあった場合、自分達は指揮してくれる人物を、提督を失う事になるのである。
それに、何も無かったとしても……護衛がいるという状態は、他の者達にとって安心材料になる事だろう。
決して無意味な事では無いのだ。
そんな風に考えると、磯波は少しだけ気が楽になった。
彼女自身、新城の護衛に付いている弥生の姿を見る事で安心できていたというところもある。
泊地へ帰還して提督が負傷した事を知った時は、本当に比喩ではなく目の前が真暗になるような気分を味わったのだ。
もちろん磯波も艦娘……かつて軍艦艇であった以上、犠牲が出るという事について絶対的に否定という意見を持っている訳ではない。
軍隊というのは欠員が出る事を前提……とまでは言わないにしても、想定して構成されている組織である。
とはいえそれで何も感じないという訳ではないのだ。
それでも、最初の内は何とか……堪える事ができていた。
それらが積み重なり、重くなってきた……そういう事なのかも知れない。
他の司令部要員の人達が全滅したという事実を知った時には、気持では無く、本当に目に映る何かに意識が全く向かなくなった。
耳に響いた言葉の意味を自分が理解できていないような気がして、頭の中で何度も繰り返してみたりした程だったのだ。
ただ自分達を指揮する者がいなくなったというだけでなく、守るべき人達を守れなかったという想いも大きいのだろうとは思う。
(「……絶対に、守らないと……」)
その為には、落ち込んでいる暇など無いのだ。
そう自分に言い聞かせ、気合いを入れ直して。
磯波は生真面目に周囲を警戒しながら一度側に足早に新城にも近付き、その様子も確認した。
松葉杖を使って足を進める上官の顔には、今のところ特別な感情は浮んでいない。
磯波には、そう思えた。
もっとも無言でやや俯き気味な態度を見るに、何か考え事をしているのだろうとは推測できる。
恐らくは今後の任務についてのことなのだろう。
邪魔しないように気を付けなければという気持ちと同時に、どのような事になるか少しでも聞かせてもらいたいという気持ちも湧き上がってきて、磯波はその感情に蓋をした。
冷静になれていないという自覚はある。
原因は、自分でも分かっている。
還ってこない……吹雪と白雪の事だ。
今の自分に出来る事など何もない。
そして、振り返ってあの時ああしていれば……等と考える事に、意味は無い。
そう分かっていても、振り返って後悔するという事を繰り返してしまう自分がいるのだ。
それを何とかしたいと思って、今、自分はこうしているのかも知れない。
静かにしていると、休んでいると……考えてしまうから。
自分は失敗してしまったのだと。
もっと何かが出来たのではないか、と。
もっと頑張れたのではないか、と。
(「そうすれば……二人は……」)
白雪が帰還の途中で吹雪を発見したのではないか……それが磯波の推測だった。
あくまでそれは推測でしかない。
だが、そういった何らかの不慮の事態でも無い限り、あの状態で離脱した白雪が帰還できないというのは……磯波としては理解できないのである。
迂回路を取った結果、損害を受けた状態の吹雪を発見し、それを助けようとしたのでは……というのが、磯波の考えた推測だった。
それを確認する手段など無い事は分かっている。
つまりは実際に自分が納得する事など、ありはしないのだ。
そう思っているのに、解っているのに……考える事を止められない。
反省して次に活かす、という類のものでは無いのだ。
そう思っていても、止められない。
自分というものを、抑えきれない……心というものに振り回される、自分。
それが嫌で、自分はこうしているのだろうか?
そんな風に考えると、また自己嫌悪という感情が、気持ちが……鎌首をもたげてくる。
何か役に立ちたい……ですらなく、気持ちを紛らわせたい、目を背けたいだけなのだろうか?
(「駄目です、また良くない感じになってます」)
我に返って、少し気持ちを引き締めるという感じで両手で軽く頬を叩く。
今は、とにかく護衛に専念するべきなのだ。
それが終わったら、休憩。
次に与えられる任務を確りと果たす為にも、確りと休まなければならないのである。
休むのも任務なのだ。
私情で悩んだり後悔していて休めなかったでは、それこそ皆に申し訳ない事になる。
特型の、吹雪型駆逐艦の恥、という事になってしまうかも知れない。
(「そんな事にならない為にも、頑張らないと」)
頑張って休まないと、と。
少し変に思ったりもしながら気合いを入れてから、磯波は新城の様子を再びこっそりと窺った。
彼女の提督は相変わらず、考え込むような姿勢のまま、器用に松葉杖を使って司令部へと真っ直ぐに向かってゆく。
特に痛そうにしていたり気になる処は無いと判断してから、磯波は提督のやや左後ろに位置を取り、歩きながら周囲を確認した。
弱々しい日差しとは違う何かを感じて振り向いたのは、そんな時である。
建物の陰になって見えなくなった港の側、岸壁の辺りから……何かが、立ち昇ってゆく。
自分自身その気は無かったが、たぶん何か声に出たのだろう。
足を止めた新城が松葉杖を持ち替えて、身体を半分ほど振り向かせた。
その目は空に、立ち昇ってゆく光のようなものに向けられて……暫くの間、動かなかった。
その顔を、少しの間だけ見詰め……磯波も慌てて視線を港の方へと向ける。
新城の顔に、何か……見てはいけないような何かが、滲んできているように感じられてしまったからだった。
唇が微かに動いているのも見て取れた。
それは……多分、卯月に向けられた言葉なのだろう。
気にならないと言えば嘘になる。
だがそれは、決して侵してはならないものなのだ。
そう思っても、その事に想いを馳せてしまった自分を……磯波は束の間、恥じた。
申し訳ないような、悔しいような……
自分が、情けなくなるような……
そんな気持ちが湧き上がってくる。
そして……提督と話していた時の、卯月の顔を……思い出した。
いつもとは違うけれど、無邪気で、真っ直ぐで。
いつもとは違い、淡く、穏やかで……何か、成し遂げたという感じの、憂いも後悔もないような……何もかもを、出し尽くしたような……
そんな風に思えるのは、今の自分が後悔と悩みの塊のようになっているからだろうか?
そんな気持ちも、光を眺めていると……不思議と消えていく。
寂しげでどこか儚い印象だった光は、次第に輝きを増して、奔流や柱と呼んだ方が相応しい強さと激しさを生み出して……消えた。
先ほどまでの光景が嘘であるかのように、輝きは弱まり……呆気なく消滅して。
空が雲に覆われた灰色じみた風景が、戻ってくる。
先ほどまでと殆ど変わらない風景の中で、ただ一つだけ、失われた存在。
「……私たちは、海へと還る……そういう事なんでしょうか?」
口に出してしまってから磯波は、それが自分が発した言葉なのだと知覚して、動揺した。
新城の表情を見て、意味不明な事を言って驚かせてしまったのだろうと後悔する。
「す、すみません、突然。訳の分からない事を……申し訳ありませんでした!」
「……いや、大丈夫だ。公的には全く問題無いし、私的にも全く不快な点は無かった。少なくとも僕にとっては、だが」
新城がそう口にするまでに少し間が空いたのを見て、申し訳ないという気持ちが更に膨れ上がってくる。
もっとも新城自身は本人の言った通り、磯波の発言に気を悪くしている様は無さそうだった。
「君にとって、海は……還るべきところだと思うか?」
それが、彼が磯波へと向けた次の言葉だったのである。
寧ろ磯波の方が、新城の……自身の提督からのその言葉に、動揺した。
先ず問い掛けの意味を理解するのに暫しの時を要し、その問い掛けを向けられたのが自分だったのだという事に、更に数秒ほどの時間を費やした。
それでも、返答に多くの時をかけずに済んだのは……自身の中では既に結論が出ていたからこそ、なのだろう。
「……その、あくまで私個人の意見、ですが……」
そう前置きしてから、磯波は続けた。
「私にとっての海は……生きていた場所なのかもしれません、けど……還る場所かというと、ちょっと違います」
キチンと言いたい事が言えているのか、伝えられているのかと不安になりつつ、出来るだけ分かりやすく、伝わり易くなるようにと、懸命に言葉を選ぶ。
「私が、帰るのは……帰ってきたと思えるのは、思いたいのは……港です。そう思いたい、です」
そう言って言葉を終えて、提督の様子を窺う。
「……そうか」
自由に動かせる方の手を顎というか口元に当てて、新城は考え込むような仕草をした。
それから、磯波の方を向くと口にした。
「僕もそう思う。そして、そう出来るようにする事こそが、司令官の任務の一つだと考えている」
そう言ってから、返答をありがとうと礼を言って話を締めくくり、彼は司令部の方角へと向き直った。
何か言葉を返そうとはしたものの……結局、纏まらず……
磯波はそのまま、司令官の護衛を再開する。
先刻までと同じ位置、提督のやや左後ろで、周囲を警戒しながら後に続く。
そのつもりだった。
それなのに……
前を往く提督の姿が、何故か、不思議と……
これまでより数歩ほども、近しいように感じられて。
磯波は幾度も目を擦ったり、自分の足下を確認したりして。
己の立ち位置を……幾度か、確認し直した。
これで良いのだろうか?
磯波に護衛を任せ、司令官の言葉に従って……
卯月の許へ向かおうとした時……弥生にはまだ、迷いがあった。
確かに卯月の為というのはあるかも知れない。
それでも……自分の気持ちの侭に行動し過ぎているのではないだろうか?
そんな風に思えたのだ。
司令官を護衛していた事も、振り返ると……我儘だったように思う。
怖かったのだ。
離れていて、居なくなってしまったら……どうしよう? と。
それなのに今度は、卯月が心配で傍に行こう、等というのは……
余りに自分勝手が過ぎるのでは、ないだろうか?
そう思ったのだ。
もっとも、そんな気持も……横になっている卯月の姿を見ると、呆気なく消え去った。
卯月の格好は、ついさっき司令官と一緒に会った時と同じだった。
外套や毛布を敷いた上に寝かされ、それを囲むようにして三日月と文月、如月ら三人が膝を付いている。
「……弥生ちゃん」
弥生の方を向いた如月が、涙を堪えたまま……それだけ口にした。
それ以上は堪え切れなくなってしまいそうなのだろう。
文月は卯月の手を、きゅうっと両手で握っていた。
涙ぐんだ顔で……それでも、いつものような表情で、いつものような調子で、卯月に話しかけている。
三日月は俯いたまま、片方の手で顔を擦っていた。
嗚咽がこぼれ、顔から零れたものがコンクリの上に染みを作っている。
「……卯月……?」
膝を付いて呼び掛けると、卯月は薄く目を開けた。
「……あ……」
「大丈夫、喋らなくて……」
それだけ言って、空いていた方の手を握る。
それに対して、卯月は笑顔で応えた。
自分も何か話をしようと考えてはみたものの……言葉も話題も何一つ、弥生には思い浮かばなかった。
もっとも、それも当然と言うべきだろう。
普段であっても、そう簡単に言葉も話題も思い付かないのである。
卯月と二人で話をするという時も、卯月が話すのを聞いたり、それに対して何か言ったりというのが殆どなのだ。
「……大丈夫、だから……」
少しの間、考えて……出てきたのは、やはりそんな言葉だった。
大丈夫という言葉は、さっきも使ったような気はするけれど、仕方ない。
自分には、少なくとも今の自分には、語彙力というものが不足しているのだと思い定めるしか、つまりは割り切るしかないのだ。
「心配、しなくて……良い、から……」
手を握りしめて、卯月の顔を覗き込みながら、そう言って頷く。
というか今更なのかも知れないが、難しい事を言っても、多分、卯月には伝わらないだろう。
ならきっと……たぶん、これで良いのだ。
安心させたい。
何も心配させず、最後を迎えさせたい。
終わりを、迎えさせたい。
そう思って、弥生は卯月の手を握ったまま笑ってみせた。
勿論、卯月のようには笑えない。
自分では見えないけれど……きっとぎこちない、不器用な微笑みになってしまっている事だろう。
それでも、卯月には伝わる筈だ。
これに関しては多分、間違いない。
だからきっと、これで良いのだ。
自分と向かいで手を握っている文月が呼び掛けているのを見て、弥生は一旦顔を上げた。
傍らで相変わらず、俯いたまま肩を震わせている三日月に声をかける。
「……三日月?」
「はい……大丈夫、です」
返事をして弥生の方を向いた三日月は、目は赤く唇を噛みしめてはいたけれど、泣いてはいなかった。
もっとも、今は涙が零れて伝っていない、というだけだ。
目の近くは赤くなっていて、瞳は潤んでいる。
なにか言おうとしたものの、やはり言葉が思い浮かばず……結局、軽く頷いただけで、弥生は一歩引いて場所を譲った。
離した卯月の手を、そうっと大事そうに三日月が掴む。
少し下がってその様子を見ていたせいか、弥生は自分が少しだけ落ち着いたような気分になった。
無論、実際に如何なのかは……分からない。
こういう時、本当は如何するべきなのか?
如何するのが良いのか?
人が亡くなる時、人がするように、自分達はするべきなのか?
そんな風にしても良いのだろうか?
仲間を、姉妹を失うのは、これが初めてという訳ではなかった。
けれど、こんな風に失うのは……
記憶違いでなければ……多分、初めてなのだ。
これまでは……帰投できるというのは、港まで帰還するというのは……生き延びる事が出来た、という事だった。
死ぬというのは、死という表現を自分達に当て嵌めて良いのかは分からないけれど……それらはつまり……帰って来れなかった、という事だったのだ。
卯月は、帰って来れた。
来れたというか、帰って来させてもらえたのだ。
連れてきて貰えたのだ。
それは本当に、ありがたい事だと思う。
後で、お礼を言わなければ……
そう思って、弥生は少し離れた所にいる二人へと視線を向けた。
偶々なのかは分からないが、大井は龍驤と話をしていて弥生の視線には気付かない様子だった。
どちらにしても、今は行かない方が良いだろう。
最後の時間をわざわざ用意してもらったのに、それを無駄にするような事をすれば逆に失礼にも思う。
(「……でも、これ以上は……」)
自分は、如何すれば良いのだろう?
弥生には分からなかった。
自分が卯月にしてあげられる事はあるのだろうか?
……分からなかった。
いや……何となく、だけれど……分かっている。
たぶん、何もないのだ。
何をしてあげても、それは……この場で終わってしまう。
何かをあげる事は出来ないのだ。
なら自分は、どうしたいのか?
それも……分からなかった。
今、ここで何かしたとしても、それで終わりなのだ。
卯月には、もう……この先はない。
この先というものが、存在しないのだ。
何かを約束しても、意味はない。
嬉しい事も、悲しい事も……何もかも、全部。
この先には……未来には、続かないのである。
きっと全部、寂しさに押し潰されてしまう。
(「……ああ、そう……なん、だ……」)
自分は、これから……寂しさというものを、感じようとしているのだ。
弥生はそれを自覚した。
普段とは違う、この感覚。
何か、内側にぽっかりと空いた感覚に……理解が追い付く。
小さく空いたその空白は、多分……これから、大きくなろうとしているのだ。
今まで感じた事はあっても、状況が違ったせいで頭が追い付いて来なかったという事なのだろう。
寂しいという感情は知っているし、感じた事はある。
自分の主が司令官となり、他の艦に乗るようになった時だけでなく、これまでに幾度も感じてきたものだ。
ただそれは、いつも前置きの無いものだった。
今までは、こんな風に事前に……ハッキリと突き付けられた事は無かったのだ。
気が付いたら寂しい、という風で。
これから寂しくなる、という……予感や推測をさせるような類のものでは無かったのだ。
今まで当たり前のように会って話をしていた誰かが、突然いなくなって。
その誰かが今までいた場所に……自分の近くに、空白が出来る。
それがずっと続く……そんな風にして……
誰かがいた毎日が薄められて……誰かがいない日常が、当たり前になっていく。
ゆっくり、溶かし込まれるみたいな感じで変わってゆく。
帰って来ない事は分かっている。
でも、もしかしたら……
ある時、ふと……帰ってくるのでは……
そんな風に思いながら。
いつしか……帰って来ない事を、受け入れてしまっている。
今まではそんな風だったのに……
今は違う。
これから失うという事実を、突き付けられているのだ。
それは却って残酷な事のように感じられた。
今、卯月は確かに此処にいる。
けれど、これから居なくなって……もう、二度と会えないのだ。
そして、それを止める術は、方法は……何も無いのである。
同じ気持ちの筈なのに。
いずれで訪れる気持ちは、感情は、同じ筈なのに。
感じ方は……全然違う。
もしかしたら、これは違うものなのかも知れない。
寂しさとは違う、或いは寂しさを感じる前に感じる、何か別の感情……そういう事なのだろうか?
(「そう、だ……長月や、皆が……」)
艦長や乗員の人達が大怪我を負った時の気持ちは、これだったのだろうか?
こんな風だったのだろうか?
そんな想いも浮かんできた。
つまりは自分は、今までこんな風に突き付けられずに済んできたのだ。
それだけでも恵まれている、という事になるのだろうか?
それとも、結局は突き付けられるという意味では同じなのだろうか?
寧ろ早くに知ってしまった方が……良いのだろうか?
怖かった。
多分まだ、寂しさを感じている訳ではない。
これから、寂しくなる。
寂しさが襲ってくる。
そう宣言されて……もうそれが、目前まで迫っているのに……
それは未だ、触れてこない……
これだったら、もう寂しくなってくれた方が良い。
けれど、そんな風に……思ってしまったら……自分は、最低だ。
そんな自分を、弥生は少し恥じた。
もっとも本人的には、そんな立派なものでは無かった。
単純に、そんな自分が嫌だと思っただけだ。
それは、早く死んでと言っているのと同じだった。
そう思えた。
自分の気持ちを整理したいから、いっそ早く居なくなって欲しい……なんて冷たくて、酷い言葉だろう?
そんな事を思い付く時点で、自分は最低だ。
自分を生み出してくれた全てを……侮辱して、穢している。
こんな、こんな……
「弥生ちゃん……?」
「……?」
呼び掛けられて初めて、弥生は如月の存在を再認識した。
もちろん、一緒に居たのは知っている。
ただ、こうして……肩に手を添えて呼び掛けられるほど近くにいた事には気付いていなかった。
突然こんな事はしないだろうから、たぶん幾度か声をかけて……自分が反応しなかったから、こうして呼び掛けたのだろう。
「……大丈夫? 弥生ちゃん?」
「……大丈夫」
再び呼び掛けられ、問い掛けられて……弥生は如月の方を向いて、返事をした。
「……何度か……呼ん、だ?」
逆に質問すると、如月は少し不安そうな顔で頷いてみせた。
「ええ……返事が無かったから。何かなって。考え事、してるみたいだったから……」
「……そんな、に?」
「あ、時間はそれほどじゃないの。一分も過ぎてないと思うけど……」
「そう……うん、ちょっと……」
「……思い詰めて、背負い込まないでね?」
「大丈夫……そういうの、じゃ……無い、から……」
何か後ろめたい気持ちになって、弥生は俯いた。
目を合わせていると、自分の中に浮かんだものを見透かされてしまうような……そんな気持ちに陥ったのである。
「……そう……」
顔を背けるように俯いてしまったせいか、それ以上の問い掛けは無かった。
けれど、そのせいで逆に……弥生は自分が問い正されでもしているかのような気持ちになった。
自分は何をしているのだろう?
そう思う。
情けない……そんな思いも湧いた。
皆が悲しんでいる時に、自分の事だけ考えて……
自分はこれで、良いのだろうか?
勿論、良い訳が無い。
こういうのは、良くない。
これでは駄目なのだ。
自分は決して、自分だけの存在では無い。
艦娘の弥生は、睦月型駆逐艦の弥生は、沢山の人々の想いが籠められた存在なのだ。
勿論その全てが、綺麗で美しいものでは無かった事だろう。
そもそも軍の艦艇という時点で、戦う為の存在なのだ。
抑止力という効果を持つのも事実だが、それも実際に戦う為の力を持っていてこそである。
戦うという事は……傷付け、殺す、という事も含んでいる。
それから目を背けるつもりは無い。
でも……それが全てでも無い。
傷付けたくて、殺したくて、戦う訳ではないのだ。
無論、その方が悪いという者もいるかもしれない。
仕方なく傷付け殺す方が、望んで傷付け殺すより悪いという意見もあるかも知れない。
どちらが正しいのかは……分からない。
少なくとも今の自分は……
誰かの、何かのせいには……しない。
弥生が思っていたのは、それだけだった。
全部が正しいなんて、ある訳が無いのだ。
それでも、ここから進む為に、出来るだけ正しいと思える道を進むために。
自分のこれまでを見据えて、胸を張らなければならないのだ。
弥生の艦歴を、自分という過去の歴史を……自分で否定するような事があっては、ならないのだ。
だから……誰かのせいにしそうになって、嫌な事を考えた自分が嫌になりかけて……でも、自分が嫌だなんて考えるのも逃げる事になるのでは……そう考えてしまって……
堂々巡りのような自己嫌悪が、止まらなくなってしまいそうになって……
自分の始まりに、目を向けたのだ。
情けない。
これでは駄目だ。
そう思ったなら、考えたなら……それを何とかしなければならない。
そうしなければ、何も変わらないのだ。
そうしなければ、自分で自分の始まりを穢す事になってしまう。
だから……何とかしなければ、いけない。
それなのに……
「弥生、は……」
違う、自分だけだ。
他の弥生は、きっと……こんな気持ちは、抱かない。
抱く筈が無い。
身勝手で、独りよがりで、自分の為に他の何かを傷付け害する事も辞さないような……
「弥生ちゃん?」
今度は肩に触れただけではなかった。
押さえ込まれるような圧迫感と共に、如月の顔がすぐ近くに見えた。
顔には、あまり穏やかではない表情が浮んでいる。
「如月には、言えないのよね?」
「……御免……」
「それは良いの。ただ、一つだけ聞かせて」
そう言ってから一度息を吐くと、如月は再び弥生の瞳を見つめて問い掛けた。
「今の弥生ちゃんの気持ちは……卯月ちゃんの事で、生まれた気持ち?」
「……多分……」
「なら、言った方が良いわ。たぶん、卯月ちゃんに言おうとするなら、きっと形になると思う」
「けど……」
「弥生ちゃんが嫌じゃない形にして、言えば良いのよ」
拒否しようとする弥生に、如月はそう告げた。
「月並みな言葉になるけど、言わないで後悔するより言って後悔する方が良いと思うの……少なくとも私は……自分が情けなくて、みっともなかったけど……言って良かった、って……思えたから。だから……」
そう言った時だけ、如月は……
弥生の目を見ながら……どこか別の場所を見ているような目をしていた。
凄く遠くを見るような瞳で、そう言って……すぐに彼女は、その目を弥生に向け直した。
「それで本当に、絶対に言うべきじゃ無かった。言わなければ良かったって思ったら……如月のせいにして、良いから」
「……そんな、の……」
「良いの。如月のせいだって、怒って恨んで良いから……」
だから。
どこか泣きそうな表情で、如月は口にした。
「だから、信じて、卯月ちゃんに吐き出してみて、欲しいの」
寧ろお願いするような、縋るような言い方に……逆に不安になって、問い返そうとした時だった。
ほとんど灰色一色だった周囲の景色が……輝きに、彩に……染まる。
光は卯月の身体から、生まれていた。
卯月の身体から、溢れ出るようにして現れた形のない、輝く何か、粉のような、粒子状の何かは……そのまま、重さを感じさせない動きで……天へと昇ってゆく。
そして目の前の卯月の身体は、その溢れる光と共に何かが抜け出していくかのように……変わり始めた。
光のせいか、実際に淡くなり始めたのか……
ゆっくりと輪郭が失われ……薄まってゆく。
文月と三日月が握っていた手が、透かして見えるほどに薄くなって……
「……弥生ちゃん」
如月に背を押されたというだけでなく、何かに突き動かされるようにして。
弥生は卯月に近付いた。
目を閉じて横になったままの卯月に、意識があるのかは分からない。
それでも……
伝わらなくても、もう聞こえなかったのだとしても……
何も言わないよりは、良い。
今の弥生には、確かにそう思えた。
「卯月……」
少し迷って、顔の近くに腰を降ろして。
弥生はそっと、卯月の頬に手を伸ばした。
ふれた頬は、今の見た目とは裏腹に、以前と変わらないように感じられる。
それでも、きっと……同じでは無いのだ。
たぶん、もう……自分は二度と、卯月に……この目の前の卯月には、こんな風に出来ない。
「……嫌、だよ……本当、は……」
悩んで迷って、自己嫌悪したりもしていたのに……
考えが堂々巡りして、自分でも訳が分からないような……そんな状態だったのに。
今は不思議なくらいに、素直に言葉が……口から出てきた。
「……何で……居なくなっちゃう、の? ……って、思う……」
居なくならないで欲しい。そう思う。
「……ずっと、居て欲しい、よ……?」
言葉にしてみると、自分の中で形になっていなかったものが、確かにあるのに分からなくて……引っかかったような感じて、苦しかったものが……呆気ないくらいに容易く理解できた。
簡単な事だったのだ。
誰かが居なくなれば、寂しい。
けど、いなくなる前から寂しい事もあるのだ。
誰かと別れなければならない、から……寂しい。
それも決して不思議な事ではないのだ。
感じ方は、確かに違ったのかも知れない。
それでもきっと、それも寂しさなのだ。
自分は、もう、寂しがっていて……でも、その事に気付かなかった。
いや、感じていて、でも理解できなかったのだ。
そんな気持ちを、何とか整理しようとして。
考え込んで、答えを出そうとして、混乱して……
でも、分からなくて。
それなのに今は、呆気ないくらいに簡単に形にできて。
理解も……できた。
これから寂しくなると思っていて……本当はもう、寂しがっていたのだ。
ただ、それだけの事なのだ。
そして、それだけの事なのに……自分は、不安になって、悩んで、恐れて、八つ当たりして……
どうしようも、なくなっていたのだ。
心というのは……本当に、怖い。
自分でも分からなくて、でも確かに存在していて……
自分の全てが、振り回されてしまう。
分からないという事が怖くて、耐えられなくなってしまう。
でも……だからこそ、人は、人間という存在は……知ろうとし続けて、学び続けていった……そういう事なのだろうか?
悩んだり苦しんだりして、でも……
知らない方が、もっと辛いと感じて、考えて……進み続けた、という事なのだろうか?
気が付くと卯月が目を少しだけ開けて、自分を見ていた。
「……大丈夫」
自分は何回、同じ事を言うんだろう……そんな事を考えながら、口にする。
「……分かってる……から……」
そう、分かっているのだ。
分かっている。
さようなら、は……もう、どうしようもない事なのだと。
避けられない現実なのだ、と。
それでも……言っておきたかった。
だから……
「一度、だけ……言っておこう、って……」
そう言うと、卯月は目を閉じた。
それが、笑っているように見えて……弥生は少し、嬉しかった。
安心したのかも知れない。
少なくとも、悪い気分にはさせずに済んだのだと思えたから。
だから、なのだろうか?
薄くなった卯月の姿が、呆気ないほどに容易く消えても……悲しくはならなかった。
溢れた光の最後の一塊が……微かな明るさを残しながら、天へと昇っていき……そのまま、消える。
それを見ても……ああ、行ったんだな……くらいにしか思わなかった。
もっともそれは、ただ単に実感が無いというだけの事なのかもしれない。
これから、ゆっくりと……思い知らされていく、という事なのだろう。
そちらの方は、経験があった。
今の戦いが始まってから、幾度も経験している事だ。
そんな事を考えたところで、そっと頭を撫でられた。
「……ありがとね、弥生ちゃん……」
何故か礼を言われて不思議に思い、弥生は逆に首を振った。
「逆……弥生の、方……が……ありがとう……」
「じゃあ、お互いにって事で」
そんな言葉と共に背後から回された如月の手が、弥生をきゅうっと抱きしめる。
その腕が微かに震えているように感じられて、弥生はそっと、回された腕に手を添えた。
文月は空を見上げるような姿勢で、目を閉じて……両手を合わせるように握り締めている。
三日月は、卯月の手を取っていた格好のままで、やはり空を見上げていた。
時々瞬きをするその瞳からは、溢れてしまった涙が……頬を伝って滴り落ち、足下に染みを作っている。
こんな風に、見送られて……最後を迎えられたのだ。
海で沈むのに比べれば、余程に恵まれている。
母港ではないけれど、港まで帰って来れて……
仲間達に、見守られて。
それでも……
「……もっと、一緒に……過ごしたかった……です」
卯月、姉さん。
三日月がそう呼んだのを聞いたのは、初めてではないだろうか?
そんな事を考えながら。
弥生も少しだけ目元を擦ってから……
灰色に戻った空を、見上げた。
空はもう、いつもと変わらない。
一面灰色で……ただ、何事もなく。
弥生達を見降ろしでもするかのように、広がっていた。