●我レ、此レヨリ航空戦ノ指揮ヲ執ル
被弾した龍驤の船体で爆発が起こった際、即座に龍驤から通信が入った。
だがその通信は、途中で激しい雑音と共に中断された。
心の一部が留め置かれたような気持ちを堪えて、鳳翔は戦闘を続けつつ通信を待ったものの、龍驤からの通信は無かった。
逆に鳳翔から状況確認の為にと通信を送りはしてみたが、龍驤からの返信は無かった。
僅かに時間を置き、再度通信を送る。
返信を期待しながら、一方で何かを理解しながら……
そんな作業を繰り返し……三度返信が無かった時点で、鳳翔は龍驤及び司令部からの通信が途絶したと判断した。
望むと望まざるとに関わらず、自分の番が回ってきたのだ。
金剛を含めた全艦に彼女は通信を送った。
細々とした指示等は必要ない。
ただ事前に決められていた事を改めて確認するだけである。
短く一部へのみの通信。
特にそうしようと考えていた訳では無かったものの、自分が口から発した言葉は何処か聞き覚えのあるものだった。
浮かんだのは、かつての自身が近付けなかった海域。
そして、偵察のために派遣した艦攻から受けた報告である。
確認されたという航空母艦を、まだ沈んでいないだけという……満身創痍で浮かんでいたという飛龍の姿を、頭の中に思い浮かべる。
(「飛龍さんが艦娘になって知ったら、真似だって怒られちゃいますかね?」)
そんな事を考えて苦笑いしようとして……そこで漸く鳳翔は、口の中が渇き切っている事に気が付いた。
つまりはそれだけ自分は緊張していたという事だ。
それを解(ほぐ)す等という余裕はない以上、今は押し込めるしかない。
やる事は変わらないのだと、自分に言い聞かす。
実際、基本的な動きはこれまでと変わらないのだ。
変えるべきでないとも考えている。
戦闘中の急な方針の転換は混乱を起こす可能性が高い。
(「それに……弥生さんは聞いてくれるか分からないですし?」)
命令を受ける側の都合を慮るなどというのは、緊急の事態においては偽善であり有害でしかないだろう。
それでも、鳳翔の思考の中にはそれらが確実に存在していた。
冷徹な判断に感情的なものを理由として付け加えているのか?
気持ちを重視した判断に、理性で最低限の修正を行ったのか?
どちらかは分からないし、どちらでも構わなかった。
目標達成の為の範囲内で、自身の納得のいく指示を出したい。
これで良いと思いたい。
実際のところは、それだけだった。
「望月、初雪、如月の3隻は対空戦闘を継続して下さい」
一人一人、一隻一隻、確認するように。
呼び捨てにする事で、自分の意識も切り替えるつもりで……努めて、冷静に。
まず、これまでの方針を維持する事を明確にする。
必要ない可能性もあるが、無線を聞いていれば龍驤との通信途絶を確認している者も確実にいる筈である。
このままで良いのかという迷いが生じる可能性はあった。
それを打ち消すのは決して不要な事ではない。
言わなくて大丈夫だろうかと心配しそうになる自分を安心させるという意味もあった。
続いて、龍驤の指揮下にあった3隻へと通信を送る。
「弥生、長月、金剛は龍驤の生存者の救出を。救出後は生存者を護衛しつつ安全な場所まで退避して下さい。護衛に余力がある場合は、此方への合流を。判断は各自に任せます」
そこまで一息だった。
即座に金剛から了解を伝える通信が入る。
少し間を置いて、長月からも返信があった。
弥生からの返信がない事を踏まえ、金剛と長月に相互確認を任せる旨を伝える。
連絡が届かなかった可能性。
それを踏まえての相互確認と、此方への報告は事後となっても構わない事も明言しておく。
これで戦闘がひと段落した後で弥生が報告する形となっても、大きな問題点は無いはずだ。
念の為、傍受されるのを警戒して司令部や司令官という言葉は使わず、あくまで生存者という表現に留める。
合流の判断等を各自に任せるとしたのは金剛達の判断の方が自分より的確なのではという思いもあったが、弥生の事も考えての配慮だった。
正式な軍人ではない以上は抗命罪とされる可能性は低いのかも知れないが、命令に従わない艦娘という結果を残すべきではないと思ったのだ。
彼女が可哀そうという気持ちが無いといったら嘘になるだろうが、自分が後ろめたい気持ちになってしまうのが嫌というのが、恐らく一番の理由だろう。
勿論、提督の事を第一に考えてほしいというのも大きな理由だ。
「……つまりは私も、我儘で自分勝手って事ですね」
如何考えても危険な状態であるのに、不思議と笑みがこみ上げてきた。
それは今、自分が戦場にいるからだろう。
戦う事が出来るから、なのだろう。
先程までは緊張で強張るような想いだったのに、今は寧ろ昂(たかぶ)っているような感じがある。
戦える。何もできない訳ではない……だからこそ、なのか。
他の事を考えずに、ただ戦う事を考えられるという状況だからなのか?
龍驤や司令部の事が気にならないと言えば嘘になるが、其方に3隻を向けた以上、それで十分だろうという思いがあった。
或いは此方の3隻、船体を展開していない如月を含めれば4人が戦闘に専念できるという形を作りたかった、という事なのかも知れない。
実際、余計な事を考えている暇などなかった。
龍驤の戦線離脱によって、現在戦闘可能な航空母艦は、軽空母の自分1隻のみなのだ。
対して敵の航空母艦は1隻を大破させたものの、もう1隻……旗艦であるflagshipの方が残っている。
敵の航空戦力が運用可能な状態のままであれば、龍驤の退避は護衛が付いていたとしても難しくなるだろう。
自分の奮闘が味方の生死に関わるのだ。
そんな状況下で、自分は艦隊の旗艦として……機動部隊の指揮官(艦)として、戦わなければならない。
だが逆に考えれば、そんな状況で戦う事が出来るのだ。
かつての自分を顧みれば、どれだけ幸せだろうか?
無論……かつての自分が恵まれていなかった、等とは欠片も考えていなかった。
自分の就いていた任務が無意味なものだ、などと考えた事は一度も無い。
新たな搭乗員達の育成というのは、極めて重要なものだと理解していた。
どれだけ航空機を量産したところで、それを操縦できる者がいなければ意味は無いのだ。
寧ろ当時の自身の性能を考えるのであれば、役割を用意し役立ててくれたと感謝すべきなのかも知れない。
複葉機が現役であった時代に設計された飛行甲板は、九七式艦上攻撃機達に全力を尽くす為の装備を搭載させてあげる事すら……困難だったのだ。
その後継機達ともなると只の発着艦ですら難しく、飛行甲板を延長した結果……今度は艦の復元性が悪化した上に艦橋からの前方視界も著しく低下し、外洋での航行が危険と判断される結果となった。
その後の鳳翔は、訓練用の空母として内海で運用される事となったのである。
そんな自分が戦うなどというのは、無意味どころか迷惑であるに違いないのだ。
戦争というのは、前線での戦いが全てではない。
文字通り国家の総力を挙げて、あらゆる資源を総動員するという戦いにおいて、自分には少なくとも重要な役割と立場が与えられ、前線ではなくとも戦いに関わり大きく影響を及ぼす任務が用意されたのだ。
分かっている。
冷静に考えれば、判断すれば、分かっているのだ。
理解しては、いるのだ。
それでも……
それでも、なのだ。
悔しかった。
もう……耐えられない。
振り返ると、そんな気持ちだったのだ。
見送るだけは……もう、沢山だった。
戦いが好きか嫌いかで言えば、好きではなかった。
いや、仲間たちが、艦や航空機の妖精たちが傷付き倒れていくのは嫌なのだから……言葉を飾らないのであれば、嫌い、という事なのだろう。
それでも、自分だけが戦わないなどというのは、真平(まっぴら)だった。
かつての自分は、結局は戦えなかった。
途中からはもう、見送る事しかできなかった。
自分より後に建造された、或いは改造され就役した空母たちを。
訓練を……途中からは機体や燃料の不足で最低限の、いや、戦争末期ともなればそれにすら到達していないような訓練しか行えなかった兵達……搭乗員達たちを、艦載機たちを。
送り出して、見送って……多くの者達は、帰って来れなかった。
その帰って来れない者たちを、幾人かとはいえ帰る手助けを行えた事は……かつての自分にとって、僅かな慰めになったかも知れない。
それでも、なのだ。
(「私は、戦いたかった」)
皆と同じように、大切なものを守る為に……力を尽くしたかった。
戦う者たちの力になりたかった。
そんな想いも、今は遠い。
何故なら自分は……今の自分は、戦場にいるからだ。
航空母艦鳳翔として、航空隊の母艦として、此処に在るからだ。
艦隊旗艦として、指揮官として、此処に居るからだ。
「……いつまでも、演習って訳にもいきません」
自分に言い聞かせるように呟く。
戦いに嫌悪感らしきものを抱いているのに、同時にどこか……高揚している自分もいる。
軍艦としての役割を果たせるという喜びなのか?
自分も国を守る為に建造された戦船、という事なのか?
これまでも戦い続けてきたのに、何か違うように感じる自分がいる。
旗艦といっても龍驤が戦えなくなった以上、指揮する戦力に殆ど変わりは無いのだ。
それでも、やはり違うという事なのか?
機動部隊を指揮するというのは、自分にとって特別な事なのか?
或いは航空母艦ならば当然の事なのか?
想い、問い掛けを抱きながらも、意識は上空の敵艦載機へと向け続けた。
潜水艦等の奇襲を全く警戒しない訳ではないが、そちらはあくまで最低限で、望月と初雪を恃む形にしている。
攻撃機の雷撃にも警戒している彼女達は、何らかの異常があれば即座に報告してくれるだろう。
鳳翔自身が第一に警戒すべきは、やはり敵艦載機からの爆撃なのだ。
望月も初雪も、そして鳳翔の飛行甲板上で艤装のみを展開している如月も、対空戦闘を継続していた。
敵攻撃隊の主力は龍驤に向けられていたようで、鳳翔への攻撃は相対的には軽微と言えた。
とはいえ皆無という訳では無い。
それでも、全くと言っていいほど損傷を受けない状態で戦闘は一旦終了した。
敵機の姿が見えなくなった後も警戒を続け、充分と判断すると鳳翔は駆逐艦達に通信を送った。
内容は艦隊の周囲に墜落した航空機の妖精たちの救助要請である。
彼女自身には無事だった艤装の戦闘機たちの収容という作業があった。
もっともその辺りは龍驤が旗艦だった頃と、以前と変わらない。
(「救助が終わり次第、交代で小休止して頂きましょう」)
龍驤の戦線離脱という事態の直後に緊張を緩めさせるのは危険かもしれないという懸念も浮かんだものの、鳳翔はそう決断を下した。
無理が必要な時というのも勿論あるが、今は僅かではあっても時がある。
敵も味方も帰還した艦載機を着艦させ補給を行わなければならない。
着艦に1機1分しか掛からなかったとしても、60機いれば60分、1時間掛かるのだ。
そして着艦も発艦も1分では出来はしない。
燃料の補給や爆弾魚雷の取り付けは1機ずつではないが、全機同時という訳にも行かない。
つまりはそれだけ時間が掛かるという事なのだ。
少数だけ再装備をさせ出撃させる可能性が無いとは言わないが、今までの深海棲艦達はそういった攻撃を行ってこなかったし、警戒していれば少数の攻撃は凌ぎ易い。
交替で一人、一隻ずつとなるので各自に与えられる時は更に少ないものとなるが、今後の事を考えるのであれば休める時に休ませるべきなのだ。
その場合は如月にも船体を展開してもらって、警戒に当たって貰わねばならないだろう。
少しでも疲労を軽減させたいというのもあるが、龍驤が健在の時と同じようにする事で受けた衝撃を少しでも和らげたいという気持ちもあった。
口には出していなくとも、駆逐艦達が受けた衝撃というのは決して小さなものでは無いはずだ。
今現在も龍驤と司令部についての詳細は不明のままなのである。
いや、詳細どころか生死すら不明の儘だ。
鳳翔自身もそういった気持ちを抑えて平静を装おうと努めているのである。
落ち着いて、不安や緊張を外へと滲ませないようにと気を配りながら。
鳳翔は艤装の戦闘機への補給作業を行う為に、機体の着艦を開始させた。
念の為に少数は護衛として残し、周囲を警戒させる。
敵攻撃隊の一部が残っていて奇襲を狙ってくるという可能性も、無いとは言い切れなかった。
今、艦隊の上空を守っているのは鳳翔の艤装の戦闘機のみなのだ。
龍驤の船体から発進していた戦闘機たちは全て、彼女の船体が大破以上の損傷を受けた時点で、力を失ったかのように墜落していった。
大破に留まっていれば全てが墜落するという事は無かった筈だ。
龍驤の戦闘継続は難しいだろうと鳳翔が判断した理由の一つが、船体の艦載機たちの墜落だったのである。
攻撃隊に護衛を付けない訳にはいかない以上、次の敵の攻撃は鳳翔の艤装の戦闘機隊のみで凌がなければならない。
鳳翔はそう結論を出した。
当然というべきか、味方の攻撃隊の戦力も激減している。
帰還中だった龍驤の攻撃隊の残存機、9機の艦攻も全機が墜落したらしかった。
触接を行っていた機体の方との連絡も途絶したままである。
恐らく……他の龍驤所属機と同じ運命を辿った、という事なのだろう。
つまるところ残存の艦攻隊は、水平爆撃のお陰で被害を出さずに済んだ鳳翔所属の九七式艦上攻撃機の4機のみである。
艦爆を含めても何とか二桁に達するという程度だろう。
それを可能な限り万全の状態で攻撃に参加させたい。
それが鳳翔の想いであり、下した決断だった。
艤装の戦闘機たちの補給に関しては、それほど時間が掛からなそうだった。
小型故に小回りの利く艤装の艦載機たちは広い空間を確保する必要がないし、加速減速も容易なのである。
一機ずつでなければならないという点は同じだが、各機に掛かる時間は短くて済む。
艤装の肩部に備え付けられた飛行甲板を水平に保ち、着艦してきた艦載機達が矢に戻るのを確認次第、そのまま流れ作業のような動きで矢を手に取り矢筒へと収める。
矢羽や本体、鏃(やじり)が少し傷んでいるものは、損傷を受けた機体が矢へと変化した際に残ったものだろう。
幸いと言うべきか、飛ばせないほど傷んでいる機体は無かった。
もっとも、艤装の艦載機というのは船体の物と比べて耐久力の点で劣っている為、余程小さな損傷でなければその時点で墜落してしまうというのも大きいと言える。
機体が小型故に回避という点では優れるが、何か損傷を受ければそれだけで致命傷になりかねないのだ。
全く傷付いていないという矢が殆どないのは、恐らく無理な運動を続けた故に機体の構造に負荷が掛かっての損傷という事なのだろう。
それらをこの場で治すというのは難しそうだった。
それでも、十分な時間と設備さえあれば直せるというのは妖精たちの技術の賜物と言えるだろう。
構造の歪みや金属疲労等というのは、本来であれば交換しか手段がないのであろうから。
損傷が軽微なものであればそれほどの時間は必要としなかったが、流石に戦闘の合間というだけの時間で足りなそうだった。
ともかく、先ずは補給を終えてからである。
(「余裕がありそうなら、順に修理していきましょうか」)
そんな事を考えつつ矢へと変化した艦載機たちへの補給を妖精たちに任せている最中に、金剛から龍驤の側についての情報が送られてきた。
金剛の方も傍受を警戒しているのだろう。
内容は弥生と長月で龍驤及び乗員の生存者を救出し、金剛が護衛しつつ退避中という簡素なものだった。
龍驤を救出と言ってきたのは、其方は名を出しても問題ないと考えたのだろう。
寧ろバレたとしても此方に航空戦力の余裕があると警戒させ、相手を慎重にさせる効果を望めるかもしれないと判断しての事かも知れない。
龍驤艤装の艦載機に関して、可能な範囲で回収に成功した旨も付け加えられている以上、完全に戦力が失われた訳ではないという風に受け取る事も出来ない訳ではない。
とはいえ実際のところ艦載機が残っていたとしても、現状の龍驤は艦載機を運用できない程のダメージを受けていると通信内容から想像されてしまう事だろう。
相手が少しでも慎重になってくれれば儲け、程度の無駄打ちの一つ……といった処だろうか?
勿論相手が通信を傍受していなかったり、していても全く気に掛けないという可能性もあるが、それでも出来得る限りの事はというのが金剛の考えなのかも知れない。
そういった細やかさと大胆さを併せ持つ彼女が龍驤達の傍に居てくれるのであれば、これ以上の安心は無いと言えた。
勿論、共に戦えないのが残念という気持ちも……全くない、という訳では無いが。
遠目に……弥生らしき船体が、確認できた。
金剛は元々艤装のみである以上は当然だが、長月の方も船体は展開しない方が良いと判断したのだろう。
皆の無事を祈りつつ、鳳翔は指揮下の3隻に金剛からの通信を連絡した。
如月からの返信には明らかな安堵が聞いて取れる。
望月や初雪は変わりないように見えるが、即座に確認の旨が返ってきた以上、心配はしていたという事なのだろう。
普段はあからさまに怠惰で面倒臭がりな様子の二人だが、こういう処ではサボらない辺り分かっているというべきか、それとも勘所を心得ているというべきか。
皆の反応を確認しつつ、鳳翔も自分を落ち着かせた。
駆逐艦、弥生の船体が波飛沫をあげながら遠ざかっていく。
そして龍驤の船体は、船内の空気を吐き出し僅かな流れを生み出しながら……海中へと沈んでゆく。
その姿を最後まで見届けるという訳には行かなかった。
対空戦闘時は回避に専念する事になってはいたが、艦隊は今も敵機動部隊に向かって航行を続けているのである。
もっとも鳳翔としては、沈んで逝く姿を見続けるというのが正直……つらい、というのもあった。
これまで共に戦っていた仲間が沈んでゆくのだ。
龍驤自身が生き延びてくれたとはいえ、当然悲しい。
龍驤の心の内を想えば……尚の事、だった。
自分自身の姿を重ねてしまうというのもあるのかも知れない。
だから鳳翔は、視線を逸らすように退避してゆく弥生を眺めてから、視線を前方へと向けた。
気持ちをそうやって先へと向ける。
艤装の戦闘機の補給は、思っていた通り直ぐに終わった。
そのまま損害の軽微な機体の修理に入る。
修理というよりは簡単な整備とでも呼ぶべき作業を妖精たちがある程度まで行ってくれた頃に、護衛の戦闘機たちが帰還する攻撃隊を発見した。
損傷で墜落しそうな機や燃料が無くなりそうな機体が無い事を再度確認すると、鳳翔は少数ずつ、戦闘機隊の方から補給を開始した。
補給の終わった機は、そのまま艦隊上空の警戒に充てる。
妖精たちが働いているその間に、鳳翔は船体の飛行甲板上を移動して周囲を見渡した。
飛行甲板の長さは延長された後の状態なので、180mを僅かに超えている。
それによって艦の前方に設けられていた艦橋の視界が悪くなっている為、周囲の状況を把握したい場合は飛行甲板にいた方が何かと都合が良いのだ。
かつての自分はこの改修の為に視界が低下し、何より艦の復原性が著しく悪化した為に外洋での活動が困難となり……以降は訓練用空母として内海のみで運用される事となったのだ。
繰り返し噛み締め、割り切ろうとしながらも、出来なかった……かつての記憶。
この戦いの合間ですら、幾度か振り返ってしまった過去。
そんな過去を……今は比較的冷静に、見つめる事ができた。
今の自分の船体は外洋での活動も然程困難ではなかった。
その辺りも恐らく、妖精たちのお陰という事なのだろう。
ありきたりの表現になってしまうが、感謝してもし切れないというのが鳳翔の本音である。
外洋での活動が可能で、飛行甲板が延長された為に艦攻隊が魚雷を搭載して出撃できるようになったのだ。
新型の艦載機が仮に開発されたとしても、問題なく運用できるはずである。
加えて、航空機用の燃料タンクも設置する事が出来た。
乗員が居らずとも動く事が可能になったが故に、改造可能な区画が出来たのである。
かつての自分は船内に艦載機の為の燃糧タンクが無かった為に、その燃料をドラム缶に詰めて艦内に搭載していたのだ。
その辺りの記憶は自分にはハッキリと残ってはいないが、船内で煙草を吸うどころかライターの持ち込みが禁止だったというかつての関係者の言葉が残っているらしい。
航空母艦という艦種を確立していく為の実験的な艦だったとはいえ、それだけ不足し、問題も多い艦だったのだ。
そもそも複葉機が運用されていた時代に設計され建造された艦である。
航空機の進化が早かったというのも、勿論あるのだろう。
九六式艦上戦闘機の前に制式採用となり運用されていた九五式艦上戦闘機(開発に時間が掛かった為、実際は九〇式と九六式の繋ぎのような形で運用された機体)は複葉機だったし、艦攻に至っては九七式艦攻と一年しか開発に違いのない九六式艦攻は羽布張りの複葉機だったのだ。
僅か数年で航空機の分野は、信じられないほどに進歩した。
かつて赤城で考案された三段式の飛行甲板も、艦載機が複葉機であったならばそれなりに運用可能だったのかも知れない。
離陸性能に関しては、複葉機は単葉機に勝っていたのだから。
だが、それ以外の多くの面で複葉機に勝ち目は無かった。
欧州方面ではそれでも戦争の中期頃までは活躍していたらしいが、太平洋方面の戦いでは、複葉機は直ぐに姿を消した。
戦闘機が進化した結果、迎撃どころか逃げる事すら不可能となった為である。
速度の極端な違いに相手側が慣れていない状態では認識の差を利用する事も可能だったらしいが、それが無くなってしまえば如何しようも無かった。
かつて名機と呼ばれていた機体も呆気なく旧型となり、かつての自分もそんな風に……戦闘には耐えられない艦となり、最後は復員船として活動したのちに解体された。
そうやって、かつての鳳翔の艦歴は幕を閉じたのだ。
「でも、今は違います」
誰に言うでもなく、鳳翔は呟いた。
自分に言い聞かせたのかも知れないと、ふと思った。
船体の戦闘機隊の補給は既に終わり、次いで艦爆の補給が行われている。
残った九九式艦上爆撃機は6機だったので、全機を着艦させてから爆弾を取り付けさせた。
搭載させるのは前の出撃と同じ250kg爆弾である。
燃料や機銃の弾薬の補給も終え全機が発艦すると、最後に残った艦攻隊を着艦させた。
4機の九七式艦上攻撃機が今回搭載する事になるのは上空から投下する大型の徹甲爆弾ではなく、800kgの対艦攻撃用の航空魚雷である。
仮に損害が少なかったとしても、攻撃隊を出せるのは多く見積もってもあと2回といったところだろう。
損害が大きければ、次の攻撃が最後になるかも知れないのだ。
4機の水平爆撃では、結果を出せるかは分からなかった。
厳しく表現をするのであれば、低いと言えるだろう。
艦上攻撃機による爆撃は攻撃力は高いものの、精度となると他の攻撃手段と比べて大きく劣る事になる。
対して魚雷による雷撃は爆撃と比べて命中率は高くなる。
点で命中させなければならない爆撃と、ある程度は線で命中させられる雷撃の違い、という事なのであろう。
攻撃力に関しては目標に対しての損害の与え方が爆撃とは異なるので単純に比べるのが難しいが、大型の艦に対しても一発で撃沈するだけの損傷を与えられる可能性は十分にあるので、強力といっても決して誇張では無いだろう。
ならば何故前の出撃で水平爆撃を行ったのかと言えば、第一に損害の軽減だった。
残存機数が少ない鳳翔艦攻隊への損害を、可能な限り損害を抑えるべきとの判断ゆえだった。
水平爆撃が雷撃より有利な点は、攻撃を行う機体への損害の少なさである。
全く被害を受けないという訳には行かないが、雷撃と比べればその損害は大きく減少する。
というよりも、雷撃を行う場合の被害の方が極端に大きいと表現すべきであろう。
かつての太平洋での戦争では、雷撃を三度行えるものはいないと言われるほど、雷撃機が撃墜される確率は高かったのである。
妖精たちの操る機体はそれと比べれば生存率は上がっているとはいえ、それでも対空能力の高い深海棲艦に迎撃されたり多数の敵戦闘機に狙われたりすれば、大きな損害を出す事になる。
鳳翔と龍驤が戦ってきた敵艦隊は高い対空能力を持っているという程ではなかったが、最低限の対空能力を所持していた上に、戦闘機を搭載した空母も編成された部隊だったのだ。
一度の戦闘での被害は大きくは無かったが、途中から航空機の補充が出来なかった為に損害は蓄積していたし、元々2隻とも搭載数は多いとは言えなかった。
その残り少ない艦載機の約半数が、龍驤の船体と運命を共にしたのである。
残った攻撃隊は、どちらも二桁に満たない艦攻と艦爆のみだ。
迷いがなかったと言えば嘘になる。
それでも鳳翔は殆んど時を置かずに決断した。
艦攻が魚雷を搭載する間に、艦は機体が発艦し易いようにと向きを変え、速度を上げる。
戦闘機は勿論として艦爆の時も然程(さほど)危険は無かったが、魚雷を搭載した艦攻となると……十分、いやそれ以上に注意しなければならない。
補給と武装の搭載を終え発艦準備が整ったのを確認すると、鳳翔はもう一度船体と周囲の確認を行った。
「風向き、良し……発艦、始め」
静かな小声に決意を込めて、始まりを告げる。
言葉に応えるように魚雷を積んだ九七式艦上攻撃機が、飛行甲板の上を走り出した。
艦攻は加速しながら甲板の端へと近づいて往き……高速ではあっても、どこかもったりとした重さを感じさせる動きで、震えるように揺れながら艦を離れる。
ゆっくりと沈むように高度を落としながら、滑走用の引込足を格納した後……同じくらいゆっくりとした動きで機体は高度を上げ、そこから段々と加速しながら上昇していった。
直ぐに次の1機も、プロペラを回しながら走り出す。
その間も鳳翔は風向きに注意しながら、艦の進路を確認し続けた。
4機しかいない艦攻を発艦の失敗で失うような事になっては、申し訳が立たない処ではない。
無念などという言葉では、幾ら連ねても足りない事だろう。
そう思えば、嫌でも慎重になる。
魚雷を積んだ艦攻を船体から発進させる時は、いつもこうだ。
それでも、かつてのように魚雷を使わせる事ができなかった過去とは比べ物にならないと言うべきだろう。
充分に注意して、そして幸運に……いや不幸に襲われなければ、不意の風や波に襲われなければ良いのだから。
幸いというべきか今回もというべきか、そのような事故には遭う事なく、艦上攻撃機達は無事に全機が発艦を終えた。
高度を上げた艦攻たちはゆっくりと機体の向きを変え、上空で待機していた戦闘機隊や艦爆隊と順に合流していく。
上空で纏まった全機は鳳翔からの通信を受けると、次々に機首を翻した。
護衛の零戦二一型11機に守られた、九九艦爆6機と九七艦攻4機の計21機。
それが今、この機動部隊に、鳳翔に準備できる航空戦力の全てである。
先頭を飛ぶ艦攻の1機が、手でも振るかのように微かに機体を揺らす。
その姿を見えなくなるまで見送りたいという気持ちを抑えて、鳳翔は意識を周囲への警戒へと向けた。
望月と初雪の2隻が周囲を警戒し、如月も鳳翔の甲板上から周囲を警戒してくれてはいるが、だからといって自分が全く無警戒という訳には行かない。
実際の戦闘では、攻撃隊の発艦時を狙って潜水艦が雷撃を仕掛けてきたという事もあるのだ。
(「マリアナの時の翔鶴さん……? 大鳳さん、でしたっけ?」)
とにかく、用心を怠ってはならない。
自身の視線は小さくなってゆく攻撃隊へと向けたまま……鳳翔は意識を船体へと、周囲の海洋へと向けていった。
敵の攻撃隊らしき複数の機影を発見したとの報告が攻撃隊から届けられたのは、時間的にはそろそろ敵艦隊を確認できるのではと鳳翔が考え始めた頃だった。
当然の事ではあるものの、鳳翔は緊張して続報を待った。
前の遭遇では互いに手は出さずに擦れ違いはしたものの、以前のヌ級達との戦いでは敵の戦闘機隊が此方へと向かってきた事がある。
もしそうなれば戦闘機隊で迎撃したとしても、敵艦隊に到達する前に攻撃隊に被害が出る可能性が高くなるだろう。
勿論そうなれば逆に敵の攻撃隊にも損害を与えられる可能性もある。
つまりは此方も艦隊による迎撃が有利になる可能性が高くなるのだ。
とはいえ此方の第一の目的は、あくまで敵機動部隊の無力化だ。
母艦が生き延びたとしても攻撃隊を失えば空母は攻撃能力を失ってしまうのである。
それは機動部隊としての力の殆んどを失うという事でもある。
戦闘機が残っていれば艦隊の防空を務める事は可能だが、水雷戦隊に同行するだけの速力は無い以上、味方の攻撃を援護するというのは実質不可能である。
鳳翔としては、とにかく第一に攻撃隊だった。
死ねと命令している訳ではないが、それに限りなく近い命令を与えるような任務に就かせている以上……絶対に無駄死にさせない為の配慮は行わなければならない。
それこそが上に立ち指示を出す者の役割なのである。
少なくとも鳳翔はそう考えている。
だから、攻撃隊から敵に新たな動きは無いとの報告を受けて彼女は息を吐いた。
そんな風に安堵したのと同時に、今度は疑問が湧き上がってくる。
敵の戦闘機がそれで全てなら寧ろ戦った方が良かったのでは、という思いだ。
戦闘機の力は艦載機に対してこそ発揮される。
これで、もし敵艦隊に直掩機がいなかったら……戦闘機達には対空砲火の囮くらいしかやる事がなくなってしまう。
念の為に確認を入れるべきかと考えた時、追加という形で通信が入った。
大凡(おおよそ)ではあるが敵攻撃隊の規模と構成を確認し、敵戦闘機隊は一部が直掩機として残ったのだろうと鳳翔は推測した。
戦闘機隊の一部を敵攻撃隊に向けるべきか如何か、迷わなかったと言えば嘘になる。
それでも、然程時間は掛けずに鳳翔はそのまま全機を攻撃隊に付けるべきだと結論を出した。
向ける戦闘機が少なければ敵の艦攻や艦爆に損害を与えるのは難しい。
かといって纏まった数の戦闘機を振り分ければ、攻撃隊の護衛が覚束無(おぼつかな)くなる。
それに戦闘機のみで分隊すれば、無事に戦闘を終えたとしても帰還できなくなる可能性が高くなる筈だ。
単座の戦闘機とは言っても機体を操っている妖精は決して一人だけではないのだが、その辺りは嘗ての航空機の概念に縛られているという事なのか、戦闘機を操る妖精たちは皆で力を合わせて機体を操るという事は出来ても、一部が機体を操っている間に他の者が航法等を行うなどという作業は苦手なようだった。
妖精たちの力を借り零戦を搭載する事になった際、無線帰投方位測定機らしきものを設置し稼働させられるようになってはいるが、其方も絶対という訳では無い。
理屈の方は解らないが声を伝えられる通信とは異なるようで、深海棲艦達の行う通信妨害の干渉を受けているような感じがあるのだ。
もしそうであるならば、それらの不確定な要素を考慮するのであれば……
(「戦闘以外で損失を被る可能性、戦闘機隊の一部が帰投できない可能性の高まる作戦は……避けるべき、ですよね」)
そう自身に言い聞かせ、鳳翔は自らの内で膨らもうとする迷いを抑え込んだ。
どうであれ、懸念の一つが解消されたのは間違いないのだ。
息を吐いたのと同時に、圧迫されていたような何かから解放されたような気がして、面映ゆいような気持ちになる。
どれだけ緊張していたのかと苦笑いしつつ、彼女はもう一つの事でも安堵した。
敵の攻撃隊と擦れ違うというのは、攻撃隊の進む方角が間違っていないという事でもあるのだ。
目指す敵機動部隊の位置は前と殆んど変わりない、という事だろう。
艦である以上は短時間で大きく移動することは無いと分かってはいても、触接する機がいない以上、万一という事もある。
目標を発見できなければ探さねばならず、発見できずに燃料が減れば空振りとして帰還しなければならないのだ。
帰還させて再度出撃という事になれば……自分が敵の攻撃で艦載機の運用能力を失えれば、もう攻撃隊を出す事はできないのである。
もちろん沈む気など無く攻撃を耐え切ろうという気持ちはあるが、可能性として被弾の確率は前の敵襲時より格段に上がっている筈だ。
次の敵襲、敵の第三次攻撃隊は恐らく鳳翔に攻撃を集中させてくると考えて間違いない。
龍驤に攻撃を集中させた際も、護衛の3隻は殆んど狙わなかったのだ。
鳳翔の方にも攻撃は行われたが、対空砲火を龍驤の側に集中させない為の、分散を狙っての事だろう。
今回はそのようなことは無く、攻撃を鳳翔に集中させてくる筈である。
それを確信を持って凌げると言えるほどに、鳳翔には自信は無かった。
だからこそ、次の攻撃隊は重要なのである。
敵艦隊を発見した訳ではないが、発見の可能性は大きく高まったという事だ。
航行を続けながら、鳳翔は次の連絡を……敵艦隊発見の報を待った。
そして、その報告は……攻撃隊が敵攻撃隊と遭遇するまでと比べれば、僅かとしか呼び様のない時しか過ぎぬ内に齎(もたら)される事となった。
敵艦隊を確認した時点で、攻撃隊は二手に分かれた。
艦爆隊は急降下爆撃を行う為に高度を上げ、艦攻隊は雷撃を行う為に高度を下げる。
敵艦隊の位置が正確に把握できていればもっと早く分かれるべきだったのだろうが、出来ていない以上、確実さを求めるならそうするしかなかった。
下手をすれば一方が目標を発見できない可能性もあるのだ。
その危険を避けた以上、一塊になった状態で敵側に発見されるという欠点は甘受しなければならない。
敵の戦闘機らしきものを確認した戦闘機隊の方も、独自の動きを開始した。
敵の戦闘機の動きは、基本は此方の船体の戦闘機たちと同じである。
対空砲火の射程外で、敵の航空機を迎撃するのだ。
それを妨害するのが、攻撃隊へと同行してきた戦闘機隊の役目だった。
確認された敵戦闘機隊の規模は、鳳翔の目算と同程度である。
全機が纏まって攻撃隊の護衛として同行させた戦闘機達で当たれば、機数では劣るものの動きそのものを妨害する事は十分に可能な数だった。
互角以上の制空戦というのは不可能だが、劣勢ではあっても制空権を完全に喪失せずに堪え凌ぐ事は難しくはないだろう。
艦爆隊の方はある程度の距離は保ちつつ、一塊という形で上昇していった。
雷撃を狙う艦攻隊の方は全部で4機しかいないものの、更に二手に、2機ずつに分かれる形となる。
纏まっていれば爆撃と同じで命中率は上がるのかも知れないが、機銃や高角砲以外でも狙える低高度で、密集した状態での接近は速やかなる自殺だった。
第一の目的は対空砲火の分散である。
だからこそ、攻撃の開始が大きくずれないように注意しなければならなかった。
大きく間隔が開いてしまえば、順番に砲火を集中され各個撃破されてしまう。
もちろん艦爆隊とのタイミングも大事だった。
寧ろそちらの方が重要かもしれない。
完全に同時にというのは不可能だろうが、近いタイミングで攻撃できなければ……敵の対空砲火を艦爆と艦攻で分散できなければ、やはり順に砲火を集中されてしまう事だろう。
そうなれば、ほぼ確実に隊は全滅させられてしまう。
別れた艦攻2機ずつと艦爆隊で対空砲火を分散させられたとしても、大きな損害を受けるであろうという事は間違いなかった。
艦攻4機は、寧ろ全滅する可能性の方が高いとすら言える。
つまりはこれが最後の攻撃となる可能性も高いのだ。
だからこそ、確実な戦果を挙げなければならない。
理想は敵艦隊左右からの挟撃だが、現実問題としてそれは不可能だった。
敵艦隊の正面か背面から近付けていれば難しくとも可能性は無いとはいえなかったが、敵艦隊の左側面からの侵入となった為、反対側に回るのが難しくなっているのである。
無理に回り込もうとすれば、その間も対空砲火に晒される事になるだろう。
だからといって距離を取って迂回しようとすれば、それだけ余分な時間が掛かる事になる。
攻撃のタイミングが合わなくなる可能性が高くなることに加え、下手をすれば一時的に敵艦隊を見失う可能性すら出てくるのだ。
味方の妨害を振り切った敵戦闘機に襲われる可能性も高まる事だろう。
だからといって正面や背後からの雷撃となると、命中させるのが難しくなる上に転舵で回避される可能性も高くなる。
最終的に艦攻隊は、やや後方の左側面と左側面という二面からの雷撃を試みる事になった。
挟撃とは比べるべくもないが、それならば然程時間を掛ける事なくある程度の距離を開けての攻撃ができそうだった。
航空魚雷を搭載した4機の艦上攻撃機は2機ずつに分かれ、その2機もある程度間隔を開け……海面近くの低空を、敵艦隊目指して飛行してゆく。
敵艦隊は2隻のヲ級を中央に配し、前後を重巡リ級が、左側面側を駆逐ニ級が固めるという輪形陣を取っていた。
第一次攻撃隊によってニ級1隻が沈められている為、全部で5隻の艦隊である。
中央に配されているヲ級の1隻も大破しており航空機の運用能力をほぼ喪失していた。
それでも、残っているヲ級はflagshipであり、1隻で鳳翔を遥かに上回る艦載機を搭載しているのである。
だが、その1機に少なくとも中破以上の損害を与える事さえできれば……機動部隊としての戦闘能力を奪う事が出来る筈だ。
互いにある程度の距離を置いていた敵の輪形陣は、今は徐々に距離を狭めつつあった。
艦ごとに回避運動を行おうとする場合、距離を詰めすぎると却って艦の機動性を低下させる結果になる事もあるのだが、敵は艦隊としての統制された動きで攻撃隊に対処すると決めたのかも知れない。
先頭のリ級が船速を落としたという事なのか旗艦であるヲ級へと近付いていき、最後尾に就いていたリ級は速度を上げて大破しているヲ級の後方へと距離を詰めてゆく。
いざという時は空母を庇えるようにという位置取りをしているのかも知れなかった。
対空砲火の方も激しくなり始める。
砲火は此方の望み通りにと言うべきか、分かれた艦攻隊毎に分散していた。
無論水平方向だけでなく、上空にも銃弾や砲弾は撃ち上げられてゆく。
弾の方は判別は難しかったものの、煙のような、小さな爆発のような何かは、離れた場所からも確認できた。
その無数の何かのお陰で艦攻隊の方からも、攻撃態勢に入ろうとしている艦爆隊は確認できたのである。
艦爆隊は順番にではなく、一斉に攻撃に移ろうとしていた。
艦攻隊よりも先の攻撃となるが、もう少し進めば艦攻隊も魚雷の命中を見込める位置へと到達できる。
ほぼ同時にという訳には行かなかったが敵の砲火が分散している以上、目論見通りにはいけたと表現して良いだろう。
それでも、それぞれ数機ずつの航空機に向けるには多過ぎる銃弾と砲弾が次々と放たれる。
弾幕という言葉は少なくともこの空域に関しては、決して誇張とは言えない程だった。
その砲火の中へ攻撃機達は、憶する事なく飛び込んでゆく。
機体を操る妖精たちに恐怖が無い訳では無かった。
それを抑える意志を持っている、というだけなのだ。
敵艦隊の上空でハッキリと確認できるような、これまでとは異なる爆発が生まれた。
急降下を開始した艦爆が撃墜されたのだろう。
艦攻を操る妖精たちは、そう推測した。
妖精と言えども機体の通信を使わなければ、情報の収集には視覚や聴覚に頼らなければならない。
心が通じ合っているようであっても、本当に通じている訳では無いのだ。
それでも、傍から見ている者たちがそんな風に想像するくらいには、互いに多くの事を解り合っている存在たちである。
同胞が失われていく事が、つらくない訳がなかった。
悲しくない訳がなかった。
それでも妖精達は、自らの役割を果たす事に決して逡巡しなかった。
艦攻隊は更に、海面に近付くように高度を下げながら、敵艦隊へと距離を詰めてゆく。
もう一つ、空で爆発が起こった。
その少し後、今度は海面に変化があった。
大きな水柱が上がった後、一隻の甲板上で爆発が起こり、それに混じって赤いものが見えた。
損害を受けたのは輪形陣の内側の艦、旗艦であるヲ級flagshipである。
もっとも、その赤い何かは直ぐに見えなくなった。
火災が発生したのだとしても、然程経たずに消火されたという事だろう。
それでも敵に損傷を与えた事は間違いなかった。
もう一撃浴びせる事さえできれば、恐らく艦載機の運用能力を喪失させる事ができるだろう。
とはいえ時間に余裕は無い。
急降下爆撃隊の攻撃が終わった直後の為、対空砲火は分散していた。
残った爆撃機達がある程度上昇し敵艦の有効射程から離脱するくらいまでの間は、敵の対空砲火は低空と上空に分散し続けるはずだ。
だが、それ以降は……敵艦隊の砲火は全て艦攻の側に集中する事になる。
その前に、攻撃を終えねばならなかった。
艦攻隊の側が二手に分かれる事で分散しているとはいえ、上空に向けられていた高角砲や機銃が全て向けられる事になれば、弾幕を掻い潜れる可能性は大きく低下する事になる。
それらは全てが急に変更される訳ではなく、一部は既に低空へと、艦攻隊の側へと向けられ始めていた。
段階的になるのだろうが、砲火は更に激しくなっていくはずだ。
とはいえ幸いと表現すべきか、命中を期待できる位置へと艦攻隊は侵入しつつあった。
多少の時間差はあったものの、4機の九七式艦攻はそれぞれ魚雷の発射態勢に入る。
次の瞬間、1機が吹き飛んだ。
爆発したというよりは言葉通り吹き飛んだと表現した方が相応しい壊れ方だった。
対空砲火の一つ、或いは幾つかが、直撃した……という事なのだろう。
砕け散った後で、小さな爆発のようなものと大きな爆発一つが、起こった。
それでも他の3機に動揺は無かった。
妖精たちの内心に全く動揺が無かったと言えば嘘になるのだろうが、少なくとも表面上には現れなかった。
海面から十数m程度という、航空機にとってはギリギリの高度まで機体を下げた艦上攻撃機達から……機体の下部に搭載されていた航空魚雷が切り離される。
空気の抵抗を受け僅かに減速しながら落下した魚雷は、海面へと突入し水の抵抗で一気に減速しつつ沈み込むと、再び浮上しながら推進装置を稼働させ速度を上げ始めた。
航空機から投下された時と比べれば速度は比べ物にならない程に低下したものの、高速スクリューによって生み出された速度は戦闘艦艇を十分に上回っている。
海面に波とは別の軌跡を残しながら、放たれた魚雷はヲ級flagshipへと向かっていった。
その進路を遮るように、旗艦へと近付いていた重巡洋艦が更に速度を落とす。
火災を消し止めたらしいヲ級flagshipが速度を落とさず航行している為、まるで後退しているかのような動きだった。
偵察を担当する妖精たちに魚雷の軌跡と敵の動きを観察させながら、操縦役の妖精たちは協力して攻撃機を離脱させるように向きを変える。
上空からの爆撃ならばそのまま加速して通り過ぎるだけで良いが、低空で侵入しての雷撃となると、離脱は爆撃の比ではなかった。
雷撃の損害の大きさの一つには、攻撃後に離脱する際の被害も確実に含まれている。
攻撃によって敵艦隊が壊滅してしまえば問題ないが、そうでなければ魚雷を投下した後に、更に敵に接近する可能性が高くなるのだ。
艦爆とは違い急激に向きを変えて離脱というのは難しい以上、無理のない程度に進路を変更し、弾幕の薄そうな箇所を潜り抜けるしかないのである。
敵艦の上空を通過するという事も決して少なくはないのだ。
敵が迎撃に慣れていなければ砲口や銃口を向ける前に通り過ぎられるし、座の移動も間に合わないという事になるが、落ち着いて対処されてしまえば距離が近い分、被弾率は高くなる。
もっとも最終的には、運という事になるのかも知れない。
側面からの雷撃を行った側の2機は僅かに高度を上げた。
旋回して敵艦から距離を取る形での回避が難しい事と、回避が行いやすい側に旋回した場合に敵艦の斜め後方から雷撃を行った1機と進路が近くなり過ぎると判断した為である。
旗艦のヲ級flagshipではなく、旗艦を護衛するように速度を落としてきたリ級の上空近くを通過しようとしたところで、爆発が起こった。
敵艦に魚雷が命中してのもの、では無かった。
通過しようとした内の1機が被弾したのである。
砕け散るように爆発した1機の姿を近くで確認した為に、偵察の妖精がそれを一瞬だけ魚雷命中の爆発だと誤認しかけたのだ。
偵察妖精が自分の間違いに気付き情報を訂正しようとした時、それとは比べ物にならないような爆発が起こった。
耳を打ち全身を揺すぶるような衝撃と音が響き、重巡洋艦リ級の船体が震える。
水の抵抗が急に存在感を主張したかのように艦の速度は急激に低下し、対空砲火が一時的に散漫になった。
その間にもう1機は可能な限りの速度で敵艦から離れようと、機体を震わせながら飛行し続ける。
別方向へと向かった艦攻の1機も、まだ何とか撃墜されずに飛行しているようだった。
未帰還率50%といえば大きな損害だが、損害2機といえば信じられない程の幸運と言葉だけを聞いたものは認識する事だろう。
もっともそれは艦攻隊だけに限った話である。
艦爆隊への損害は分からないが、先に攻撃を仕掛けた以上、艦攻隊と同じかそれ以上の被害を受けている可能性が高い。
であるならば、次の攻撃隊の機体数は……艦攻と艦爆を合わせても、片手で数えられる程度になるだろう。
恐らくはそれが、最後の攻撃隊となる筈だ。
攻撃が成功であろうと失敗に終わろうと、攻撃隊は迎撃によって戦闘能力を殆ど喪失する事になるだろう。
それでも、戦うしかないのだ。
敵の艦載機が残っている以上……それを全滅させるだけの航空戦力も対空能力もない以上、敵空母の艦載機運用能力を奪うしか取れる戦術はないのである。
雷撃を受けた重巡リ級は離れる艦攻に向かって再び対空砲火を浴びせ始めたが、その砲火には以前のような激しさは無くなっている。
速度の方も再び上がり始めたが、此方も以前と比べると低下しているように見受けられた。
それが次の戦いで、どのような影響を与えるのかは分からない。
艦攻妖精たちは唯、自分たちの確認した有りの侭を鳳翔へと送ると、他の隊と合流するように進路を取った。
戦いは未だ、終わらないのだ。
此方の攻撃は終わった。
次の攻撃を行う為には……自分たちの帰るべき処が、母艦である鳳翔が、敵の攻撃を耐え抜いてくれなければならないのだ。
妖精達に出来るのは、それを信じて母艦へと向かう事だけなのである。
攻撃隊の損害は、艦爆3機と艦攻2機だった。
護衛の戦闘機隊も敵戦闘機との戦いで3機の損害を出している。
合計すれば8機の損害という事だ。
撃墜されなかったものの損害が酷く帰還が困難という機体は、幸いと言うべきか存在しない。
それでも……現存する全機が帰還し出撃できるとしても、次の攻撃隊は10機を僅かに上回る程度だった。
正確を記すなら13機という事になる。
対して敵の残存戦力は如何程なのだろうか?
鳳翔は与えられた情報と自身の知識を突き合わせた。
航空母艦型の深海棲艦であるヲ級は、此方でいう処の正規空母艦娘達と同程度の搭載能力を保持しているという話だ。
艦載機の内訳は此方と違い、艦戦・艦爆・艦攻をほぼ同機数ずつを搭載している。
大凡ではあるが、各機種は30を下回る程度といった処だろうか?
flagshipの方は更に搭載機数が増加する事に加え、艦載機そのものの性能の方も向上している。
少なくとも鳳翔にはそう感じられた。
2隻の搭載数を合わせれば、200には達さないまでも150を上回る艦載機を戦力として保持していたという事になる。
現在は通常のヲ級の方が艦載機の運用能力をほぼ喪失し、flagshipの方も航空戦と此方の対空砲火によって搭載機数を減らしている、が……それでも各機種は半数以上は健在だろう。
機数、規模は勿論として、総合的な戦闘能力という点で考えても、敵は此方を上回っている。
だが、戦力的に優れている方が必ず勝つという訳では無いのが戦いというものだ。
特に空母同士の航空戦ではそれが如実に現れる。
一発の爆弾が飛行甲板を使用不能にし、一発の魚雷が艦そのものを撃沈する。
たった一機の艦載機の搭載する武装が、それだけの威力を持っているのだ。
勿論、それらが容易に命中することは無い。
命中以前に発射する事すら叶わずに、艦攻や艦爆たちは戦闘機に道を阻まれ、対空砲火に撃墜される。
そんな当たり前の事を、飽きるほど考え尽した事を、今更繰り返すように考えるのは……可能性はあると考える故なのか?
まだ諦めていないからこそなのか?
それとも……敗北が迫りつつあるのを実感し恐怖を感じ始めたからこそ、という事なのか?
鳳翔には分からなかった。
分かるのは……攻撃隊を出せるのは、恐らくあと一度か二度といった処だろう……という事だ。
それは幸運に恵まれても、である。
それでも、ヲ級flagshipの艦載機運用能力さえ奪えれば……任務の継続は決して不可能ではない筈だ。
水上打撃部隊への牽制という事ならば、数度の出撃は可能かも知れない。
損害は与えられずとも時間さえ稼げれば良いのだ。
それで自分たちの、艦娘部隊の与えられた任務は果たせるのだ。
部隊は追い詰められている。
だが任務の遂行は、困難ではあっても決して不可能にはなっていないのだ。
勿論その為には、攻撃隊を出撃させる為には……先ず、敵の攻撃を凌がなければならない。
「……疲れている、って事でしょうかね……」
同じことを繰り返し自分に言い聞かせているような、そんな気がした。
忘れている事は無いかと不安になり、必要と思える事を一つずつ確認してゆく。
船体の艦載機たちに関しては帰還の最中であり出来る事は何もない。
船体への大きな損傷は無いし、機銃や高角砲の準備も妖精たちが済ませてくれ確認も終えている。
艤装の戦闘機達も稼働可能な機体の補給補充は終わり、全機が上空に展開している。
一部は敵攻撃隊への警戒として、少し離れた場所を哨戒させている状態だ。
「……鳳翔さん、やっぱり少しでも休んだ方が良かったんじゃ……」
「大丈夫ですよ、如月さん」
心配そうに声を掛けてきた如月に、鳳翔はそういって笑顔を作って見せた。
小休止を終えた彼女は休止前と同じように船体を収納した状態で、鳳翔の飛行甲板の上で警戒を続けている。
甲板上を巡回するように動いていた彼女がわざわざ近付いてきてまで声を掛けてきたという事は、遠目からでもハッキリと分かるほどに疲れが態度に出ているのかも知れない。
実際、如月の顔からは不安げな表情は欠片も減じているようには見えなかった。
寧ろ増したようにすら感じられる。
(「随分と酷い顔をしているのかも知れませんね」)
提督に見られなくて良かった。
そんな事を考えて……少し間を置いて、自分の考えた事の意味を鑑みて……鳳翔は苦笑した。
思い浮かんだのは、不機嫌そうに視線を外された時の顔だった。
最初は冷たく素っ気なく、何を考えているか分からないという印象だった筈なのに……今思い浮かべたその姿は、拗ねた子供のような雰囲気を漂わせていて、自然と苦笑いがこみ上げてくる。
強張りが少しほぐれたような気持ちになって、鳳翔はゆっくりと息を吐いた。
船体を通しての警戒は怠らないようにと意識しながら、言葉を選ぶ。
「……勿論、疲れていないと言えば嘘になりますが」
休止を取らなかった理由の大きな部分には、通信や状況の把握、次の攻撃に備える為の準備に関しての妖精たちとの打ち合わせ等、行うべき事が多いというのがある。
勿論、危険だからというのもある。
休止している時に何かあったら、後悔してもし切れない……そう思ってしまいそうだから、という不安があるのだ。
それとは別に、気持ちが切れてしまうのではないかという不安もあった。
今の自分は、いつもの自分と違うのではないか?
そんな自覚が今の鳳翔にはある。
指揮を引き継いだ事で自分の中で何かが変わっていて、それが自分を支えてくれている……そんな風に思えるのである。
高揚と緊張と、不安と自負と……きっと他にも色々様々なものが混ざり合って……上手く表現できない何かが、自分の中の何かが、不思議なバランスで保たれている。
そういう張り詰めたものが、切れたり緩んだりしてしまうのではないか?
もしそうなってしまったら……
それが、怖かった。
想像するだけでも、震えてしまいそうな……そんな気持ちになる。
今の自分は己一人の身だけではなく、他の皆の命まで預かっているのだ。
己という艦だけでなく、艦隊そのものの命運をも預っているのである。
その事を確りと理解しそうになると……何かが強張り、凍り付きそうになる。
自身がそれに耐えられるとは思えずに、目を逸らしているのだ。
重い。
あまりに重く感じられる……責任、というたった二文字の、言葉。
その本当の重みを実感してしまうかも知れない、という……不安。
圧し潰されてしまうかも知れないという恐怖があるのだ。
「疲れてはいます。でも、自分でも信じられないくらいに張り詰めて、集中できてもいる……そんな風に思えるんです」
疲れているという事を除けば、良い状態……矛盾するその表現に、如月は困ったような顔をしたものの、それ以上は休むべきとは口にしなかった。
「……休めば楽になるのかも知れませんが、そうする事で気持ちが途切れてしまうんじゃないかって不安があるんですよ」
少し迷いはしたものの、鳳翔は思い切って心の内の一欠片を、少しばかり砕けた形にして如月へと向けた。
彼女への感謝の気持ちがあるのは勿論だが、心配させ過ぎてしまうのも申し訳ないという思いもある。
もしかしたら、頑なな性格だと思われたくない等という想いもあるのかも知れない。
「実戦での旗艦というのは初めてですし、落ち着いて冷静にそれを実感してしまったら……そう思うと不安なんです」
「そうだったんですか……」
そう呟いた如月の顔は先程までと比べると、ほんの少しではあるものの強張りが解けていた。
「……鳳翔さんでも、そうなんですね……」
「意外と小心者なんですよ」
冗談めかして口にする間も、念の為にと周囲に気を配る。
如月の方も言葉を紡ぎ鳳翔へと向き直ってはいるものの、視線は定期的に周囲を窺っていた。
その表情が、そして今まで発されていた言葉が、ほんの僅かではあっても変化したと感じられた以上、何かは伝えられたという事だろう。
そう思えた事で、鳳翔自身も気持ちが少し楽になった。
時間を考えれば、今から決断したところで休む間などありはしない。
それでも確認したくなるような顔を自分はしていたのだろう。
旗艦としては失格なのかも知れない。
そんな事を考えはしても、暗い気持ちにはならなかった。
寧ろ、ならばやれるだけやるしかないという開き直りの方な感情が湧き上がってくる。
その気持ちが欠片も薄れぬうちに、戦闘機達から敵の攻撃隊を発見したとの報が入った。
通信を送ってきた戦闘機達は、そのまま上空の戦闘機隊へと合流する形になる。
無理をさせれば敵の戦闘機達に短時間で撃墜されてしまう事だろう。
艤装とは言え対空砲火の影響下での運用は危険過ぎたが、それ以外での運用方法を鳳翔としては思い付かなかった。
これまでと同じように射程外での最初の迎撃という形で使えば、敵の戦闘機に全滅させられてしまう可能性が高い。
龍驤の隊が健在であった状況で何とか制空権の喪失だけは避けられたという結果だったのだ。
それと比べてしまうと……
(「……いけませんよね」)
振り返るには、まだ早い。
鳳翔は自分に言い聞かせた。
「……それでは」
如月は短く言ってから、少し砕けた口調で付け加えた。
「鳳翔さん、また後で」
「ええ、それではまた」
鳳翔の言葉に、はにかむような微笑を浮かべた後、如月は艤装の主砲を手に飛行甲板の前方へと速足で向かってゆく。
鳳翔も船体の機銃や高角砲を上空へと向けた。
雷撃機への警戒が不足する事になるが、結局何処も足りないのだ。
船体の砲や銃座を上空へと向け如月にも警戒してもらったとしても、それでも上空への対空砲火は不足しているのである。
だからこそ、龍驤が健在な時ですら輪形陣を組まずに回避行動を優先するような陣形を取っていたのだ。
各自が、各艦ができる事をするしかない。
「……敵雷撃機、発見。撃つよ」
4隻の中で最初に敵機を確認したのは、鳳翔の右舷やや前方を固めるように位置していた初雪だった。
口調は面倒そうではあっても内容は短く端的で、不明瞭な処は無い。
怠惰そうではあっても成すべき事は為すという点においては、望月と似ているという事かも知れない。
束の間、そんな事を考える間にも砲声が響く。
船体だけでなく艤装の主砲も使用して、初雪は対空戦闘を開始したらしかった。
船体の機銃も稼働音を響かせながら、水平方向へと銃弾を断続的に吐き出し始める。
「あ~い。こっちも雷撃機、発見だよ~」
少し間延びしてはいるものの聞き取り易い声で、望月からも通信が入った。
続くようにして左舷側からも砲音と銃声が響き始める。
時間は初雪の通信から然程開いていなかった。
此方に直掩機が居なかったが故にタイミングを合わせて攻撃できたという事なのか。
ならば急降下爆撃隊も間もなく姿を現す事だろう。
短く通信を入れた後、鳳翔は船体の動きを変化させた。
敵の攻撃隊が引き揚げてからは燃料の節約と機関への負荷を軽減する為、警戒しつつ巡航速度を保てるよう努めてきたが、此処から全て、敵からの攻撃を避ける事こそが最優先となる。
戦闘開始と同時に正念場が訪れたという事だろうか?
気持ちを引き締めるように、鳳翔は自身に言い聞かせた。
唐突という印象はあるが、実際に考えてみると当然や必然とでも呼ぶべき状況の変化なのかも知れない。
対空砲火の射程に入るまで、妨害なく攻撃態勢を整えられたのだ。
此方の状態を完全に理解していた訳では無いだろうから、万全の態勢を整えたとまではいかないだろう。
それでも、先刻とは比べ物にならないくらい連携の取れた攻撃が行われる筈だ。
気付くのが遅めだったかもしれないが、手遅れという程では無い。
そう自分に言い聞かせる。
本当の手遅れというのは、事態が訪れた時に思い知らされるという状況だろう。
推測できなかったとしても、自分はそれが訪れる前に感じ取る事はできたのだ。
ならばそれを、自分の得たものを、少しずつでも堅実に積み重ねていけば良い。
艦としての記憶の中での実戦経験の不足。
静かに湧き上がろうとする劣等感を抑え込むように、鳳翔は再び自分に言い聞かせた。
困難ではあるが、気持ち的には悪くない。
少なくともそう思えた。
雷撃機に大きく後れて急降下爆撃機が現れる方が、嫌なものを想像してしまう。
それが具体的な形をとる前に、如月からも通信が入った。
船体の知覚で、鳳翔も接近してくる敵機を確認する。
「如月、対空射撃開始します」
彼女の言葉とほぼ同時に、鳳翔も射撃を開始した。
爆弾投下を妨害する事を優先する以上、敵機の撃墜は二の次である。
第一は敵の攻撃を失敗させる事。
その為に必要なのは、敵の攻撃態勢を崩す事と攻撃地点への選定と到達を可能な限り困難にする事だ。
敵機を減らさない限りその場しのぎでしかないと分かってはいても、それがこの戦闘を耐え抜くための最善の手段だった。
そうしても凌ぎ切れるかは分からないのだ。
そして凌げなければ……稼働可能な航空機が残っていようと、その時点で航空戦力の使用が不可能となるのが空母であり、機動部隊なのである。
その辺りが、爆撃を受けようと滑走路を均(なら)せば何とか活動が可能な基地航空隊との違いという事なのだろう。
「右舷雷撃機1機、魚雷投下。速度落とさない限り後方を通過……すると思う」
初雪からの通信を受けて、鳳翔は念の為に射撃を続けながら右舷側を確認した。
完全に其方に意識を向けられないので、一応という感じで目星は付けておく。
雷跡は確認できなかったものの、雷撃を行う為に低空を接近してくる攻撃機の方は確認できた。
一斉という訳では無く、3機ぐらいずつ順番にという感じで此方に向かってくる。
左舷側の望月の方も大体は同じような様子に見えた。
それらを確認した後、鳳翔は周囲に最低限という感じで気を配りながら意識を再び上空へと向けた。
上空で確認された敵機は全て急降下爆撃機のようで、此方も確実に距離を詰めてきている。
対空砲火によって敵攻撃隊の隊列は乱れ始めてはいるものの、今のところ撃墜された機体は無さそうだった。
護衛の3隻からは、絶え間なくという表現が誇張ではない勢いで敵機の情報が入ってくる。
敵機の数を確認する限り、隊を分散させて奇襲を狙ったりはせずに全力を挙げて攻撃を仕掛けてきたようだった。
逆に考えれば全体というだけでなく、其々の隊もタイミングを合わせて連携の取れた攻撃を行ってきているという事でもある。
送られてくる情報を確認しつつも、鳳翔は上空の敵機に意識を集中させていた。
周囲への警戒が最低限になってしまうが、仕方ないと割り切る事にする。
気持ちを切り替えるのは、直撃の可能性がある雷撃の情報が入った時だけだ。
此方の航空機とは異なる外見をした深海棲艦の攻撃隊が、ゆっくりという感じで頭上へと近付いてきた。
実際はかなりの早さなのだろうが、離れているせいなのかそれほど早くは感じない。
その接近してきた敵艦載機の内の2機ほどが、爆発らしきものに巻き込まれた。
1機はそのまま見えなくなったが、もう1機は煙の中から姿を現し頭上へと近付いてくる。
低空を飛行しながら近付いてきていた敵艦載機の方も、少なくとも1機が炎に包まれた。
敵機はそのまま爆発する事なく機体を揺らしながら飛行した後、海面へと突っ込んでいく。
少し間を置いて爆発が起こった。
僅かずつではあるものの、敵攻撃隊も確実に数を減らしている。
それでも、残った機体は距離を詰め攻撃地点へと近付いてくる。
その一方、敵の急降下爆撃隊の動きを妨害する為に。
「戦闘機隊、迎撃をお願いします」
鳳翔は船体の上空へと集結させていた艤装の戦闘機隊へと指示を出した。
3機、4機で隊を組むようにして戦闘機達が深海棲艦の攻撃隊に向かってゆく。
それで敵の急降下爆撃隊は、少し混乱するような動きを見せた。
戦闘機が敵機と戦う場合は動き易いようにと散開するが、攻撃機や爆撃機の場合は逆に密集する。
機動性では戦闘機に勝てない以上、集まる事で死角を減らすのだ。
戦闘機とは違って向きを変えられる銃座が複数存在する機体が多いので、動き回らなくとも相互に支援する事が容易だし、自然弾幕も厚くできる。
だが、対空砲火の中で密集するというのは自殺行為だ。
どうすべきか判断に迷い、混乱したという事なのだろう。
とはいえそれも一時的だった。
艤装の戦闘機達より対空砲火の方をより危険と判断したのだろう。
敵急降下爆撃隊は密集せず不規則に散開したような形で、鳳翔上空へと迫ってくる。
その動きを妨害しようと艤装の戦闘機達は執拗に、絡み付くように敵機の周囲を飛び回る。
そして、敵急降下爆撃隊より通信を受けたのか複数の敵戦闘機が姿を現し艤装の零戦隊に攻撃を開始した。
此方の直掩機が確認できない為に上空で警戒を行っていたか、或いは待機していたのかも知れない。
敵爆撃機が密集しなかったのは味方の援護を期待できると判断した故かも知れなかった。
3機編成の艤装の零戦隊に集中攻撃を受けていた敵機が撃墜された直後、攻撃を行っていた1機が敵の戦闘機に衝突され爆発した。
衝突した敵機の方も損傷は受けたものの、そのまま飛行しながら態勢を立て直し、別の機へと機銃掃射を開始する。
衝突を回避しつつ距離を取った残りの2機は、別の爆撃機を攻撃する小隊の援護に向かうべく旋回した。
艤装の零戦隊は奮闘しているものの敵の進攻を押し留めるには至らず、戦闘空域は鳳翔の直上へと迫って往く。
「左舷からの敵機、魚雷投下したよ~」
短く望月からの通信が入り、鳳翔は其方に向き直った。
船体の知覚の方は変えずにそのまま周囲へと、上空を重点的に警戒しながら気を配る。
発射された魚雷の軌跡は艦の後方を横切るような形で、推進装置を停止でもさせない限りは極端な転舵を繰り返しても問題なさそうだった。
その判断を肯定するように、続く望月からの通信も雷跡は進路から外れている旨の通信が入る。
その間に上空での戦いも転機を迎えていた。
「敵急降下爆撃隊、上空に接近!」
如月からの通信の直ぐ後、散開する形で接近してきた敵の急降下爆撃隊が、隊列を組むように動き始める。
先頭の機体が翻るように向きを変え、急降下の態勢に入った。
爆弾を投下する前に対空砲火によって撃墜されたものの、残骸は爆散はせずに落下し海面に水柱が一つ上がる。
少し間を置いてから爆発音と共に、更に大きな水柱が上がった。
続く機体は爆弾を投下したものの狙いは大きく外れ、此方も海面に水柱を作るだけに終わる。
上空に位置を取られたとはいえ、艦そのものは速度を変化させつつ不規則に舵を切り進路を変更しているのである。
狙いを定めるのは、決して容易では無いのだ。
それでも、深海棲艦の急降下爆撃機は降下点を定めるようにして次々に、言葉通り順番にとでも表現するような動きで、攻撃態勢に入ってくる。
「敵機……2、魚雷発射……前を通り過ぎそう」
再び初雪から通信が入った。
状況の報告の後に、速度を上げなければ大丈夫そうという言葉が続く。
上空への警戒を続けつつ意識を向けると、角度の違う雷跡が2本、船体の進路上へと向かうようにして走っていた。
「1機、急降下!」
再び飛行甲板上の如月から声が上がる。
降下を開始した敵機は爆弾を投下したものの、爆弾は船体から離れた海面に水柱を作っただけに終わった。
敵機はそのまま高度を上げ、対空砲火から逃れるようにして離脱してゆく。
舵を切りながら鳳翔は船体を減速させた。
如月は離脱した敵機は意に介さずという様子で、対空射撃を行いながら上空に意識を集中させている。
初雪と望月も対空戦闘を行いながら鳳翔の両側を固めるように航行していた。
右舷側の初雪はやや前進気味で、逆に左舷側の望月は鳳翔よりやや後方で全体を見渡せるように位置取りをしているようである。
単横陣のようでもあり梯形陣のようでもあるが、どちらにしろ鳳翔を守る事を第一に考えてくれているのは間違いなかった。
鳳翔の船体は2隻と比べれば速度で劣るが、それを考慮したとしても不規則な動きに遅れる事なく追随している事に鳳翔は内心で感嘆していた。
(「本当に、流石ですね」)
有体な表現になるが、見事なものだった。
危険な状況ではあるが、この4隻であれば……自分と、この3隻であれば。
何とか切り抜けられる。
そんな想いを束の間、鳳翔が抱いた時だった。
「……っ!? 魚雷、3本来るっ!! 後方っ、全速で退避を!」
これまでとは違う望月からの通信に、鳳翔は身を固くした。
速度を上げつつ意識を望月の側へと向ける。
雷跡の1つは確認できたが、残りは確認できなかった。
それでも、望月が言う以上は間違いない。
船体同士の距離が離れるように望月の船体が舵を切ったのは、鳳翔が如何様にも舵を取れるようにと配慮しての事だろう。
上空への警戒も続けながら、鳳翔は船体を増速させた。
敵の急降下爆撃機が上空にいる以上、直進するという訳には行かない。
進路を予測されてしまえば、それだけ被弾の可能性が上昇してしまう。
投下された後の爆弾を見て躱すというのは速度的に不可能なのだ。
それでも、短い時間だけ鳳翔は船体を直進させた。
不規則な転舵を繰り返してきた以上、短時間であるならば直進する事も逆に意表を付けるのではと考えての事である。
もっとも、それが通用するのは一度だけだろう。
直ぐに鳳翔は舵を切り、船体を望月のいる側に向けた。
残りの2本の雷跡も何とか確認する。
1つはこのままの速度を維持できれば何とか避けられそうだ。
問題は残る2つである。
上空にも警戒を続け、転舵を行いつつ、考える。
これから速度を上げ全速で直進すれば一方は回避できるかも知れないが、もう一方を回避するのは難しい。
それでも第一に増速するしか選択肢は無かった。
船体と機関への負荷を感じながら、左舷側への舵を多めに切り艦の向きをやや望月の側へと向ける。
逆に切れば船体の側面に、場合によっては推進装置近くに攻撃を受ける可能性があった。
船体を収納する等という選択肢は存在しない。
艦載機たちが帰還している状態ならば兎も角、帰投中の現時点においては論外だった。
空母としての戦闘能力を失ってしまうというのは勿論だったが、本当に大事なのは、もっと感情的で根本的なものである。
それはきっと龍驤であっても……いや航空母艦であれば恐らくは、等しく皆が抱く気持ちなのだろう。
意識が魚雷の側に向かい過ぎて上空への警戒がやや疎かになっている気がして、鳳翔は自身の目で空を見上げた。
降下態勢に入ろうとした1機が、突入位置で失敗したのか機体を翻す。
それとは別の2機が降下態勢に入ろうとしている。
艤装の零戦隊は残ってはいるものの敵の戦闘機達に妨害され、攻撃隊への妨害は難しくなっている状態のようだ。
警戒を続けつつ海上側へと意識を向けようとして……そこで鳳翔は、望月の船体が増速し鳳翔の船体へと並ぶように前進してきた事に気付いた。
その動きが何を意味するのか、推測する必要は無かった。
鳳翔の心はしかし、それが意味する処を受け入れる事を暫しの間、拒もうとした。
通信を送る時間はあったかも知れない。
だが、そうした処で意味は無かっただろう。
命令しただけで止めるというのであれば、そもそも望月は最初からそのような動きをする筈が無いのだ。
「望月さんっ!!」
鳳翔の口から出たのは只、彼女の名前だけだった。
鳳翔からは雷跡が確認できなくなり……直後、爆発が起こった。
駆逐艦の艦首付近を覆い尽くすかのような水柱が上がる。
並走するように航行していた望月の船速が、急激に落ちてゆく。
それでも、それは決して惰性だけという訳では無かった。
息を僅かに吐き出す。
機関が停止した訳でも推進装置が完全に壊れた訳でも無かった。
大破ではあっても、即座に沈没するような損傷ではなさそうだ。
その安堵が迂闊に過ぎる感情だと自覚したのは、悲鳴のような叫びを確認した時だった。
「直上です! 敵機、急降下っ!!」
それが如月の声なのだと気付くのに、僅かな時を必要とした。
雷跡へと意識を向けた時と合計したとしても、時間にすれば数秒……にも満たない時だったのだろう。
だがその数秒を、その時を見逃さない為に自分は、自分達は……緊張を維持してきたのではなかったか?
自身の目や船体の視覚で捉える事は出来なかった。
最初に知覚したのは、音ではなく衝撃だった。
飛行甲板を上回るような高い水柱が上がる。
それとは別に鳳翔の目は、船体の視覚は、落下してくる物体を捉えていた。
物理法則に従って加速している筈のそれは、不思議なほどにゆっくりと降下してくるように感じられた。
既に舵は切られており、船体は僅かずつ向きを変えようとしている。
周囲に飛び交っている筈の機銃弾や高角砲の砲弾は、不思議と音も姿も感じられなかった。
聞こえていて、見えているのに……それらは等しく、存在感とでも呼ぶべきものを……感じさせなかった。
落下してくる爆弾を確認しているにも関わらず、それを避けなければという気持ちが……湧いてこない。
実際には、余りにも速すぎて……思考が追い付かない、という事なのか?
爆弾は、飛行甲板を容易(たやす)く貫いて姿を消した。
そして、数秒が過ぎ……
激しい衝撃が下から襲ってきて、飛行甲板を歪ませ、引き裂きながら……その上の殆んど全てを、弾き飛ばした。
全身を揺さぶるような衝撃と噴き付けてくる熱気を帯びた風を受けて、如月は我に返った。
意識を失っていたという訳では無く、状況を確認できずに混乱していただけなのだろうと自身を顧みて確認する。
敵機が投下した爆弾が飛行甲板を貫通して、内部で爆発した。
爆弾の爆発による衝撃なのか、何かに引火して更に爆発が起こった結果なのかまでは分からないが、爆発の衝撃によって自分は吹き飛ばされたのである。
今、自分が我に返った際に感じた衝撃は、それとはまた別のものだ。
船体内の何かに引火して更に誘爆が起こったのか?
それとも、新たに爆弾か魚雷の直撃を受けたのか?
「……魚雷……なのかしら?」
鳳翔と望月の無線でのやり取りを思い出しながら、如月は呟いた。
雷跡を確認した望月からの通信を受け、鳳翔は船体を増速させていた筈だ。
爆撃を受け、その回避が間に合わず船体に魚雷が命中したという事なのだろうか?
だが、爆弾が命中する前に何か衝撃を受けたような感覚もある。
飛行甲板上で敵の急降下爆撃隊に意識を集中させていた為、如月自身は雷撃機による航空魚雷の投下や雷跡を確認してはいない。
無線の方も全てを確認し覚えている訳ではないが、断片的な記憶でも推測は容易にできた。
とすると、攻撃によって受けた損傷により新たに爆発が起こったと考えるのが妥当なのかも知れない。
もっとも……それらの推測に実際のところ、意味など無かった。
周囲の状況こそが最も重要な事を、現実を、事実を……鳳翔の船体が受けたダメージの大きさを、物語っていた。
無論だからといって、目の前の現実に圧倒されている訳にもいかない。
如月は自分が掴んで支えにしている物体を確認した。
金属製の……鉄骨のような何か。
自身の足場となっている歪んだ金属板の間から飛び出しているように見えるそれは、寧ろその金属製の板を先刻まで支えていた物なのだろう。
確りと確認しようとすると、目に何かが染みたような感じで涙が出てきた。
目を擦ろうとして手に煤のようなものが付いているのに気付き、擦る代わりに何度か瞬きをする。
それで視界は少しだけ落ち着いた。
周囲もある程度見えるようになる。
元々それほど明るくなかったのもあるが、煙の影響が大きいように感じられた。
そう、煙が発生しているのだ。
そんな事実を如月は改めて実感した。
気味が悪いほどに黒い煙が、周囲を包み込むように広がっている。
見回すと下方に海面らしきものが確認できた。
それが飛行甲板から見下ろした時よりも随分と近いようにも感じるので、感じる以上に落ちたという事かもしれない。
とはいえ見える景色が一変しているのは、自分の位置が移動したからだけという訳では……絶対に、無かった。
周囲の変化は爆発によるものと考えて間違いない。
勿論一発の爆弾だけで此処までの損害は有り得ない。
敵機が投下して飛行甲板へと落下してきた爆弾は、急降下爆撃機の搭載する中型爆弾の筈である。
大型の徹甲爆弾でもなければ、軽空母に分類されているとはいえ鳳翔のバイタルパートを、重要防御区画を損壊させられる筈が無いのだ。
無論ダメージが蓄積していけば不可能ではないが、少なくともこれまでの攻撃で鳳翔は至近弾によるダメージを受けはしても爆弾や魚雷の直撃を受けた事は無かった筈である。
ならば……燃料に引火したか、航空機用の爆弾や魚雷が誘爆したのか?
それとも、やはり……爆撃によって速力が低下した為に、雷撃を避け切れずに航空魚雷が命中したという事なのか。
爆撃で自分が混乱していた状態だった為、直後に受けた雷撃を如月自身は認識できなかったという事なのか?
「……鳳翔さん……」
大声で名を呼ぼうと一瞬だけ思いはしたものの、その案を如月は即座に却下した。
今も周囲では何かが燃える音や小さな炸裂音のようなものが聞こえ、軋むような、金属が歪んでいくような音も響いている。
ある程度近付いてからの確認の為というならば兎も角、離れた場所からでは……言葉の殆どは周囲の雑音に掻き消されてしまうだろう。
何とか、自分が探すのだ。
それが護衛である自分の為すべき事だ。
(「……守れなかった……」)
可能性でしかないが、船体は撃沈……場合によっては短時間で轟沈してしまう可能性もあるかも知れない。
ならばせめて、急いで鳳翔自身を見つけ出さなければ。
退避したというのであれば、それを確認しなければ。
身体に改めて力を込めながら、如月は手早く四肢や艤装の状態を確認した。
痛みはあるものの四肢は動かせる。
今まで通りというのは難しいが、移動ならば大きな問題は無さそうだった。
艤装の方は機関部も手持ちの砲も損傷によって機能が低下している。
とはいえ正確にどのていどの損害なのかという事になると、実際に動かしながら状態を見てみないとハッキリとした事は言えなかった。
取りあえず今は必要ないと割り切り、如月は砲を収納した。
敵機の攻撃は少なくとも今の鳳翔に対して行われてはいない。
つまりは敵から見て鳳翔の船体は、これ以上攻撃の必要はないと判断されているという事かも知れない。
最悪の可能性は、それだ。
そしてそれは……高い確率で事実であろう。
そうでない場合……
敵の攻撃機は引き揚げたか、護衛の2隻に向かっている……という処だろうか?
どうであれ敵の攻撃は、少なくとも一時的には無いだろうと推測される。
(「……なら、武装に関しては」)
今は考えないようにしようと如月は割り切る事に決めた。
気にならないと言ったら嘘になるが、気にしても仕方ないのだ。
機関の方は滑落等によって海に落ちる可能性を考えて、念の為に展開した状態を保つ事にする。
出力が落ちているようだったが、今は爆発などを起こさなそうという事で此方も割り切るしかない。
総合的に見て……中破相当の損傷、というところだろうか?
戦闘能力は全般的に低下しているかも知れないが、ただ移動するのみであれば大きな問題は無さそうである。
もっとも、全く問題が無いという訳には行かない。
少なくとも脚部に装着している魚雷発射管の方は放置しておく訳にはいかなそうだった。
発射管自体が損傷しカバーの一部が破損した為、保護されている魚雷が衝撃等によって誘爆する可能性が高くなっている。
誘爆や誤爆を防ぐ為の安全装置は取り付けられてはいるが、無論それらは絶対ではないのだ。
爆発すれば自身が負傷するというだけでなく、鳳翔の船体にもダメージを与える事になってしまうだろう。
姿勢は変えずに、もう一度下方を確認する。
先ほど見た波立つ海面は、変わらず其処にあった。
隙間から見えているという訳では無い。
場合によっては自分は衝撃で海面まで弾き飛ばされていたかも知れない。
そんな事を束の間考えてから、如月は膝を付くようにして姿勢を低く安定させた。
大腿部に取り付けられた魚雷発射管から一本ずつ魚雷を外し、慎重に海面へと投棄していく。
魚雷は一発も使用してはいなかったが、元々装備していた魚雷の数は決して多くは無い。
作業は直ぐに完了した。
状況を再確認し終えてから、実際のところ10分と過ぎてはいないだろう。
突然の状況変化に落ち着いて対処できた自分に少しだけ安心したような気持ちになる。
同時に、自分が何か薄情な性格なのではと思えたりもして……
「……駄目よね、そんな事じゃ」
軽く首を振って自分に言い聞かせ、如月は移動経路を確認しながら歩き出した。
船体は不規則な揺れを繰り返しており、様々な音が絶え間なくという感じで周囲から聞えてくる。
通路では無い場所を進んでいる為にハッキリとは分からないが、艦はやや傾いているような印象を受けた。
勿論、本当のところは解らない。
とにかく、飛行甲板まで辿り着くのが第一だった。
周囲に警戒しつつ、如月は歪んだ鋼板や鉄骨を足場や支えにして、上を目指した。
数分と掛からずに、開けた場所へ辿り着く。
恐らく此処が、元々の飛行甲板のあった場所……つまりは数分前まで如月が鳳翔と共に戦っていた場所という事なのだろう。
そう結論を出したものの、やはり如月としては……目の前に広がる風景は、受け入れ難いものだった。
端から端まで見渡せた飛行甲板は、全く別の場所のように変貌していた。
飛行甲板を貫通してから爆発した爆弾の影響という事なのか、一面平らだった飛行甲板は下から突き上げられたかのように、捲れ上がるように変形しながら各所で破砕し、その裂目から煙を昇らせている。
煙の昇る裂け目からは炎らしき明るさが漏れてその周囲を薄赤い光で照らしており、さながら噴火しようとしている火山か何かのように如月には感じられた。
「……大丈夫。約束したもの」
不安を抑え込むように、自分に言い聞かせるように口にする。
小山か何かのように盛り上がっているその場所に、如月は急ぎ足を向けた。
ありきたりの方法なのかも知れないが、高所から見渡すというのは単純ではあっても有効な手段の筈である。
山のように見えるというだけで、実際には距離も高さも大したことは無く、如月は直ぐに頂とでも表現すべき場所に到着した。
爆弾が貫通したと思(おぼ)しき大穴は斜面のように変形した飛行甲板のせいもあって、本当に火山の噴火口か何かのように思えてしまう程である。
ちらと覗き込んだ穴の中はやはり黒煙で殆んど見えず、時々炎らしきものが煙の奥に見え隠れしていた。
そこから目を離し周囲を、先ず全体を見下ろすように一望して……発見できない事に軽い失望と納得を感じてから、如月は目を凝らした。
変形した飛行甲板の上を、隅から隅までという感じで確認していく。
飛行甲板は原形を留めぬ程にそこかしこが歪み、捲れ上がり、裂目から、或いは甲板を貫くようにして鉄骨や鋼板が突き出し……という感じに大きく変形していたが、完全に砕けている場所は、端の数か所だけだった。
少なくとも如月にはそう見えた。
殆んどの場所が変形し細かい破孔や裂目は無数にあるが、大きな穴が開いているのは爆弾が貫通したらしき一ヵ所のみ……のように見える。
だが逆に考えれば、爆発による衝撃は上方へと逃げずに船体内部を襲ったという風にも考えられる。
それでも、鳳翔本人は飛行甲板の何処かに居るはずだった。
衝撃で飛行甲板上から放り出されそうになったとしても転移能力を使えば船体の何処かに戻れるはずだし、逆にそれが出来ずに船外へと放り出されれば……船体そのものが強制的に収納されてしまう筈である。
勿論、最悪の可能性というものも存在する。
収納される間もなく鳳翔本人が、船体との繋がりを喪失した場合だ。
「そんな訳、無い……わ」
最悪の想像をしそうになる自分を叱って、如月は懸命に目を凝らした。
破壊の痕跡は、複数の爆発が起こったという事を証明するかのように点在している。
飛行甲板を形成していた様々な物体が、強力な破壊の力で歪められ砕かれ、高所からの如月の視線を遮るように存在していた。
そんな景色の中から、ありきたりにはなるが地獄のような風景の中から……如月の目は何かを見出した。
炎や煙とは違う、動く何か。
確認した瞬間、如月は即座に全身に力を込めた。
距離そのものは大したことは無い。
実際に掛かる時間も僅かの筈だ。
それなのに、目指す場所までの距離が、時間が、今までとは違い途方もなく遠く長く感じられた。
少し前まで落ち着いて思考し行動できていた自分が別人のように感じられる。
ある程度近付いたところで、如月はそれが何なのか確認できた。
誘導灯らしきものを手にした妖精が、それを懸命に振るっていたのである。
近付いてきた如月が自分を見つけたのだと理解したのか、妖精は安堵した様子で手を下ろし指さすような仕草をすると、身を翻した。
歩き出すような動きをして、そのまま倒れる。
如月が其処に辿り着いた時には、もう姿は無かった。
そしてそのすぐ先には……彼女の探していた人物の姿が、あった。
鳳翔は歪んだ鋼板の陰に隠れるようにして、俯せに倒れていた。
隠れるというよりは鋼板の一部が鳳翔を避けるように壊れたのだろう。
それでも、彼女の身体は満身創痍という表現が甘いと言えるぐらいに傷付いていた。
妖精の姿を見ていなければ、既に事切れていると思ったかも知れない。
見えなくなった妖精以外にも鳳翔の周囲には幾人かの妖精たちが居て、彼女を守りでもするかのように周囲に倒れていた。
いや、実際に守っていたのだろう。
自分たちの力を費やして、鳳翔を守ろうとしたのだろう。
以前見た者達や如月に付いている妖精たちと違って、倒れている妖精たちの殆んどは、姿を通して甲板が見えるほどに透けていた。
そのうちの一人が、音もなく消え失せる。
先ほどの誘導灯を振っていた子も、恐らくは……存在する為の力を全て、使い果たした……という事なのだろう。
そうやって他にも多くの妖精たちが居て、鳳翔を守ろうとしたのだ。
そうやって多くの妖精たちが力尽きたのだ。
それでも、届かなかった……
如月はそんな事を考えてから、既に諦めてしまっている自分に気付いた。
自己嫌悪というのは、きっとこういった感情の事を言うのだろう。
そう思える何かが、胸の辺りに湧き上がってくる。
いや、何かが詰まったような感じという表現の方が合っているのだろうか?
そんな思考とは裏腹に、身体は自然と動いていた。
膝を付き、そっと手を伸ばして軽く肩を叩きながら耳元で囁くように呼び掛ける。
自分の耳を彼女の口元に近付け意識を集中させる。
言葉は無いものの、微かな呼吸音は聞こえてきた。
足下の赤い血溜りは、乾き始めていて粘り気がある。
顔を上にしようと慎重に身体を抱き力を籠めようとすると、微かに呻くような声が聞こえた。
「……鳳翔、さん?」
再び呼び掛けてみるものの、やはり返事は無い。
不安であっても他に方法は思い付かなかった。
持ち上げるのではなくその場から動かさずに回転だけさせるような感じで、そうっと身体の向きを変える。
爆発の衝撃なのか船体が揺れたので動きを止め、一旦息を吐く。
そこで、小さな声で呼び掛けられた。
「……如月……さ、ん?」
「……鳳翔さん?」
慌てて身体を動かしそうになるのを堪え、ゆっくりと彼女の身体を横たえ、手を離し身体も離して、顔の方を向く。
鳳翔の視線は、定まっていなかった。
如月の顔よりも遠くを見るような目付きで、不思議そうに唇を動かそうとする。
だが言葉が発される前に、彼女の瞳に理性と知性の光が灯(とも)った。
混濁した意識が澄み亘って往くのと同時に、眼の端に涙が滲んでゆく。
「……鳳翔、さん?」
「……私、は……」
なんてことを……
後半の言葉は、声に成っていなかった。
それでも如月の瞳は、彼女の唇の動きで鳳翔の発そうとした言葉を理解した。
ゆっくりと持ち上げられた彼女の腕が、不安定に、ふるえながら、彷徨うように動き……彼女自身の顔、に当たる。
触るというよりも当たると言った方が相応しいと感じられる動きだった。
顔に当てられた手の、震える指の隙間から……何かが零れ、そのまま頬を伝って鋼板へと滴ってゆく。
端に血のこびり付いた唇が、再び震えるように動いた。
最初に発された音は、意味のある言葉ではなかった。
嗚咽に近しいものだった。
「……望月、ちゃん……が……身を挺して、くれた……のに……」
その言葉に対して、如月は何も言えなかった。
「……鳳翔さん……」
ただ、鳳翔の名を呼ぶ事しかできなかった。
何か言いたかった。
何でも良いから鳳翔を元気付けられるような、苦しみや悲しみを、後悔を、少しでも和らげられるような言葉を、掛けたかった。
如何しようもない、という事が分かっているからだった。
もう、助からないのだ。
もう鳳翔は、助けられない。
即座に治療ができるというのであれば、もしかしたら助かるのかも知れない。
けれどもそんな物は何一つ、此処には有りはしないのだ。
生きていてくれれば、今此処で……ではなくても良い。
これから先も、何かを知り何かを学ぶ機会が、幾度もある事だろう。
そうであれば、いつか……何か意味がある言葉を紡ぐ事が、できるかも知れない。
だが、そうではないのだ。
彼女に何かを送れるのは、今、この瞬間……此処しかないのだった。
死んでしまえば、沈んで終わってしまえば……もう、何もできない。
死者からは何かを奪う事はできない代わりに、何ひとつ与える事もできないのだ。
何も贈れない。送れなどしない。
終わってしまうというのは、そういう事なのだ。
今と未来を失う、という事なのだ。
過去しかなくなるという事なのだ。
だから今、何とかするしかない。
大切なことを教えてもらえたのだ。
形は無くとも、沢山のものを……貰ったのだ。
それと比べれば、ほんの僅かでしかないのかも知れないけれど……何かを返したい。
自分に出来る事があるのならば、何かをしたい。
そう、思うのに……想うのに……
想いだけは、溢れ過ぎるほどなのに。
如何すれば良いのか……如月には、分からなかった。
ただ、泣いている鳳翔の腕の端に、そっと手を添える事しか出来なかった。
まるで自分の方が縋り付いているように思えて、情けなかった。
けれどそれがきっと、今の自分の心境なのだ。
途方に暮れている……そんな言葉が浮かんで、罪悪感がまた込み上げてくる。
それでも……それが実際なのだ。
今の自分なのだ。
大人びて落ち着いていた鳳翔が感情を露わにして泣いているのに、それを慰めるような言葉が、自分に言えるのか?
そんな言葉を考える事ができるのか?
ふと……
全く違う思いが浮かんできたのは、そんな時だった。
自分はそうやって誰かを上に見る事で、自分自身への言い訳をしていないか?
そんな思いが、急に浮かんだのだ。
如月の中では鳳翔は、落ち着いていて冷静ではあるが決して冷たくはなく、穏やかで温かいな雰囲気を崩さない大人の女性という印象だった。
しかしそれは結局のところ、自分の勝手な思い込みだったのではないだろうか?
そんなのは自分の思い込みで、一面でしかなかったのではないだろうか?
彼女にも悲しみや苦しみがあり、不安も抱き……ただ、それを抑え込んでいたという事ではないだろうか?
今まで考えもしなかったその思いは、突然の思い付きであるにも関わらず、彼女の内で急速に膨らんでいった。
いや、考えなかったからこそなのだ。
だから、少し考えるだけで容易に先へ先へと推測が進んでゆくのだ。
自分が想像しなかったというだけで、考えて現実に当てはめてみれば……当たり前の事、だからこそなのだ。
自身の内側の不安や心配を、周りを心配させるからと考えて露わにしない。
(「……ううん、違う」)
如月は頭の中で、それを否定した。
露わにしなかったのではない。
堪えようとはしたのだろう。
それでも、結局の処は……
(「……私が、自分の事で一杯で……」)
「……ごめんなさい、鳳翔さん……」
気付いてあげる事が、出来なかったのだ。
それは傲慢な考えなのかも知れなかった。
それでも……ただ貰うだけでなくて、何かを返せる機会はあったのだ。
(「でも、私は……」)
駄目だったのだ。
出来なかったのだ。
「……ごめんなさい」
守れなくて、御免なさい。
「……気付けなくて、ごめんなさい……」
何も出来ないどころか……今、ここで新たに、自分の未熟さに改めて気付くような……そんな始末だった。
「なんで、私は……」
足りないのだろう? 届かないのだろう?
頑張るだけではダメなのに。
努力するだけではダメなのに。
それらは全て、結果という未来を……良いものへと、自分の望むものへと変える為のものなのに……
思い返せば所々に、滲んでいたのだ。
休むと気持ちが切れてしまいそうで不安と言っていたではないか?
あれも限界に近付いているという事ではなかっただろうか?
そうではなかったとしても、何かしら感じ取ったからこそ、自分は不安を抱いたのではなかったか?
そんな風に少し考えただけで思い付くのであれば、十分に注意していれば……
気を配っていれば……気付ける可能性は幾つもあった筈なのだ。
兆候は、あったはずなのだ。
それなのに、自分は……
「御免、なさ……」
言い終わる前に、何かが顔に触れた。
他人事のように感じてから、如月はそれが……自分が触れていた鳳翔の手だという事に気が付いた。
「……こんな時まで、貴女は……」
何もかも涸れ果てたような顔に、微かに……笑みのような何かが浮かんでいる。
触れた手が微かに、撫でるように。
そっと、動いた。
少なくとも如月には、そう思えた。
それが寧ろ、痛々しいようにすら感じられた。
こんな時ですら、優しく慰めようとして、励まそうとしてくれて……
自己嫌悪の念が湧き上がりそうになって……如月はそれを、懸命に押し込んだ。
自分の努力の結果でないにしても……今、少しだけであっても……鳳翔の気持ちを、変える事ができたのなら……
「……望月ちゃん、出撃前に皆で休みをもらった時の事、話してました」
だから、咄嗟に。
如月は思い付いた事を、口にした。
「鳳翔さんにおかわりをお願いした事、楽しそうに話してたんです。嬉しそうで……意外と顔に出るんですよ? 口元とか……あと、照れた時に、そっぽを向いたりとか……」
何とか会話を続けようとして、話を途切れさせない為に……思い出した事を、形が定まらない儘に、口にする。
話が途切れたらまた鳳翔が戻ってしまうのでは、泣いてしまうのでは……
そう、思えてしまうから。
それは嫌だ。そんなのは、嫌だ。
せめて、せめて、最後の時くらいは……
「本当に、嬉しかったんだと思います。甘えて、優しくしてもらって……」
自己満足でしかないのかも知れない。
でも、どうしても……そう思うのだ。
それに、伝えておきたい事がある。
なのに……
(「形にならない、出来ない……」)
なら、せめて。
「私も、救われたとか、優しくしてもらったっていうのもあるけれど、でも、それだけじゃなくて……一緒に居られて、何か、とても心地よくて、あたたかくて……」
想いを全て……そう思って。
「守りたくて、守ろうとしたんだと思います。望月ちゃん……だから、気に病まないで下さい」
自分を撫でるように触れる手を、両手でぎゅっと握りしめた。
纏まっていなくても、繰り返しになってしまっても、それでも……足りないよりは、良い。
そんな我儘な思いのまま、言葉を紡ぐ。
「我儘で身勝手な言い方なのかも知れません。でも望月ちゃん、守りたくて、どうしても守りたくて、一生懸命だっただけだと思います。居なくなって欲しくないから……私も、同じです」
駆逐艦ならば、共に在る空母や戦艦を守るのは当然かもしれない。
随伴艦ならば、旗艦を守ろうとするのは当然かもしれない。
それでも、望月は……守りたいと思ったからこそ、守ったのだ。
守るべきものを、守らねばならないものを……心の底から、守りたいと思える……それは、幸せな事ではないだろうか?
「……ごめんなさい、鳳翔さん」
言葉にしてみると酷い事を言っているように思う。
励ましたり慰めたりではなく、自分の想いを一方的に押し付けているだけだ。
自分は何がしたいのだろう?
自分は何がしたかったのだろう?
罪の意識から逃げたかっただけなのだろうか?
違う。
ただ、泣いて欲しくなかったのだ。
安らかに、穏やかに……最期(さいご)を迎えて欲しかったのだ。
そう、少し前の自分は確かにそう思ったのだ。
願ったのだ。
それは自分にとっての救いという事ではないだろうか?
それでも、鳳翔にとっても救いという事にはならないだろうか?
望月の話していた事を、振り返るように思い出してみる。
自分が艦隊に加わる前の話だ。
補給部隊の者達が見張りを代わってくれ、皆で食事と甘味を味わった事。
鳳翔にカレーのおかわりを頼んだこと。
自分の決して知らない光景。
自分に思い出させる為でなく、ただ楽しかった事を楽しげに語っていた望月の、妹の姿。
「酷い言い方になりますけど……守りたかったから、そうしようと動いた。それだけなんです」
「……如月、さん……」
「それで守れれば、一番ですよね? そして守れなければ……戦いとして考えるのであれば、想いなんて関係なく失敗……分かってます。分かっている……つもりです」
そこで一旦言葉を切っても、鳳翔は何も言わなかった。
ただ、静かに如月を見つめている。
「でも、今の私には……勝ち負けとか成否とかは、関係ないんです」
そう口にすると、何故か自然と微笑む事ができた。
心の底から実感した、という事なのだろう。
或いは、覚悟ができた……そういう事なのか。
「私は、任務を果たせませんでした……だから忘れないようにして、無事に帰れたら振り返って反省して、次は……守れるように、活かせるようにしようと思います。けど……今はそれ以上に大事な事があるんです」
そこまで言ったのに、息継ぎして言葉を続けようとすると口籠った。
自分は変な事を言っていないか?
それで鳳翔を傷付けてしまわないか?
いや、傷つけたくないのは鳳翔ではなく……自分ではないのか?
それでも良い。
そう自分に言い聞かせる。
結局自分というのは、自分の為にしか生きられないのだ。
ただ、それを忘れなければいい。
自分で自分を嫌だなどと言って、それを逃げ道にしなければいい。
微笑もうとすると、顔が強張った。
堪えようとするのに、こみ上げて湧き上がってきたものが、溢れて、零れて……頬を伝う。
声が、出てしまう。
鼻がぐずぐずして、視界が滲み……しゃくり上げて、声が出てしまう。
情けない、みっともない……そう自分に言い聞かせ、何とかしようとしても……如何しようもなく、如何にもならない。
これでも堪えているのだ、等と言っても誰も信じてくれないかも知れない。
いや、寧ろ……理解してくれるだろうか?
それでも……何とか、笑顔を浮かべる事は出来た。
それは多分、かつての自分が本当に笑顔を浮かべる事ができたからだ。
優しさに、笑顔に、安心させてもらえたからだ。
「望月ちゃんは鳳翔さんの事、大好きでした。だから絶対に守りたかったんです。私も同じです」
優しくて、あたたかくて、心強くて、安心できて。
「如月、さん……」
「だから、謝らないで下さい」
纏まらなくて、繰り返して……如何しようもないように思えていた何かが、少しだけ纏まって、形になる。
「やりたくてやった。それだけなんです。勿論助かって欲しくてそうしました。でも、それで鳳翔さんが自分を責めたりしたら、逆に望月ちゃんは嫌だと思うんです。だから、自分を責めないで下さい。色々な事があって、それでも其々が全力を尽くした。今ここでは、それだけで十分なんだと思います……勝手に代弁しているって言われるかも知れませんけど、何もかも分かっている訳じゃありませんけど……でも、望月ちゃんの事、姉として少しは理解しているつもりです……如月は」
上手く言えているか分からないまま、吐き出すように口にして……息を切って、鳳翔の手を握り締める。
「……如月も……私も、同じです。恩返ししたくて……でも結局、甘えて寄り掛かり過ぎて……重荷に感じていませんでしたか? もしそうなら、御免なさい……」
「そんな事、ありません」
今までより確りした言葉が返ってきて、握った手に力が入って、如月は鳳翔の顔を見た。
「……力になれているのか、寧ろ、不安でした。なれていたなら、嬉しい……です。ありがとう」
「お礼を言うのは……私、の方です」
「……なら、これで良いです……ね……」
微笑む鳳翔の顔が、また滲む。
それを拭って、如月は鳳翔の身体をそっと抱き締めた。
大好きです、鳳翔さん。本当に大好きです。
もっとお話ししたかった。色々な事を聞いて、聞かせてもらいたかった。
もっともっと、笑顔を見たかった。
優しく抱き締めてもらいたかった。
もっと、できれば他の子たちがしてもらっていたように、頭を撫でてもらいたかった。
でも……もう、出来ないんですよね?
「はい……お別れです」
鳳翔の声は信じられないくらいに穏やかだった。
それでも、小さく、か細かった。
抱き締めていなければ、耳元でなければ、聞えなかったかも知れない。
「最後に、お願いして良いですか?」
そう言われて咄嗟に返事ができず、如月は懸命に頷いて見せた。
ぎゅっと目を閉じ涙を堪え、息を止めるように嗚咽を堪え……
そうっと鳳翔の身体を横たえ、手を離す。
「先ず、望月……ちゃんに、ありがとう、と」
「はい」
「御免なさい、は……狡い、ですよね。お礼だけ、お願いします」
「……分かりました」
「それから……」
そこで鳳翔は、一度息を整えるように呼吸した。
「無事に帰れたら……私ではない鳳翔の事を、お願いします」
「鎮守府にいらっしゃる鳳翔さんの方、という事ですね?」
「ええ……きっと、大変だと思います、から……」
貴女には、その辛さが分かる筈だから。
そう言われた気がした。
「……約束します」
強く頷くと、鳳翔は頷き返してから……身を横たえたまま、ゆっくりと手を差し出した。
そこから幾人かの妖精たちが姿を現す。
「この子たちを……お願い、します」
そう言って鳳翔は妖精たちに視線を向けた。
涙を流しながら縋り付く妖精たちに、静かに呼びかける。
「……龍驤さんの、力に、なってあげて……下、さい」
途中から息苦しそうに、何度か言葉を途切れさせながらも言い切って、眼を閉じる。
「……おいで?」
如月がそっと手を差し出し小声で呼び掛けると、妖精たちは名残を惜しむように鳳翔の手に縋り付き、敬礼し、顔を擦るような仕草をすると、如月の方へと向き直った。
如月の手に飛び移り、そのまま身体に掴まるようにして再び鳳翔へと向き直る。
「……鳳翔、さん?」
「……行って、下さい……」
横になって目を閉じたまま、鳳翔が囁くような声で口にした。
最後に、さよならの意味を込めて。
如月はもう一度、鳳翔をそっと抱き締めた。
「ごめんなさい……そして本当に、ありがとうございました」
もう喋る事さえ辛そうだったので、返事は望んでいなかった。
だから……
「ありがとう、如月さん」
最後に貴女に看取って貰えて、良かった。
そう言われて、堪えていたものが再び溢れ出した。
実際のところさっきから泣いてばかりで、果たして何かを堪える事が出来たのだろうかと思ったりもする。
それでも、何かがこうして溢れてきてしまう以上……何かを抑えていたというのは間違いないのだろう。
涙は途切れる事が無く、嗚咽を堪えるだけでも精一杯だった。
しゃくり上げてしまいそうになる自分を何とか抑えているだけだ。
それでも、声だけでも堪えられている分……先程よりは、まし、という事なのか。
慣れていく、という事なのか?
この悲しみも、いつか……慣れてしまうのか?
ぎゅっと目を閉じて……ずっと抱き締めていたいと思う優しい人から、手を離す。
敬礼して、そのまま少し後ずさりしてから。
如月は耐え難い想いを抑え込むようにして、身を翻した。
これがきっと、看取るという辛さなのだ。
かつて殆んどの仲間たちを、全ての姉妹たちを看取る事なく逝った自分が、多くの者達を見送った彼女を看取る事になる……それが、世の無情というものなのだろうか?
皮肉という言葉を、彼女は思い浮かべなかった。
その言葉を思いつく程、如月は世の中というものを疑ってはいなかった。
俗な言い方をするなら、捻くれて斜に構えていなかったと表現すべきかも知れない。
つまりは彼女たちの司令官が此処にいれば……大いなる皮肉、などという言葉を思い浮かべたかも知れないという事だった。
もっともその司令官にしても、浮かべるだけで形にしようとまでは思わなかった事だろう。
どうであれ此の場には二人以外にいるのは、言葉を理解はしても発する事は無い妖精達だけだった。
だからこそ如月は誰にも頼る事なく、全てを自身で定めなければならなかったのである。
俯くようにして背を向けはしたものの、まるで繋ぎ止められでもしたかのように足は重かった。
顔を上げる事すら困難に感じてしまう。
その伏せたままの顔も、自身で見る事は適(かな)わないが……恐らく涙やら何やらで情けない事になっているであろうという事は容易に想像できた。
拭おうとして手が汚れていた事を思い出し、再び幾度も瞬きをして見せる。
今まで気にせずに幾度か拭っている以上、意味は無いのかも知れない。
それでも……
相変わらず目に映る景色は、瞳から溢れる何かで滲んでいた。
前を向こうとしても後悔という感情が溢れ、耐えきれずに口から言葉が零れる。
「……私は、貴女を守れませんでした……」
でも、今回の事は、決して無駄にはしないから。
必ず糧にして、次こそは守って見せるから。
だから……
「……もし、良ければ……見守っていて下さいね?」
鳳翔に呼び掛けているようで、自分に言い聞かせるようでもあって。
俯いたまま背の向こうにいるであろう彼女に向けて小さく呟いてから、如月は視線を上げた。
傾きを増し始めた飛行甲板の端まで足早に移動し、海面を確認する。
鳳翔の船体は、既に一部が海中に没していた。
中の空気が噴き出しているらしく、船体の没した海面は激しく泡立っている。
まるで沸騰でもしているかのような光景だった。
噴火か何かを眺めているような……そんな気持ちを如月は束の間、抱いた。
大型の船が沈む際には渦が生まれると何かで聞いた事があったような気がしたが、少なくとも今の処は……それらしいものは目に付かない。
鳳翔の船体を中心にして流れのようなものが出来ているように見える気もするが、波と泡立つような空気の噴出でそれらしく感じられるだけかも知れなかった。
或いは知識による先入観的なもので錯覚しているという可能性もある。
どうであれ激しい流れのようなものは確認できなかった。
もっとも、周囲には壊れた船体の破片や積み込まれていた物の残骸等が浮かんでいる為、不用意に動けば後悔する事になるだろう。
それらを警戒してという事なのか、船体や鳳翔の様子を窺って……という事なのか。
駆逐艦が一隻、距離を取り周囲を巡るようにして、航行していた。
望月の船体は見えなかったが……駆逐艦の甲板にそれらしい姿が見えて、如月は呑んだ息を吐き出した。
短く助走して海面へと飛び降り、そのまま艤装の機関を稼働させ、漂流物に注意しながら機関の出力を上げてゆく。
不安はあったものの機関は何事もなく出力を上げ、生み出された力を脚部の推進装置へと伝え、如月の身体を沈みゆく航空母艦から引き離し、駆逐艦へと近付けて行った。
船体は展開せず駆逐艦に向けて手を振ると、甲板の初雪が艤装の主砲を構えていない方の手を軽く上げて応えた。
敵攻撃隊の姿は当然というべきか、既に無い。
残っていた敵機は全て撤退したのだろう。
次の攻撃が行われるかどうかは難しい時間だった。
現時点で既に、周囲は闇に包まれ始めている。
攻撃時は兎角として、帰投時の発着艦に問題が発生するかも知れない。
無論警戒は怠るつもりはないが、深海棲艦側の行動を推測するに……そういった無理はしてこなそうだった。
もっとも、時間があったとしても……敵機動部隊はもう此方には攻撃隊を向かわせないかも知れなかった。
艦娘部隊は、機動部隊である第一艦隊は……主力である航空母艦2隻を喪失したのだ。
1隻は船体を失いはしたものの、艦娘である龍驤は大破しつつも救助され戦線を離脱できた。
だが、もう1隻は……航空母艦鳳翔は、艦娘本人を含め、全てが失われた。
厳密にいえば失われつつあるという事になるが、そこに拘る事に恐らく意味は無いだろう。
失われるという未来は確定しているのだ。
いや……実際はもう既に、彼女は旅立ってしまった後なのかも知れない。
それでも、戦いは続くのだ。
任務は完全には果たされておらず、稼ぐべき時は残っている。
だが……少なくとも今は、此処での戦いは、終わったのだ。
如月たちに出来る事は、今は何も無い。
警戒しつつ、出来るだけ急いで泊地へと向かうという事だけだ。
「なら、今くらいは……少しだけ、良いですよね?」
初雪の船体に近付いたところで、如月は振り返った。
鳳翔の船体が、大きく傾きながら……沈んで逝く。
「……お休みなさい」
さようなら。
最後まで言葉にすると、また涙が溢れそうになって。
如月は、心の内で……別れを告げた。
大切な恩人であり先輩である、一人へと。
思い浮かべた……暖かで優しい、笑顔へと。